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岡崎に眠る新選組局長 近藤勇

  • 2012/12/27(木) 20:12:38

法蔵寺(ほうぞうじ) ■所在地/愛知県岡崎市本宿町寺山1 ■山号/二村山(にそんざん)■ 宗派/浄土宗西山深草派 ■本尊/阿弥陀如来 ■創建/伝・大宝元年(701年)

(参拝日/平成24年11月18日)

寺伝によれば、法蔵寺は大宝元年(701年)僧行基によって開山され、寺号を法相宗出生寺(しゅっしょうじ)と称していましたが、元中2年(1385年)に浄土宗に改宗。松平親氏(松平氏初代)が深く帰依し、嘉慶元年(1387年)に堂宇を建立、寺号も法蔵寺と改め松平家代々の菩提寺としました。
家康公がまだ竹千代と名乗っていた幼い頃、手習いや漢籍を学びに通った寺ともいわれ、 桶狭間の戦い以後は手厚く保護され、家康公の父「松平広忠」の墓があります。

こちらは岡崎市の東、名鉄本宿駅を降りて国道1号を横断、しばらく南に歩くと旧東海道に突き当たります。
旧東海道を東に歩くこと約5分。橋を渡った右手の小高い山の麓に山門と伽藍が見えてきます。

橋
旧東海道の「法蔵寺橋」です。橋を渡ったすぐ右手が法蔵寺になります。橋の欄干には「はふざうじはし」となっていますね(^_^;)

法蔵寺001
旧東海道沿いに建つ案内板です。

遠景
赤い欄干の橋を渡ると山門です。

法蔵寺002
こちらが山門です。

法蔵寺004
山門をくぐり石段を登った先が鐘楼門です。古刹の雰囲気出てます(*^^*)

法蔵寺005
鐘楼門の先がいよいよ本堂です。

法蔵寺006
本堂前から登って来た道を振り返ります。高台なのでいい景色!

hozoji8.jpg
田舎によくあるパッとしない(あ、失礼!)本堂ですが、実は…

内陣
最初はこちらからお参りしていました…
なんか内陣が凄くない?

庫裏へ廻って御朱印をお願いすると、住職の奥様らしき方に「御朱印帳を書く間、どうぞ本堂へ上がってお参り下さい」と言っていただけました。
さっきから、本堂の中がメチャメチャ気になっていたので、お礼を言ってさっそく上がらせていただきました。
いやぁー!凄いぞ法蔵寺、ここは東照宮かよ?みたいな極彩色です。んんん…!
ハァー、溜め息しか出んな。

法蔵寺008
こちらが本堂の内陣です。どうですか、凄くないですか?

法蔵寺009
手前の天井板とのギャップがまた凄い(^_^;) 奥のソファーが…

法蔵寺010
いつ頃の彫刻、彩色なのか聞くの忘れちゃいました(T . T)

こちらの本堂は本当に見応えがありました。やっぱり侮れんぞ岡崎市!
境内には東照宮もあるとの事(やったぁ!)、御朱印をいただいた後で参拝することに…

六角堂
こちらは本堂と渡り廊下で続く六角堂です。

法蔵寺東照宮
本堂の裏手、石段を登った所に「東照宮」があります。
なんかミニュチアっぽいですが…

法蔵寺012
ほんとにミニュチアっぽいですね(*^_^*) でも不思議とこの場所にはしっくり来ます。
家に一個欲し〜い!(無礼者!頭が高いっ!)

東照宮額
「東照宮」の扁額です。千社札が一枚…(一人しか貼らなかったのか、剥がし忘れか?)

法蔵寺018
黒漆と赤漆の塗に鍍金の金具が映えます。

法蔵寺014
これで組物の彩色が残っていればパーフェクト!ん?奥の板戸に何か絵が…

法蔵寺東照宮10
もしかして軒の組物はもともと白木だったのかも?
こちらも奥の板戸に絵が…

hozoji15.jpg
こんな彩色彫刻の板戸でした。他の東照宮は「唐獅子」
「虎」などの男性的な画題が定番ですが、こちらは
「竹に鶴」、反対側は「松に鶴」の対になっています。

以前の記事で、現存する東照宮は全国に20余社と書きましたが、中にはお稲荷さんの祠のような小っさい社殿もある様です。それに比べたらこちらの東照宮、社殿は非常にコンパクトですが、彫刻の「鶴」もどこか女性的で、私的には準パーフェクト!

広忠墓
社殿をバックにした「松平広忠(家康公の父親)」のお墓。

しかし岡崎市、どこのお寺にも「松平一族」のお墓が多いです。「松平広忠」のお墓も「大樹寺」を始めとしていくつもあります。広忠は戦国武将としては悲運な人でしたが、立派な息子を持ったおかげで、あちこちのお寺にお墓を建てて貰えたのはある意味幸せな人だったのかも…
今もどこか分からない場所で、無縁仏になっている戦国武将はきっといっぱいいるでしょうね。

ところで、ここ法蔵寺にも長い間、無縁仏になっていたある有名な人物がいました!
(これでやっとタイトルに繋がったな…)

近藤勇銅像
それがこの人、この顔にピーンときたら◯◯◯
幕末の有名人です!

ジャジャーン!泣く子も黙る「新選組局長 近藤勇」です。

何故ここ岡崎に近藤さんのお墓があるのか?私は学生時代に「新選組」にハマっていて(今も好きですが)、以前から法蔵寺に近藤さんの「首塚(首を埋めた所)」があることは知っていましたが、訪れるのは今回が初めて。不思議と縁がなかったんですね。今回、岡崎市での御朱印集めの旅でここへもやっと訪れる機会ができました。

京都で「新選組局長」として活躍した近藤勇は、慶応4年4月25日(1868年) 東京板橋の刑場で賊軍として斬首、享年35歳でした。
首は京都三条大橋西に罪人として晒されましたが同士が3晩目に密かに持出し、当寺の本山である京都誓願寺に持ち込み、勇が生前敬慕していた弥空義天和尚に埋葬を託しましたが、和尚は当時ここ法蔵寺に転任していたため岡崎に運び、密かにこの場所に埋葬したといわれています。

当時は逆賊という事で無縁仏として分からないように埋葬していましたが、昭和33年、京都誓願寺で「近藤勇の首は岡崎法蔵寺にあり」という記録が見つかり、また他の文献とも照合した結果、この地を掘り返したところ台座や遺品などが出土したそうです。しかし遺骨は見つからなかったとか…(んん!あったけど発表しなかったとか?)
他にも京都に埋葬されているとの説もありますので、ここに必ず埋葬されているとは言えないようです。

「新選組」といえば、熱狂的なファンが多いもののアンチも多く、ただの人斬り集団とか、池田屋事件では「勤皇の志士」を多数殺害して明治維新を遅らせた元凶(近藤さんが斬首されたのも池田屋事件の恨み)とも言われますが、私論を言えば、「新選組=警察(トップは会津藩)」が「勤皇の志士と称するテロリスト集団」を取り締まっただけじゃないの?それのどこが悪いの?現代でも同じことしてるやん!警察がテロリストを取り締まらなくて誰がやるの?(もちろん異論はあるでしょうが私論なので(^_^;))

幕末の京都はとにかく物騒で、テロが横行し「天誅!」と称して連日の様に幕府の役人や商人が殺され、首が晒されるという最悪な状況。その京都へ臨時警察として幕府から「京都守護職」を無理やり押し付けられて赴任したのが「会津藩」です。テロリスト取締りの実行部隊=機動隊員が「新選組」という図式だと思いますが違うかなぁ?
特に会津藩のトップ「松平容保(まつだいらかたもり)」という殿様は勤皇家で、時の天皇「孝明帝」からの信頼も厚く、誠実さを愛されて「朕の傍から離れるでない」とまで言われた人でした。

そんな勤皇家の「会津藩」と「新選組」が何故「逆賊」に貶められたのか?
あ、またまた熱く語りそうなので止めます(^_^;)せっかく前半写真が多くて見やすかったのにね…

誠の旗
「誠」の旗が色褪せて侘しいですね…
こういう物は飾らない方がよくない?

首塚
下の四角な台座ごと埋められていたんですかね?
台座に見覚えのある名前が…

法蔵寺022
一番右に「土方歳三」の名前が!この首塚建立に関わってたのかな?

土方001
この人です。新選組、鬼の副長! 「土方歳三」
こちらは自作フィギュアです(^_^;)
「函館戦争」で雪原に立つ洋装の土方さんのイメージで作っています。

徳川幕府に殉じた近藤勇、もし本当にここに遺骨が眠っているなら、家康公のゆかりのお寺に葬って貰って幸せでしょうね…合掌。
以上「岡崎に眠る新選組局長 近藤勇」でした。

そうそう、御朱印の紹介を忘れるところでした!御朱印紹介の記事なのか、ただ熱く語っているだけなのか、フィギュアの紹介なのか、分からんようになってますm(_ _)m

法蔵寺G
住職の奥様に書いていただいた御朱印です。
右から、奉拝 日付 阿弥陀如来 法蔵寺です。
こちらは葵の御紋の御朱印はございません(*^_^*)

次回は、未定です。新年から墓だの、首塚だのは迷惑でしょうし(笑)

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滝山寺と源頼朝の関係は?

  • 2012/12/23(日) 21:22:18

滝山寺 (たきさんじ) ■所在地/愛知県岡崎市滝町山籠107 ■山号/吉祥陀羅尼山(きっしょうだらにさん) ■宗派/天台宗 ■本尊/薬師如来 ■創建/伝・天武天皇時代(673年〜686年) ■開基/伝・役小角(えんのおづぬ・えんのぎょうじゃ)

(参拝日/平成24年11月18日)

ここ滝山寺は、寺伝によると奈良時代、 天武天皇の命で役行者(えんのぎょうじゃ)が薬師如来像を祀る吉祥寺として創建したとされ、 保安年間(1120年〜1123年)天台宗の仏泉上人永救が再興したといわれます。
「役行者」として知られる役小角(えんのおづぬ)は奈良時代の伝説的な山岳修行者で、役行者草創の伝承をもつ寺院は日本各地にあり、その多くが山岳信仰、水源信仰に関わる山寺です。滝山寺もそうした山岳信仰の場であったと考えられています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142年〜1205年)が源頼朝の従兄弟であったため、鎌倉幕府の庇護を受け、寺に伝わる観音菩薩及び両脇侍像は、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)、寛伝が頼朝追善のため仏師運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)父子に作らせたものといい、様式的にも運慶一派の作と伝承されてきました。
南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け、また家康公も度々参拝し、同じ敷地内に東照宮を祀ることから徳川幕府の厚い庇護を受けています。

滝山025
「瀧山寺」「滝山東照宮」案内図です。

やっぱりここのお寺は凄いです。鎌倉幕府・足利幕府・江戸幕府、将軍のオールスター勢揃い(*^_^*)
特に「寛伝」という住職さんは「源頼朝」の母方の従兄弟というのにもびっくり!

最初の記事で「源頼朝」は愛知県出身と書いたと思いますが、頼朝は源義朝の三男として尾張の国熱田(現在の名古屋市熱田区)に生まれました。母親は熱田神宮の大宮司の娘です。
「寛伝」という住職さんも母方の従兄弟という関係から愛知県に住んでおり、ここ滝山寺の住職になったと考えられます(これは私の説)。あまり詳しいことは分からないそうです。

源頼朝
こちらが有名な京都の神護寺蔵の源頼朝像です。

私達の世代は歴史の授業でこの人物を「源頼朝」と習い、教科書にも「源頼朝像」として載っていました。ところがこの人、まったく違う人物らしいですね?
(ええーっ!そうなの…?そんな事いまさら言われても(>_<))ですが、今の教科書には「伝・源頼朝像」とちゃんと「伝」の字が付いているんだそうです。

じゃあこの人は誰?ですが、どうも足利尊氏の弟の「足利直義(あしかがただよし)」だと…。
その兄貴の「足利尊氏」の有名な肖像画、黒い馬に乗り大太刀を肩にかついだボサボサ頭で髭面の人、あれも足利尊氏じゃないんだとか…(あの人もうちらの教科書には、尊氏って載ってたんですけど!)やっぱり今の教科書には「伝・足利尊氏」になってるそうな(笑)
「武田信玄」って載ってた坊主頭で、もみあげと口髭が立派な太った人も違うんだって。こんなに後から違ってたぁ!というのがいっぱい出て来るんなら、最初から全部「伝○○」って付けときゃいいのにね…

話しをもどします。最初に書いたように、寛伝という住職さんが運慶に作らせた仏像が宝物殿で拝見出来ると知り、さっそく宝物殿へ伺いました。
運慶の作といえば、奈良東大寺南大門の金剛力士立像(国宝)が特に有名です。鎌倉時代最高の仏師と言われ、ダイナミックで力強くリアリズムな作風で「慶派」という新しい仏像彫刻の流れを作った人物です。
そんな運慶仏がここにあるんや…それも間近でみられるかも?楽しみぃ!

滝山0240
左が木造帝釈天立像、中が木造観音菩薩立像、右が木造梵天立像です。

重要文化財で撮影禁止なので、いずれの写真もパンフレットからお借りしました。

滝山0190
こちらが左の「木造帝釈天立像」

滝山021
こちらは右の「木造梵天立像」

滝山020
そして中央の「木造観音菩薩立像」

三尊とも間近で拝見出来ました。ガラスケースも何にもありません…(セキュリティ大丈夫?)
それにしてもこの三尊、いつまで拝見してても見飽きません。さすが運慶仏!

しかし、「木造観音菩薩立像」には、まだとんでもない秘密が隠されていました…

この三尊は頼朝の従兄弟の「寛伝」という住職さんが頼朝の三回忌に運慶に作らせたと書きましたが、完成時、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納めたという伝承もあったそうです。
じゃあ調べて見ようと、X線撮影をしたところ観音像の像内、口の辺りに人間の歯らしきものが固定されているのを発見!伝承は本当で、この三尊も運慶一派の作と改めて認められました。(愛知県の運慶仏はここだけ)

んんん…!お寺の伝承って馬鹿にできませんね〜頼朝の歯と、あごひげがここにあるなんて全然知らなかった。

滝山0220
この「木造観音菩薩立像」をX線撮影したんですね…
そうしたら…

滝山023
こんなんが写っちゃったと…ちょうど口の部分に本物の歯が納まっています。

いやぁー!滝山寺恐るべし!!宝物殿では実物が拝見できますので興味のある方はぜひお参りください。
ここで一つ疑問が湧きませんか?鎌倉時代の仏さんが何故こんなに綺麗な彩色が残っているのか?(秘仏でお厨子に入っているわけではありません)
どうも明治時代に塗り直されているようです。後彩色(あとさいしき)がなければたぶん国宝ですね。

あとこの宝物殿には、信長から家康公へ宛てた鯉を送って貰ったお礼状(有名な「天下布武」の印判入り)など、歴史マニアにはたまらないお宝がいっぱいです。
こちらも、二月の「鬼祭り」以外は参拝客も少なくお勧めの穴場です。

瀧山寺G
やっと御朱印の紹介です。こちらは宝物殿で書いていただきました。
右から、奉拝 日付 薬師如来 瀧山寺です。

またまた長文になってしまいましたm(_ _)m ←ほんとに懲りんやっちゃ!学習能力0!

今回は家康公の出番が少なかった…次回は、未定です。(考え中、たぶんまた岡崎市)

家康公の産土神でも東照宮じゃないの?

  • 2012/12/20(木) 21:35:58

六所神社(ろくしょじんじゃ) ■所在地/愛知県岡崎市明大寺町耳取44 ■主祭神/猿田彦命、塩土老翁命、事勝国勝長狭命 ■ 寛永13年(1636年)再建

(参拝日/平成24年10月8日)

社伝によると六所神社は37代斎明天皇(655年~661年)の勅願により、奥州塩竃六所大明神を勧請され、神領をご寄進のうえ創建されました。その後、50代桓武天皇(781年~806年)のとき「坂上田村麻呂」が東夷(えみし)征伐のためご下向の折に祈願、桓武天皇の勅許のうえ再建され「六所大明神」の勅額を下賜されたと伝えています。

時代は下がり、松平氏(徳川氏)発祥の地である松平郷(現 豊田市松平町付近)の六所神社(現 豊田市坂上町)より祭神の勧請を受けて再建。、家康公の産土神(うぶすながみ)として江戸幕府の厚い保護を受けてきました。

産土神(うぶすながみ)というのは、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指します。生まれる前から死んだ後までを守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられています。

現在の社殿は、寛永11年から13年(1634年~36年)にかけて三代将軍家光(またまた家光です)が「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」として本殿、幣殿、拝殿を連結し華麗な彩色を施した権現造の様式で造営したものです。
家光はここを、崇拝する家康公を守護した神社だから他の神社とは違うんだよ。という事で増改築したんですね。しかし家光さん、超絶の建築マニアですね〜(こりゃいくら金があっても足らんわい!)

ところで、この神社は名鉄名古屋本線・東岡崎駅の南南東約300mに鎮座しています。名鉄名古屋本線北の道路脇に「一の両部鳥居」が建っています。が、しかーしぃ…

六所010
道路から「一の両部鳥居」を見ています。右には「縣社 六所神社」の社号標。
ここからが参道で、当然この先がお社です。

六所013
近寄ると左には「徳川家康公産土神」の石柱が…
で、しばらく「一の両部鳥居」の奥を見ていると…

六所011
んんん???これって…

某TV番組のナレーション風に言うなら「まあ、何ということでしょう。参道を横切って電車が走っているではありませんか…」
この赤い電車は「名鉄電車」です。
うわぁ〜綺麗!赤い鳥居と赤い電車がベストマッチ!
あ、いやそいうことじゃなくて…

六所012
名鉄名古屋本線ですので複線です。踏切の向こうが
また松並木の参道になります。

またしても伊賀八幡宮の参道と同じく分断されています。それも線路で。大きい神社の参道は結構、一の鳥居から本殿まで距離もあるので道路で分断されている所がありますが、これって写真を見ても分かると思うんですが、鳥居から線路までは僅かな距離なんですよね。もう少し何とかならなかったんでしょうか?線路をずらすとか、鳥居をずらしていただくとかね…
鉄道ジオラマで、よくこういう風景がありますね、お宮の鳥居の脇を電車が走ってのどかだなぁ~みたいなのが。あれでも参道を横切ってるのなんかないから。ちゃんと鳥居の後ろじゃなく、前に線路を敷いてます。

神様のお通りになる道を、電車がひっきりなしに横切って、ガーガー走りまくるのはいかがなものか?と、それも名鉄本線だし…
当然、神社の方が古くからこの場所にいらっしゃるので、線路をずらすのが筋だとは思いますがね。
まあ今更言っても何ともならんわな…

六所008
気を取り直して松並木の参道を行きました。

六所001
階段を登ると「楼門」です。この写真では、なだらかに見えますがかなり
急な階段。またこちらは家康公の産土神であるとして格式も高く、5万石
以上の大名しかこの階段を登る事は出来なかったそうです。

六所002
階段の途中で「楼門」を煽って撮ろうとするて後ろにコケそうになります。
危ない、危ない!

六所003
「六所大明神」の扁額が掛かります。

六所004
かなり複雑な由緒があるのに、このあっさりした由緒書(笑)
私の書くだらだらブログの記事も見習わなきゃね。

六所007
ここにも葵の御紋の「神馬」が。うううーん!

六所005
こちらが「拝殿」です。当然、重要文化財。うううーん!

六所015
拝殿の唐破風をのぞきました。やっぱりというか、うう…(止めときます)

六所014
いいですね!こういう彫刻大好きです。

六所016
「拝殿」と繋がる「本殿」の屋根、この破風が凄い!凄い!拝殿と違いすぎるーぅ!

六所017
まさに江戸初期の極彩建築の極致という感じです。本殿の内部はどうなってるんやろ?
やっぱりこの神社も、うううーん!

これだけの造形美、しかも東照宮様式の「権現造」+家康公の産土神なのに東照宮になってないのは何故なんでしょうか?家康公もお祀りすればよかったのに不思議です…

六所神社G
最後にこちらが宮司の奥様にいただいた御朱印です。女性の手らしく優しい墨書きです。
右から、奉拝 六所神社 日付です。

次は名古屋市の名古屋東照宮をご紹介します。

徳川家のパワースポット?

  • 2012/12/19(水) 13:40:51

伊賀八幡宮 (いがはちまんぐう) ■所在地/愛知県岡崎市伊賀町東郷中86 ■御祭神/応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現(徳川家康公) ■創建/文明2年(1470年)

(参拝日/平成24年10月8日)

伊賀八幡宮は、松平四代親忠(ちかただ)が松平家の子孫繁栄の守護神、氏神として家運長久、子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀から三州額田郡井田村(現在の岡崎市)へ社を移したのが始まりといわれています。
その後、松平家代々の祈願所となり、家康公も慶長16年(1611年)に社殿を造営。寛永13年(1636年)に 三代将軍の家光が社殿の増改築を命じ、祖父である東照大権現(とうしょうだいごんげん)家康公をあわせて祀りました。
このため伊賀八幡宮は将軍自らを祀る東照宮のひとつともなっています。

現在の社殿は空襲も免がれ家光が造営した当時のまま残っており、本殿、拝殿、透塀、随身門、神橋、鳥居など多くの建物が国の重要文化財に指定されています。(戦前は国宝指定)

家康公の伊賀八幡宮への尊敬の念はきわめて厚く、出陣の際にはここで戦勝祈願することが慣わしでした。「関ヶ原の戦い」や「大阪の陣」のときには神殿が鳴動し、鳥居が移動するなど不思議なことが起こったといわれています。まさに徳川家のパワースポット?←なんか無理やりこじつけたな(笑)

伊賀005
こちらが一の鳥居です。その奥が二の鳥居、奥に見える森がお社ですが
参道がブツ切れになっています。

開発が進んで鳥居の下が駐車場になっているわ、車道が横切っているわで寸断状態です。民家やマンション、商店のあるこの参道の辺りも本来は森で、全域が神域だったんでしょうね…
こういう風景は市街地にある神社でよく見かけますが、何か物悲しい感じがするのは私だけでしょうか?

伊賀010
こちらが二の鳥居、「徳川氏累代祈願所」の石柱があります。

こちらも周りのゴチャゴチャ感が何か悲しいですね。民家と駐車場に挟まれて鳥居だけがポツンと取り残されているようで、侘しささえ漂っています。一応参道だけは空けてあるのが救いです。

image.jpg
こちらが現在の御神域の案内板です。案内図の左下「石鳥居」は一の鳥居、
二の鳥居から200m程です。

伊賀011
伊賀川に掛かる「神橋」です。やっと神社らしくなってきました。

伊賀012
重要文化財の「石鳥居」です。蓮池に架かる石造りの太鼓橋が「神橋」。
こちらも重要文化財に指定されているためか、柵がしてあり一般の参拝客は渡れません。

伊賀013
重要文化財の「神橋」です。優雅なアーチ橋ですね。「神橋」は本来は
天皇の勅使、将軍しか渡ることができないそうです。

伊賀002
蓮池から見る「随神門」。こちらの蓮池は岡崎市の
ハスの花の名所にもなっています。
この季節は残念ながらもうダメですね(><)花が咲いて
いればいい写真になったのに…

伊賀009
「随神門」やはり重要文化財。優雅です…

伊賀014
うううーん!素晴らしい…

伊賀015
江戸初期の建築に欠かせないのが虎、龍、唐獅子などの彫刻ですね。
特に家康公は寅年の生まれですので、虎の彫刻は定番です。

伊賀016
伊賀017
随神門にお祀りしてある神域を守る老若二体の「随神様」です。
さすが!葵の御紋入の装束ですね。

日光東照宮の「随神様」は有名ですが、愛知県の神社でお祀りしているのは、ここ伊賀八幡宮だけだそうです。

伊賀018
境内です。手前が遥拝所で奥に見えるのが拝殿。
柵がしてありご祈祷の方以外は中へは入れません。

伊賀019
境内の「神馬」。こちらも葵の御紋入り!もう至れり尽せり状態(笑)

伊賀020
やはり重要文化財の「拝殿」、右奥が「本殿」です。

伊賀021
「拝殿」にももちろん素晴らしい彫刻が…うううーん!

伊賀八幡G
こちらが戴いた御朱印です。うううーん!(こればっかり^^;)
右から、三河国 岡崎市 東照大権現 伊賀八幡宮 日付です。

以上、一の鳥居、二の鳥居以外は「うううーん!」連発の素晴らしい神社でした。
どこが徳川家のパワースポット?と疑問に思われたでしょうが「神殿が鳴動し、鳥居が移動した…」以外にも、家康公の父、松平広忠の時代にも不思議なことがあったようですが、また長文になるので今回は止めときます(笑)

次回は、愛知県名古屋市の「名古屋東照宮」のご紹介です。

厭離穢土 欣求浄土

  • 2012/12/12(水) 14:01:17

大樹寺(だいじゅじ・だいじゅうじ) ■所在地/愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 ■宗派/浄土宗西山(せいざん)派 ■本尊/一光千体阿弥陀如来、如意輪観世音菩薩 ■創建年/天文4年(1535年) ■開基/松平親忠 ■正式名/成道山 松安院 大樹寺

(参拝日/平成24年10月8日)

時代劇(最近少ない!)などで戦国武将の旗印を見た事があると思います。例えば真田幸村だと有名な「六連銭(六文銭)」、これは三途の川の渡し銭が六文との由来から、いつでも死地に赴く覚悟から真田家の旗印にしたといわれています。武田信玄といえば「風林火山」。上杉謙信の「毘」の旗は、謙信が戦の神である毘沙門天の生まれ変わりだと信じていたため、毘沙門天の「毘」の一字を取って旗印にしたものです。
織田信長の旗印は「永楽銭」、楽市楽座で経済を活性化させようとした信長らしい奇抜な旗です。信長は刀の鍔にも永楽通宝の図柄を彫らせています。銭の図柄の旗印などはあまり例がなく、まるで商人のようだと陰口をいう者もあったそうです。

家康公は、「三つ葵」の旗印と「五」の旗(これは使番の旗)、それと「金扇」の馬印ですが、これはかなり大きくてこの馬印が戦場に上がると何処にいてもかなり目立ったそうです。(敵に狙われやすい)
これらの旗印より大事にされていた旗が「厭離穢土 欣求浄土」です。
何て読むの?どう言う意味?ですが、「おんり(えんり)えど ごんぐじょうど」と読みます。
意味は、苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こ)い願う。と言う意味で、平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」の中の言葉です。

ここ大樹寺は、家康公が何故この言葉を一生の座右の銘にし、自分の旗印にまでして戦国乱世を戦ったのかが良く分かるお寺です。家康公の出発点にもなった重要な場所でもあるんですね。

画像 108
本堂の中には「厭離穢土 欣求浄土」が掲げてあります。浄土宗の
お寺には多いです。

松平元康(後の家康公)は、桶狭間の戦いの時、当時は今川家の人質であり、今川軍の先陣として大高城(合戦の最前線)にいました。今川義元討死の後、織田信長軍の中に取り残された家康公は先祖の菩提寺であるこの寺へと逃げ隠れました。
家康公は前途を悲観し松平家先祖八代の墓前で自害をしようとしたところ、当時の13代住職の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、次のように言って切腹を思いとどまらせたといわれます。

「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す事ができる。それがあなたの役目だ。」

上人は、「ここで命は粗末にしてはいけない。」と諭され、この言葉を白い布に大書され旗を作られて、こう問われたそうです。「あなたは、若いころから戦場に向かっているが、その心はただ敵を殺すことにあるのか?」と…
そこから幾つかの問答を経て、上人は「万民のために天下の父母となって、万民の苦しみを無くすことをしていかなければならない。」と説かれたそうです。
家康公はこの言葉に深く感動され、以来「厭離穢土 欣求浄土」を旗印として掲げ続けられたとの事です。
後に天下を統一し、以来260年平和が続くことになる江戸幕府を開くきっかけを作った大事な場所が、ここ大樹寺なんですね。そう考えるとここは凄いお寺です!

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山門ですがかなり大きくて立派です。岡崎市有数の古刹。

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境内から山門を通して総門を見る。ここに秘密が…

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山門外から総門を見ると…門の中の彼方に何かが、分かりますか?

岡崎城 が見えるんです!門を通して小さくですが(笑)。現在は、山門と総門の間は道路を挟んで大樹寺小学校があります。
岡崎城は家康公が生まれたお城です。大樹寺は、本堂・山門・総門から岡崎城が眺望出来る様に建てられており、ビスタラインと呼ばれ、今でもこの直線状にマンション等の高層建築物を建てることができない条例があるそうです。
岡崎の人たちは今でも家康公を尊敬し、愛しているんですね。
写真では分かりにくいですが、晴れた日にはクッキリ!岡崎城が眺望できますよ。

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多宝塔 天文4年(1535年)建立の重要文化財です。

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本堂です。本堂へ上がると大樹寺と家康公の由来をテープで聞かせて
いただけます。

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松平八代墓の案内板です。

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一番左が家康公のお墓(松平八代には含まれない)、以下、広忠・清康…初代親氏

ここにも家康公のお墓が…???遺言では「位牌は三河の大樹寺へ」位牌だけじゃないの?で、謎は深まるばかり(笑)

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謎の家康公のお墓です。立派なお墓!

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松平広忠(家康公の父)のお墓です。

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松平清康(家康公の祖父)のお墓です。

家康公の祖父、松平清康は三河松平氏の第7代当主で大変傑出した人物だったそうです。彼の代で三河をほぼ統一、尾張の織田領まで攻め込んだ矢先に25歳の若さで家臣に斬られ(原因不明)、不慮の死を遂げてしまいます。
清康が長生きしていれば戦国史は多分変っていたかもしれませんね。
家康公の父、松平広忠も悲運な武将で、父清康が殺害された時はわずか10歳でしたが大叔父に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。のち今川義元の後援を受け、ようやく岡崎に帰れましたが、父の頃の勢いは既になく織田、今川にはさまれた弱小大名となってしまいました。
織田方に取られた領地を取り戻すためには今川の力を借りる他になく、幼い家康公を人質に出し(途中で織田方に取られてしまう)悪戦苦闘中に広忠も家臣に刺殺されて(こちらも原因不明)しまいます。広忠も25歳の若さだったといわれています。何か呪われているような家系ですね…

祖父、父ともに家臣に殺され、その際に使われた刀が「名刀村正」だったそうで、以後、村正の刀は徳川家に災いをもたらした不吉な刀「妖刀村正」と呼ばれ、徳川家は村正を忌避するようになった…
これは歴史好きな人なら有名なお話のようですが、実は家康公は村正の刀が好きで何振か愛蔵していたらしいですよ(笑)んんん…本当かな?

このお寺は、松平氏、徳川氏の菩提寺で特に将軍家の崇拝も厚かったため、江戸幕府歴代将軍の位牌が安置されています(位牌は三河の大樹寺に…ですから)。
位牌堂で拝観料を払えば拝見させていただけますが、ある謎が…??
とにかく大きい位牌で、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じ等身大という説があるんですが、歴代将軍の位牌の中で特に小さな位牌が二つ、五代綱吉125cmと七代家継135cm。家継は7歳で亡くなっているので小さいのは納得。ただ7歳で135cmは大き過ぎますが、綱吉の125cmはどうして??当時の日本人の平均身長は150〜160cm前後にしても綱吉の位牌の小ささは…
因みに家康公の位牌の高さは156cm、東京の将軍家菩提寺 芝増上寺の墓地改葬で6人の将軍の遺骨から割り出した推定身長と位牌との誤差は2cm前後だったとの事です。この事から五代将軍綱吉は低身長症だったのでは…の説を発表している方もいます。もちろん俗説に過ぎないとの説もありますが…
俗説にしても綱吉の位牌の小ささをどう説明したらいいのか?何故小さく作る必要があるのか?ただの嫌がらせなのか?こちらの謎も深まるばかり…

興味のある方はぜひ大樹寺を参拝して位牌堂でご覧ください。
あ、位牌の写真はありません(><)撮影禁止のうえに監視カメラが至る所に…

最後に大樹寺で戴いた御朱印です。
大樹寺G
右から、奉拝・日付 厭離穢土 欣求浄土 三河・大樹寺です。

中央上に「葵の御紋」 これ、これ、これですよ!!久能山で購入した御朱印帳にはじめての葵の御紋。

次回は、愛知県の鳳来寺東照宮をご紹介したいと思います。
 


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