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南海の龍

  • 2013/10/03(木) 19:01:28

長保寺 (ちょうほうじ)紀州藩主徳川家墓所 ■所在地/和歌山県海南市下津町上689 ■山号/慶徳山(けいとくざん)■宗派/天台宗 ■本尊/釈迦如来 ■創建年/長保2年(1000年)■開基/性空(しょうくう・書写(しょしゃ)上人)・一条天皇(勅願)■国宝/本堂・多宝塔・大門

(参拝日/平成25年8月27日)

今回、会社の同僚(仏友?)と初めて参拝しました。徳川家ゆかりの社寺では外せない、和歌山県の「長保寺(ちょうほうじ)」です。ここ長保寺は海南市の下津町にあり、海岸線に沿って走るJR紀勢本線から2kmほど東の山裾にあります。

寺伝では、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(えんにん・慈覚大師)の弟子の性空(しょうくう)上人によって創建され、年号を取り「長保寺」と号しました。現在の伽藍が整ったのは、ほぼ鎌倉時代から南北朝時代にかけてだといわれています。
寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩初代藩主・徳川頼宣(とくがわ よりのぶ・家康公10男)は、長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めました。境内には、三棟の国宝建築と紀州藩主歴代の墓所があり、藩主の墓所としては日本最大規模で、本堂・塔・大門と揃って国宝に指定されている寺は奈良の法隆寺と長保寺だけだそうです。

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大門前には、紀州葵に国宝!長保寺の立看板。

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流石に立派な案内板です。

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境内の案内図です。山腹には広大な歴代藩主の墓所が。

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国宝の「大門」、南北朝時代の嘉慶2年(1388年)の建造。

この大門は桁行三間、梁間二間の楼門で、両側に金剛力士像があり、入母屋造、本瓦葺で様式は和様を基調とし、禅宗様に大仏様の混じった折衷様式で、和歌山県北部の地域的特色をよく示しているといわれています。

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この金剛力士像は鎌倉時代の弘安9年(1286年)の
造営で、大門よりも古いそうです。

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大門をくぐると参道が見えてきます。しかし、人がいない…。

一緒に参拝した同僚が、ここは何気に国宝が放置状態と言っていましたが、なるほど奈良の法隆寺と比べると、然もありなんといった感じです。
私たちが参拝した時も、全く参拝客はいませんでした(^_^;)

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参道の石段を登ると左手に拝観受付が…。

しか〜し!拝観受付には誰もいませんでした(⌒-⌒; ) おいおい!セキュリティーは大丈夫か?しばらく待っていると、お手洗いだか物置きの様な所に人影が…。
すみません!と声をかけると、ハイハイ…と、お婆ちゃんが。
私たちが「参拝に来たんですが…」「御朱印もいただけますか?」
お婆ちゃん「すみませんねー、暇だったもんで片付けを…」との返事でした(^_^;)

「御朱印は書いておきますので、ゆっくり参拝して下さい」で、拝観料300円と御朱印代300円を払い、「此処って、国宝が三棟、確か法隆寺とここだけなんじゃない?」「国宝の放置プレイか?」などと言いながら、参道をさらに登ります。

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出ました!正面に国宝の本堂。参拝客…、誰もいません(^_^;)

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本堂は鎌倉後期の延慶4年(1311年)の建立です。左に見えているのが護摩堂。

桁行五間、梁間五間、一重入り母屋造、向拝一間、本瓦葺で、和様と唐様を折衷した様式になっています。

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本堂の扁額「世雄殿」となっています。

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左、本堂と右に国宝の多宝塔。間の坂を登ると藩主の墓所になります。

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国宝の多宝塔、鎌倉時代の正平2年(1357年)建立。

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三間多宝塔で本瓦葺、高さ13.4mの純和風様式です。

多宝塔の内部は、四天柱を配し、折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、唐様の須弥壇を置き、大日如来が安置してあります。
以上が大門を含め国宝の三棟ですが、ほんとうに放置プレイ…失礼!何気に観られる、無防備状態の国宝です。

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こちらは、「紀伊国名所圖會(きいのくにめいしょずえ)」(後偏 二之巻 海部郡)に見る長保寺です。

いやあ!こういう、昔の何とか図絵とか古写真、大好きなんです。
あ、今も全然変わってない!。こんなに変わっちゃった!一目で分かるのがいいですよね。私のブログには、しょっちゅう出てきますのでお付き合いくださいm(._.)m
この図絵を見ると、本坊の他に子院(塔頭)が沢山描かれていますが、現在はないようです。江戸時代は紀州徳川家の菩提寺でもあり、いかに隆盛を誇っていた事がよく分かります。

次は、藩主墓所へ向かいましたが、その前に、ここを菩提寺に定めた徳川頼宣について少し(多分…)語ります。

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この人が「南海の龍」と言われた、家康公の10男、徳川頼宣です。

この肖像画は幕末期に描かれた想像画で、徳川御三家の紀州初代藩主にしては珍しく、当時に描かれた正確な肖像画は残っていないそうです。戦国武将の肖像画は、沢山描かれて残っているのに不思議な話です。

徳川頼宣は、家康公の10男として、慶長7年3月7日(1602年4月28日)に伏見城に生まれました。母はお万の方、幼名は長福丸。尊称は南龍公。
2歳にして常陸水戸20万石、5歳で元服し駿府50万石を与えられ、駿府城に入り家康公の許で育てられました。16歳で加藤清正の5女・八十姫と結婚。慶長19年(1614年)、13歳のとき大坂冬の陣で初陣を飾っています。
元和5年(1619年)、18歳で紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となり、和歌山城の改築、城下町の整備、和歌浦の紀州東照宮の造営などを実施。紀州藩の繁栄の基を築きました。
また、地士(郷士)制度を採用し、多数の浪人を召し抱えましたが、これが「由比正雪の乱(慶安の変・1651年)」に頼宣が関与していたとの噂の元にもなりました。

この「慶安の変」というのは、張孔堂(ちょうこうどう)という軍学塾を開いていた高名な軍学者、由井正雪(ゆい しょうせつ)が、関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、巷に溢れていた多くの浪人たちの不満を利用して、幕政への諫言、浪人救済を目的に江戸を焼討ちし、混乱に乗じて城から出て来た幕閣重臣たちを討ち取り、幕府転覆を計る謀反の計画でしたが、事前に発覚し、計画は失敗しました。
正雪は駿府で自決し、遺品の中から見つかったのが、紀州藩主の頼宣の書状でした。幕府は頼宣が謀反の黒幕ではないかと疑い持ち、江戸城に呼び出し、頼宣の印のある証拠文書(後に偽造と判明?)を前に正雪との関係を詰問しましたが、頼宣は『外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である』と釈明し、疑惑を晴らしたといわれています。

真偽の程は分かりませんが、「南海の龍」と呼ばれ、戦国武将の気風を持ち、甥の将軍家光、兄の尾張藩主・徳川義直の死去後は、徳川一族の長老となっていた頼宣の豪気で激しい性格が、幼い将軍家綱を擁した幕閣には煙たい存在となっていたと思われます。
寛文11年1月10日(1671年2月19日)頼宣は70歳で死去、ここ長保寺へ葬られました。法号は南龍院。

いよいよ藩主代々の墓所へ向かいます。

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墓所入口の廟門です。鬱蒼と樹木が茂っています。

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「初代 頼宣卿」の案内板です。

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廟門を入って最初の廟所が、初代藩主頼宣の墓です。

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大名の石塔では初めて見る砲弾型、卵型?無縫塔の石塔。

この卵型の石塔は、無縫塔(むほうとう)といい、主に僧侶の墓塔として使われるそうで、大名の石塔としては珍しいそうです。

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この石塔には墓碑銘は刻んでないようです。

初代、2代、3代、4代、6代の藩主の石塔には、墓碑銘が刻まれていません。これは戦が起こり、万が一墓が暴かれた時に誰の墓か分からなくするためで、代々の住職しか知らなかったそうです。

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続いて2代藩主、徳川光貞の廟所。こちらも樹木が鬱蒼としています。

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光貞の石塔。こちらは墓碑銘があるようですがよく分かりません。

徳川光貞(とくがわ みつさだ)は、頼宣の長男で紀州藩の2代藩主。家康公は祖父に当たり、水戸藩主・徳川光圀(黄門)とは従兄弟同士で、紀州藩5代藩主から8代将軍となった「暴れん坊将軍」吉宗の父親です。

この他、この廟所には斜面を4段に開いた石垣の上に、歴代藩主の墓石13基と正室の墓石3基が眠っています。
ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓は東京の将軍家の墓地にあります。現在この墓所一帯は、近世大名墓所の代表例として国の史跡に指定されています。
今回は、廟所が広大という事もあり、初代頼宣と2代光貞の墓所だけを参拝しました…。実は、あまりに樹木や草が鬱蒼としているは、参拝客は私達だけだは…で、もうここら辺でいいか?でやめちゃいました(^_^;)
しかし、この鬱蒼とした感じ…。高野山の奥の院を彷彿とさせますね。奥の院へ行かれた方は分かると思いますが、参道だけを歩いていればそんなには感じませんが、いろんな戦国武将の墓を探して脇に踏み込むと、石塔があちこちにゴロゴロ倒れているは、古い鳥居が倒れているは…で、一種異様な雰囲気です(>人<;) ここはそんなに酷くはないですが、一人で参拝はちょっと怖いかも…。

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廟所を降りてきた場所にある「御霊屋(位牌堂)」の玄関。

この位牌堂が霊殿で、寛文7年(1667年)に頼宣により建立されました。間取りは北側に霊室、東側に次の間を設け、南側は西寄り(霊室の裏)に代参部屋、東に続いて霊室と次の間を設けています。
西側の2部屋のうち、北寄りの部屋には厨子一基があり、歴代藩主の位牌を祀っています。

最後に拝観受付で、預けていた御朱印帳をいただきました。結局、最後まで他の参拝客に会うことはありませんでした。
何気にある「国宝」三棟、ゆっくり参拝することはできましたが、やっぱりセキュリティーは???でした(^_^;)

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長保寺でいただいた御朱印、真ん中に本堂「國寶
世雄殿」です。

次回は、同じく徳川御三家で私の地元、尾張徳川家の初代藩主・徳川義直(とくがわ よしなお)の廟所、愛知県瀬戸市にある「応夢山 定光寺(おうむざん じょうこうじ)」をご紹介します。
紀州徳川家と尾張徳川家は、将軍家継承を巡っての熾烈な争い、紀州藩出身の8代将軍吉宗と尾張藩7代藩主の徳川宗春の政策上の激しい対立など、仲の悪さ?で有名ですが、初代藩主同士は家康公の晩年の子供で、年も近いという事もあり、良好な関係であったといわれています。

では次回、また長々と語ると思いますが、興味がある方は読んでください。

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