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松平忠吉の院号は?

  • 2013/02/09(土) 08:08:25

大光院 (だいこういん) ■所在地/名古屋市中区大須2-7-25 ■正式名/興國山 大光院(こうこくさん だいこういん)■宗派/曹洞宗 ■本尊/木像釈迦牟尼仏坐像 ■創建年/慶長8年(1603年)■開基/松平忠吉 ■開山/明嶺理察和尚

(参拝日/平成24年11月6日)

ここ大光院は、慶長8年(1603年)松平忠吉(まつだいら ただよし・家康公4男)が崇敬していた明嶺理察(みょうれいりさつ)和尚を開山とし、清洲に清善寺(せいぜんじ)として創建したのが始まりです。
忠吉亡き後、その法名をとり大光院と改め、慶長15年(1610年)の「清洲越し(清洲の町ごと名古屋に引越し)」でこの地に移されました。
文化5年(1808年)には、「鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)像」を祀る「明王殿」が建立されました。
鳥瑟沙摩明王は、『不浄を転じて、清浄にする徳を有すもの』つまり、世の中一切のけがれや悪を清める力を持つ仏様で、下半身の病にご利益があるとされています。
特に女性の下半身の病を除くと信じられたことから「女の仏様」ともいわれ、この近くに「北野新地」という遊郭があった当時(大須観音の記事を見て下さい)から、そこで働く女性達の厚い信仰を受け、毎月28日の縁日は大変な賑わいでした。以来、「明王さん(みょうおんさん)」と呼ばれて今も親しまれています。

大光院04
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の「大光院」です。

栄交差点から大津通りを南に行くと「赤門」交差点があります。第一アメ横の北、東西の筋が「赤門通り」です。この筋を西へおよそ400mで大光院の山門が見えてきます。
江戸時代の大光院は広大で、境内の真ん中に大きな二天門(仁王門)があり、この門が赤く塗られていたため大光院門前への道は「赤門通り」と呼ばれるようになりました。 

昭和初期赤門通り
こちらは昭和初期の「赤門通り」、この通りの先が「大光院」です。
右側の建物が今も同じ場所にある名古屋最初の公設市場「中公設市場」です。

大光院05
現在の「赤門」交差点です。

大光院07
今の「赤門通り」、右のビルが「中公設市場」
昭和初期の写真と同じ場所から撮ってみました。

大光院01
こちらが現在の「赤門」、大光院の山門です。
 
この山門は、戦災(1945年3月)で失われるまでは楼上に十六羅漢木座像、楼下に仁王木像を配していた朱塗りの「二天門(仁王門)」で、「大須赤門」と呼ばれていました。現在の山門は昭和41年に建立されたコンクリート造りです。

(ところで、今回はいい写真はないの?赤門通りの写真だけ?)
んんん…実は大光院の古い写真って、探したんですけどないんですよね(^_^;)
今の建物もコンクリート造りだし、写真を撮ってもまったく面白くないでしょ?

大光院02
山門をくぐってもこんなんだし…

大光院08
これが鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀る
「明王殿」ですが…

一応、徳川家ゆかりのお寺ということで、瓦に葵の御紋は入ってるんですが、それだけだし( ̄▽ ̄) 写真は以上です。

私が子供の頃の「明王さん」はこんなんじゃなかったような…
当時は境内も今みたいに整備されてなくて、ゴチャゴチャ(萬松寺の様な)してて、何体ものお地蔵さんが所狭しと置いてあったし、自然に生えてきた木が生い茂って何か猥雑な感じでした。今回、何十年ぶりに参拝したら、別のお寺に来たかのように綺麗に整備されてました。どうも数年前に「昭和32年の建物が老朽化したため」と、4階建ての鉄筋コンクリート造りで建て替えられた様です。
以前境内だった土地の半分ほどは24時間営業の駐車場に変わってるし、何にもありがたみのない無味乾燥の境内になっていました。以前はモウモウと焚かれていた明王殿前の大きな香炉も今は寂しそうです。私がお参りした時も参拝客は誰もいませんでした(>人<;)

何でもかんでも新しくすれば良いってもんじゃないですよね。いくら古い本堂でも地域に溶け込んだ風景ってあると思いませんか?これならまだ萬松寺の方がマシだな(ーー;)
(オイオイ!さっきは万松寺の悪口言ってたやん)
まあ、五十歩百歩、目◯そ鼻◯そということで( ̄▽ ̄)
(ところで、タイトルの松平忠吉の院号って?)
あ、ちょっと長くなってもいい?
(またぁ〜!もう写真もないからいいけど短めに)

ハーイ!
松平忠吉(まつだいら ただよし)は、天正8年(1580年)家康公の4男として浜松城で生まれました。2代将軍秀忠の同母弟(年子とも)です。翌天正9年、わずか1歳で松平一族の東条松平家を継ぎ、三河東条城1万石の領主になります。
天正10年に駿河沼津城主で4万石。文禄元年(1592年)に元服し武蔵忍(おし)城主となり10万石を与えられます。この年、徳川四天王の一人、井伊直政の長女を正室に迎え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義父の井伊直政の後見の下、福島正則と先陣を争い、福島正則の陣を抜けて西軍へ攻めかかり、決戦の口火を切りました。
21歳の初陣で力戦し、島津豊久を討ち取るなどの戦功を挙げ、戦後の行賞で尾張清洲藩52万石を与えられます。これにより忠吉が尾張徳川家の始祖となるわけです。
しかし、慶長9年頃より病に悩み(関ヶ原の戦いで受けた傷が原因とも)慶長12年3月5日(1607年)28歳の若さで江戸において病没、増上寺に葬られました。同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれています。
忠吉には後継ぎがなく、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直・家康公9男)が継ぐことになります。後に義直は「清洲越し」で名古屋に移り尾張藩62万石を与えられ、義直が尾張徳川家の藩祖になります。

(いやぁー!長かったな( ̄◇ ̄;) ところで、院号がどうとかこうとかは?)
これからです(^_^;)
この松平忠吉の戒名・法名なんですが、「広度院殿憲瑩玄伯大居士」と「性高院殿憲瑩玄白大居士」と二つあってどこにも「大光院」ってないんですよね(ーー;)
確かこちらの由緒には『忠吉亡き後、その法名をとり清善寺を大光院と改め』ってなってるんですが…大光院がどこからか出て来た名前なのか、調べてもサッパリ分かんないです。
同じ名古屋市内の千種区に「性高院(しょうこういん)」というお寺がありますが、ここには忠吉のお墓もあって寺名も法名の「性高院…」からとってるのは名前から明らかですが、大光院はどこから?どうも細かい事が気になって…
(そんなに気になるならお寺で聞いたら?)
うーん、別にそこまでしなくても…どっちでもいいし(^_^;)
(何だよ、どうでもいいのかよ\(^-^ ) )
しかし、謎だ…どなたかご存知の方はご一報を!

大光院御朱印
そんな大光院でいただいた御朱印です。書置きでした
ので御朱印帳に糊で貼りました( ̄◇ ̄;)
右から、奉拝 明王殿 興國山大光院 です。

次回はリベンジした「日吉東照宮」を紹介します。今回はアウトか?セーフか?

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遊女に化けたお稲荷さん

  • 2013/02/05(火) 23:18:42

萬松寺(ばんしょうじ) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須3丁目 ■正式名/亀岳林 萬松寺(きがくりん ばんしょうじ)■宗派/曹洞宗 ■本尊/十一面観音 ■創建年/天文9年(1540年)■開基/織田信秀

(参拝日/平成24年11月6日)

万松寺06

ここ萬松寺は、天文9年(1540年)織田信長の父、信秀により織田家の菩提寺として、織田家の城であった那古野城(なごやじょう・現在の名古屋城二之丸付近)の南に建立されました。当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていましたが、慶長15年(1610年)家康公が名古屋城築城の際に小林村(現在の大須3丁目)に移転させました。
移転後も尾張徳川家の朱印寺として篤く信仰され、尾張藩初代藩主・徳川義直の正室春姫(高原院)の霊廟が置かれるなどして大いに栄えました。この春姫の御霊屋(おたまや)が現在の名古屋東照宮の社殿です。(詳しくは「名古屋東照宮」の記事を見てくださいf^_^;))

万松寺01
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の「萬松寺」。広大な寺域を
誇っていた事が分かります。

明治維新後は徐々に衰退し、大正元年(1912年)に37世住職の大円覚典和尚が寺領22,000坪の大部分を開放し、開拓された町は現在の大須3丁目となり、萬松寺は再び賑わいを取り戻しました。
しかし、昭和20年(1945年)3月12日の名古屋大空襲で大須一帯は焼け野原となり、本堂は平成になって再建されました。現在も大須一帯の大地主であり、家電店などが入る複合ビルの万松寺ビル、万松寺パーキングなどを所有しています。

萬松寺といえば、織田信秀の葬儀が行われた場所として有名ですね。この時、信長は異様な風体で現れ、父親の位牌に抹香を投げつける事件を起こし「尾張の大うつけ」と呼ばれました。この時の萬松寺は現在の場所ではなく、大須に移転する前の萬松寺です。
また家康公は、6歳で人質として今川義元の元に送られる途中で織田信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたといわれています。

万松寺11
万松寺パーキングから見た現在の「萬松寺」本堂。

上から見るとゴチャゴチャして、本堂もメチャメチャ狭苦しい感じですが、まあこの辺一帯の地主さんなので、これはこれでいいんでしょう(*^^*)
しかし、この建て込み様は凄いですね!まるで隙間がなくて火事になったら大変(>_<) 左下に見えるアーチ状の屋根が万松寺商店街のアーケードになります。

万松寺10
昭和初期の「万松寺筋」です。

前回の「大須観音」でも紹介しましたが、大正12年(1923年)に「旭遊廓」が中村へ移転し、芸妓小屋や小料理屋は姿を消しました。しかし、昭和に入ると次々に発展会が結成され、名古屋を代表する商業地として発展してきました。

万松寺09
現在の「万松寺商店街」です。このアメ横ビルも萬松寺の所有です。
この向かいが「萬松寺」になります。

私の子供の頃は、この万松寺商店街には映画館が5〜6軒並んでいました。東映、松竹、東宝、大映…あと忘れましたがf^_^;)
(なんだよ!(ーー;)覚えてないの?)
あ、日活もありました。あとはピ◯ク映画館もあったかも?
でも子供の見る映画館しか入らないし(*^^*) 東映ならチャンバラ映画、東宝はゴジラシリーズ、大映はガメラと大魔神シリーズとかね。
(大魔神?んんっ、懐かしい…)
いっとき大魔神リメークするって言ってなかったっけ?

万松寺04
現在の萬松寺境内です。

万松寺05
境内の「不動明王堂」です。

元亀元年(1570年)5月、織田信長が越前の朝倉を攻略した帰路、琵琶湖北方の千草越えで「杉谷善住坊」という鉄砲の名手に狙撃される事件が起きました。日頃信心深った不動明王の加護によるものか、二発の命中弾は信長が懐中にしていた干餅(兵糧)に当たり、かすり傷のみで難を逃れましたが、この時の餅は万松寺の和尚からもらい受けたものでした。
後に、家康公の命で名古屋城築城に際し、萬松寺に滞在した加藤清正がこの話を聞き、「身代わり不動」と命名しました。

万松寺07
「身代不動明王」の提灯です。

万松寺26
境内には、狭い場所に何やらゴチャゴチャした物がいっぱい並んで
います。こちらはエスニック風のお皿や雑貨類…
いったい誰が買うのか?

万松寺25
戦国武将のフィギュアに信長所用の模造刀、木彫りの仏像…
こちらも誰が買うのか?(私なら買うかも(^_^;))

万松寺24
こちらは売り物ではありませんf^_^;)
白雪稲荷堂 (はくせついなりどう)のお稲荷さまです。

万松寺03
境内の白雪稲荷堂 (はくせついなりどう)です。

こちらには、白雪咤枳尼真天(はくせつだきにしんてん)がお祀りしてあります。 萬松寺が創建されたこの地に千年も前から住んでいた白狐が白雪様の狐族となって祀られたのが起源といわれています。

伝説によれば、萬松寺が一時衰微したとき、このお稲荷さまが窮状を見かね、どこからかお金を工面し寺の窮状を救ったとのこと。
後日、江戸の吉原遊廓の主がはるばる萬松寺を訪ねて来て「新しく雇った遊女がしばらく働いたのち姿を消したが、我は萬松寺稲荷の化身であったとのお告げがあり驚きました。しかも、その頃から店の営業が好転したのもみなお稲荷様のおかげと、こうしてお礼に参りました。」と話しました。
この話しを聞いた住職は驚き「さては、あのお金は御小女郎(おこじょろう)様の稼いだものであったか」と得心したそうです。
このことから、商売繁盛、家内安全に霊験あらたかで水商売関係者のお参りも多く別名、御小女郎稲荷とも呼ばれています。

いやぁ、凄い話しですね〜。萬松寺稲荷の化身って、この遊女の相手をしたお客は後でビックリしたでしょうね(@_@)
ひょっとしたら顔には(=^ェ^=)があって、尻尾が生えていたかも?
(オイオイ!またそんなこと言ってると罰が当たるぞ!)
子供の頃はこの前を通るのが怖かったんですよ…ここのお狐さん、恐い顔してるでしょ?
(あんた、怖がりだから(*^^*))
そうそう、それに4匹もいるし…
(4匹って\(- -; )

万松寺17
お狐さん4匹の子供には怖い(私だけか?)
白雪咤枳尼真天の提灯です。

万松寺21
稲荷堂の横、怪しげなトンネルの様な所をくぐると織田信秀の墓が
あります。

万松寺22
トンネルの天井には織田家の家紋「織田木瓜(もっこう)」の提灯が…
しかし、ここは提灯だらけです(^_^;)

万松寺23
トンネルをくぐった先、箱庭の様な所にある信長の父、織田信秀の墓です。

まさに箱庭、坪庭といった感じで、後ろは萬松寺の本堂ビルで開放感がまるでありません。3枚目の写真を見てもらうと分かりますが、ビッシリ建て込んだ本堂ビルとお堂の隙間にあるお墓です。今は商店街の中にあるお寺なので仕方ないと思いますが、信長の父親のお墓としては何か悲しいですね。

万松寺12
本堂ビルです。玄関の唐破風の軒先と瓦に葵の御紋が
打ってあります。
3階の黒い出窓の中には「からくり人形」があります。

万松寺18
扉が開いて演じられる信長の「からくり人形」です。
これは信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける場面。

万松寺19
回り舞台になっていて、くるりと回ると信長が好きだったという
幸若舞の「敦盛」を舞う場面になります。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、
滅せぬもののあるべきか…」という有名な舞です。

万松寺20
本堂内です。賽銭箱にも葵の御紋が打ってあります。

最近、東海地方ローカルのあるTV番組でこちらのご住職が出ておられました。
レポーターが、「こちらのお寺にはどうして織田家の家紋と、徳川家の家紋があるんですか?」と質問したところ、ご住職は「ああ、こちらは元々は織田家の菩提所なんですが、江戸時代になって無理やり葵の御紋を付けさせられました(^_^;)」と苦笑いで応えておられました。が…

オイオイ!住職、無理やり葵の御紋ってなんだよ(ーー;)織田家は信長の代で衰退しちゃって、尾張徳川家から朱印寺として寺領を22,000坪も貰ったんじゃないの?今もここら辺一帯の大地主らしいけど、一体誰れのおかげ?
(そうだそうだ、もっと言ってやれ!)
ありがとう!そんなに葵の御紋が嫌なら取っちゃえば?もう江戸時代じゃないんだしさ、徳川家に遠慮しなくていいんだから。これだから◯さんは…もう止めときますが、私みたいなへそ曲がりにはツッコミ所満載のTV番組でした。
(まあ、いろんな住職がいるわな…)

万松寺御朱印
そんな萬松寺さんでいただいた身代不動明王の
御朱印です。
こちらは読めるので説明なしです(^_^;)

次回は、またまた近くの大光院を紹介します。

観音さんとへび女

  • 2013/01/28(月) 09:40:29

大須観音(おおすかんのん) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須2-21-47 ■正式名/北野山 真福寺 寶生院(しんぷくじ ほうしょういん)■宗派/真言宗智山派 ■本尊/聖観音 ■創建年/元弘3年(1333年)■開基/能信上人

(参拝日/平成24年11月6日)

大須観音07

ここ大須観音は正式名称を「北野山 真福寺 寶生院(きたのさん しんぷくじ ほうしょういん)」といいます。

元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が美濃国 大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として能信上人(のうしんしょうにん)が創建した真福寺が当寺の始まりです。
その後、慶長17年(1612年)には名古屋の城下町建設に伴い、家康公の命令で成瀬正茂(犬山城主)によって現在地に移転しました。真福寺のあった場所が木曽三川の中洲であったため水害も多く、日本最古の『古事記』の写本等の貴重書を多数所蔵する「真福寺文庫」を持つ当寺が、洪水で流されるのを恐れたためといわれています。

以後、徳川家の庇護を受け、享保16年(1730年)尾張7代藩主・徳川宗春の時代には、将軍吉宗の質素倹約令に対抗し江戸や大坂から芸人を集め、境内に芝居小屋や見世物小屋、寄席を建てさせました。
宗春も自ら芝居や寄席に出かけたといわれます。見物客目あての飲食店も多く出来、宗春は遊廓まで開かせたため大須の街は一気に発展しました。
しかし、宗春が失脚した元文4年(1739年)、遊廓はもとより芝居も禁止。芝居はそれでも黙認されましたが、遊廓は全面的に廃止されました。以後、大須に遊廓が登場するのは明治に入ってからです。
芝居は禁止されましたが、見世物は対象にならなかったため、軽口咄(落語)・釣り人形・講釈・鳥の鳴き声の物まね・独楽回し・曲馬・影絵など、多種多様の見世物が行われ大いに賑わいました。

そういえば、自分の子供の頃にも境内には小屋掛けの見世物が出ていました(*^^*) 小学校が近かったので学校帰りによく立ち寄りましたが、「へび女」や「牛女」、「ろくろ首」の看板が出てたのを覚えています。

旦那、そろそろいい写真見たいですか?
(勿体ぶるなぁ…早く見せればぁ!)

大須観音22
これだ!「へび女」、かなりシュールです。まるで金田一耕助の世界
ですね。
(うわっ!いくら今年は巳年でもこれは( ̄▽ ̄))

「ハイ坊ちゃんからお爺ちゃん、お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで、さぁさぁ寄ってらっしゃい!見てらっしゃい。世界の話題、医学の謎、愛知県は霊将山のはるか奥地で見つけましたこのお姉さん、クレオパトラか楊貴妃か、どなたが御覧になっても凄い美女。ところがこのお姉さんに蛇をあてがいますと、何が嬉しいのかニコリニコリと笑い出し、両手につかんだその蛇を口から鼻へ、鼻から口へと何の苦もなくスルリスルリと通してしまいます…ハイ!場内大変混雑してまいりました。ハイハイハイハイ!前の方から御順にお入り下さい。一度見ておけば、孫の代までの語り草…」(って、このお姉さん全然笑ってないし(*^^*))

(口上はいいけどさぁ、本物見たの?)
「へび女」一度見たかったんですが、もちろん入場料を払うお金なんか持っていないので、見るのはいつも「ガマの油売り」でした。
(なあーんだ…見てないのに記事にすんなよ!)
でも「ガマの油売り」は見たもんね!お金要らないし(^_^)v
刀を差したおじさんが地面に◯を書いて「サァーて、お立会い!、御用とお急ぎで無い方はゆっくりと聞いておいで、見ておいで、こらこら!ぼうず、この◯の中に入ってはいかん!手前ここに取り出したるは…」ってやつです。
最後に自分の腕を刀で斬って、ガマの油を塗って血止めをした油を売るんですが、何故か最後まで見た記憶がない。
(何だよ、これも見てないのかよ!中途半端なやつ…)
多分途中で「子供は邪魔だ、帰れ!帰れ!」って帰されたんじゃないかと?どうせ子供は、ガマの油なんか買わないしねf^_^;)
(へーっ!実は怖かったんじゃないの?かなりの怖がりだとか…)
「・・・」

文化12年(1815年)には五重塔も建立されましたが、明治25年(1892年)3月21日の大須の大火(芝居小屋 宝生座より失火)で本堂、五重塔と仁王門を焼失、第二次世界大戦の名古屋大空襲による2度目の焼失後、昭和45年(1970年)に本堂を再建し、現在に至っています。
戦災を免れた「真福寺文庫(大須文庫) 」には15,000冊の古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本と言われ、国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として南北朝時代(1371年〜1372年頃)に写された現存最古の写本です。

大須観音05
なんか小汚いですが、国宝の『古事記』写本です。

大須観音06
五重塔が描かれた江戸時代後期「尾張名所図会」の大須「真福寺」
です。創建時の本堂は東向きでした。(現在は南向き)

明治大須観音03
明治初年の大須観音ですが、手前は畑か?

明治大須観音02
同じく明治初年の本堂です。

大須観音03
明治14年頃撮影の着色写真。本堂、五重塔、塔の奥が書院です。
後方、森の向こうには名古屋城が見えています。

大須観音04
上の写真のアップ。立派な五重塔ですね。
左後方の名古屋城もよく分かります。

戦前大須観音01
戦前大須観音02
大須観音21
いずれも明治25年(1892年)大須の大火後、再建の本堂です。
この本堂は昭和20年の名古屋大空襲で焼失しました。

大須観音02
昭和45年(1970年)三度目再建の現在の「本堂」。

大須観音09
大須観音10
いずれも昭和初期の「大須観音門前通り(今の仁王門通り)」です。
戦前は映画館や劇場、寄席が建ち並び大いに賑わいました。

大須観音15
戦後の区画整理で若干変わりましたが、上の写真とほぼ同じ場所の現在の「大須仁王門通り」、通りでは戦前からある鰻の老舗店「やっこ」が現在も営業しています。

大須観音16
現在大須にある寄席はこの一軒だけです。「大須演芸場」、もう何十年も赤字、赤字(客はいつも数人)と言われながら現在も営業しているのは奇跡!

大須は昔から名古屋一の歓楽街で、尾張7代藩主・徳川宗春の時代には大須観音の北に「北野新地」と言われた遊廓がありましたが、宗春失脚と同時に廃止。
明治初年に「堂裏(現在の西大須)」に新しく「旭遊廓(あさひゆうかく)」が作られました。当時の観音さんは本堂が東向きに建てられていたため、現在の西大須辺りは「堂裏」と呼ばれていました。
大須一帯は戦後、伏見通り(国道19号)により東西に分断され、戦前とはすっかり町の様相は変わっています。伏見通りの開通とともに、堂裏にあった十軒余の遊廓、置屋も今は通りの下に消えてしまっています。

大須観音19
明治初年の「旭遊廓」の地図。中央のグレーの帯が今の伏見通り。
旧遊廓街は、戦後新しく出来た伏見通りにより、観音さんの裏辺りで
東西に分断されてしまいました。

大須観音17
大正時代の花園町(上の地図、観音さん北の東西の通り)の遊廓街
です。この通りは現在も花園通りとして残っています。

大須観音25
当時の「花魁道中(おいらんどうちゅう)」の様子。(中日新聞社蔵)

大須観音24
同じく「花魁(おいらん)」と「禿(かむろ)」
(中日新聞社蔵)
かなり美人ですね〜

上の写真の花魁に付き添っている2人の女の子「禿」ですが、「禿(はげ)」ではありませんf^_^;)
(えー!でも同じ字やん!)
同じ字ですが、禿(かむろ、かぶろ)は遊女見習いの幼女のことです。遊廓に住み込む幼女のことを「かむろ」と呼びました。7 〜 8歳頃に遊廓に売られてきた女の子や、遊女の産んだ娘です。最上級の太夫や、花魁と呼ばれた高級遊女の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学びました。禿の年齢を過ぎると「新造(しんぞ)」となって、遊女見習いの後期段階に入っていきます。
京都の島原遊廓では、芸妓(げいこ)に付き添う幼女も禿と呼ばれていました。本来はおかっぱの髪型からつけられた名前ですが時代と共に髪を結うようになってからも、遊廓に住み込む幼女のことを総称して「かむろ」と呼んでいました。
どちらにしても悲しい運命の女の子たちです(>_<)

明治45年(1912年)になり、名古屋市の都市拡大が進み、風紀上の問題と遊廓の発展(明治のピークは席貸茶屋173軒、娼妓1,618名)で手狭になってきたことから旭遊廓の移転問題が浮上し、大正12年に「愛知郡中村(現在の名古屋市中村区大門辺り)」へ「中村遊廓」として集団移転しました。

大須観音23
昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後、昭和45年に現在の南向きで再建されました。伏見通り反対側が遊廓があった辺り。(名古屋都市センター蔵)

大須観音13

以上、大須の街の賑わいと悲しい歴史を見てきた「大須観音」でした。

大須観音御朱印
こちらがいただいた御朱印です。
右から、奉拝 स(sa)サ(聖観音の梵字)大悲殿 日付 大須観音 です。

次回は、同じ大須の織田信長と家康公ゆかりの「万松寺」を紹介します。

傷だらけのローザ

  • 2013/01/26(土) 23:51:10

七寺(ななつでら) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須2丁目28-5 ■正式名/稲園山 正覚院 長福寺 ■宗派/真言宗智山派 ■本尊/聖観世音菩薩 ■創建年/(伝)天平7年(735年)

(参拝日/平成24年11月6日)

こちら七寺(ななつでら)は、正式名を「稲園山 長福寺(とうえんざん ちょうふくじ)」と言います。

寺伝によれば、天平7年(735年)尾張国中島郡萱津(現在の愛知県あま市)に行基が開山。当時は正覚院と称していました。創建時は七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を有した事から、これにちなんで七寺と呼ばれるようになりました。
その後、仁安2年(1167年)に阿弥陀如来像と観音菩薩・勢至菩薩像を本尊とし、現在の稲沢市七ツ寺町に移転。
天正19年(1591年)には豊臣秀吉により清洲に寺を移して三度目の再建をされています。

慶長16年(1611年)家康公の「清洲越し(名古屋築城にあたり清洲の町ごと名古屋に引越したこと)」の命により現在地に移されましたが、本堂を清洲から移築し、失われていた諸堂も整備されました。
元禄13年(1700年)には尾張藩2代藩主・徳川光友(家康公の孫)により三重塔が再建され、享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となり徳川幕府の繁栄を支え続けてきました。

尾張徳川家の庇護もあり、名古屋でも有数の大寺院として、当時の大須界隈では大須観音(真福寺)や名古屋御坊(西本願時)を凌ぐ寺勢を誇っていましたが、昭和20年(1945年)3月19日の名古屋大空襲で経蔵以外の国宝であった本堂、三重塔など七堂伽藍の全てを焼失。境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在では街中にある小さなお寺になっています。(悲しすぎるほど小さい…)

七寺01
「準別格本山七寺」の立派な石柱ですが…

一時は廃れていた大須界隈も現在では若者の集まる街として休日などは大変な混雑で、大須のシンボル「大須観音」の参拝客も多くなりましたが、観音さんのお隣りと言ってもいい距離なのにここ「七寺」はほとんど参拝客がいません。まず知らない人の方が多いでしょう。(実は私も今回初めて参拝しましたf^_^;))

七寺05
現在の本堂。左端にサポーターの様な物を巻いた仏様がありますが、後ほど詳しく紹介します。

七寺08
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の七寺。現在では考えられない規模です。

(ところでさぁ!またお寺の説明ばっかりなんだけど、いい写真ってまだぁ?さっきからずっと待ってるんだけど…)

これから見せますから、ドーン!これだぁ(^_^)b

七寺12
明治末期の絵葉書「七ツ寺」の境内、三重塔です。

(オオッ!これって「尾張名所図会」の三重塔?)
そうです。徳川光友が再建した江戸時代初期(1700年)当時のままの姿です。

七寺16
岩井通り(現在の大須通り)から見た昭和初期の
「本堂」と「三重塔」。いやぁー壮観ですね!

七寺18
上の写真と同じアングルから見た現在の七寺です。
今、同じ通りから見えるのは「七寺」のグリーンの
看板と、下の写真にもある「経蔵」だけです。

七寺19
経蔵の位置からすると右の白いビル辺りが三重塔の跡か?

七寺11
こちらは大正〜昭和初期の絵葉書「七寺三重塔」境内から見た景色です。三重塔の右下の小さな土蔵が「経蔵」です。

七寺14
上の写真に写っていた、名古屋大空襲でも焼け残った現在の「経蔵」。往時を偲ぶことが出来る七寺の遺構です。

実はもう一つ空襲で焼け残った遺構があります。次の写真を見て下さい。

七寺10
大正〜昭和初期と思われる七寺「本堂(国宝)」 の写真です。左に青銅の「大日如来坐像」が写っています。

今も同じ場所に座っておられる、この露座(ろざ・屋根のない所に座る仏)の「大日如来坐像」が、現在の写真に写っていたサポーターを巻いた仏様です。

七寺04
傷だらけの痛々しいお姿です(T . T) 空襲の時には、真っ赤な炎に包まれていたそうです…

七寺07
背面はもっと悲惨な状態になっています。もう少し
きれいに補修して欲しかった…
まるでサポーターぐるぐる巻の相撲取りみたいです。

名古屋大空襲から68年、忘れられつつある戦争の悲惨さと、名古屋市内に今も残る空襲の爪痕を後世に伝える遺構として、今のままの御姿で我慢していただくのも仕方が無い事なのかも…南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(>人<)

(ほー?たまにはいいこと言うじゃないか…)
そう?よかったf^_^;) たまにはこれくらい言わなきゃね。
(それにしては、タイトルが「傷だらけのローザ」って?)
えーッ?わかんないかな?
「オー! ローザ(ローザ)君を 誰が、ローザ(ローザ)そんなにしたの、 ローザ(ローザ)悪い夢は 忘れてしま〜ぉ〜お ♪」
「チャーンチャンチャン!チャーンチャンチャン!チャチャ〜ン♪ 」
「こ〜の腕に おすがりよー、今 僕は 狂おしく 祈りも〜誓いも〜♪」
(やめなさいって!それって、もしかして西城秀樹の…?)
そう、「傷だらけのローザ」♪
(\(ー ー;)たわけ!それは「傷だらけのローラ」!)
だからぁ、ローラ ローザ 露ーザ 露座 大日如来の露座\(^o^)/「ヒデキ〜!」
(・・・)
(せっかく褒めてやったのに…)

七寺13
こちらも岩井通り(大須通り)と「七寺」の昭和初期の着色写真。

左に焼失した本堂、焼け残ったローザ、じゃなくて露座の大日如来坐像、同じく焼け残った経蔵、焼失した今は無き三重塔がはっきり写っています。「尾張名所図会」と比べると江戸時代の境内は、この頃よりも数倍広かった事が分かります。奥に見える大屋根が大須観音の本堂(戦災焼失前)です。
名古屋有数の大寺院といわれた面影が、まだ戦災までは残っていた貴重な写真です。

七寺15
七寺パンフレットによる、戦災焼失前の本堂内、平安時代後期作の「阿弥陀三尊像」(国宝)と木造持国天・毘沙門天像(国宝)の写真です。

1945年3月19日の名古屋大空襲の際に、本尊・阿弥陀如来坐像の両脇侍だった「観音菩薩像・勢至菩薩像」の二体と勢至菩薩像の光背のみが、炎の中から救い出されて何とか焼失を免れましたが、後の仏像は大き過ぎて持ち出せず残念ながら焼失してしまいました。
ご本尊の阿弥陀如来は首だけでも切り落として救い出そうとされたそうですが、火のまわりが早くて無理だったそうです。現在は焼け残った「観音菩薩像・勢至菩薩像」の二体が国の重要文化財に指定され、ご本尊として小さな本堂に安置されています。

七寺20
現在の本堂内陣です。上の戦災前の写真2枚も飾ってあります。

七寺御朱印
そんな悲しい歴史のある「七寺」でいただいた
御朱印です。
右から、奉拝 日付 大勢至 聖観音 両菩薩
稲園山 七寺 です。

何かしんみりしちゃった七寺を後に「大須観音」へ向かいます。
旦那、まだまだいい写真がありますぜ…
(ところで、さっきから誰に喋ってるの?)
「祈りも〜 誓いも〜 この愛も捧げるーぅ ロ〜ォーォザー♪」

「矢場とん」と柳生新陰流

  • 2013/01/23(水) 23:42:23

清浄寺 (しょうじょうじ・せいじょうじ)■所在地/名古屋市中区大須4-1-32 ■寺号/徳寿山 清浄寺(通称/矢場地蔵) ■宗派/浄土宗鎮西派 ■本尊/木像阿弥陀如来立像 ■創建/元禄13年(1700年)■開基/徳川光友

(参拝日/平成24年11月6日)

今回からは昨年参拝した、名古屋の徳川家ゆかりの寺社を少しご紹介したいと思います。

矢場とん01
いきなりですが「名古屋めし」と言えば、ここ「矢場とん」です。

矢場とん02
名物のみそかつ「わらじかつ」(*^_^*) 美味しそ〜ぉ!

まずは、という事で「矢場とん」を…あ、違う違う!「矢場地蔵」をご紹介するんですが、正式な寺名を「徳寿山 清浄寺(とくじゅざん しょうじょうじ)」と言います。実は私、子供の頃この近くに住んでいたんですが、ここが「清浄寺」だなんて全く知らなかったf^_^;)
今回、御朱印をいただくために参拝して、由緒書きを見てはじめて知りました。
(今頃遅いわ!地図にはちゃんと載ってるし…)
だってみんな子供の頃から、矢場町にあるお地蔵さんで「矢場地蔵」って言ってたからね。親もそう言ってたし( ̄▽ ̄)
それに「しょうじょうじ」なんて子供は舌が回らないと思うけど?
(お、言ったな!「しょ、しょ、しょうじょうじ~♪」の唄知らんのか?小学校で習ったやろ!)
えッ、それって「証城寺の狸囃子」でしょ?ここは「清浄寺」ですけど…
(・・・)
たしか名古屋では習わんかったような?「ぽんぽこ ぽんの ぽん♪」(\(^-^ )お前の頭の中や!)

またまた「綾鷹」してますが…(注)綾鷹=お茶を濁す

名古屋以外の方はご存知ないかと思いますが、栄の交差点から大津通(おおつどおり)を南へ、松坂屋、パルコを過ぎ若宮大通(わかみやおおどおり)との交差点が「矢場町(やばちょう)」です。
「矢場町」、古めかしい名前ですが、江戸時代の始め寛文8年(1668年)「通し矢」で有名な京都の三十三間堂の長廊下を模した矢場がこの地に建てられた事から、この地名が付いています。

交差点を渡ってすぐ、大津通を挟んだ西が「矢場とんビル」で、対面東の路地を入った所が「矢場地蔵」です。
実はここ、思わず通り過ぎちゃう感じの狭い路地。興味がなければ間違いなく素通りでしょう。

矢場地蔵02
ビルとビルに挟まれた路地の奥が「矢場地蔵」です。

矢場地蔵由緒書き
かんたんな由緒書き。昔はここに「小林城」というお城があったんですね。

廃城となった小林城の跡地に住んだのが、尾張徳川家2代藩主・徳川光友(家康公の孫)の兵法指南役で「尾張の麒麟児(きりんじ)」と謳われた、柳生連也斎(やぎゅう れんやさい)こと柳生厳包(やぎゅう としかね)です。 生涯独身を通した連也斎の亡き後、徳川光友により尾張徳川家の祈願所として屋敷跡に建てられたのが清浄寺です。江戸時代は3450坪という広大な敷地の中に建っていました。

矢場地蔵11
右の赤で示してあるのが江戸時代の「清浄寺」です。左に「政秀寺」と「若宮八幡社」が見えますが、この南が現在の若宮大通り(100m通り)で「清浄寺」はこの通りを跨いだ広大な敷地だった事が分かります。
すぐ西、南北の通りが今の大津通りで南には「万松寺」のさらに広大な敷地が広がっています。

矢場地蔵12
これが現在の「清浄寺」の見取図、江戸時代の規模とは違い、まさに路地裏のお地蔵さんという感じです。

十兵衛
柳生連也斎の父親、柳生利厳(兵庫助)の従兄弟がこの人、江戸柳生の天才剣士「柳生十兵衛三厳」です。
と言いながら、また自作フィギュアを出してしまいましたf^_^;)

柳生利厳(やぎゅう としとし)通称、兵庫助は尾張徳川家初代藩主・徳川義直(家康公9男)に30年にわたって兵法指南役として仕えました。
兵庫助、息子の連也斎とも尾張柳生を代表する新陰流の名剣士で、以後尾張柳生家は尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕え、現在も22世が柳生新陰流の後を継いでおられます。(連也斎は初代石舟斎から数えて5世)
江戸柳生の十兵衛、尾張柳生の連也斎、この天才剣士2人がもし闘ったらどっちが勝つのか?実際は一世代近く違うので試合の記録はありませんが、ドラマなどでは必ず千葉ちゃん、いや、十兵衛の勝ちです(^_^;)

矢場地蔵03
突き当たりが本堂になります。

昔はこの参道の脇、上の見取図でいうと庫裏の隣りの「民家」となっているところに「銭湯」があり、子供の頃はよく通った懐かしい場所です。こちらを紹介しておられる方は結構みえますが、銭湯の話は出て来ないので紹介させていただきました。歳はバレますが、うん十年前の話です。誰も知らないだろうな?銭湯の名前も忘れちゃったし、誰か知ってる方がいたら教えてくれませんか?

矢場地蔵07
こちらが本堂ですが、鉄筋なので建物自体は何も見る物はありません。
子供の頃は銭湯にくるのが目的だったので、こちらの本堂がどうだったのかの記憶も全くないです。(多分木造だった様な…)ただ薄暗い参道に今もある提灯がボンヤリ灯っていた事だけは覚えています。

矢場地蔵08
葵の御紋入りのお賽銭箱です。

矢場地蔵06
同じく葵の御紋入りの瓦です。

矢場地蔵05
東門にも葵の御紋、こちらは常時閉まっています。

矢場地蔵10
狭まーい境内の六地蔵、いつからあるのか?

境内には「平成のジャンボ地蔵」なるものがありますが、平成の…なので特に撮影しませんでした。
名古屋の寺院は歴史はあっても、建物は空襲で丸焼けになっていますので、写真で紹介すると非常に残念な結果になってしまいます。こちら「清浄寺 矢場地蔵」も例外ではなく、ご覧いただいた様に歴史のある建物は何も残っていません。もちろん銭湯があった場所も今は喫茶店や飲食店になっています。

矢場地蔵御朱印
しかし、御朱印の墨書きはキッチリとした楷書で書いて
いただきました。(住所入りなところが凄い!)
徳川家ゆかりのお寺ですが葵の御紋は入っていません。

誰でも読めそうなので説明はしませんが、今気づいたけど、ん?日付けがない(T . T)ま、いっか…
ところで、「越中立山地獄谷より出現」って何だ!?

矢場地蔵と人々から信仰をうける地蔵尊は、もともとは立山の山深い岩窟の中に鎮座していました。
立山に籠り修行をしていたある行者が、霊夢によりこの像を見つけ、笈に地蔵尊を納め、諸国をめぐり歩いてこの土地にたどり着きました。この地に祀られた地蔵尊を土地の人々がお参りしたところ、地蔵尊の霊験はあらたかで、病気などはたちまち平癒したといわれています。

これが、御朱印に赤字で書いていただいた「越中立山地獄谷より出現」の謂われです。

以上、お寺の記事より柳生新陰流の記事の方が多かった、「矢場とん」と柳生新陰流でした。
(ふーん、柳生新陰流は分かったけど、矢場とんは何か関係あるの?)
あ、それはですね、ここは「しょ、しょ、清浄寺♪」より「とんとこ とんの 矢場とん♪」の方が有名だから(^_^;)
(・・・)
(そんな唄ないし!次回は綾鷹したりしないだろうな?)
旦那、旦那!ちょっとこっちへ…
(何だよいきなり、お地蔵さんの路地へ連れ込んで何か用?)
ここだけの話しですがね、いい写真があるんですよ。見たい?
(見たい、見たい!)
次回をお楽しみに(^_^)v
(何だ、次回かよ( ̄▽ ̄))

次回はこの近くの大須「七寺(ななつでら)」を紹介します。


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