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徳川御三家の東照宮制覇?

  • 2013/10/26(土) 16:45:46

讃岐東照宮 屋島神社(さぬきとうしょうぐう やしまじんじゃ)■所在地/香川県高松市屋島中町山畑140番 ■御祭神/東照大神(徳川家康公)・頼重大神(松平頼重) ■創建/慶安4年(1651年)■開基/松平頼重

(参拝日/平成25年9月30日)

やって来ました、四国です。今回は「四国八十八箇所霊場」を、香川県限定で“プチ歩き遍路”で廻ってみました。
9月28日、名古屋駅を23:30発の夜行高速バス「コトバスエクスプレス」に乗り、翌朝、宇多津駅に到着。78番札所から74番札所までを逆打ち、宇多津〜多度津〜善通寺までの歩き遍路でした。
初めての四国遍路、1日目は全て歩きということで、さすがに疲れて5ヶ寺しか廻れず、善通寺のビジネスホテルに着いたらグッタリ(T . T) ツアーではないので、1日何ヶ寺を大急ぎで廻るとかのノルマ?もなく、あっちで一服、こっちで一服の気楽なお遍路です。ただ今回歩いてみて分かったのは、長時間休むと歩きたくなくなることです(^_^;) ただ黙々と歩く…、初心者の歩き遍路はこれですかね。

2日目は、琴電に乗って「金刀比羅宮」をゆっくりと奥社まで参拝。琴平から高松までは同じく琴電の志度線で、84番札所の「屋島寺(やしまじ)」へ向かいました。(屋島寺の記事はまた改めて)
屋島寺の前に、ここ「讃岐東照宮」を参拝です。

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琴電屋島駅前から屋島山上を望みます。山肌に見える筋は?

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ケーブルカーの線路のようですが…正面に見えるのが駅?

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屋島ケーブル登山口駅ですが、んんん?ここも廃墟か(^_^;)

定光寺に続いての「廃墟シリーズ」ではありません(^_^;)
この駅は、正面に見える観光地「屋島」へ登るケーブルカー駅で、昭和4年(1929年)に開通しました。山上にある四国霊場八十四番札所の屋島寺や、景勝地の獅子の霊巌への徒歩以外の唯一の足となっていましたが、屋島ドライブウェイの開通、観光客の減少などもあり、2004年10月15日に惜しくも廃線になりました。

讃岐東照宮は、確かこの駅の近くにあるらしいんですが…。

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駅のシャッターにある寂しい案内板。歩き遍路さん用の案内のようです。

山上までは徒歩1時間となっています。まずは右へ、屋島神社から参拝です。
その前に、例によって戦前の絵葉書から(^_^)v

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屋島ケーブルカーのタイトルの絵葉書。山肌を縫う線路がハッキリ写っています。

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案内板にある現在の国道11号線、マクドナルド付近から屋島ドライブウエイ方面を写した絵葉書。真っ直ぐに伸びる道の先が屋島神社です。

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もう少し近くからの撮影のようです。延々と松林が続きます。

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現在の同じアングルからの撮影。今もわずかに松林が残っています。

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正面が屋島神社、一の鳥居です。

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二の鳥居、石段が続きます。

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その先にあるのが注連柱(しめばしら)、石段はまだ続きます。

「注連柱(しめばしら)」は、鳥居の原始的な姿で、笠木・島木・貫などがなく2本の柱に注連縄をかけただけのものです。

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この二枚は、現在と同アングルの戦前の絵葉書。

戦前は、立派に根を貼った松の巨木があったようですが、現在は植込みだけで寂しい感じです。

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注連柱をくぐった石段の先に「神門(唐門)」が見えてきました。

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最後の石段を登ると「神門(唐門)」です。

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讃岐東照宮 屋島神社の由緒書きです。

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境内案内図です。

ここ讃岐東照宮 屋島神社は、慶安4年(1651年)高松藩主・松平頼重(家康公の孫)が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に社殿を建立し、東照宮の神霊を勧請したのが始まりです。

松平頼重(まつだいら よりしげ)は、御三家、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(家康公11男)の長男として元和8年7月1日(1622年8月7日)に生まれましたが、父の頼房は、兄の義直(尾張徳川家藩祖)・頼宣(紀伊徳川家藩祖)に男子がいないのをはばかり、懐妊した側室の久昌院(きゅうしょういん)に堕胎を命じ、家臣の三木之次夫妻(頼房の乳母夫婦)に預けます。しかし、三木之次は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、頼房に隠したまま江戸で育てられました。
実は、頼重の弟である光圀(後の黄門・水戸藩第2代藩主)も懐妊の際、頼房に堕胎を命じられましたが、同じく三木之次夫妻により匿われ、水戸城下の三木邸で出産しています。
頼重はその後、京の公卿・滋野井季吉(しげのい すえよし)に預けられて養育され、10歳の時に水戸へ呼び戻されますが15歳まで父に会う事は許されませんでした。この間、水戸藩の後継ぎには同母弟の徳川光圀(黄門)が決定しています。17歳で常陸下館5万石を与えられますが、水戸家での待遇は光圀に次ぐ次男の扱いでした。この辺り、家康公の結城秀康に対する扱いによく似ています。

寛永19年(1642年)20歳で、交通の要所で天領となっていた四国の讃岐高松に12万石で入封され、やっと長男として相応しい待遇を受けますが、長男として生まれながらここまでかなりの苦労をしています。
後に光圀は、兄を差し置いて水戸藩主になった心苦しさからか、頼重の実子の綱方(早世)・綱條(つなえだ)を養子に迎え、綱條に水戸家の家督を譲っています。ううう…泣ける話しやなぁ(T . T)
一方の頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居しています。つまり、子供同士を交換した訳です(^_^;)

話し戻って…

東照宮は以来、御宮(おみや)と呼ばれ歴代藩主に崇敬されてきましたが、文化元年(1804年)当時の高松藩8代藩主の松平頼儀(よりのり)が、この風光明媚な屋島山麓に新たに社殿の造営を着手、家康公200年忌にあたる文化12年(1815年)に完成させました。その造営費は当時の金額で約14万余両(約70億円)といわれています。
明治4年(1871年)に冠嶽神社(かんむりだけじんじゃ)と改め、明治7年(1874年)に現在の屋島神社に改称。明治15年には藩祖松平頼重が合祀されました。ところが、昭和48年(1973年)2月12日の失火により、惜しくも現在残る神門(唐門)を残し、讃岐日光東照宮とも呼ばれた本殿、拝殿等を全焼。本殿、拝殿は翌年11月に再建されています。

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焼失前の貴重な拝殿・本殿の絵葉書です。

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同じく左に唐門、右に拝殿を写した絵葉書。

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唐門、正面です。門は閉ざされていて中は見えません(T_T)

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左右の金網が貼ってある柱は、左甚五郎6世による上り龍、下り龍の彫刻。

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正面には同じく左甚五郎6世による、獅子と鳳凰の彫刻。

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金網の貼り方がいささか中途半端な気がしますが…

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門の至るところ多彩な彫刻で埋め尽くされています。

この彫刻彫金は、左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能(ひだり りへい ただやす)が父の名跡を継ぎ、高松藩松平家の藩命を受け客分棟梁として完成させたといわれています。
火事で焼ける前の拝殿、本殿も素晴らしい彫刻で埋め尽くされていたんでしょうね…残念!

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神門は常時閉じられており、お正月しか開けられないようなので隙間から…

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隙間から覗いた現在の社殿は、戦前の絵葉書とは違い
簡素なものでした。
まあ、再建に昔の様に何十億も掛けられないでしょうし…

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境内から見た市街地、戦前の絵葉書のように一直線に参道が伸びているのが分かります。

左の建物が社務所ですが、窓のカーテンも閉まっており人の気配は無し…。え?じゃあ御朱印は?このまま諦める私じゃあない( ̄▽ ̄)
いつものパターンで、ピーンポーン!(ダッシュではありません(^_^;))すると、すぐに窓を開けていただけました。神職さんではありませんでしたが、お留守番?のお婆さんが「御朱印、書き置きしかありませんが…」良かった!もちろん、OKです!丁寧にお礼を言っていただきました。

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ちゃんと日付も書いていただけました。
「讃岐日光東照宮」屋島神社となっています。
葵の御紋がいっぱいの御朱印です(^_^)v

で、タイトルの「徳川御三家の東照宮制覇?」ですが、尾張家の名古屋東照宮、紀州家の紀州東照宮、本来は水戸家の水戸東照宮で完全制覇ですが、水戸にはなかなか行く機会もなく、今回は水戸家支藩のここ高松の讃岐東照宮で、一応プチ制覇にしておきます(^_^;)

前々回から徳川御三家シリーズ?を紹介しましたが、次回は、金毘羅さんで親しまれている「金刀比羅宮」を紹介する予定です。

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暴れん坊将軍は名君か?

  • 2013/10/25(金) 16:41:33

紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう) ■所在地 /和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-20 ■御祭神/徳川家康公 徳川頼宣公 ■創建/元和7年(1621年)

(参拝日/平成24年10月21日)

以前の記事に昔の絵葉書画像を追加しました。

前回、次は岡崎市を…と書きましたが、予定変更で一気に和歌山県まで来ました。

なぜ和歌山?ですが、家康公ゆかりの寺社巡りの他に以前から「西国三十三観音霊場」巡りも同時にしており、ここ和歌山市には「西国三十三観音霊場」の内、紀三井寺、粉河寺の二ヶ寺があります。
どうせ和歌山県まで来たんだから(遠い!)この二ヶ寺の他にどこか?と調べてたら、やっぱり東照宮がある!これは外せないわ!ということで、こちらにも参拝させていただきました。

徳川将軍家には、徳川御三家という特別な一門があります。家康公が宗家(将軍家)の後継ぎが絶えた場合に備え宗家存続のためにと、晩年に生まれた男子3人に託したものであると言われています。
徳川義直(9男)の尾張徳川家、徳川頼宣(10男)紀州徳川家、そして徳川頼房(11男)の水戸徳川家の3家ですが、特にこの中から「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」という事になっていたため、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って常に競争意識があったようです。

「暴れん坊将軍」を見ていても紀州出身の8代将軍吉宗(松平健)と尾張の徳川宗春(中尾彬)は、ほんと仲が悪いですからね(笑)
我がふるさとの「徳川宗春」については、また改めて書きたいと思います。(また長くなっちゃうので(^_^;))

ここ紀州東照宮は元和7年(1621年)に徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)により東照大権現を祀る東照社として南海道の総鎮護のため創建されました。現在では徳川頼宣も合祀されています。
社殿の建築様式は伝統的な和様を用い、様々な彫り物で飾り内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し、鍍金の飾金具を施す代表的な江戸時代初期の建造物です。この豪華な社殿により紀州の日光と称され、拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財に指定されています。

ガーン!( ̄◇ ̄;) ここも重要文化財だって。それに比べて我がふるさと尾張徳川家の…(やめとこ!)

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駐車場の大看板と立派な葵の御紋の石碑です。

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石の鳥居の先には鬱蒼とした参道が続きます。

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撮影年代は不詳ですが大正〜昭和初期の絵葉書。上と同じアングルからの撮影です。

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いい感じの参道ですが夜はきっと怖いですね…

紀州東照宮020
ヒェー!これ登るんやぁ?

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って、昔の人も登ってます(^_^;)
夜でもないのになんか亡霊みたいですが…。

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石段から振り返ると眼下に海が!和歌の浦が一望できます。

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石段を登りきると「楼門」です。急な石段ですので全体が撮りきれません。

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東照宮にしてはちょっと地味め?な彩色かな?

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軒下の組物の彩色も割とあっさり気味です。

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楼門から見た「唐門・拝殿」。バックの森のグリーンと社殿が絶妙な配色ですね!

紀州東照宮007
由緒書きの案内板です。こちらも簡潔にまとめてます(^^;)

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楼門をくぐると境内です。右の授与所で御朱印がいただけます。

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3人とも和服を着ているのが時代を感じさせます。

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正面から見た唐門、拝殿です。今は石段手前に柵があり登れませんが…

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昔は柵もなく石段を登って参拝できたようです。こちらの参拝客は、スーツか軍服?銅の燈籠も現在の位置とは違っています。

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現在は唐門正面にあるこちらの燈籠です。

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「唐門」と「瑞垣(みずがき)」この奥が社殿です。若葉の頃は社殿が
もっと映えるでしょうね…

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昔は植込み手前の柵もなく開放的です。

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な、なんと!?拝殿の前まで参拝客が入れたようです。

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素晴らしい拝殿、さすが東照宮です。

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拝殿の左甚五郎作と伝わる天女の彫刻。楼門と違い細部まで彫刻されています。

絵葉書用に参拝客を入れているのかも分かりませんが、現代も是非一般公開して欲しいですね。いやぁ!見てみたい!(お願いすれば神職さんが案内していただけるそうですが、多分撮影禁止でしょう(T . T))

ところで「暴れん坊将軍は名君か?」ですが、暴れん坊将軍こと8代将軍「徳川吉宗」といえば質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策。市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの「享保の改革」を実行し、破綻しかけていた幕府財政の復興をしたことから、徳川幕府「中興の祖」と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされています。

その一方では年貢を今までの四公六民(実際には平均2割7分6厘)の負担から、五公五民(5割)の負担にする増税政策を行なった結果、農民の生活は窮乏し百姓一揆の頻発を招き、武士だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞したとも言われています。

これに反発したのが尾張の「徳川宗春」で、国元の名古屋では吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図るため、遊郭の設置、吉宗により禁止されていた芝居の復活などで名古屋の町は活気を得て、名古屋城下には全国から1000人を超える遊女たちが集まりました。常設の芝居小屋も57座にのぼり、江戸・上方の役者も流入、芝居興行は387回を数えたといいます。その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほどでした。

しかし、吉宗の改革と異なる華美な振る舞いが幕府の怒りに触れ、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられます。その処分は吉宗の怨念が異常に強かったためか宗春の死後も解かれることがなく、墓石には罪人を示す金網が被せられていました。(これってかなり酷い話ですよね!御三家筆頭の尾張の殿様が、死んでからもこんな目にあうとは。まったく、死者に鞭打つとはこのことやな…)

宗春の名誉が回復されたのは死後なんと75年目の事で、墓石の金網も取り外され、やっと歴代藩主に列せられました。
名古屋生まれの作家、井沢元彦氏は『逆説の日本史』の中で「吉宗は名君である点も多分にあるが、経済に関しては全くの暗君だった」と述べています。
吉宗は名君か?みなさんはどう思いますか…

ドラマの話で何なんですが、「暴れん坊将軍」の中で、新さんが最後に「余の顔を見忘れたか!?」「成敗!」って斬っちゃう悪い奴って、みんな自分が任命した老中、若年寄とかの吉宗の家臣ですよね?
吉宗!お前、人を見る目ないやろ?どこが名君やねん?…といつも思うのは私だけ(笑)

以上、「暴れん坊将軍は名君か?」でした。
でもここの東照宮も良かったです(*^_^*)派手好きの「宗春」さんの名古屋東照宮、何とかしてー!

紀州東照宮G
そんな「暴れん坊将軍」の故郷で「徳川宗春」の故郷から来た
私がいただいた御朱印です。(これは正しく敵同士やな…)
右から、紀州 東照宮 和歌浦 日付です。

こちらの御朱印が他の東照宮とちょっと違っているのは、三つ葵紋と紀州六つ葵紋が並んで押してあることですね。「六つ葵紋」は、デザインは少し違いますが、水戸徳川家でも使用されているようです。

紀州六つ葵
こちらが「紀州六つ葵」の紋です。

次回は、岡崎市へ…

歴史のいたずら・京都の東照宮③

  • 2013/09/26(木) 18:25:40

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

前回の続きです…

さてさて、東照宮は何処?ですが、確かに「都名所図会(みやこめいしょずえ)」では本殿の東にあります。表門から参道、拝殿、本殿までは江戸時代から場所は変わっていないはずなんですが…。

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社殿の周囲をたくさんの末社が囲んでいますが、末社の中でも東にひときわ大きく描いてあるのが東照宮です。

で、現在の境内図を見てみると、ありました!東照宮。本殿奥、西側の端っこですf^_^;)

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ほとんど裏門の近くに東照宮がありました。

社殿の北側、東側にある末社はどうも江戸時代のままのようです。が、以前東照宮のあった場所は、なっ、なんと今は「豊国社」になっています(T . T) この豊国社は、明治28年(1895年)、伏見城築城300年を記念して祀られることになったそうです。
「豊国社」といえば、豊臣秀吉を祀るお社です。これは…!どうも明治時代になってから、家康公を祀る東照宮を裏門に近い端っこに追いやって(まあ、今の場所に別の意味があれば別です)、豊国社を跡地に持ってきた?徳川憎しの明治政府のやりそうな事としか思えません(私的な意見)。
前回にも書きましたが、秀吉はこのお宮を伏見城の築城の際、鬼門に当たる城内に移してしまったという事がありました。家康公は後に元の場所(現在地)に戻し、現在の社殿を造営。徳川頼宣は表門・拝殿を寄進。徳川家と、このお宮は深い繋がりがあるんじゃなかった?これではあんまりじゃ…。まあ、社殿は豊国社より立派なのが救いですがf^_^;)
実は、タイトルに書いた「歴史のいたずら…」が、幕末期にもこの御香宮で起きますが、また後述します。

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こちらが、御香宮東照宮です。小さいですが、これでも末社の中では一番大きい(^_^)v

なんか、覆い屋に囲われて全体像がよく分かりませんが、右が拝殿、左(奥)が本殿のようです。
沿革などは情報がなく不明ですが、石鳥居の年紀は安政5年(1858年)、東照宮御宝前石燈籠2基のうちの1基の年紀は嘉永4年(1851年)と幕末期の年号が刻まれていますが、上図、安永9年(1780年)発行の「都名所図会」にすでにその姿が描かれていることから、少なくとも江戸中期以前に東照宮は建てられていたと思われます。

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正面に廻ってみました。この石鳥居に安政5年建立と刻まれていますが、鳥居の「東照宮」の扁額は殆んど判読出来ません。

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神門は閉ざされていて入れませんでした。屋根には鯱が乗せられています。瓦は巴紋と、三つ葵紋です。

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門の隙間から覆い屋の中の本殿を撮影f^_^;) 小さくても流石に東照宮。極彩色の彫刻です。

覆い屋のおかげか、最近修復されたのか、彩色も鮮やかです。全体に可愛い感じ(*^^*) 木鼻の貘(ばく)?、龍もユーモラスで、特に御殿狛犬はまるでスフィンクスです。

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透塀の隙間から撮影しましたが、本当にコンパクト!外から大きく見えたのは殆んど覆い屋です。

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こうして見ると、そこそこ大きく見えるんですが…

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やっぱり小さかった(*^^*) 覆い屋は瓦葺ですが、中身?の本殿は多分、桧皮葺(ひわだぶき)ではないかと思われます。

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拝殿、正面の蟇股には鷹の透かし彫り。その下には三つ葵の金具が打ってあります。

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三つ葵の連発!(*^^*) 本当に可愛い龍です。

以上、小さくても「東照宮」!マニアにとっては、京都市内で御朱印のいただける貴重な「東照宮」のあるお宮さんです。
もう一つの東照宮のあるお寺、南禅寺塔頭(たっちゅう)の金地院(こんちいん)は、御朱印はいただけない様なので(南禅寺の御朱印のみ)、市内唯一という事になります。金地院の東照宮は、これも、ん十年前に参拝しましたが、素晴らしい東照宮だった記憶があります。

この金地院というお寺は、以前も紹介した南光坊天海僧正(120歳まで生きていた?方)と並んで家康公のブレーンで、黒衣の宰相と呼ばれた「以心崇伝(いしん すうでん)・金地院崇伝(こんちいん すうでん)」が住職を勤めていたお寺です。崇伝は、同じ家康公のブレーンでも天海僧正と比べると人気が無く、権勢の大きさと、常に強引な政治手法で宗教界にも関与したため、当時から「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」とあだ名され、有名な沢庵和尚も「天魔外道(てんまげどう)」と呼んでいたといわれています。

いつも横道にそれていますが、ここでやっと、タイトルの「歴史のいたずら…」です。この御香宮神社のすぐ南に江戸時代には「伏見奉行所」がありました。

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航空写真で見ると、ほん!目と鼻の先ですね。

御香宮神社と伏見奉行所の間を通る道路が竹田街道です。神社の東に今は国道24号線が通っていますが、この辺り一帯は以前は神社の敷地で、高台になっていたそうです。
この竹田街道を挟んで激戦が起きたのが、日本最大の内戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の発端となった「鳥羽伏見の戦い」です。

慶応4年(1868年)1月3日、薩長軍と幕府軍による鳥羽伏見の戦いがはじまると、ここ伏見では御香宮神社に薩摩軍が、南側の伏見奉行所には新選組や会津藩兵などの幕府軍が陣取り、対峙していました。薩摩軍は、神社東の高台から奉行所に大砲を打ち込むなど激しい戦闘が行われ、奉行所は炎上。薩摩軍800名、幕府軍1500名といわれ、兵の数では圧倒的に幕府軍が優勢でしたが、幕府軍はあっさりと敗北。
幕府軍は、旧式の大砲が数門。対して薩摩軍は新式大砲を始め、銃火器隊を揃えて高台から奉行所を狙い撃ちしたため百発百中だったと言われています。

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当時の戦闘の模様を書いた地図です。

薩摩藩と書いてある場所が御香宮、その東の砲兵から奉行所に大砲を撃ち込んでいる模様がよくわかります。
で、問題は、なぜ幕府軍は奉行所の真ん前の御香宮に、薩摩軍の布陣を許してしまったのか?です。当時伏見奉行所には新選組、会津兵が常駐していました。その目の前へあとから薩摩軍が楽々と陣を敷いた訳で。これは誰が見ても戦う前から勝負は見えています。目の前なんだから何とかせえよ!
もう一つ、伏見奉行所の南には宇治川が流れていて、前には薩摩軍、後ろは宇治川で、引くに引けない「背水の陣」が勝手に出来てしまい、不利な状況で戦う事になってしまいました。

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当時の戦いを描いた錦絵。画面左の森が御香宮、右の炎を上げて燃えているのが伏見奉行所です。

道路一本隔てた南側にある伏見奉行所を俯瞰する事が出来る、圧倒的に有利なこの地をなぜ薩摩藩が押さえる事が出来たかには、一つのエピソードがあります。
当初、幕府側がここに本営を置く予定で、「徳川氏陣営」と書いた木札を門に掲げておきました。ところが、これを見た御香宮の宮司は薩長贔屓(京都の寺社、京都人は長州好きが多い)だったため、直ちにこれを御所に知らせました。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ御香宮に陣を構えさせ、幕府軍の布陣を防ぎました。これにより、薩摩軍は後の戦いを有利に導く事が出来ました。

あーあっ…!何だかなぁ…。完全に幕府軍は油断ですね。奉行所から見たら、御香宮は自分の庭の様な物だし、徳川家ゆかりの神社だから、木札さえ掲げておけばOK (*^^*)vとでも思っていたんでしょうかね?
家康公の社殿造営から250年余り経って、この時代には既に幕府の威光も、地に落ちていたことをもっと早く気付くべきでしたね。
まさか身内感覚?の御香宮から攻撃され、負けちゃうなんて思ってもみなかったでしょう。「歴史のいたずら…」「歴史の皮肉…」そのものですな(T_T)
いずれにしても、この鳥羽伏見の戦いの敗北から徳川幕府は完全に崩壊していきます。

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明治初期に描かれた、炎上する伏見奉行所から退却する会津兵と新選組。馬上で指揮を取るのは、新選組副長の土方歳三だといわれています。

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伏見奉行所の古写真、立派な石垣です。

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奉行所跡地に置かれた陸軍の工兵第十六大隊。左端に見える塀は奉行所当時の物です。

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現在の奉行所跡地は桃陵団地になっています。奉行前町、西奉行町、東奉行町の地名が往時を伝えています。

神社に立っているとここが高台?と思いますが、奉行所跡地のこの写真を見ると、かなりの坂になっています。右手の先に御香宮神社があり、南の宇治川まで下り坂が続いているようです。

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激戦の地も、今は伏見奉行所跡の石柱が残っているだけです。

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以上、またまたいっぱい語ってしまった御香宮神社で
いただいた御朱印です。
当然、東照宮、葵の御紋も入っていませんが私的には
大満足(*^^*)

しかし、今の宮司さんは家康公、徳川家をどう思っているんでしょう?私的には、ここは紛れもなく徳川家ゆかりの神社だと思っているんですが…。どうかなぁ?まあ、自己満ということで(^_^)v

そうそう、ここの駐車場、駐車料金900円も取られるんですよ( ̄▽ ̄) 近くで他に見る所もないのに!ただし、参拝客は一応無料ですが、参拝したら直ぐに車を出してくれと言われました…

次回は、今回の記事にも度々登場の家康公10男、紀州徳川家の藩祖・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の菩提寺、和歌山県の長保寺(ちょうほうじ)を紹介します。これが何気に、えっ?国宝がこんなに?状態の凄いお寺でした。

歴史のいたずら・京都の東照宮②

  • 2013/09/26(木) 11:19:51

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

前回の続きです…

参道を抜けるといよいよ拝殿が見えてきます。

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こちらは軒の唐破風の彫刻が見事ですね。

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近寄って見るとこんな感じです。極彩色に圧倒されます。

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蟇股の中央には三つ葵、左右に桐紋、菊紋の金具が打ってあります。

正面軒唐破風(のきからはふ)は、手の込んだ彫刻によって埋められています。向かって右は「鯉の瀧のぼり」、龍神伝説の光景を表し、左は琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写しています。この拝殿は伏見城御車寄(くるまよせ)の拝領と誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物です。
平成9年6月に半解体修理が竣工し、極彩色が復元されています。

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三つ葵の金具をアップ!m(_ _)m

この拝殿は、寛永2年(1625年)、表門と同じく紀州徳川家初代の徳川頼宣(家康公11男)の寄進によるもので、桁行7間、梁行3間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿(わりはいでん)形式になっています。
神社建築では、拝殿は本殿よりも大きく建てられ、床を張るのが一般的ですが、「割拝殿」というのは、拝殿と本殿が離れており、中央が土間で通行可能な通路が設けられた形式です。

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割拝殿の通路、正面奥が本殿になります。

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本殿の遥拝所、当然参拝はここからです。奥に見える本殿も何やら凄い彫刻が…

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撮影出来るのはここまでです。左右に随神様がお祀りしてあります。

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本殿向かって右の阿形の随神様です。随神とは神様をお守りするため
武士の姿をしています。

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こちらは本殿向かって左の吽形の随神様です。

いずれも傷みが目立ったため、昨年18年ぶりに修理、漆の塗り直しがされた様で極彩色が甦っていました。

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慶長10年家康公造営とあります。

正面から「本殿」は見えませんので脇へ回ってみました。

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透塀から見える本殿ですが、かなり大きい(*゚▽゚*)

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アップ!こちらも極彩色の彫刻が!

この「本殿」は、慶長10年(1605年)、家康公の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立されました。大型の五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫、木鼻や蟇股、向拝の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全てを極彩色で飾っています。
背面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵が描いてあるそうです。全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年5月18日重要文化財として指定されています。
造営以降、江戸時代の社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の寄進金と氏子一般の浄財で行われ、大修理時には、神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願して徳川幕府直接の寄進を仰いだといわれています。

平成2年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元されています。

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当然こちらも三つ葵紋ですね(^-^)

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「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に描かれた「拝殿」と「本殿」です。
ちゃんと「割拝殿」として描かれており、通路も正確です。

次は、ここでのメインイベント「東照宮」を参拝します。上の図でいうと、本殿右手(東側)に「東照宮」と描いてある場所です。
現在、京都市内で東照宮のある場所は、こちら御香宮と南禅寺の塔頭(たっちゅう)で金地院(こんちいん)の2箇所しかありません。以前は東本願寺にもありましたが、幕末の元治元年(1684年)「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の際の大火で消失してしまったとか…。

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こちらが近年東本願寺で見つかった「東照宮御霊殿」の鳥瞰図です。

建立されたのは「東照宮御霊殿」で、家康公を祀る日光東照宮の分社にあたり、文久2年(1862年)、公武合体で孝明天皇の妹・和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂(いえもち)の入洛に合わせて、真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)境内に落成しましたが、2年後の禁門の変「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の大火で焼失。
これまで棟札の記録のほかに手がかりがなく、一般には知られていない幻の東照宮でしたが、近年、東本願寺の幕末史料約6千点が見つかり、真宗大谷派と大谷大が鳥瞰図(ちょうかんず)などを確認したところ東照宮と確認されたそうです。
調査によると、阿弥陀堂の南西に隣接する南北30m、東西60mほどの敷地に築地塀を巡らせ、大規模な唐門や回廊のある拝殿が建立され、参道を進み、唐門をくぐって拝殿に参拝する形式だったとの事。

もともと東本願寺は、慶長7年(1602年)に家康公から境内地の寄進を受けて建立されており、幕府との関係が深かった寺院で、分社建立の翌文久3年(1863年)には徳川家茂が、徳川将軍として約230年ぶりに入洛。孝明天皇と会見し、東本願寺にも立ち寄っています。(因みに西本願寺は反徳川で有名)
確認された史料には家茂や15代将軍・徳川慶喜のほか、京都守護職だった会津藩主・松平容保(かたもり)の参拝の記録も残っているそうです。

しかし、鳥瞰図を見ただけでも凄い規模の東照宮ですね。今残っていれば二条城の二の丸御殿に匹敵する豪華さだと思いますが見れないのが残念!傾きかけた徳川幕府が将軍家茂の上洛を前に、将軍の宗教的権威を京都で誇示しようと威信をかけた事業だったのは間違いないでしょうね。

で、本命のこちらの東照宮ですが、名所図会では確か本殿の右(東側)にあるはずなんですが…。
んんん?無いぞ!!一体何処に?

続きは次回。(妙に引っ張るなぁ…)

歴史のいたずら・京都の東照宮①

  • 2013/09/23(月) 18:54:02

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

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境内の「御香宮(ごこうのみや)」の社号標です。

ん十年振りに参拝しました。京都市伏見区にある「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」。伏見といえば「伏見稲荷」が有名ですが、ここ「御香宮(ごこうのみや)」も外せません。

創建の由緒は不詳ですが、初めは「御諸(みもろ)神社」と称していました。平安時代の貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があり、伝承によると、この年の9月9日に境内より「香」の水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったなど不思議な現象が起き、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといわれています。
別の説では、貞享元年(1684年)に北村李吟が「菟芸泥赴(つぎねふ)」という山城の国(京都)の名所名勝記を書いていますが、この書によると、「筑前国糟谷郡の香椎宮から神功皇后を勧請し、神功皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり、筑紫(福岡県)の香椎宮(かしいぐう)をこの地に分霊し勧請したともあります。
」が「御香宮」になったという事ですね。

現在も神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀り伏見地区の産土神(うぶすながみ)となっており、また「安産の社」として信仰を集めていますが、これは、身重の神功皇后が、新羅(朝鮮)から筑紫(福岡)へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことに由来しています。
後に、豊臣秀吉が伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神としましたが、慶長8年(1603年)に徳川家康公によって元の位置に戻され、本殿が造営されました。

もともと伏見は「伏水(ふしみ)」といわれるほど豊富な水が湧く土地で、現在も造り酒屋が多い場所ですが、この神社の境内にも由緒となった湧水が「御香水」と呼ばれ、名水100選に選定されて残っています。(しかし、近年その名水100選にも問題あり…詳しくは後述)

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伏見城大手門といわれる国指定重要文化財の「表門(神門)」です。

この門は、元和8年(1622年)徳川頼房(水戸徳川家の祖・家康公11男)が旧伏見城大手門を拝領して寄進したもので、三間一戸、切妻造、本瓦葺の薬医門(やくいもん)です。
雄大な木割、雄渾な蟇股(かえるまた)、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門にふさわしい貫禄を示しています。

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正面を飾る蟇股は中国二十四孝(中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げたもの)の彫刻です。

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「伏見城大手門」の木札、ん十年前と同じ。墨書きが掠れています…

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表門の内側です。雄大な木割がよくわかります。

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「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に描かれた御香宮です。右下、通りに面した所が表門。

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表門をくぐり、石鳥居の先に参道が続きます。名所図会と同じです。

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以前は石鳥居をくぐった右手に「御香水」の井戸があったようです。「こう水」と描かれています。

この井戸は現在は参道の先、本殿右に石碑と一緒に移っていますが、徳川義直(尾張藩祖・家康公9男)、頼宣(紀州藩祖・家康公10男)、頼房(水戸藩祖・家康公11男)のいわゆる徳川御三家の各公は、大坂城・伏見城生まれのため、この水を産湯として使ったといわれています。
徳川頼房寄進の表門、家康公造営の本殿といい、ここ御香宮は徳川家に縁の神社なんですね。
  
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本殿向かって右にある「御香水」の井戸と石碑ですが、この井戸、現在は使われていないようです。

えーっ!じゃあ「御香水」は何処にあるん?ですが、この井戸には嘉永3年(1850年)の年号が刻まれています。都名所図会が描かれてから約65年が経過し、この場所に井戸を掘削しなおしたようです。
しかし、明治期に井戸が枯れてしまい、深さ150mにまで掘削して復活し、その後、昭和60年に「名水100選」の一つに認定されました。
現在の水汲み場は、本殿向かって左手にありますが前述の様に問題ありで…

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『この水は濾過されていませんので飲まないで下さい』の案内あり。

何でも平成23年(2011年)7月31日の水質検査の結果、水質が悪化し、基準値より下回ったことが分かり、現在ここからは飲めなくなっているようです。以前は、この水汲み場には竹の筧が2本あり、豊富に水も出ておりペットボトル、ポリタンクで水を汲んで帰る人が絶えなかったようですが…
しかし、7月31日に一気に水質が悪化した訳でもないだろうし、それ以前に汲んでいった人達は一体??飲んで大丈夫だったのかf^_^;)

私が参拝した時は、新しく小さな水汲み場が出来ていました(^_^;)

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こちらは濾過済みの様で、時間制限(朝7時〜夜7時)でお賽銭を入れて飲むようになっていました。

しかし、このチョロチョロ加減。それも濾過した「御香水」って…かなり微妙ですね。
こちらは伏見の街中にある神社で、東側には国道24号線も走っており、さすがに水質悪化も避けられないんでしょうが、これでは以前のように「御香水」を汲みに来る人もいなくなるのでは…

次回に続きます。今回は本当に久しぶりの更新でした(それも3月参拝の記事だし(>_<))


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