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入山料1000倍で見る「天下布武」②

  • 2013/01/19(土) 23:07:51

安土城址(あづちじょうあと) ■所在地/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 ■城郭構造/山城 ■天守構造/望楼型地上6階地下1階(天守現存せず)■築城主/織田信長 ■築城年/天正4年(1576年)

(訪問日/平成25年1月11日)

安土城34
安土城天主6階 原寸復元(信長の館)
信長の伝記『信長公記』に書かれた安土城の項「上七重め 三間四方 御座敷の内 皆金なり…」を復元しています。

安土城37
安土城天主5階 原寸復元(信長の館)
同じく「六重め 八角四間あり 外柱は朱なり 内柱は皆金なり…」の復元です。

前回の続きです。

安土城01
滋賀院門跡でも紹介した「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)」の石垣を見ながら登って行きます。

まだまだ石段が続きますが、カット!(面白くない写真なので)

安土城18
途中にある信長の小姓として有名な「伝・森蘭丸邸」跡ですが、こちらは山麓の秀吉邸跡と違って荒れ放題で手付かずです。蘭丸、可哀想過ぎ!
信長と一緒に死んでるのに秀吉邸との扱いの違いは何だ( ̄Д ̄)ノ

安土城12
城の主郭部へ通じる「黒金門(くろがねもん)」跡が見えてきます。

安土城19
黒金門を過ぎると「信長廟」がある二ノ丸と本丸、天主です。

まずは信長のお墓参り、二ノ丸の「信長廟」へ。こちらは信長の一周忌に秀吉が建てた墓ですが、本能寺からは信長の遺骨が見つからなかったため、太刀その他の遺品を埋葬したそうです。

安土城古写真03
おッと!いきなりまた古い写真、「信長廟」の古写真です。次の今の写真をと比べて見てください(^_^;)

安土城47
こちらが現在の「信長廟」、今は立ち入り禁止になっていますが昔は自由に参拝出来た様ですね。門の屋根も杮葺きから瓦葺きに変わっています。

安土城17
天主台から見た「信長廟」何か不思議なお墓です…

ただ台の上に石が乗っているだけですが、この石こそ信長が自分のご神体として、誕生日には礼拝するようにと家臣や領民に強要した「盆山(ボンサン)」ではないかといわれています。
信長は賽銭まで取ってこの石を拝ませていたらしいので、今の摠見寺がやっている事もあながち責められんか…
ガメつさは信長譲り!とでも思っていらっしゃるかも(*^_^*)

安土城14
などとブツクサ言っていると本丸跡に出ますが、当然何も無く御殿の礎石があるだけです。

ところが礎石の配置などから次の写真の様な建物だった事が判明しました。

安土城本丸御殿02
本丸表御殿・天主復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 

京都御所の「清涼殿(せいりょうでん)」と同じ間取りだった事が分かりました。
これにより本丸表御殿は、天皇を迎えるために建てられた行幸御殿だったと推定されています。

安土城復元01
本丸鳥瞰復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 

左から「本丸御殿」「天主」、右が現在信長廟のある二ノ丸の「江雲寺御殿」です。
山上の狭い場所にビッシリ、こんなに隙間なく建て込んでいて大丈夫か?と思いますが、焼け落ちたのは天主と本丸だけだったそうです。しかし、そうなると火元がどこか?安土城炎上は、ますます謎になってくるなぁ…
「江雲寺御殿」は、信長や家族が住んでいた常の御殿であったため、秀吉は安土廃城後に二ノ丸を選んでここに信長の墓を建てています。

安土城15
ここからが「天主」へ続く石段です。

安土城20
やっと頂上の「天主台」です。「石くら」と呼ばれる地下1階部分になります。
ここに6階建ての豪華な天主が建っていたんですね…

地下1階にしては石垣の高さが低いですが、築城当時は今の倍以上の高さでした。綺麗に礎石が並んでいますが、これは昭和3年(1928年)の発掘調査で掘り出されたものでそれ以前は土に埋れていました。今の石垣もその時に積み直されたものです。
ところで、先ほどから「天主」 と言っていますが、お城の象徴的な建物、一番高い建物を普通は「天守」「天守閣」と呼んでいます。「天主」は信長が建てた「岐阜城」の麓にあった四階建ての御殿に命名したのが最初といわれており、この安土城も「天主」と呼んでいました。

安土城24
「天主台」跡の案内板、平面が不等辺六角形だった事が分かります。

安土城21
発掘調査の結果、中央にだけ礎石がなかった事も判明しました。

高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴ですが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けていました。(他の礎石は全て現存しています)
この事から、天主には3階まで階層を貫く吹き抜けがあったという有名な説の証拠ではないか?と言われていますが、中央には何もなかった訳ではなく、柱穴は残っていたそうです。(ここに心柱が建っていた可能性もあります)
3階までの吹き抜けでは、構造的には問題があり過ぎ6階建ての建物を支えきれないなど、諸説入り乱れて今も天主の復元に関しては結論は出ていない様です。まさに安土城は「幻の城」です。
先年公開された安土城築城に関わる映画「火天の城」では、吹き抜けがあったのか?なかったのか?を興味深く描いています。

安土城22
天主台にある石垣です。天主炎上の際の火勢で赤く焼けただれています(T_T;)

自分的にはですが、いつもこの天主跡に来ると石垣に座りボーッと小一時間は過ごせてしまいます。ここは一番好きな場所ですね(^-^; 想像が膨らみませんか?ここに一体どんな天主が建っていたんだろう?信長はここから何を眺めていたのか…とか。

安土城48
同じ景色(当時は周りは湖ですが)を信長も眺めたんでしょうね(実際はもっと高い天主の上から)

たまには石垣の周りをゴソゴソ、金箔瓦まだ埋まってへんやろか…?とか(^O^)
この前ある方のブログを覗いていたら、多分滋賀県の方だと思いますが、自分の父親が子供の頃ここへよく遊びに来て、この辺を掘ると金箔瓦の破片がゴロゴロ出てきたとか…(うわぁ!凄いーっ!羨ましい〜)

金箔瓦
安土考古博物館に展示の搦手口(からめてぐち)から出土のほぼ完全な金箔瓦です。

こんなんの破片でも見つけたらお宝!お宝!くっくっ( ´艸`)
もう出てこないよなぁ?一時間近く探したけど(オイオイ!信長に思いを馳せてたんじゃないのかよ!まったくヽ(`Д´)ノ)
でも摠見寺も金箔瓦を持ってるらしいよ(いいの!自分の持山だから)
えーっ!そう?でも入山料と別に拝観料取って見せてるって(そうなの?いくら?)
なんでもお抹茶付きで500円だとか?(うーん(ーー;)トータルで1500円かぁ?坊主○…)もう止めときますが(。-_-。)ナンマンダブ…

安土城総見寺道
天主跡で信長に思いを馳せたあと(ホントかよ?)別ルートで旧摠見寺へ向かいます。それにしてもまた石段が…

旧摠見寺は、安土城築城に伴い信長によって城郭内に建立されました。本丸、天主の炎上の際にも類焼を免がれ、重要文化財に指定されている二王門と三重塔が創建当時のまま残っています。
つまり、この安土山の中で唯一、信長の時代を偲ぶことができる数少ない貴重な遺構です。

安土城古写真04
またまた古い写真を出しましたが、「三重塔」と「二王門」の古写真です。
この二枚の景色は現在とほとんど変っていません。

今回は何枚か古い写真を紹介していますが、なかなか見ることが出来ない物ですので、現在の景色と比べるのも面白いかな?とアップしてみました。(多分大正か昭和初期頃ではないかと思います)

安土城46
現在の旧摠見寺「三重塔」。まあ、塔なんで
変わろうにも変わり様もないですが…

安土城26
別アングルから見ました。

安土城28
旧摠見寺「本堂」跡です。

18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物がありましたが、安政元年(1854年)本堂など主要な建物のほとんどを焼失し、徳川家康邸跡と伝えられる現在の場所に仮本堂を建てています。

安土城33
「本堂」跡から琵琶湖を望みます。こちら側はまだ湖が残っています。

安土城31
こちらも創建当時のままの「二王門」です。

安土城32
古写真と同じアングルですが、こちらも変わり様がないか?さっきの忘れちゃったらまた戻って見てね(^-^;

仁王門から石段を降りると「百々橋口(どどばしぐち)」と言われる安土城への別の登城ルートがあります。つまり私が降りてきた道ですが、このルートが信長の家臣の登城道だったと推定されています。

安土城40
こちらが仁王門から降りてきた「百々橋口(どどばしぐち)」です。

以前はこちらからも安土山に登れましたが、現在は通行止めにしてあります。
仁王門から降りてきてもここには出て来れない訳ですね。山裾をぐるっと回って大手道の前に出てくる様にルートが変更してあります。関所を一つにして入山料を徴収する仕組みにしちゃったと(>_<)
うううーん!まるでどこかの観光寺院のようだな…

安土城41
「百々橋(どどばし)」です。昔はこの橋を渡って登ったこともあったな…

この日は、めいっぱい見てやろうと、ルート通り山裾を回って大手道の前に出て、もう一度石段を登っていると「こんにちは!入山料払いましたか?」と後ろから声が。
石段を駆け上がって来た(ものすごいスピード)のは関所にいた摠見寺のお坊さん。えっ?もう一回見てるんですけど何か?「へぇー?もう一回ね…」(ん?二回見たらいかんのかい!)
たった1時間前に入山料払って、貴方に御朱印をいただいたのに、私の事もう忘れちゃったの?(それにこの日は私以外に3人しかいなかった…)

安土総見寺御朱印
そんなこんなで、関所のお坊さんにいただいた、ありがたーい
摠見寺の御朱印です。
右から、奉拝 日付 大悲殿 安土城主織田信長公
菩提所 摠見寺 です。

書置きで、それも「印刷」でした。
そりゃあ、自分で墨書きもしてないから私の事なんか記憶に残らんわな?それともよっぽど私の髪、いや影が薄いのか?(髪が薄いのは帽子被ってて分からんはずだし…)
どっちにしてもナンマンダブ、ナンマンダブ…tiーnn!(>人<)

次回はどこにしよう?

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入山料1000倍で見る「天下布武」①

  • 2013/01/19(土) 12:27:50

安土城址(あづちじょうあと) ■所在地/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 ■城郭構造/山城 ■天守構造/望楼型地上6階地下1階(天守現存せず)■築城主/織田信長 ■築城年/天正4年(1576年)

(訪問日/平成25年1月11日)

安土城35
スペイン・セビリア万国博覧会に出展された「信長の館」に展示の
安土城天主5階・6階 原寸復元です。

久しぶりに安土城址を訪ねてみました。安土山にある、信長建立の「摠見寺(そうけんじ)」さんで御朱印がいただけるとの情報でさっそく出発。名神高速道路の八日市インターを降り、近江八幡を目指します。
安土城址のある安土町は、以前は滋賀県蒲生郡(がもうぐん)安土町でしたが、2010年に市町村合併で現在は近江八幡市になっています。

インターから約10km、安土町に入って先ずは安土山登山に備え腹ごしらえと、以前に一度お邪魔したことのある「とんかつ亭 伊呂波」さんへと直行!こちらのお店、ネット検索で見つけたんですが超お勧めですよ(^_^)v
JRの安土駅からも近く、とにかく地元のお客さんでお昼は常に満席状態です。駐車場も滋賀ナンバーの車ばかりでした。(観光客は割と知らない様ですね(^_^;))

伊呂波01
今回は開店してすぐにお邪魔したので空いていてラッキーでしたが、
帰りには駐車場が満杯でした。

伊呂波02
今回注文した「Aランチ」1160円です。お皿がお盆からはみ出してる!

メインの「近江牛のハンバーグ・魚フライ・海老フライ」に、小鉢が2品「手作りおから・冷や奴」、ご飯が大盛りと味噌汁に御漬物です。特に名古屋人には「海老フライ」はたまりませんね(^_^;)
衣もサクサクで、ハンバーグも美味い!ボリュームいっぱいで、お腹もいっぱい!これで安土山登山も大丈夫だなp(^_^)q
今度来た時は絶対「とんかつ定食」頼まなきゃ!お店が「とんかつ亭」ですから…

今回はじめて旅先での料理の紹介をしましたが、これには訳があります。(えっ?どんな?)
これから紹介する写真は、はっきり言ってつまんないです(´-ω-`)
華やかな建物が出てくる訳ではないし、きれいな景色もありません。いくら織田信長が築いた天下の名城「安土城」といえども、今は石垣ばかりです。
興味のない方には全く面白くない写真の連続ですので予めご了承下さい。
そんな方には料理の写真だけでも見ていただこうと、アップさせていただきましたm(_ _)m(あ、また綾鷹ですね?)

それでは、面白くない写真をどうぞ(*^_^*)

安土城古写真06
いきなり暗〜い写真からですが、上は安土山の古写真。下はほぼ同アングルの現在の安土山の遠望です。
今も民家が同じ場所にあるのがよく分かります。(古写真の民家は茅葺きです…)山上には摠見寺の三重塔も見えています。

安土山01
現在の安土山の空撮ですが、信長の時代には周りを琵琶湖に囲まれていました。

次に紹介する写真を見ていただくと、信長も見たであろう当時の景色が非常によく分かります。

安土城古写真07
上が西国三十三観音霊場の観音正寺から安土山を撮影した古写真ですが、湖(白く写っている所)に囲まれています。まるで琵琶湖に突き出した半島の様です。下は同じアングルから撮った現在の安土山。昭和になって干拓のため周りの湖が埋め立てられてしまいました。

この山裾から山上にかけて壮大な総石垣造りの城、「安土城」を築いたのが織田信長です。信長は居城としていた岐阜城から京都に近く、琵琶湖の水運も利用できるここ安土山に天正4年(1576年)1月より築城を開始、天正7年(1579年)5月には完成した天主に移り住んだと言われています。
天主の高さは約32メートル、地下1階地上6階建ての高層建築で、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城でしたが、天正10年(1582年)、明智光秀による信長への謀反「本能寺の変」後、まもなくして原因不明の失火によって焼失。完成後わずか3年でこの世から消えてしまいました。築城当時の姿を伝える絵図も現在残っておらずまさに「幻の城」です。

安土城復元02
安土山鳥瞰復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 
右上が天主。左の山上に摠見寺が見えますが、旧摠見寺の三重塔は今も同じ場所に建っています。

突然、現代へ(*^^*)

安土城30
「安土城址」の石碑、奥が駐車場です。

安土城44
「大手門」の石塁の一部です。

安土城の南口は石塁(いしるい)と呼ばれる石垣を用いた防塁で囲っています。この石塁が設けられた部分は発掘調査の結果、東西が約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられていたことが分かりました。
通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が一箇所だけです。信長は安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ3門にし、西枡形虎口(ますがたこぐち)以外の3門を行幸などの公式の場に使用する門にしたのではないかと考えられています。

安土城45
大手門跡を過ぎるといきなり関所の様な柵が…

実は、安土山に登るのには入山料が要ります。ここは1989年〜2009年まで、滋賀県による「調査整備20年計画」が行われており、これからご紹介する「大手道」など、発掘調査で見つかった施設の復元状況を見る事が出来るのですが、以前は入山も無料で誰でも登れるハイキングコースの様になっていました。
私が初めてこちらを訪れたのは学生時代でしたが、もちろん現在の様に整備はされておらず登山道も狭く、クネクネした石段を汗をかきながら登った記憶があります。古城の雰囲気もバツグンで、その後何度も訪れた大好きな場所でした。が…
県による整備計画が終わる頃、2006年の9月から、いきなり山内にある摠見寺さんが入山料を徴収し始めました。
最近の戦国ブームの影響、新しく発見され大々的に報道された「復元された大手道」を見たい、という歴史マニアの欲求につけ込んだ様な入山料の徴収には正直疑問を感じます。

現在の安土山の所有者は摠見寺さんで、長年この山を管理してきた苦労は分かりますが(と言っても以前は荒れ放題…)整備計画が終わり、登山者が増えるのを見込んでの有料化はどんなもんでしょうか?
それも、ここは国の史跡で、整備をした滋賀県が料金を徴収するならまだ納得ですが、一寺院である摠見寺さんがなぜ入山料として徴収するのか?(摠見寺さん、何割か県にバックしてるの?)「人のふんどしで相撲を取る」のは私の心が狭いのか、なんか納得出来ないですね( ̄Д ̄)ノ

タイトルの、入山料1000倍で見る「天下布武」のとおり、現在は入山料が500円、駐車場で500円の計1000円を摠見寺さんに徴収されます。以前は入山料だけで駐車場は確か無料だった様な…
ただの石垣だけの城跡を見るのに1000円も取られるのは、日本中探してもここだけでしょうね(^_^;) 私はここが好きなのでこれからも来るとは思いますが、せいぜい駐車場料金込みで500円が妥当でしょう(ー ー;)
しかし、まさに「坊主◯儲け」とはこの事やな(^人^)ナンマンダブ…

安土城古写真05
無料だった頃の「大手道」クネクネした道幅3mの石段でした。右端に「大手門趾」の石柱がありますが、発掘前はここに大手門があったと考えられていました。(実際は前の写真のようにかなり手前)

安土城02
石段の下から道幅6m、両側に側溝を持つ直線で180mに及ぶ「大手道」と言われる山上に続く登城道が発掘されました。この180mが一番疲れます!歩幅が合わなくてメチャメチャ歩きにくい(T . T)

元々、城郭というのは防御の観点からこのような直線的で長い道は造らないのが鉄則で、その点からも安土城は特異な城であったと言われています。(天皇を迎える行幸道との説もあり)
側溝に架かる石橋の左側に「伝・羽柴秀吉邸」、向かいが「伝・前田利家邸」とされている、家臣の屋敷跡があります。以前はその先に摠見寺(ここから呼捨て(^_^;))の石垣があり、道は左に折れ曲がっていました。
大手道の復元の際に、摠見寺の石垣は取り払われて現在の姿になっています。入山料を徴収し始めたのはこの時の恨みか?

安土城03
「伝・羽柴秀吉邸」跡の石垣です。

安土城04
発掘の結果、礎石などからこの様な建物であったと推定されています。

安土城05
羽柴秀吉邸の復元模型です。(安土考古博物館)

安土城08
「伝・徳川家康邸」跡に建つ摠見寺の仮本堂です。かなり寺域を減らされたのかも?
一応、家康公つながりが出来ました(*^_^*)

安土城10
石段に転用されている「石仏」。

この他にも石段にはいくつもの「石仏」が転用されており、信長は神仏を恐れなかった証拠であるとも言われていますが、秀吉の造った城にも同じ様な例があり、ひどい物に至っては古墳の石棺を転用している物もあるそうです。
この当時は使える石は何でも使え、みたいな感じで信長だけが特異とは言えない様です。

安土城11
これも石垣に転用されていた「仏足石(ぶっそくせき)」お釈迦様の足跡ですが、これはさすがにやり過ぎでしょー、信長さん。

安土城09
真っ直ぐな大手道はここから左に折れ曲がります。下に見えるのが摠見寺の仮本堂ですがやっぱり窮屈な感じが…かなり恨みは深いか?

ここから、二ノ丸、本丸、天主へと続きますが次回へ。

フィクサーは108歳…ん?

  • 2013/01/13(日) 09:21:59

滋賀院門跡(しがいんもんぜき)■所在地/滋賀県大津市坂本4-6-1 ■宗派 /天台宗 ■寺格/延暦寺本坊(総里坊)■本尊/薬師如来 ■創建年/元和元年(1615年)■開基/天海(慈眼大師)

(参拝日/平成25年1月12日)

前回、次回も京都の寺社巡りと書きましたが、今年はじめての御朱印巡りで滋賀県を訪ねましたので先にご紹介します。
滋賀院門跡のある滋賀県大津市坂本は、比叡山延暦寺の里坊として栄えた町です。「里坊(さとぼう)」というのは、延暦寺の僧が晩年に移り住んだ隠居所です。ここ滋賀院門跡は、「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)の石垣と白壁をめぐらした堂々とした構えで他の里坊を圧倒しています。

滋賀院門跡04
こちらが「穴太衆積み」の石垣です。絶妙なバランスが美しいです…

坂本の街では、あちこちで風情のある美しい石垣を見ることができます。これは、かつて坂本の穴太(あのう)村に住んでいた石工集団が手掛けた独特の石組み工法で、なかでも滋賀院門跡の石垣が最も優れているといわれています。
穴太衆積みは、野面積み(のづらづみ)とも呼ばれ自然石を巧みに組み合わせ、いっさいの加工を施さず小石を隙間に詰め込んで完成させていくもので、高度な技術が必要とされました。
歴史は古く、8世紀に比叡山の堂塔の石組みを手掛けたのを皮切りに、要望があれば集団で各地へ遠征。全国の城の石垣を造りました。現在残っている全国の城の約8割は穴太衆が手掛けたものと言われ、滋賀県では織田信長が築いた「安土城」の石垣が有名です。

滋賀院門跡03
お城の様な立派な構えです。

滋賀院門跡01
こちらは普段閉じられている「勅使門・御成門」

「滋賀院門跡」の「門跡」というのは、代々皇族が住職を務められているお寺で、京都では大原の「三千院」、東山の「青蓮院(しょうれんいん)」などが有名です。こちらの白壁に「五本線」が入っているのが分かると思いますが、これは「門跡寺院」としての最高の格式を表しているのだそうです。京都御所の壁にも同じく五本線が入っています。
 
何故、今回こちらのお寺を参拝したかといいますと、実はこの方が関係しているからなんです。

天海坐像
ドーン!「天海大僧正(てんかいだいそうじょう)
慈眼大師(じげんだいし)です。 (木造天海僧正坐像 川越喜多院蔵)

滋賀院門跡は、比叡山延暦寺・南光坊の住持でもあった天海僧正が、後陽成天皇から京都の白河にあった法勝寺(ほっしょうじ)を下賜されてこの地に建立したお寺です。

「おくさまは18歳」(懐かしい〜♪)じゃなくて、「フィクサーは108歳」 の天海僧正は「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」とも称され、僧侶でありながら家康公の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、フィクサーとして2代将軍秀忠、3代将軍家光と三代の将軍に仕えた方で、家康公を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀るよう進言したのも天海僧正です。現在私が巡っている「東照宮」の生みの親ですね。

寛永20年(1643年)に108歳で亡くなったと言われていますが、一説には116歳、または120歳没と諸説があり、いずれにもしても当時としてはとんでもなく長寿であった事は確かな様です。
しかし、会津の生まれという以外、その前半生に関する史料がほとんど無く謎に包まれた人物です。そのため足利将軍の御落胤説であるとか、特に有名なのは「明智光秀=天海」の同一人物説ですが、光秀=天海だとすれば享年は116歳になるようです(んんん…f^_^;))

小説や漫画、時代劇では「怪僧」みたいにあまりいいイメージでは描かれませんが、比叡山延暦寺にとっては大恩人なんですね。元亀2年(1571年)に起こった織田信長による「比叡山の焼討ち」事件で、焼け落ちた諸堂の復興に尽力したのが天海僧正です。清濁併せ呑むミステリアスなお坊さんです。

滋賀院門跡06
境内から見た「勅使門」クリーム色の壁に白の五本線が入っています。

建立当時、滋賀院御殿と呼ばれた豪華な建物は明治11年(1878年)の火災により焼失。その後、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建されました。
現在でも約1万平米の敷地に内仏殿・寝殿・二階書院・庫裏・台所と、勅使門・通用門、6棟の土蔵に庭園があるそうですが拝観出来る場所は限られています。今回拝観出来た所を少しですがご紹介します。

滋賀院門跡05
内仏殿の玄関。こちらから上がらせていただきました。

滋賀院門跡09
比叡山延暦寺のシンボルとも言える開祖「最澄」以来
1200年燃え続けている「不滅の法灯」がこちらにも。

この法灯は延暦寺にあった先代の物だそうですが、「不滅の法灯」って本当に1200年燃え続けてるの?消えた事が無かったの?
実は一度だけ消えています。それが「比叡山の焼討ち」事件ですが、この時は分灯してあった山形県の「立石寺(りっしゃくじ)」から灯りをこちらに運んで移したようです。
以上をお寺の方から説明していただきましたが…灯りって、いったいどうやって山形県から運んで来たんでしょうf^_^;)
聖火リレーみたいに?松明かなんかにしないと風で消えちゃうしなぁ…
そうかぁ!炭火にして火種を持って来たのかも?ε=ε=ε=´ε` ) しながら。

滋賀院門跡12
こんな灯りですからね(*^^*)

そんなこんなで「菜種油」を継ぎ足し、継ぎ足ししてこちらでは不滅の法灯を1200年も守っておられます。
まあ、ウナギ屋のタレみたいなもんですな。(オイオイ!罰が当たるぞヽ(´o`;それにウナギ屋のタレって1200年も持つかぁ?)
あったら怖い!1200年前のウナギのタレ(((;゚Д゚))))(\(^-^ )絶対ないから!)
「油断大敵」という言葉がありますが(あ、話し変わってますから)、語源はこの法灯から来ているらしいです。油を断つと法灯の灯りが消えてしまう、用心しなさい。という意味ですね。

滋賀院門跡11
こちらは展示してある天海僧正所用の甲冑。

かなり派手めな甲冑ですが、大阪城天守閣にはもっと凄い甲冑が天海僧正所用として伝わっています。

天海甲冑
それがこれですが、何だコレ!?

こんな兜で、「天海が回転〜!」なんて頭を振られたら回りの人は大迷惑ですねf^_^;)
後ろの輪っかは多分、仏様の光背を表しているんでしょうが、これは危なくてとても側には近寄れんな!

滋賀院門跡13
こちらも展示の、右が徳川10代将軍家治、左が織田信長が寄進した大鏧子(だいけいす)。

この鏧子(けいす)ですが、読経のときゴーンと鳴らす鐘です。打金(うちがね)、銅鉢(どうばち)、あるいは俗にザルガネともいいます。
ところでこの寄進者、右の10代将軍・徳川家治は分かりますが、左の織田信長って?
信長は例の「比叡山の焼討ち」事件の張本人で、叡山ゆかりのこちらのお寺にに寄進する筈もなく、どうも信長の子孫・縁者が信長の名前で贖罪の意味で寄進したようです。

滋賀院門跡10
右の徳川10代将軍家治寄進のアップ。葵の御紋が刻まれています。

滋賀院門跡07
話し変わって、こちらが「内仏殿」正面が御本尊の薬師如来。門跡寺院だけあって菊の御紋がいっぱいです。

また奥殿には後陽成天皇、後水尾天皇と明治天皇。徳川歴代将軍家、江戸初期からの天台座主のご位牌が祀られています。

滋賀院門跡08
3代将軍家光が小堀遠州に作らせたと伝わる庭園ですが、
冬のお庭は緑が少なくて寂しいですね…

滋賀院門跡御朱印
そしてこちらが戴いた御朱印です。
右から、奉拝 比叡山 醫王殿(いおうでん)日付 滋賀院門跡
御朱印の葵の御紋が擦れているのがちょっと残念(>_<)

醫王殿・医王殿(いおうでん)とは、ご本尊の病気を治す仏様、薬師如来様の事です。
こちらは、案内していただいた方の対応も丁寧でとても気持ちの良いお寺でした。葵の御紋の御朱印もいただけたしね(*^^*)

最後にお隣りにある「慈眼堂(じげんどう)」を拝見しました。

慈眼堂01

慈眼堂02

「慈眼堂」は、朝廷より慈眼大師号を贈られた天海僧正の廟所、お墓です。

境内には、桓武天皇・後陽成天皇・後水尾天皇、家康公、紫式部・和泉式部・新田義貞の供養塔があります。が、これって凄い組み合わせですよね?新田義貞(にったよしさだ)は、家康公が新田氏の子孫と称していたので何となく理解できますが、じゃあ紫式部は…?何かメチャメチャな感じがするんですけどf^_^;)
一度調べて見なきゃ…って、多分調べないけど(*^^*)

以上、「フィクサーは108歳」でした。
天海僧正をフィクサーと呼んでいいのか?は疑問ですが、語呂がいいのでタイトルにしちゃいました(^人^)

次回は、リベンジ必至の「日吉東照宮」です。


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