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百万石のルーツは?②

  • 2013/03/14(木) 00:58:41

尾山神社 (おやまじんじゃ)■所在地/石川県金沢市尾山町11-1 ■主祭神/前田利家 ■創建/明治6年(1873年)

(参拝日/平成25年2月28日)

尾崎神社から南に400mほど、金沢城公園の西、百万石通りに面して鳥居が建つのがここ、加賀藩藩祖・前田利家を祀る「尾山神社(おやまじんじゃ)」です。

尾山(おやま)というのは、金沢市の旧地名で戦国時代の金沢城跡と、その周辺の呼称です。浄土真宗の門徒による加賀一向一揆(かがいっこういっき)の拠点となった金沢御堂(かなざわみどう)、尾山御坊(おやまごぼう)を、織田信長の家臣の佐久間盛政が攻め落とし、金沢を一時期尾山と称しました。

その後、御坊跡地は金沢城となり、寺内(じない)町を受け継いで西町・南町・堤町・松原町・近江町・安江町・金屋町・材木町の城下町ができ、これを尾山八町といいました。現在、城跡西部を統合して尾山町と呼んでいます。

尾山神社08
神門の前田家の家紋「加賀梅鉢」です。

慶長4年(1599年)閏3月3日に大坂で死去した前田利家は、遺言どおりに金沢の野田山に葬られました。その後2代藩主利長によって、金沢城の鬼門の方角(東北)にあたる卯辰(うたつ)山麓に卯辰(うたつ)八幡宮(現在の宇多須神社・金沢市東山1丁目)が建立され、利家の霊は加賀藩を守護する存在として祀られました。

明治4年(1871年)の廃藩で、藩主前田家は華族となり東京に移りましたが、藩祖の偉功を守ることを希望した旧藩士達により寂れていた社殿を再興する運動が起こされました。
新たな社殿は、卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治6年(1873年)本殿、拝殿が建てられ、卯辰八幡宮から御神体を遷座し「尾山神社」と改称されました。

尾山神社01
石鳥居と尾山神社の社号標、石段の先が「神門」です。

尾山神社02
斬新なデザインが目を引く「神門」。

尾山神社03
神門は「和・漢・洋」の混用様式で建てられています。

明治8年(1875年)建立の神門は、三層のアーチ型楼門で、屋根には日本最古といわれる避雷針、最上階の三層目の窓にはステンドグラスがはめ込まれています。夜には御神灯が灯され、その灯りは海を行く船からも見え、灯台の役目もしていました。
神門のデザインは、現在では斬新と評されていますが、創建時は「醜悪」と言われて不評だったとか。不評の声は昭和10年(1935年)に価値が認められて旧国宝(現在は重要文化財)に指定されるまで続いたそうです。

尾山神社06
洋式アーチ型の一層目は戸室石(とむろいし)を使用しています。

この「戸室石(とむろいし)」は、金沢市東部の医王山(いおうぜん)や戸室山(とむろやま)で採れる高級石で、金沢城の石川門の石垣にも使用されている事でも有名です。

尾山神社07
一層目内部は「和様式」の造りです。

尾山神社04
境内から見た神門、二層目は「漢様式」中国風の造りになっています。

尾山神社05
三層目の窓にはステンドグラスがはめられ、屋根にあるのが日本最古の物といわれる避雷針。

尾山神社09
境内の狛犬と本殿。

尾山神社12
本殿ですが、この日の金沢は2月というのに暑かったですf^_^;)

尾山神社11
尾山神社の扁額。

尾山神社13
三間社流れ造の本殿。土台の石垣も戸室石ですね。

尾山神社14
境内の「前田利家公騎乗像」です。

尾山神社15
背中に風船の様な物を背負っていますが、これは「母衣(ほろ)」といいます。

「母衣(ほろ)」というのは、戦場で流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布のことで、時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになりました。
戦国時代の騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り、連絡役をつとめていました。このような騎馬武者を母衣衆(ほろしゅう)と呼びました。織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした10人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭とした10人の赤母衣衆とで合計20人でした。
戦闘になれば諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険な役割でした。この騎馬像は織田信長の赤母衣衆として活躍し、「槍の又左」と呼ばれた青年時代の利家の姿です。

尾山神社19
境内のお庭「神苑」、楽器の庭とも呼ばれています。

尾山神社18
神苑の池に架かる板橋「八ッ橋」です。

この「神苑」は、金沢城の旧金谷御殿(かなやごてん)の庭園で、古代の舞楽の楽器を模した大名式の池泉回遊式庭園です。金沢は数日前から暖かった様で、雪もほとんど溶けていました。「兼六園」にもある、樹木を雪から守る「雪吊」も役に立っていませんでした(⌒-⌒; )

尾山神社16
尾山神社の裏門にあたる「東神門」、この門を出て道路を渡れば金沢城公園です。

この「東神門」は、もと金沢城二の丸御殿の「唐門」と伝えられ、宝暦9年(1759年)の大火にも焼け残った金沢城の現存する建造物として貴重なものとなっています。
明治3年(1870年)招魂社の神門として卯辰山に移築され、昭和38年(1963年)現在地に移されました。

1間1戸の向唐門で、屋根は桟瓦葺。主柱は円柱、控柱は角柱で両開きの桟唐戸を立て、頭貫(かしらぬき)の上は蟇股(かえるまた)に前田家の定紋「加賀梅鉢」と波の彫刻、桁上には大瓶束と「雲龍」の彫刻が施されています。

尾山神社17
東神門の彫刻にはミステリーが…

金沢城は、度々の火災で現存する建物はほとんどありませんが、この唐門は、桁上に彫られた二匹の龍が水を呼んだため火災を免れたといわれています。
と言っても、お城に龍の彫刻は付き物ですので、この門だけが特別だった訳ではないと思いますがσ(^_^;)

(他の龍は寝てたのかもな?)
多分ね、よくお城の屋根に鯱が乗ってるでしょ?
(シャチは水を呼ぶから火除けに乗せるんだろ?)
そうそう!特に名古屋城は金鯱だよね。でも、名古屋城の天守閣が空襲で丸焼けになった原因知ってる?
(ふつう爆撃されたら燃えるやろ!)
あの天守閣は漆喰の総塗り込めで、築城当時は絶対に燃えないって言われてたけど、空襲があった時は、金鯱に被せてあった金網に焼夷弾が引っ掛かったのが火災の直接の原因なんだって。
つまり、地上からの火災で燃えた訳じゃなくて、金鯱から燃えたらしい( ̄▽ ̄)
(鯱が水を呼ばずに火を呼んだと…)
金網被せちゃったのが悪かったんだね(>_<)
(なんで金網なんか被せてたんだ?)
こういう事みたい…

家康公の命により、慶長17年(1612年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は、一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれ、高さは約2.74メートルありました。
しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行い金純度を下げ続けました。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュしていました。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあったこともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていました。

(金がなくなっちゃたんで金鯱を流用しちゃったと?)
そうそう、空を見たら、あっ!あんなとこにいっぱい金があるやん、ラッキー(^_^)v みたいな話しね。
(その当時は、まさか空から焼夷弾が降ってくるなんて思わないしな)
シャチが水を呼ぶなんて迷信だけど、金鯱の祟りかも(ーー;)
とりあえず金メッキにして金網外せば良かったのに…
(名古屋人は結構見栄っ張りだからなぁ)
と、またまた余計なお話しでしたσ(^_^;)

最後に尾山神社で若い巫女さんにいただいた御朱印です。

oyama-gosyuin
キッチリ書いていただきました。ちなみに神社専用の
御朱印帳にお願いしました(^_^)v

このあと久しぶりに金沢城を見学しましたので、次回ご紹介したいと思います。

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