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王命によって催さるる事③

  • 2013/10/10(木) 15:18:39

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

またまた前回の続きです。

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名古屋城にある「藩訓秘伝の碑」の石碑。

この石碑は、名古屋城二の丸御殿跡にひっそりと立っています。
「王命によって催さるる事」とは、義直の著書「軍書合鑑」の末尾にある『王命によって催される事、すなわち、保元・平治・承久・元弘の乱のような兵乱が起きて、官兵が動員される事態になれば、いつでもこの官軍に属すべし。一門よしみを考慮して、かりにも朝廷へ弓を引くべからず』の言葉です。
ここにいう「王」とはむろん天皇のことです。つまり、「ひとたび事を起こす際は朝廷の意向によること、我が子孫は決して天皇の命令に背いてはならない。」との義直が定めた尾張藩の家訓・藩訓で、この藩訓は「秘中の秘」で、その子細は家督相続ごとに藩主が新しい藩主へ「口から耳へと伝えてゆけ」と命じています。

義直は日頃から「いま天下の武将たちはだれもが公方(将軍)を主君と仰いでいる。しかし、大名はもちろん三家の者も、公方ではなく朝廷の家来である。幕府は単に政権をゆだねられているにすぎず、それが証拠にわれわれもまた官位を朝廷からいただいているではないか」と広言しており、御三家でありながら「朝臣」という尾張藩の藩訓は義直のこうした勤皇思想から始まりました。

義直は、御三家とは「将軍家・尾張家・紀州家」で、この三家は同格であると考えており、家康公の実子でもあり、理想もプライドも高く、幕府何するものぞの気概にあふれていました。
4歳違いの甥の3代将軍家光が「余は生まれながらにして将軍の子」と言えば、義直もまた「わが父は権現様(家康公)なり」と負けてはおらず、物事において筋目を重んじた義直は「生まれながらの将軍」を自負する家光には目の上の瘤で、二人は度々衝突しました。
寛永10年(1633年)、家光が病に倒れた際、義直は大軍を率いて江戸に向かい、「さては尾張殿、謀反か?」と家光や幕閣を慌てさせました。儒教を篤く信じていた義直には野心はなく、御三家の筆頭として、当時継嗣のいなかった家光に万が一の事態が生じた場合、尾張藩が幕府を護るという義に従っての軍事行動でしたが、以後幕閣は義直を「尾張殿に謀反の意あり」と、要注意人物と見ていたようです。そのためにか、尾張藩からは将軍を出せないまま終わっています。

また話しが長くなってしまいました(^_^;)
えーっと、前回は「龍の門」まででしたので…

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龍の門をくぐった正面が「焼香殿」、右が「宝蔵」です。

焼香殿、宝蔵ともに承応元年(1652年)の造営で、「焼香殿(祭文殿(さいもんでん))」は墓所の拝殿に相当する建物です。一重、寄棟造、銅瓦葺、内部は1室で石積基壇の上に建ち、前面二か所に石造の階段を設け、正面中央間は二つ折れの桟唐戸(さんからど)、脇間および側面には花頭窓(かとうまど)を開けるなど、禅宗様式基調としています。
正面、背面の戸には雲竜の浮彫彫刻、床は黒釉の志野の陶板(日本最初のタイル)を敷き詰め、天井は折上格天井(おりあげごうてんじょう)、屋根は棟に中国風に魚形の棟飾りをのせ、四隅には蕨手(わらびて)が二段に突き出しています。
焼香殿の東に西面して建つ「宝蔵(祭器庫)」は、規模は焼香殿よりやや小さく、外観の意匠は焼香殿とほぼ同じで、儒教の祠堂に準じて内部は3室になっています。

…が、二つとも覆い屋に囲まれて、またまたどんな建物か外からは全然分かりません(T . T) 特に焼香殿は覆い屋+ガラス戸と二重で守られています。

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屋根しか見えない「宝蔵」です。右は殉死者の墓。

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ガラス戸から焼香殿の中を覗いてみました。
正面に位牌、床の陶板がわずかに確認できます。

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位牌には「贈正二位尾陽侯源敬公」と書いてあります。

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資料によると焼香殿の内部はこんなふうになっている様です。
花頭窓の外の壁は覆い屋ですね。

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床の陶板が見事です。

ここで、覆い屋の無かった頃の焼香殿の姿を!

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いいですね〜素晴らしい(^_^)v なんとか昔の姿に戻してくれないかな?
元の写真が小さいのでボケボケですが、素晴らしさは伝わると思います。

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焼香殿の傍から背後に回り込むと義直の墳墓です。

焼香殿の背後、一段高い場所を石柵で囲み、中央に唐門(からもん)を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

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正面、12段の石段の上に開かれた「唐門」。

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銅板張の扉の家紋は尾張家三つ葵です。

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この唐門は、平唐門(ひらからもん)で、承応元年(1652年)の造営。腕木で軒を支える腕木門の形式で本柱は御影石製、扉や主要部材は銅板張で屋根は銅瓦葺。銅板製の鬼板を置いています。

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義直の墳墓、円形の土饅頭の上に高さ4m程の石標が建てられています。

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「二品前亞相尾陽侯源敬公墓」の墓碑銘は、廟の
設計者、陳元贇(ちんげんぴん)の筆です。

慶安2年(1649年)かねて中風が進んで苦しんでいた義直は10月、自らの死を予見して、家康公のブレーンで幼年期の師である儒学者・林羅山(はやし らざん)と計り「二品前亞相尾陽侯源敬」と号し、「神主(しんしゅ)」を製作しました。この『神主(しんしゅ)』とは、中国の後漢時代から儒教の葬礼に用いられる死者の官位・姓名を書く霊牌(日本では位牌)の事です。
これは、尾張藩主中、儒教を深く信じていた義直のみで、2代以降15人の藩主はみな院号を贈られていますが、義直だけは遺命により仏教でいう院号、法号もありません。この墓石も仏教の五輪塔・宝塔とは違い簡素な石標になっています。

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宝蔵の東にある「殉死者の墳墓」です。

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殉死者は9名で、前列に家臣の墓石が5基、後列に陪臣(家臣の家来)の墓石が4基建っています。

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殉死者の墓石も主君の義直に倣った石標です。

ご存知だと思いますが、殉死とは、主君が討ち死にしたり、戦に負けて腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することです。戦国時代には、主君が病死等の場合に追い腹を切る習慣はありませんでしたが、江戸時代に入ると病死の場合でも近習等、ごく身近な家臣が追い腹をするようになりました。
幕府は寛文3年(1665年)に「殉死禁止令」を出し、尾張藩も同5年に出していますが、義直の時代にはまだ殉死の気風が残っていました。
しかし、この殉死者の墓、前列の5名は義直の近臣で、主君の後を追ったということで理解ができますが、後列の4名は、5名の近臣の家来達です。主君に殉じた主人の後を、その家来がまた追って切腹…凄い時代です。

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一番北にある殉死者の一人、寺尾直政の墓石です。

寺尾直政は、幼少から義直の小姓として仕え、信任特に厚く家老職にまで進み、8000石を領しました。義直の他界を殊のほか悲しみ、遺書を残して殉死。47歳でした。
定光寺の資料にはこうあります。 
「寺尾土佐守直政 従五位下 5月8日、自分長屋にて殉死 介錯柳生兵助巌包 享年48 戒名全順居士」

この寺尾直政の介錯をしたのが、兵法指南役として義直に30年も仕えた「柳生利厳(兵庫助・やぎゅう としとし)」の3男で『尾張の麒麟児』と謳われた天才剣士「柳生連也斎厳包(やぎゅう れんやさい としかね)」でした。介錯のあと、首の皮が切り残ったのを見た者が「尾張の麒麟児も大した事は無い…」と呟いた所、故実を知る者が「罪ある者の首は切り落とすのが法で、無罪の者は皮を残すのが故実に叶う仕方である。」と、介錯人を褒めたと柳生家の記録にはあるそうです。
まさに「首の皮一枚でつながる」ですが、今は“かなり危なかったが何とか助かった”という意味で何気に使っている言葉ですが、実際はもう死んでいる状態です(^_^;) 何か変?

「王命によって催さるる事」は、その後どうなったのか?万が一、幕府と朝廷が戦う事態となれば、尾張藩は迷わず朝廷側につけ!藩祖義直の考えは藩訓として、代々の藩主に口から耳へと伝えられました。秘中の秘、一子相伝でしたが、義直の血統は「尾張藩中興の祖」と言われた9代の「徳川宗睦(とくがわ むねちか)」で途絶えてしまいます。その後は4代に渡って将軍家から養子を押し付けられ、家中には将軍家への不満が貯まり続けますが、やっと、尾張支藩の美濃高須藩から「徳川慶勝(とくがわ よしかつ)」が14代藩主に就きます。
この慶勝の代に戊辰戦争が起き、ついに「王命によって催さるる事」が行われ、徳川親藩・御三家筆頭の尾張家は官軍につく事になりました。

実は、この慶勝の実弟に会津藩に養子に入った松平容保(まつだいら かたもり)がいますが、容保は会津藩祖・保科正之が定めた有名な家訓『会津家訓十五箇条』の第1条「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず “徳川宗家に忠節をつくすこと、他藩の考えや行動を判断材料にしてはいけない、徳川宗家に二心抱く者は我が子孫ではなく家臣も従う必要はない”」を忠実に守り、将軍家を守るため最後まで薩長軍と戦い、会津藩は賊軍とされ悲劇的な結末を迎えます。

兄の慶勝は藩祖義直(家康公9男)の藩訓『王命によって催さるる事』を守り、弟の容保も勤皇家でありながら藩祖正之(家康公の孫)の家訓『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく』を守ったため、敵味方に別れて戦うという皮肉な結果になってしまいました。
藩祖の定めた家訓が何百年も生きていた…その重さは現代では計り知れないものがあります。

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最後に、預けておいた御朱印帳にいただいた
尾州藩祖廟所と入った御朱印です。

なんか最後は重〜い話になってしまいましたので、気分を変えて(本当に変わるか?次もかなり重いけど…)
実は、ここ定光寺はお寺よりもある物で有名な場所です(^_^;)

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まずはこれ、JR中央線の「定光寺」駅です。

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ここは崖っぷち駅として鉄道マニアにも有名です。

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ホームですが、ほんとに崖にへばり付いていますね。

渓谷にある崖っぷち駅。かなりな秘境駅の雰囲気ですが、ここは名古屋まで通勤30分圏内の愛知県春日井市内です。昔はこの渓谷美から「東海の嵐山」とも呼ばれたそうです(本当かいな?)。

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ほらね!戦前は絵葉書にもなってるし(^_^)v

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現在の写真とほぼ同じアングルの戦前の定光寺駅全景です。

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右が駅のホームですね。左の山の方が定光寺になります。

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ホームから玉野川(庄内川)を見ています。

ここまではあまり重くありませんが、次からはちょっと重いかも?
もう一つ定光寺で有名なのが…

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これです!な、なんだ!この崖っぷちの建物?

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この建物は、以前は東海地方では有名な料理旅館だった「千歳楼(ちとせろう)」です。

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現在は窓ガラスも割れ、荒れ放題で完全に廃墟と化しています。

この千歳楼は、昭和3年(1928年)創業で、バブル期には接待などにもよく使われた老舗料理旅館でしたが、10年程前に倒産。経営者も行方不明になり、その後不審火が起きたり、館内で白骨遺体が見つかるなど、現在では荒れ放題になっています。
心霊スポットとして、全国の廃墟を集めた雑誌には必ず載るという、地元にとっては有り難くない存在ですが、経営者が行方不明とはいえ、今も個人の所有物とかで行政が勝手に取り壊しは出来ないようです。

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戦前の木造だった頃の「千歳樓」。頭上を走るのが中央線です。

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中央線のホームから見た「千歳樓」の全景。橋を渡った右手が定光寺です。

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上の写真の中央に見えている「千歳樓」の風情ある玄関。

以上、昭和は遠くなりにけり…。最後もやっぱり重〜い定光寺でした。

次回は、四国に上陸。四国八十八ケ所、プチ歩き遍路で立ち寄った「讃岐東照宮 屋島神社」を紹介します。今回も長々と、ありがとうございましたm(_ _)m

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王命によって催さるる事②

  • 2013/10/10(木) 14:58:32

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

前回の続きです。

「源敬公廟(げんけいこうびょう)」参拝の前に「徳川義直(とくがわ よしなお)」について少し?(多分…)紹介します。

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こちらが徳川美術館蔵の徳川義直像です。ムッツリというか、気難しい顔をしています。

義直は、慶長5年(1600年)11月28日、家康公の9男として大坂城西の丸(京都伏見城(現在の清涼院)の説もあり)で産まれました。
母は相応院(於亀の方)で、幼名は元々は千々世丸(ちぢよまる)といいましたが、のちに五郎太丸(ごろうたまる)と改名しました。これは城の石垣を築く際に、巨石の間にくさびとして入れる五郎太石(ごろたいし)からとった名で、徳川家のくさびになるようにと、家康公が自ら名付けました。「石ころ」から命名した訳ですね(^_^;)

家康公は、自分の子供に変な名前を付けるのが好きなようで(元祖キラキラネーム?)、次男である結城秀康(2代将軍秀忠の兄)は、幼名を於義伊(おぎい)・於義丸(おぎまる)といいますが、これは秀康が生まれた時に「オギィー、オギィー」と泣いたため、家康公は「名前?“おぎい”にしておけ…」と言ったとか。他の説では、顔が「ギギ」というナマズ目の淡水魚に似ていたからだともいわれています。

この秀康という次男は、何故か家康公に嫌われ、満3歳になるまで対面も許されませんでした。母親の於万の方が家康公の正室・築山殿の奥女中であったため、築山殿の嫉妬を恐れ、母子ともに重臣に預けられてしまいます。
この冷遇された異母弟を不憫に思った兄・信康(家康公長男)の取り成しで、満3歳の時にやっと親子の対面が実現しました。冷遇の理由は、顔が醜かったとも、双子で生まれてきた(当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた)ためともいわれています。
その後も、天正12年(1584年)、11歳で豊臣秀吉の養子(実際は人質)となり、天正18年(1590年)17歳の時、今度は秀吉から関東の名家・結城氏へ養子に出されます。当時、徳川家では長男の信康が切腹。秀康は事実上の長男でありながらのこの境遇でしたが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの論功行賞により、家康公より下総結城10万1000石から越前北庄67万石へと、50万石以上の大幅加増で移封され、後に越前福井松平家の藩祖となり、やっと日の目を見ます。この大幅加増は、秀康を冷遇してきた詫びだったのかも知れません。
しかし、慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)33歳の若さで突然病没します。死因は梅毒とも暗殺されたともいわれています。んんん…梅毒(^_^;)戦国武将に多い病気で、かの加藤清正も梅毒で亡くなったそうです。

武将としての器量は一流、武勇も抜群で、周囲からも認められており、一時は次期将軍は秀康の声もありましたが、家康公の裁定により(秀康は養子に出されていたため)弟の秀忠が将軍職を継いでいます。秀忠も事あるごとに秀康を兄として立てていたため、兄弟の仲は表面上は良好だったようです。

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高野山奥の院にある結城秀康の石廟です。3月の高野山参拝に撮影。

左は秀康自身が建てた母・於万の方の霊屋。右が越前松平家2代藩主・忠直が建てた秀康の霊屋で、いずれも石造りとなっています。

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詳しくはこの案内板のとおりです(^_^;)松平秀康と松平姓になっています。

生前の秀康は、結城秀康のままだったようですが(一説には松平に改姓とも)、この石廟を建立した子供の忠直の代から松平姓を名乗っため「松平秀康」になっていると思われます。

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こちらは結城秀康になっています。面倒!まあどっちでもいいか…

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重要文化財になっているため「登壇禁止」になっており、近くには寄れません。

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こちらは前回紹介した「長保寺」にもある、徳川頼宣の墓所です。

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高野山にもありました!尾張徳川家墓所。しかし、誰それの墓とは書いてないので一括か?

ここで、やっと義直に戻ります(前振り長〜〜〜)。

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こちらは義直の直筆による家康公の肖像画です。(徳川美術館蔵)

神格化された家康公の肖像画とは違い、人間臭さのある肖像画です。というのも、9男・義直、10男・頼宣(紀州藩祖)、11男・頼房(水戸藩祖)の3人は、家康公の晩年の子供達という事もあり、特に可愛いがられ、家康公の手許で育てられました。子供に情が薄いと言われた家康公には珍しい事のようです。この肖像画も、家康公の身近で育った義直だから描けた、実像に近い家康公の姿かもしれません。

義直は慶長8年(1603年)、4歳で甲斐国において25万石を与えられ、甲府藩主に。慶長11年(1606年)7歳で元服するとさらに翌慶長12年(1607年)、兄・松平忠吉の病死により、尾張国清洲藩主として53万石で加増転封となります。慶長15年(1610年)には本拠を清洲から名古屋に移し、清洲城下の商人・職人の名古屋への移住「清洲越し」が行われ、同時に家康公の命により、外様大名の天下普請により名古屋城の築城も始まりました。
こうして義直は尾張藩主となりますが、幼少であったため、尾張の政務は初期には犬山城主であった平岩親吉や、竹腰正信、渡辺守綱、成瀬正成らの附家老が担当し、義直自らは駿府城の家康公の許で育てられました。
慶長19年(1614年)、15歳で大坂冬の陣で初陣、翌年の大坂夏の陣では後詰として活躍し、元和元年(1615年)、浅野幸長(あさの よしなが)の娘・春姫を正室に迎え、この頃、木曽福島と美濃国内を合わせて62万石の加増を受けています。
義直が母の於亀の方を伴い、名古屋城に移ったのは家康公の死後、元和2年(1616年)17歳の時でした。

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こちらも義直の直筆で、母「相応院(於亀の方)」の肖像(名古屋相応寺蔵)ですが、家康公好みのふっくら丸々(◯ブ専?)としています。

こうしてみると、兄の結城秀康と比べ破格の待遇です。家康公は、よほど義直たちが可愛かったんでしょうね(^_^;)
関ヶ原の戦いの終った後に生まれた子供達、という時代背景もあるでしょうが、子供に情が薄かった家康公も、晩年はかなり丸く(身体も丸い(^_^;))なったのではないかと思われます。
…が、この家康公の性格?子供達に対する差別などが、実は家康公の前半生と後半生は別人ではないか?の家康公替え玉説なるものが出る原因にもなっているそうです。果たして真相は…?

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別名「金鯱城(きんこじょう)」と呼ばれた、名古屋城の戦前の
焼失前の姿。手前が本丸御殿で、現在は復元工事中です。

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本丸御殿の玄関と天守閣。美しいです!

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徳川義直所用の「銀溜白糸威具足
(ぎんだめしろいとおどしぐそく)」
(徳川美術館蔵)

この具足は、義直が着用した品で、義直は正月の具足祝いの儀式のために毎年具足を新調して、多数の具足を所持していました。中でも特にこの銀溜具足を好み、旅行の際には必ず携帯していたと伝えられています。この具足も胴が太く、大柄であったと言われる義直に相応しい作りになっています。

一番上の義直の肖像画、気難しい顔で描かれていますが、事実頑固な性格で筋目を重んじる人物だったようです。昔、深作欣二監督の「柳生一族の陰謀」というオールスターキャストの東映時代劇がありましたが、その中では、三船敏郎が徳川義直を演じていました。
三船さんが、あの眉間に皺を寄せた難しい顔で『陰謀は許さん‼』の台詞がピッタリで、ベストキャストだと感心しましたが、義直も多分あんな感じの人物だったんでしょうね(^_^)v

名古屋城入城以後の義直は、家老達に任せていた藩政を自ら執り、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行ない米の増産に務め、検地による税制改革などで年貢収納を確立しました。併せて商工業の保護も行い、瀬戸の窯業の発展の基礎を作るなど、尾張藩の繁栄の基礎は義直の時代に構築されました。
また学問を好んで儒教を奨励し、我が国初の「孔子堂」の建立や、城内に尾張東照宮の建立も進め、家康公の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ、『蓬左(ほうさ)文庫』を創設し、「決して門外不出にすべからず」と、貸し出し自由。現在の図書館の走りとなる文庫とするなど、日本有数の名君といわれています。
また神道にも造詣が深く、「日本書紀」から「日本三代実録」までを編纂した歴史書『類聚日本紀(るいじゅうにほんき)』、全国の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神等について考証した『神祇宝典(じんぎほうてん)』を著しましたが、これは甥で尊皇家の水戸光圀(黄門)にも大きな影響を与えました。

家康公に倣い武術を好み、兵法指南役の柳生利厳(やぎゅう としとし)から新陰流兵法の相伝を受け、流儀を継承して新陰流第4世宗家となっています。いつ襲われても対処できるようにか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたといわれています。(んんん…かなり怖い!)それに手足をバタバタしてたら、せっかく手元に置いた脇差も何処かへ…。

慶安2年(1649年)に中風を再発して体調を崩した義直は、翌、慶安3年(1650年)江戸藩邸で51歳で没しました。諡号(しごう)は敬(けい)。遺骸は生前、義直自らが廟所として定めていたここ定光寺に葬られました。
ところで、「源敬公(げんけいこう)」って何だ?ですが、「源敬公」の「源」は、徳川家は源氏を称していたため源氏の源。「敬」は、義直に贈られた諡号(しごう・貴人の死後に贈られる名)。「公」は尊称です。つまり義直が亡くなった後の名前です。「源敬公、敬公が云々…」といえば、初代義直の事を指している訳です。
生前の義直は、正式な文書では「従二位行権大納言(じゅにいのぎょうごんだいなごん)源朝臣義直(みなもとのあそんよしなお)」と名乗っています。通称は「尾張大納言」と呼ばれていました。
何かややこしいので詳しくは説明しませんが、ざっくり言えば、従二位・・は位階(大臣の位)で、源朝臣・・は正式名です。時代劇などで水戸黄門が江戸城に登ると、「水戸中納言様おなり〜」と言われていますが、これも通称です。本当は城中では「中納言殿(ちゅうなごんどの)」、あるいは「水戸殿(みとどの)」と呼ばれました。義直は「尾張大納言殿・尾張殿」です。
御三家が出来た当初は、城中では「尾張様、紀州様、水戸様」と呼ばれていましたが、・・様と呼ぶのは「上様(将軍家)」だけである。という事になり、城中では「・・殿」と呼ばれていました。

毎度、長い文章ばかりで退屈ですみませんm(_ _)m

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廟門をくぐり右に曲がると石畳の坂が続きます。

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なお、途中でくの字に曲がったダラダラ坂を進むと…

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最初に見える門が「獅子の門」です。

んんん?何か味気ない門ですが…どこが獅子?実は、この「獅子の門」、次の「龍の門」共に覆い屋で覆われてしまっています。鞘堂(さやどう)とも言いますが、文化財を保護するためでしょうが実に味気ないです。
まず全体像が全く分かりません。覆い屋に入って見上げるか、隙間から覗くかしかない訳ですから…。

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こんな状態ですから…勿体無い!知らない人は、最初からこんなもん(門)か?と思ってしまいます。

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素木造りの簡素な門ですが…。

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まだどこが獅子?です(^_^;)

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中に入って上を見上げると金網が…。

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なるほど…これが?

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何となく獅子のような(^_^;)

この木鼻の獅子の彫刻は、名工「左甚五郎」の作と言われています。出ました!左甚五郎(^_^)v
この門は、切妻造の四脚門で、元禄12年(1699年)の造営と、他の殿舎からおよそ50年遅れて建てられました。禅宗様を基調とし、意匠は簡略化されて装飾も他の建物に比べて少なく、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、棟は金泥で縁取りした黒色釉の織部焼である…。との事ですが、これが全く分かりません。屋根も見えないし、棟(むね)は屋根の頂部なのでこれも見えない。何とかならんのかな?この覆い屋は(^_^;)

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見上げると檜皮葺(ひわだぶき)の軒先がわずかに見えました。

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そして、蟇股には地味な三つ葵の彫刻。

獅子の門をくぐり、直角に左へ曲がった先に見えてきたのが、築地塀に囲まれた「龍の門」です。

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またしても覆い屋か…。やっぱり味気ない!

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屋根の意匠といい、素晴らしい門だと思うんですが…覆い屋があるために何か不自然。

「龍の門」は、廟所正面に開く入母屋造の四脚門で、承応元年(1652年)に造営されました。意匠は禅宗様を基調としており、屋根の装飾は中国風です。

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廟を囲む築地塀(ついじべい)、これも重要文化財です。

この廟全体を囲い込む築地塀(ついじべい)も承応元年(1652年)の造営で、腰を石組みとした土塀で、壁は熨斗(のし)瓦積、屋根は銅瓦葺となっています。さすがに石と瓦の塀には何も覆っていないです(^_^;)
屋根の棟飾りを見ると、何故か中国風の意匠になっています。この廟所は明からの帰化人、陳元贇(ちんげんぴん)が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂(祖先の霊を祭る所)に倣っているためです。

廟域は、周囲に銅瓦葺の土塀を巡らせ、正面中央に正門である「龍の門」を開き、石敷の参道正面に「焼香殿」を、焼香殿の東に「宝蔵」を配し、宝蔵の東には殉死者の墓所を設けています。焼香殿の背後は、一段高い場所の前面石柵の中央に「唐門」を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

設計者の陳元贇(ちんげんぴん)は、鎖国前の元和5年(1619年)明朝末期の動乱を嫌い、長崎居留の明人を頼って30歳代で日本に渡り各地を漂泊。寛永4年(1627年)義直に拝謁し、以来名古屋に留まり、書道・作陶・中国拳法(少林寺系か?)などをこなす多芸多才な人物で、義直に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるいます。呉須(ごす・酸化コバルト)という焼成すると青色に変化する顔料を使って素地に書画を描き、これに白青色の透明な釉薬を掛け還元焔焼成で焼き上げたもので、今も元贇焼(げんぴんやき)とよばれて珍重されています。
この元贇焼を模倣した物が、名古屋城内の御深井丸(おふけまる)の窯場で焼かれた、御深井焼(おふけやき)と呼ばれる物ですが、元贇の作品のような良質のものはほとんどなく、還元焔焼成で呉須の青色を発色させるのは至難の業であり、これを瀬戸で完成させたのは、19世紀になってからで、有田の磁器生産技術を瀬戸に持ち帰った、磁祖と呼ばれる加藤民吉です。
元贇は寛文11年(1671年)84歳で、名古屋城下九十軒町(現在の東区泉三丁目)の自邸で亡くなり、尾張徳川家の菩提寺「建中寺」に葬られました。墓は現在、名古屋市の共同墓地平和公園にあります。

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尾張名所図会にもある「陳元贇 寓居の図」です。名所図会に描かれるほどの有名人の家にしては、あばら家っぽいですが、こういうのを「侘び住まい」と言うのかも(^_^;)

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陳元贇作「安南写(あんなんうつし)染付茶碗」。安南とはベトナムの事で、高台まわりに自筆の銘「陳芝山(元贇の号)造之(これを造る)」とあります。

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同じく陳元贇作「陶製仏像」(名古屋市守山区・大森寺蔵)です。

いつもの事ですが、あちこち話題が飛びながら、やっと「龍の門」に入ります…。

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しかし、この門が「龍の門」と言われても全然分かりません(^_^;)
よく見ても龍らしき物は見あたりませんでした。

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んんん…?どこに龍が?

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獅子の門のように、木鼻にも無いし、組物にも見あたりません…。

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扉には、獅子と唐草牡丹の彫刻。アクリルケースで
保護されています。
ひょっとして、こちらが獅子の門?

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ではなくて、やっぱり「龍の門」らしいです。
この彫刻も左甚五郎の作と伝えられています。

では、どこに龍が…?
実は、天井に狩野元信の龍の絵があるため「龍の門」といわれているらしいのですが、これが全く分かりません(T . T)この門は入母屋造(それも覆い屋があるので外からは分からない)なので、天井があるはずなんですが…。
覆い屋のために暗いからか、それとも見落としたのか?今回はパス!ということで先に進みます(^_^;)

そういえば、前回に和歌山の「長保寺」を一緒に参拝した、仏友のSさんが、近々ここを参拝予定と言っていました。Sさん!元信の龍の絵、確かめて来てくれませんかぁ?お願いしまーすm(_ _)m

ところで、こんなに覆い屋だらけの「源敬公廟」。昔の姿を見たくありませんか? 一枚だけ撮影年代は不詳ですが、戦前の絵葉書がありました!

それが、これです(^_^)v

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凄い!「龍の門」が剥き出し!これを見ると、この門が入母屋造だということがよく分かります。
右奥は次回紹介しますが、これも現在は覆い屋の中にある「焼香殿」です。

なかなかタイトルの『王命によって催さるる事』の話しが出てきませんが、次回に紹介したいと思います。また長くなったらすみませんm(_ _)m

次回に続く…

王命によって催さるる事①

  • 2013/10/06(日) 11:14:09

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

愛知県の瀬戸市といえば、陶磁器、焼きものの通称「瀬戸物(せともの)」の産地として有名な街ですが、この瀬戸市の北東の丘陵山地、岐阜県多治見市との県境にあるのが、徳川御三家筆頭、尾張徳川家藩祖の徳川義直の廟所がある「應夢山 定光寺(おうむざん じょうこうじ)」です。
山肌のすぐ近くを流れる玉野川(庄内川)に沿った崖っぷちに立ち、秘境駅の雰囲気を持つことで有名な、JR中央本線定光寺駅からは徒歩15分〜20分で、名古屋の奥座敷とも言われ、春の桜、秋の紅葉で有名な古刹です。

定光寺は、南北朝時代の建武3年(1336年)の創建で、寺伝によれば、当時鎌倉の建長寺で修業していた覚源禅師が、ここ瀬戸の「水野の郷」を訪れ、座禅や托鉢、開墾をしながら自給自足の生活をしていました。
ある夜、座禅中に仏が岩の間から出てくる不思議な夢を見、弟子と山中を探したところ、夢のとおり、岩の間から仏像が出てきたためこの地に一寺を建立し、夢に応じる山として應夢山、光が定めたとして定光寺と名づけたといわれています。
後に尾張藩主となった徳川義直が生前、この境内や山林を時々訪れ、この地を深く気に入った義直の遺言により、慶安3年(1650年)に義直が没すると、その翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、以後、尾張徳川家の菩提寺となりました。

私は、小学校か中学校の時に、遠足でここに来たと思いますが、今回参拝しても当時の記憶は全く残っていませんでした。確かに、小学生や中学生がお寺を見ても面白くないですし…。
しかし、こんなに素晴らしいお寺だったとは、思ってもいませんでした。特に、尾張徳川家にとっては聖地とでもいう場所で、徳川家ゆかりの寺社巡りには外せないお寺ですが、近くて遠い瀬戸市?もっと早く参拝すれば良かったです。

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「尾張名所図会」に描かれた定光寺です。

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参道の入口、こちらも前回の長保寺と同じく鬱蒼としています。

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上の画像と同じアングルで撮られた戦前の絵葉書。
右の大きな石碑は現在はありません。

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定光寺参道・徒歩10分、階段165段となっています(^_^;)

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この石橋は、尾張名所図会で「下馬橋(げばばし)」として描かれている「直入橋(ちょくにゅうばし)」です。

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「直入橋(ちょくにゅうばし)」の案内板です。

「直入橋(ちょくにゅうばし)」は、定光寺の参道入り口の池にかかる橋で、この橋の前で参拝者が馬を下りたことから「下馬橋(げばばし)」ともいわれていました。義直の長男・尾張藩2代藩主の徳川光友(みつとも)が、時の奉行 熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応2年(1653年)2月に着工し、同年5月に完成しました。
橋は全て花崗岩で出来ており、その構造は池の両岸の石積みに、長さ6m以上もある三本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせています。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木をつくるなど、橋とよく調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「應夢山十境(おうむさんじゅっきょう)」の一つとされていました。

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戦前の絵葉書に見る「直入橋」です。

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同じく戦前の絵葉書。芸妓さんでしょうか?日本髪の女性が写っています。

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直入橋を渡り、鬱蒼とした参道の石段を登って行きます。

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こちらも戦前の絵葉書の参道ですが、周りの樹木も太くて
古刹の雰囲気がよくでています。

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徒歩10分?で、やっと山門が見えてきました。

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戦前の絵葉書の山門です。こちらに写っている樹木も太い!

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現在の山門です。

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臨済宗妙心寺派「應夢山 定光寺」の表札。

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戦前の絵葉書の山門と鐘楼ですが、昔の方がいい雰囲気です。

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山門をくぐると、いよいよ重要文化財の本堂(仏殿)です。

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「無為殿(むいでん)」の扁額は、尾張徳川家20代当主・徳川義知(1911年〜1992年)の筆です。

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国指定重要文化財の札が揚がっています。

定光寺は、火災や地震等の災害のため、創建以来の建物は残っていません。現在の本堂は天文元年(1532年)の焼失後、天文3年(1534年)に再建されたもので、定光寺に残る一番古い建物です。
本堂は桁行五間、梁間五間の正方形で、裳階(もこし)がついているため、二階建てに見えますが、実際は一階建で、昭和12年(1937年)の解体修理の際に、屋根の形を変更し、現在の禅宗様の入母屋造りに復元されました。屋根は厚さ3mmの薄い板を重ねて葺く柿葺き(こけらぶき)で、組物や桟唐戸、本尊が納められている厨子など、典型的な室町時代中期の禅宗様式がみられます。

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で、この戦前の絵葉書ですが、どうも現在と屋根の形が違うようです。昭和12年の解体修理以前の撮影ではないかと思います…。

直入橋、参道、山門などの戦前絵葉書を紹介しましたが、いずれも撮影年代は不詳となっていました。
この本堂の写真を見る限り、明らかに屋根の勾配が現在とは違っていますので、この写真に限っては昭和12年以前の撮影ですね(^-^)v

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こちらも解体修理以前か?屋根の反りが無いように見えますが…?

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この写真は昭和12年の解体修理以降のようです。

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「定光寺寳物」こんな物(失礼!)まで絵葉書になってるんですね…。

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本堂内部、本尊は延命地蔵願王菩薩。他に千体他地蔵などを祀っています。

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境内の「観音堂」、聖観世音菩薩、薬師如来、毘沙門天などを祀っています。

次は、いよいよ徳川義直の廟所「源敬公廟(げんけいこうびょう)」を参拝します。

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「源敬公廟」の案内板です。

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やっぱり簡潔にまとめていますね(^_^;)

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「源敬公廟」の拝観受付と御朱印受け所ですが、誰もいません…。

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廟門、拝観料100円を入れて下さいと書いてありましたが…

御朱印もいただきたかったので(これが本命)庫裡へ廻り、例によって「ピーポーン!」で、「御朱印いただけますでしょうか?」
しばらくお待ち下さい…(良かった!留守じゃなかったぁ!)書いておきますので、参拝の後で寄ってください。で、御朱印料ともで400円を収めて「源敬公廟」へ向かいました。

次回に続きますが、次回は、ここに葬られている徳川義直の事からご紹介します。


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