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岡崎に眠る新選組局長 近藤勇

  • 2012/12/27(木) 20:12:38

法蔵寺(ほうぞうじ) ■所在地/愛知県岡崎市本宿町寺山1 ■山号/二村山(にそんざん)■ 宗派/浄土宗西山深草派 ■本尊/阿弥陀如来 ■創建/伝・大宝元年(701年)

(参拝日/平成24年11月18日)

寺伝によれば、法蔵寺は大宝元年(701年)僧行基によって開山され、寺号を法相宗出生寺(しゅっしょうじ)と称していましたが、元中2年(1385年)に浄土宗に改宗。松平親氏(松平氏初代)が深く帰依し、嘉慶元年(1387年)に堂宇を建立、寺号も法蔵寺と改め松平家代々の菩提寺としました。
家康公がまだ竹千代と名乗っていた幼い頃、手習いや漢籍を学びに通った寺ともいわれ、 桶狭間の戦い以後は手厚く保護され、家康公の父「松平広忠」の墓があります。

こちらは岡崎市の東、名鉄本宿駅を降りて国道1号を横断、しばらく南に歩くと旧東海道に突き当たります。
旧東海道を東に歩くこと約5分。橋を渡った右手の小高い山の麓に山門と伽藍が見えてきます。

橋
旧東海道の「法蔵寺橋」です。橋を渡ったすぐ右手が法蔵寺になります。橋の欄干には「はふざうじはし」となっていますね(^_^;)

法蔵寺001
旧東海道沿いに建つ案内板です。

遠景
赤い欄干の橋を渡ると山門です。

法蔵寺002
こちらが山門です。

法蔵寺004
山門をくぐり石段を登った先が鐘楼門です。古刹の雰囲気出てます(*^^*)

法蔵寺005
鐘楼門の先がいよいよ本堂です。

法蔵寺006
本堂前から登って来た道を振り返ります。高台なのでいい景色!

hozoji8.jpg
田舎によくあるパッとしない(あ、失礼!)本堂ですが、実は…

内陣
最初はこちらからお参りしていました…
なんか内陣が凄くない?

庫裏へ廻って御朱印をお願いすると、住職の奥様らしき方に「御朱印帳を書く間、どうぞ本堂へ上がってお参り下さい」と言っていただけました。
さっきから、本堂の中がメチャメチャ気になっていたので、お礼を言ってさっそく上がらせていただきました。
いやぁー!凄いぞ法蔵寺、ここは東照宮かよ?みたいな極彩色です。んんん…!
ハァー、溜め息しか出んな。

法蔵寺008
こちらが本堂の内陣です。どうですか、凄くないですか?

法蔵寺009
手前の天井板とのギャップがまた凄い(^_^;) 奥のソファーが…

法蔵寺010
いつ頃の彫刻、彩色なのか聞くの忘れちゃいました(T . T)

こちらの本堂は本当に見応えがありました。やっぱり侮れんぞ岡崎市!
境内には東照宮もあるとの事(やったぁ!)、御朱印をいただいた後で参拝することに…

六角堂
こちらは本堂と渡り廊下で続く六角堂です。

法蔵寺東照宮
本堂の裏手、石段を登った所に「東照宮」があります。
なんかミニュチアっぽいですが…

法蔵寺012
ほんとにミニュチアっぽいですね(*^_^*) でも不思議とこの場所にはしっくり来ます。
家に一個欲し〜い!(無礼者!頭が高いっ!)

東照宮額
「東照宮」の扁額です。千社札が一枚…(一人しか貼らなかったのか、剥がし忘れか?)

法蔵寺018
黒漆と赤漆の塗に鍍金の金具が映えます。

法蔵寺014
これで組物の彩色が残っていればパーフェクト!ん?奥の板戸に何か絵が…

法蔵寺東照宮10
もしかして軒の組物はもともと白木だったのかも?
こちらも奥の板戸に絵が…

hozoji15.jpg
こんな彩色彫刻の板戸でした。他の東照宮は「唐獅子」
「虎」などの男性的な画題が定番ですが、こちらは
「竹に鶴」、反対側は「松に鶴」の対になっています。

以前の記事で、現存する東照宮は全国に20余社と書きましたが、中にはお稲荷さんの祠のような小っさい社殿もある様です。それに比べたらこちらの東照宮、社殿は非常にコンパクトですが、彫刻の「鶴」もどこか女性的で、私的には準パーフェクト!

広忠墓
社殿をバックにした「松平広忠(家康公の父親)」のお墓。

しかし岡崎市、どこのお寺にも「松平一族」のお墓が多いです。「松平広忠」のお墓も「大樹寺」を始めとしていくつもあります。広忠は戦国武将としては悲運な人でしたが、立派な息子を持ったおかげで、あちこちのお寺にお墓を建てて貰えたのはある意味幸せな人だったのかも…
今もどこか分からない場所で、無縁仏になっている戦国武将はきっといっぱいいるでしょうね。

ところで、ここ法蔵寺にも長い間、無縁仏になっていたある有名な人物がいました!
(これでやっとタイトルに繋がったな…)

近藤勇銅像
それがこの人、この顔にピーンときたら◯◯◯
幕末の有名人です!

ジャジャーン!泣く子も黙る「新選組局長 近藤勇」です。

何故ここ岡崎に近藤さんのお墓があるのか?私は学生時代に「新選組」にハマっていて(今も好きですが)、以前から法蔵寺に近藤さんの「首塚(首を埋めた所)」があることは知っていましたが、訪れるのは今回が初めて。不思議と縁がなかったんですね。今回、岡崎市での御朱印集めの旅でここへもやっと訪れる機会ができました。

京都で「新選組局長」として活躍した近藤勇は、慶応4年4月25日(1868年) 東京板橋の刑場で賊軍として斬首、享年35歳でした。
首は京都三条大橋西に罪人として晒されましたが同士が3晩目に密かに持出し、当寺の本山である京都誓願寺に持ち込み、勇が生前敬慕していた弥空義天和尚に埋葬を託しましたが、和尚は当時ここ法蔵寺に転任していたため岡崎に運び、密かにこの場所に埋葬したといわれています。

当時は逆賊という事で無縁仏として分からないように埋葬していましたが、昭和33年、京都誓願寺で「近藤勇の首は岡崎法蔵寺にあり」という記録が見つかり、また他の文献とも照合した結果、この地を掘り返したところ台座や遺品などが出土したそうです。しかし遺骨は見つからなかったとか…(んん!あったけど発表しなかったとか?)
他にも京都に埋葬されているとの説もありますので、ここに必ず埋葬されているとは言えないようです。

「新選組」といえば、熱狂的なファンが多いもののアンチも多く、ただの人斬り集団とか、池田屋事件では「勤皇の志士」を多数殺害して明治維新を遅らせた元凶(近藤さんが斬首されたのも池田屋事件の恨み)とも言われますが、私論を言えば、「新選組=警察(トップは会津藩)」が「勤皇の志士と称するテロリスト集団」を取り締まっただけじゃないの?それのどこが悪いの?現代でも同じことしてるやん!警察がテロリストを取り締まらなくて誰がやるの?(もちろん異論はあるでしょうが私論なので(^_^;))

幕末の京都はとにかく物騒で、テロが横行し「天誅!」と称して連日の様に幕府の役人や商人が殺され、首が晒されるという最悪な状況。その京都へ臨時警察として幕府から「京都守護職」を無理やり押し付けられて赴任したのが「会津藩」です。テロリスト取締りの実行部隊=機動隊員が「新選組」という図式だと思いますが違うかなぁ?
特に会津藩のトップ「松平容保(まつだいらかたもり)」という殿様は勤皇家で、時の天皇「孝明帝」からの信頼も厚く、誠実さを愛されて「朕の傍から離れるでない」とまで言われた人でした。

そんな勤皇家の「会津藩」と「新選組」が何故「逆賊」に貶められたのか?
あ、またまた熱く語りそうなので止めます(^_^;)せっかく前半写真が多くて見やすかったのにね…

誠の旗
「誠」の旗が色褪せて侘しいですね…
こういう物は飾らない方がよくない?

首塚
下の四角な台座ごと埋められていたんですかね?
台座に見覚えのある名前が…

法蔵寺022
一番右に「土方歳三」の名前が!この首塚建立に関わってたのかな?

土方001
この人です。新選組、鬼の副長! 「土方歳三」
こちらは自作フィギュアです(^_^;)
「函館戦争」で雪原に立つ洋装の土方さんのイメージで作っています。

徳川幕府に殉じた近藤勇、もし本当にここに遺骨が眠っているなら、家康公のゆかりのお寺に葬って貰って幸せでしょうね…合掌。
以上「岡崎に眠る新選組局長 近藤勇」でした。

そうそう、御朱印の紹介を忘れるところでした!御朱印紹介の記事なのか、ただ熱く語っているだけなのか、フィギュアの紹介なのか、分からんようになってますm(_ _)m

法蔵寺G
住職の奥様に書いていただいた御朱印です。
右から、奉拝 日付 阿弥陀如来 法蔵寺です。
こちらは葵の御紋の御朱印はございません(*^_^*)

次回は、未定です。新年から墓だの、首塚だのは迷惑でしょうし(笑)

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滝山寺と源頼朝の関係は?

  • 2012/12/23(日) 21:22:18

滝山寺 (たきさんじ) ■所在地/愛知県岡崎市滝町山籠107 ■山号/吉祥陀羅尼山(きっしょうだらにさん) ■宗派/天台宗 ■本尊/薬師如来 ■創建/伝・天武天皇時代(673年〜686年) ■開基/伝・役小角(えんのおづぬ・えんのぎょうじゃ)

(参拝日/平成24年11月18日)

ここ滝山寺は、寺伝によると奈良時代、 天武天皇の命で役行者(えんのぎょうじゃ)が薬師如来像を祀る吉祥寺として創建したとされ、 保安年間(1120年〜1123年)天台宗の仏泉上人永救が再興したといわれます。
「役行者」として知られる役小角(えんのおづぬ)は奈良時代の伝説的な山岳修行者で、役行者草創の伝承をもつ寺院は日本各地にあり、その多くが山岳信仰、水源信仰に関わる山寺です。滝山寺もそうした山岳信仰の場であったと考えられています。

平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142年〜1205年)が源頼朝の従兄弟であったため、鎌倉幕府の庇護を受け、寺に伝わる観音菩薩及び両脇侍像は、頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201年)、寛伝が頼朝追善のため仏師運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)父子に作らせたものといい、様式的にも運慶一派の作と伝承されてきました。
南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け、また家康公も度々参拝し、同じ敷地内に東照宮を祀ることから徳川幕府の厚い庇護を受けています。

滝山025
「瀧山寺」「滝山東照宮」案内図です。

やっぱりここのお寺は凄いです。鎌倉幕府・足利幕府・江戸幕府、将軍のオールスター勢揃い(*^_^*)
特に「寛伝」という住職さんは「源頼朝」の母方の従兄弟というのにもびっくり!

最初の記事で「源頼朝」は愛知県出身と書いたと思いますが、頼朝は源義朝の三男として尾張の国熱田(現在の名古屋市熱田区)に生まれました。母親は熱田神宮の大宮司の娘です。
「寛伝」という住職さんも母方の従兄弟という関係から愛知県に住んでおり、ここ滝山寺の住職になったと考えられます(これは私の説)。あまり詳しいことは分からないそうです。

源頼朝
こちらが有名な京都の神護寺蔵の源頼朝像です。

私達の世代は歴史の授業でこの人物を「源頼朝」と習い、教科書にも「源頼朝像」として載っていました。ところがこの人、まったく違う人物らしいですね?
(ええーっ!そうなの…?そんな事いまさら言われても(>_<))ですが、今の教科書には「伝・源頼朝像」とちゃんと「伝」の字が付いているんだそうです。

じゃあこの人は誰?ですが、どうも足利尊氏の弟の「足利直義(あしかがただよし)」だと…。
その兄貴の「足利尊氏」の有名な肖像画、黒い馬に乗り大太刀を肩にかついだボサボサ頭で髭面の人、あれも足利尊氏じゃないんだとか…(あの人もうちらの教科書には、尊氏って載ってたんですけど!)やっぱり今の教科書には「伝・足利尊氏」になってるそうな(笑)
「武田信玄」って載ってた坊主頭で、もみあげと口髭が立派な太った人も違うんだって。こんなに後から違ってたぁ!というのがいっぱい出て来るんなら、最初から全部「伝○○」って付けときゃいいのにね…

話しをもどします。最初に書いたように、寛伝という住職さんが運慶に作らせた仏像が宝物殿で拝見出来ると知り、さっそく宝物殿へ伺いました。
運慶の作といえば、奈良東大寺南大門の金剛力士立像(国宝)が特に有名です。鎌倉時代最高の仏師と言われ、ダイナミックで力強くリアリズムな作風で「慶派」という新しい仏像彫刻の流れを作った人物です。
そんな運慶仏がここにあるんや…それも間近でみられるかも?楽しみぃ!

滝山0240
左が木造帝釈天立像、中が木造観音菩薩立像、右が木造梵天立像です。

重要文化財で撮影禁止なので、いずれの写真もパンフレットからお借りしました。

滝山0190
こちらが左の「木造帝釈天立像」

滝山021
こちらは右の「木造梵天立像」

滝山020
そして中央の「木造観音菩薩立像」

三尊とも間近で拝見出来ました。ガラスケースも何にもありません…(セキュリティ大丈夫?)
それにしてもこの三尊、いつまで拝見してても見飽きません。さすが運慶仏!

しかし、「木造観音菩薩立像」には、まだとんでもない秘密が隠されていました…

この三尊は頼朝の従兄弟の「寛伝」という住職さんが頼朝の三回忌に運慶に作らせたと書きましたが、完成時、像内に頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納めたという伝承もあったそうです。
じゃあ調べて見ようと、X線撮影をしたところ観音像の像内、口の辺りに人間の歯らしきものが固定されているのを発見!伝承は本当で、この三尊も運慶一派の作と改めて認められました。(愛知県の運慶仏はここだけ)

んんん…!お寺の伝承って馬鹿にできませんね〜頼朝の歯と、あごひげがここにあるなんて全然知らなかった。

滝山0220
この「木造観音菩薩立像」をX線撮影したんですね…
そうしたら…

滝山023
こんなんが写っちゃったと…ちょうど口の部分に本物の歯が納まっています。

いやぁー!滝山寺恐るべし!!宝物殿では実物が拝見できますので興味のある方はぜひお参りください。
ここで一つ疑問が湧きませんか?鎌倉時代の仏さんが何故こんなに綺麗な彩色が残っているのか?(秘仏でお厨子に入っているわけではありません)
どうも明治時代に塗り直されているようです。後彩色(あとさいしき)がなければたぶん国宝ですね。

あとこの宝物殿には、信長から家康公へ宛てた鯉を送って貰ったお礼状(有名な「天下布武」の印判入り)など、歴史マニアにはたまらないお宝がいっぱいです。
こちらも、二月の「鬼祭り」以外は参拝客も少なくお勧めの穴場です。

瀧山寺G
やっと御朱印の紹介です。こちらは宝物殿で書いていただきました。
右から、奉拝 日付 薬師如来 瀧山寺です。

またまた長文になってしまいましたm(_ _)m ←ほんとに懲りんやっちゃ!学習能力0!

今回は家康公の出番が少なかった…次回は、未定です。(考え中、たぶんまた岡崎市)

こちらも日本三大東照宮だそうです

  • 2012/12/22(土) 21:59:50

滝山東照宮(たきさんとうしょうぐう) ■所在地/愛知県岡崎市滝町山籠107 ■御祭神/東照大権現(徳川家康公) ■創建/正保3年(1646年)

(参拝日/平成24年11月18日)

ここ滝山東照宮は、愛知県岡崎市滝町にあり日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つとされています。
正保元年(1644年)、三代将軍 徳川家光は祖父家康公が誕生した岡崎城の近くにも東照宮をと考え、古刹でもあり家康公もよく訪れていた滝山寺を選定し、ここに観請せよということで、正保3年(1646年)9月17日に滝山寺に隣接して創建されました。
昭和28年(1953年)11月、本殿ほかが国の重要文化財に指定され、昭和44年(1969年)より社殿の復元・大修理を行い昭和46年(1971年)に完工しました。

いやぁー、ここでもやりましたか家光さん。
お陰様で私たち後世の人間がこんな所で東照宮を拝めるのも、みんな貴方のお陰です!ありがとうございますm(._.)m
また、社殿の復元・修理をしていただいた東照宮さん、岡崎市さん、お礼を申し上げます!

それに比べて、しっかりしろよ名古屋東照宮!(思わず怒りたくなるわ…)
今のままだと誰れも名古屋に観光に来んくなるぞ。「おもてなし武将隊」ブームなんかいつまでも続かんわ!
と言っても、ここ岡崎市にも「グレート家康公「葵」武将隊」なるものがあるんですが…んんん?
まあ、歴女にはどちらも人気があるようですがね。正直かんべんして欲しいです。
こういう一過性のものはいつか無くなる運命かと…。以前、あちこちに「◯◯戦国時代村」なるものが作られましたが知らないうちに消えてるし…もっと真に歴史のある建造物の修理、復元に力を注いでほしいと思う今日この頃です。
どうも歳を取るとグチばかり多くなっていかんわ(笑)

ここは、以前ご紹介した大樹寺がある岡崎市街を東へ4kmほどの静かな山間部にあります。青木川を渡り細い道に入ると大きな山門が見えてきます。これが「滝山寺」の仁王門です。(何かはじめて紀行文らしくなってきたな…)

滝山010
こちらがその仁王門です。

滝山寺、滝山東照宮へはここから500mくらい走ります。やがて瀧山寺・滝山東照宮の看板が現れ、鳥居の横に小さな駐車場がありますがそこを左折。山の中を100mほど上がった所に大きな駐車場があり、そこへ車を停め鳥居をくぐり鬱蒼とした森の中の石段を登って行きます。(季節によっては蜂に注意!)

滝山東照宮01
ほんとうに鬱蒼としています。

100段程の石段を息を切らせながら登ると、突然目の前が開け広い境内に出ます。その先に森に囲まれた立派なお堂が現れますが、これが滝山寺です。

滝山011
こちらですね「滝山寺」優美な姿です!右に見える緑の屋根が「東照宮」。

滝山013
この本堂は室町時代前期の建立で寄棟造。檜皮葺きの屋根の勾配が実に素晴らしい!

もちろん先程の仁王門ともども国指定の重要文化財ですが、実はこちらのお寺には、もっと凄い寺宝が。これは改めてご紹介します。んんん…侮れんぞ岡崎市!(何回も言いたくないけど名古屋、完全に負けてます(T . T))
まあ、昔から名古屋のある「尾張」と岡崎のある「三河」は仲が悪いとはいわれてますが…

滝山016
こちらが東照宮の境内です。左の屋根が隣接の滝山寺、右手が社務所ですが閉まってます。
ここもいろいろあるんだなぁーこれが…

滝山東照宮03
全景が見えてきました。手前の屋根が「拝殿」奥の千木が乗った屋根が「本殿」です。
それにしてもやけに石灯籠が多いですね…

滝山東照宮02
少し回り込んで見ます。左が「本殿」の屋根、右側が「中門」の屋根。

滝山東照宮05
重要文化財の「拝殿」です。この日は社務所も閉まっており拝殿の扉も閉まっています。

滝山東照宮06
扉が開いているとこんな感じで「本殿」を拝むことが出来ます。

滝山東照宮07
近寄って見ると若干塗りが落ちていますが、やはり彩色・彫刻とも素晴らしいです。

滝山東照宮09
「蟇股(かえるまた・梁上に置かれる部材)」には鳥の彫刻がありますが、なんの鳥かな?
梁(はり)には葵の御紋です。

滝山東照宮08
「木鼻(きばな・頭貫に付けられた彫刻)」の唐獅子がなんか可愛い。柱には青海波に葵の御紋。

滝山003
「本殿」です。階段や扉の塗りの剥落が激しいですが、軒下の彩色は十分に見ごたえがあります。
いっぱい画像を紹介したいのですがキリがないのでここまでに(^^;)

滝山東照宮04
境内に入った時から気になったのですが、あまり広くもない敷地に石灯籠がギッシリ!

滝山東照宮10
こんな状態…二列縦隊になってます(^-^) 各大名家からの寄進のようです。

浅野灯籠
こちらは参道を登った所にある「播州赤穂城主
浅野内匠頭永(長)直」寄進の灯籠です。

「浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)」といっても、あの「忠臣蔵」で有名な、元禄赤穂事件で切腹した浅野の殿様ではありません。祖父の初代 播州赤穂藩主「浅野長直(あさのながなお)」寄進の灯籠です。
江戸城中で吉良さんに切りつけて切腹したのは、3代藩主の「浅野長矩(あさのながのり)」なので、なんか紛らわしいですね。

会津灯籠
こちらが浅野さんの隣にある「保科正之(ほしな
まさゆき)公」寄進の灯籠です。
これにはびっくり!

保科正之公」という方は家康公の孫で、二代将軍 秀忠の「隠し子」三代将軍 家光にとっては異母弟です。秀忠の正室「江(お江与)」という女性は大変嫉妬深く、秀忠に側室を持つことを許さなかったそうです。

そんな秀忠が生涯ただ一度、浮気をして出来た子供がこの「保科正之公」でした。幼名を幸松といいます。
NHKの大河ドラマ「江」では江がこの幸松を可愛がり、家光、忠長と三兄弟を一緒に仲良く遊ばせている場面がありましたが、あれはとんでもない話で事実は、江は嫉妬のあまり幸松を二度も暗殺しようとしたといわれています。(しかし、あの大河ドラマ「江」はほんと酷かったなぁー!あれで街起し計画した所は可哀そう)危険を感じた秀忠の側近が、当時江戸城内に住んでいた武田信玄の娘「見性院」に幸松を預けて養育を頼み、後に桜で有名な信州高遠藩の保科家へ養子に出されます。

武田信玄の娘の見性院さんですが、毅然とした人で、江から幸松を引き渡せと要求されても頑として突っぱねたといわれます。正之公の命の恩人でもあり慈悲深く、後に名君となる正之公の人間形成に大きな影響を与えた女性です。

秀忠の死後は家光にその実直で誠実な人柄を愛され、会津若松35万石を与えられ会津松平家の藩祖となりますが、この正之公の実直で誠実な人柄が作った家風が幕末には裏目に出て、「会津藩の悲劇」を生むことになってしまいます。
この話し、来年の大河ドラマ「八重の桜」でやると思いますが、私はたぶん見ない。(最近の大河ドラマに失望中だからね…)
しかし「会津藩の悲劇」いつまで続くんでしょう?この前の福島の原発事故といい、そういえばあの時の首相は確か長州出身だったな…、今回の出戻り首相も長州出身だしな。首相、もう会津を苛めないでね。

正之公の有名なエピソードで、家光に「お前は余の弟であるから松平の姓と葵の紋の使用を許す」と言われたのを固辞し続け、養子として恩を受けた「保科」姓を生涯名乗り、葵の紋も使わなかったという話があります。(会津保科家が松平姓を名乗り葵の紋を使ったのは、やっと3代目になってからです。)
自分を養育してくれた見性院、養子にしてくれた保科家。大大名に取り立ててくれた将軍家の恩を忘れたことは生涯なかったそうです。(うう…泣ける話しやな!)

江戸時代屈指の名君と言われた方ですが、あまり有名でないのは何故か?これ以上書くとまた長文に…(写真でごまかしてるけど毎回長文)
詳しい事が知りたい!と思った方は「保科正之」「会津藩の悲劇」で検索してみてください。

そんな保科正之公の寄進の石灯籠がここにあったことにびっくりでした。

会津灯籠
東照宮大権現御寳前
慶安四辛卯年四月十七日
會津従四位上少将源朝臣正之
と刻んであります。

最後の「源朝臣正之(みなもとのあそんまさゆき)」が保科正之公の正式な(公式文書に署名する)名乗りです。
「源」は、家康公が清和源氏の子孫を称していたため、家康公の孫である正之公も当然「源」を名乗っています。
正之公が石灯籠を寄進した慶安4年当時の正式な名乗りは「保科従四位上肥後守左近衛少将源朝臣正之」というメチャクチャ長い名前です。(とても覚えられんな…)
普通には「保科肥後守(ほしなひごのかみ)」と呼ばれていました。

家康公の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」が氏(本姓)、「朝臣」が古代の姓(かばね、古代に存在した家の家格)、「家康」が諱(いみな、つまり本名)または実名(じつみょう)になります。
家康公の公式文書などには単に「源朝臣家康(みなもとのあそんいえやす)花押(手書きの印)」としてあります。昔の文書を見る機会があれば確認してみてください。私的な文書などには「いへやす」って書いています。

実は、こちらへ御朱印をいただきに参拝したのは三度目です。一度目は仕事の都合(無職ではないです(*^_^*))で平日に。他のサイトで社務所が開いているのは土日だけと書いてあったんですが、ひょっとして祭日なら?と思い二度目に参拝するもアウト!
やっと土曜日に三度目の参拝で御朱印をいただく事ができました。

ところでタイトルの日本三大東照宮ですが、以前参拝の「鳳来寺山東照宮」も日本三大東照宮と名乗っておられるので一応暫定3位にしておきましたが、こちらは…ちょっと微妙ですので今のところ4位かな?ほんとは3位でもいいんだけどね(笑)

瀧山東照宮G
やっといただけた御朱印。でも書置きで御朱印帳に糊で
貼りました(><)←これで4位に陥落か?
右から、奉拝 滝山東照宮 日付(スタンプ)です。

次は隣接の「滝山寺」をご紹介します。

ここにも東照宮が?でも宮司さんは…

  • 2012/12/22(土) 10:48:22

飛騨東照宮 (ひだとうしょうぐう) ■所在地/岐阜県高山市西之一色町3丁目1004番地 ■御祭神/徳川家康公 、摂社/金龍神社(御祭神/金森長近公)■創建/元和5年(1619年)■別名/松泰寺・旧松泰寺

(参拝日/平成24年10月28日)

高山藩3代藩主 金森重頼(かなもりしげより/初代 金森長近の孫)が、元和5年(1619年)に高山城の城内に東照権現社を祀り、寛永5年(1628年)に西之一色村の鴻巣の森尾崎に遷座したのが飛騨東照宮の始りです。

その後、神仏習合の影響により、東照宮には薬師如来が祀られるようになり、松泰寺とも呼ばれるようになりました。文化15年(1818年)に現在地に遷座し併せて大改修が行なわれ、境内には金龍神社(祭神/金森長近)が祀られ、明治初期の神仏分離により「東照宮」に改称しました。
正式な社号は「東照宮」ですが、地名を冠して「飛騨東照宮」と称されています。江戸期の代表的な霊廟建築「権現造り」と呼ばれ、廟建築としては飛騨地方で唯一の事例だそうです。

ここは岐阜県有数の観光地、高山市にあります。高山市街の西側の丘陵に位置し、国道41号線(高山バイパス)の「西之一色町」交差点を西に進むと(古い町並みなどの観光名所の反対側)すぐ東照宮です。
ここがネックなんですが、観光名所の反対方向にあるんですね。
本当はこの近くにも「飛騨高山美術館」「民俗村飛騨の里」などの名所もありますが、ここはちょっと分かりにくい場所です。カーナビで「飛騨東照宮」と入れればヒットはします。
高山には何回も来たけど古い町並みには飽きたという方には、興味のある人以外は来ない所ですので、とても静かでお薦めな穴場です。当然、土産物店などはありません(笑)。

ちなみに飛騨の知人に東照宮を知っているか、何人かに聞いてみましたが…
「ああ、知っとる。あの桜山公園の」←それ高山祭りの桜山八幡宮だし…(^_^;)
「それ城山やったかな?」←お寺はあるけど神社ないし…(^_^;)
飛騨の里の近くですが…
「そおなんや〜、知らなんだ」「そおいえば見たことあるような」など認知度の低さは名古屋東照宮並みです。今まで三回ほど参拝しましたが、当然のことに一度も観光客には会いませんでした(笑)

でも、知ってる人はいるもので御朱印マニアのブログでは、ここの御朱印をいただいて公開されている方が何人かいます。
先日もある方のブログを見ていたら「飛騨東照宮にやってきました。時間が遅かったのか社務所が閉まっていて残念!今夜は高山泊まりで明日リベンジ。」とありました。が、その方は翌日もたぶん御朱印はいただけなかったでしょう。時間が遅かったのではなく、この社務所いつも閉まってるんです(T . T)

飛騨014
こちらがいつも閉まっている社務所です。左隅に車が停まっている…
ということは(^^)

今回、三回目の参拝でやっと宮司さんがいらっしゃる気配が…まずはさっそく参拝を。

飛騨008
境内にある立派な東照宮の社号標です。

飛騨011
こちらが「神橋」ですがこの橋は渡ることができません。

飛騨
神橋の先の石段を登ると本殿です。紅葉が綺麗です!

飛騨012
神橋の左手の赤いお社が金森長近を祀る金龍神社です。

飛騨009
かなり急な石段です。息が切れるう…

飛騨007
石段の途中から振り返りました。高台にあるのでお天気がいい時は
乗鞍岳も見えますがこの日は小雨模様、でも紅葉が綺麗です。

飛騨003
飛騨004
拝殿ですがこれから先は登れませんのでここで参拝します。
質素ですがなんかいい感じ…

飛騨015
こちらのお賽銭箱にももちろん葵の御紋が。お正月までには新しい
しめ縄に替えてくださいね。

飛騨唐門
拝殿の唐門です。本殿はこの奥ですので残念ながら下からは見えません。
唐門の彩色は落ちてしまっていますが、こちらは名古屋東照宮と違って
残念感がないのは何故でしょう?んん…なんか許せちゃいます(笑)

飛騨013
こちらは石段の下の金龍神社です。

飛騨002
金龍神社、高山藩祖の金森長近を祀る神社です。朱塗りのお社と紅葉がいいですね。

ゆっくりしていると宮司さんが…ということで早速社務所へ向かいました。扉が開いていたので「御朱印をいただけますか?」と声を掛けたら、快く書いていただきました。
「よくお参りいただきました。どちらからお参りですか?」と聞かれたので、名古屋から来たんですが、いつも社務所が閉まっていて…と。
お話しをお聞きすると、いつもは常駐はされていないとの事で、御祈祷などがある時に近くの自宅から出掛けて来られるそうです。どうりで毎回閉まってたんですね(^_^;)
この日は、境内に工事業者さんが入るので来ていたとのお話しでした。実は社務所の扉に「留守をしています 御用の方は電話してください」と電話番号が書いてあったのは知っていたんですが、御朱印(300円)のために宮司さんを呼びつけるのも何だかなぁ…で。
こちらの御朱印がどうしてもいただきたい方は、宮司さんに電話してみてくださいね(笑)

御朱印集めをしていると、あまり参拝客が来ない所では社務所、寺務所が閉まっている事がよくあります。呼び鈴を押しても誰も出て来てくれない時もあります。しつこく呼び鈴を押し続けるか、諦めてリベンジするか…
私は三回呼び鈴を押してもダメな時は諦めてリベンジすることにしています。どっちにしても根気が必要ですね。(あと暇とお金もね!)

飛騨東照宮G
こちらが三回目の参拝でやっといただけた御朱印です。
(高山まで来るのは結構大変!)
右から、高山市西郊 飛騨東照宮 摂社金龍神社
御祭神高山市始祖 金森長近公 日付です。

いやぁー、東照宮の御朱印で一番長い墨書きです。東照宮(家康公)と金龍神社(金森長近公)が横並びに書いてあります。江戸時代なら「無礼もの!」ですが、飛騨の人達は高山市の繁栄の元を築いた、金森長近公を今でも尊敬しているんですね。

他にも高山市、お隣りの国府町、飛騨市古川町で御朱印をいただいた寺社がありますが、改めてご紹介します。
次回は、また岡崎市にもどります。

結婚式は派手だけど東照宮は地味です

  • 2012/12/21(金) 10:07:07

名古屋東照宮(なごやとうしょうぐう) ■所在地/愛知県名古屋市中区丸の内2-3-37 ■御祭神/徳川家康公 ■創建/元和5年9月17日(1619年)

(参拝日/平成24年10月12日)

ここ名古屋東照宮は元和 5年(1619年) 9月17日、初代尾張藩主徳川義直(家康公9男)が名古屋城内の三の丸に、南光坊天海を導師として父である家康公の神像を祀り、東照宮を造営したのがはじまりです。創建当時、境内は3600坪もあったといい、城内に祀られた東照宮としては最も豪華であったといわれる社殿は、権現造で、内外に彩色がほどこされた壮麗なものでした。

名古屋006
尾張名所図会に描かれた「三の丸 御宮の圖」(三の丸東照宮)です。
凄い規模ですね…広〜い!

江戸時代を通じて、東照宮祭は亀王天王社(現在の那古野神社)の天王祭、若宮八幡社の若宮祭とならんで名古屋三大祭とされていました。なかでも東照宮祭は戦前まで、名古屋最大の祭りとして親しまれていました。
江戸時代、三之丸の東照宮から本町通(当時の名古屋のメインストリート)を下り末広町の御旅所まで、三基の神輿と山車が繰り出され、総勢4000名を超える人々が行列を作って練り歩いていたといわれています。

明治維新後、名古屋鎮台が名古屋城内に設置されることになり、明治 9年(1876年)10月、名古屋東照宮は、旧藩立校明倫堂跡の現在地に遷座されました。創建以来の権現造の本殿、楼門、唐門、透塀などの建物が移築され、当時の国宝に指定されています。しかし、昭和20年(1945年)の空襲で義直創建以来の本殿、主要建造物を全て焼失しました。

名古屋東照宮古写真
昭和初期の「名古屋東照宮」です。古い写真ですが、よーく見ると拝殿の豪華さが何となく分かるような…。上の尾張名所図会に描かれている社殿をそのまま移築したこともよく分かりますね。

三の丸模型
こちらは東京大学工学部建築学科蔵の「三の丸東照宮社殿模型」です。

戦前に制作された戦災消失前の精密模型で、左から拝殿、石の間、本殿です。この模型を見ると屋根は赤瓦か赤銅で葺かれていたようです。当時の華麗な社殿が偲ばれますね。空襲で焼けてしまったのが実に惜しいです!今残っていればきっと名古屋の観光名所になってたのに…

現在の社殿は昭和29年(1954年) 尾張徳川家菩提所の建中寺より義直の正室、春姫の御霊屋(おたまや)を移築したものです。この御霊屋は慶安4年(1651年)に万松寺境内に建てられ、大正3年(1914年) に建中寺へ移築されていたものでした。
現在は愛知県の有形文化財に、また名古屋市の都市景観重要建築物に指定されています。

以上が名古屋東照宮の由来ですが、ところがここを知っている人って案外少ないんですね…
以前、友人に「名古屋東照宮って知っとるだろぉー」と聞いたところ「知らぁ〜ん、それどこだぁー」。「なんでぇー?お城の近くにあるがぁー、丸の内んとこぉー」と言ったら、こんな答えが…
「あー、そういやぁーあそこに何んかあったなぁー、あの薄暗い陰気なとこかぁー?」「そぉーそぉー、それが東照宮だわぁ」(ここまで名古屋弁でお願いします)
というくらいの超地味〜っな存在ですf^_^;)
名古屋城の南、三の丸官庁街から外堀通りを挟んだ南側にありますが、東照宮と隣り合わせの「那古野神社(なごのじんじゃ)」ともども、地元の方の散歩コースになっているくらいで、観光客などはほとんど来ません(たぶん…)。私が参拝した時も地元の散歩の人しか見ませんでしたf^_^;)
ひっそりしてますので、静かな場所が好きな方、歴史マニアの方は名古屋城だけでなく東照宮にもぜひ。(笑)

名古屋008
これがその陰気な神社…いや、立派な「名古屋東照宮」の入口です。

名古屋002
こちらが境内です。やっぱりなんか陰気?たぶん植木のせいだと思いますが、ゴチャゴチャして狭苦しい感じがします。

名古屋001
植木の手入れをしていただくと、もう少しスッキリするのでは?

名古屋004
明るい時に撮影したのでまあまあ見れますが、怖くて夜はここには来たくない…

名古屋005
奥が拝殿です。しかし木が邪魔ですね…何とかならんのかな?
唐門も塗りが剥げてて地味です。透塀の意匠も割と単純。

名古屋003
拝殿ですが、尾張藩祖の正室の御霊屋だっただけに、以前はかなり豪華だったことが分かります。今は彩色が残っているのかいないのか分からない状態です。

「名古屋東照宮」ですが、やはり東照宮というイメージではないです。拝殿も建中寺の御霊屋を移築したものなので、どちらかというと「お寺」という感じでしょうか。お寺として見ればそれなりに侘び感もあって、好きな人はこれがいいのかも知れないですね。しかし、東照宮というからには修復くらいしてもらっても良さそうな気がします。徳川御三家筆頭の「名古屋東照宮」にしては寂し過ぎる(T . T)
名古屋は空襲で丸焼けになっていますので「国宝名古屋城」をはじめ、こちらの東照宮、その他の寺社も古い建物は残っていないのは仕方ないんですが非常に残念です。(名古屋市には現在国宝の建物は無し)
でも「徳川美術館」、ここは凄い!国宝、重文、お宝がいっぱいで超お薦めです。おもてなし武将隊を見るくらいなら徳川美術館へぜひ!

河村名古屋市長、名古屋城本丸御殿の再建もいいけどここを何とかしてくれ!名古屋っ子としては、岡崎市からこちらへ周ってきて特にそう感じました。あーあ、戦前の東照宮を見たかったなぁ!
以上、「結婚式は派手だけど(最近はジミ婚もあるらしい)東照宮は地味です」でした。

名古屋東照宮G
こちらが宮司の奥様にいただいた御朱印です。
右から、奉拝 東照宮 日付です。

悪口ばかり書いちゃったけど、葵の御紋を二つも押していただいたので今回は許す!

次回は、えっ?こんな所にも東照宮が?Part2(勝手に作りました)、岐阜県高山市の「飛騨東照宮」をご紹介します。ここがまた御朱印をいただくのに苦労しました(T . T) 詳しくは次回の記事にて。

家康公の産土神でも東照宮じゃないの?

  • 2012/12/20(木) 21:35:58

六所神社(ろくしょじんじゃ) ■所在地/愛知県岡崎市明大寺町耳取44 ■主祭神/猿田彦命、塩土老翁命、事勝国勝長狭命 ■ 寛永13年(1636年)再建

(参拝日/平成24年10月8日)

社伝によると六所神社は37代斎明天皇(655年~661年)の勅願により、奥州塩竃六所大明神を勧請され、神領をご寄進のうえ創建されました。その後、50代桓武天皇(781年~806年)のとき「坂上田村麻呂」が東夷(えみし)征伐のためご下向の折に祈願、桓武天皇の勅許のうえ再建され「六所大明神」の勅額を下賜されたと伝えています。

時代は下がり、松平氏(徳川氏)発祥の地である松平郷(現 豊田市松平町付近)の六所神社(現 豊田市坂上町)より祭神の勧請を受けて再建。、家康公の産土神(うぶすながみ)として江戸幕府の厚い保護を受けてきました。

産土神(うぶすながみ)というのは、神道において、その者が生まれた土地の守護神を指します。生まれる前から死んだ後までを守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられています。

現在の社殿は、寛永11年から13年(1634年~36年)にかけて三代将軍家光(またまた家光です)が「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」として本殿、幣殿、拝殿を連結し華麗な彩色を施した権現造の様式で造営したものです。
家光はここを、崇拝する家康公を守護した神社だから他の神社とは違うんだよ。という事で増改築したんですね。しかし家光さん、超絶の建築マニアですね〜(こりゃいくら金があっても足らんわい!)

ところで、この神社は名鉄名古屋本線・東岡崎駅の南南東約300mに鎮座しています。名鉄名古屋本線北の道路脇に「一の両部鳥居」が建っています。が、しかーしぃ…

六所010
道路から「一の両部鳥居」を見ています。右には「縣社 六所神社」の社号標。
ここからが参道で、当然この先がお社です。

六所013
近寄ると左には「徳川家康公産土神」の石柱が…
で、しばらく「一の両部鳥居」の奥を見ていると…

六所011
んんん???これって…

某TV番組のナレーション風に言うなら「まあ、何ということでしょう。参道を横切って電車が走っているではありませんか…」
この赤い電車は「名鉄電車」です。
うわぁ〜綺麗!赤い鳥居と赤い電車がベストマッチ!
あ、いやそいうことじゃなくて…

六所012
名鉄名古屋本線ですので複線です。踏切の向こうが
また松並木の参道になります。

またしても伊賀八幡宮の参道と同じく分断されています。それも線路で。大きい神社の参道は結構、一の鳥居から本殿まで距離もあるので道路で分断されている所がありますが、これって写真を見ても分かると思うんですが、鳥居から線路までは僅かな距離なんですよね。もう少し何とかならなかったんでしょうか?線路をずらすとか、鳥居をずらしていただくとかね…
鉄道ジオラマで、よくこういう風景がありますね、お宮の鳥居の脇を電車が走ってのどかだなぁ~みたいなのが。あれでも参道を横切ってるのなんかないから。ちゃんと鳥居の後ろじゃなく、前に線路を敷いてます。

神様のお通りになる道を、電車がひっきりなしに横切って、ガーガー走りまくるのはいかがなものか?と、それも名鉄本線だし…
当然、神社の方が古くからこの場所にいらっしゃるので、線路をずらすのが筋だとは思いますがね。
まあ今更言っても何ともならんわな…

六所008
気を取り直して松並木の参道を行きました。

六所001
階段を登ると「楼門」です。この写真では、なだらかに見えますがかなり
急な階段。またこちらは家康公の産土神であるとして格式も高く、5万石
以上の大名しかこの階段を登る事は出来なかったそうです。

六所002
階段の途中で「楼門」を煽って撮ろうとするて後ろにコケそうになります。
危ない、危ない!

六所003
「六所大明神」の扁額が掛かります。

六所004
かなり複雑な由緒があるのに、このあっさりした由緒書(笑)
私の書くだらだらブログの記事も見習わなきゃね。

六所007
ここにも葵の御紋の「神馬」が。うううーん!

六所005
こちらが「拝殿」です。当然、重要文化財。うううーん!

六所015
拝殿の唐破風をのぞきました。やっぱりというか、うう…(止めときます)

六所014
いいですね!こういう彫刻大好きです。

六所016
「拝殿」と繋がる「本殿」の屋根、この破風が凄い!凄い!拝殿と違いすぎるーぅ!

六所017
まさに江戸初期の極彩建築の極致という感じです。本殿の内部はどうなってるんやろ?
やっぱりこの神社も、うううーん!

これだけの造形美、しかも東照宮様式の「権現造」+家康公の産土神なのに東照宮になってないのは何故なんでしょうか?家康公もお祀りすればよかったのに不思議です…

六所神社G
最後にこちらが宮司の奥様にいただいた御朱印です。女性の手らしく優しい墨書きです。
右から、奉拝 六所神社 日付です。

次は名古屋市の名古屋東照宮をご紹介します。

徳川家のパワースポット?

  • 2012/12/19(水) 13:40:51

伊賀八幡宮 (いがはちまんぐう) ■所在地/愛知県岡崎市伊賀町東郷中86 ■御祭神/応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、東照大権現(徳川家康公) ■創建/文明2年(1470年)

(参拝日/平成24年10月8日)

伊賀八幡宮は、松平四代親忠(ちかただ)が松平家の子孫繁栄の守護神、氏神として家運長久、子孫繁栄を祈願するため、三重県の伊賀から三州額田郡井田村(現在の岡崎市)へ社を移したのが始まりといわれています。
その後、松平家代々の祈願所となり、家康公も慶長16年(1611年)に社殿を造営。寛永13年(1636年)に 三代将軍の家光が社殿の増改築を命じ、祖父である東照大権現(とうしょうだいごんげん)家康公をあわせて祀りました。
このため伊賀八幡宮は将軍自らを祀る東照宮のひとつともなっています。

現在の社殿は空襲も免がれ家光が造営した当時のまま残っており、本殿、拝殿、透塀、随身門、神橋、鳥居など多くの建物が国の重要文化財に指定されています。(戦前は国宝指定)

家康公の伊賀八幡宮への尊敬の念はきわめて厚く、出陣の際にはここで戦勝祈願することが慣わしでした。「関ヶ原の戦い」や「大阪の陣」のときには神殿が鳴動し、鳥居が移動するなど不思議なことが起こったといわれています。まさに徳川家のパワースポット?←なんか無理やりこじつけたな(笑)

伊賀005
こちらが一の鳥居です。その奥が二の鳥居、奥に見える森がお社ですが
参道がブツ切れになっています。

開発が進んで鳥居の下が駐車場になっているわ、車道が横切っているわで寸断状態です。民家やマンション、商店のあるこの参道の辺りも本来は森で、全域が神域だったんでしょうね…
こういう風景は市街地にある神社でよく見かけますが、何か物悲しい感じがするのは私だけでしょうか?

伊賀010
こちらが二の鳥居、「徳川氏累代祈願所」の石柱があります。

こちらも周りのゴチャゴチャ感が何か悲しいですね。民家と駐車場に挟まれて鳥居だけがポツンと取り残されているようで、侘しささえ漂っています。一応参道だけは空けてあるのが救いです。

image.jpg
こちらが現在の御神域の案内板です。案内図の左下「石鳥居」は一の鳥居、
二の鳥居から200m程です。

伊賀011
伊賀川に掛かる「神橋」です。やっと神社らしくなってきました。

伊賀012
重要文化財の「石鳥居」です。蓮池に架かる石造りの太鼓橋が「神橋」。
こちらも重要文化財に指定されているためか、柵がしてあり一般の参拝客は渡れません。

伊賀013
重要文化財の「神橋」です。優雅なアーチ橋ですね。「神橋」は本来は
天皇の勅使、将軍しか渡ることができないそうです。

伊賀002
蓮池から見る「随神門」。こちらの蓮池は岡崎市の
ハスの花の名所にもなっています。
この季節は残念ながらもうダメですね(><)花が咲いて
いればいい写真になったのに…

伊賀009
「随神門」やはり重要文化財。優雅です…

伊賀014
うううーん!素晴らしい…

伊賀015
江戸初期の建築に欠かせないのが虎、龍、唐獅子などの彫刻ですね。
特に家康公は寅年の生まれですので、虎の彫刻は定番です。

伊賀016
伊賀017
随神門にお祀りしてある神域を守る老若二体の「随神様」です。
さすが!葵の御紋入の装束ですね。

日光東照宮の「随神様」は有名ですが、愛知県の神社でお祀りしているのは、ここ伊賀八幡宮だけだそうです。

伊賀018
境内です。手前が遥拝所で奥に見えるのが拝殿。
柵がしてありご祈祷の方以外は中へは入れません。

伊賀019
境内の「神馬」。こちらも葵の御紋入り!もう至れり尽せり状態(笑)

伊賀020
やはり重要文化財の「拝殿」、右奥が「本殿」です。

伊賀021
「拝殿」にももちろん素晴らしい彫刻が…うううーん!

伊賀八幡G
こちらが戴いた御朱印です。うううーん!(こればっかり^^;)
右から、三河国 岡崎市 東照大権現 伊賀八幡宮 日付です。

以上、一の鳥居、二の鳥居以外は「うううーん!」連発の素晴らしい神社でした。
どこが徳川家のパワースポット?と疑問に思われたでしょうが「神殿が鳴動し、鳥居が移動した…」以外にも、家康公の父、松平広忠の時代にも不思議なことがあったようですが、また長文になるので今回は止めときます(笑)

次回は、愛知県名古屋市の「名古屋東照宮」のご紹介です。

家康に過ぎたるものは二つあり

  • 2012/12/17(月) 17:58:30

龍城神社(たつきじんじゃ)岡崎東照宮 ■所在地/愛知県岡崎市康生町561 岡崎公園内 ■御祭神/徳川家康公、本多忠勝公、天神地祇、護国英霊 ■創建/寛永年間、徳川家康公を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀る

(参拝日/平成24年10月8日)

ここ龍城神社は、岡崎東照宮ともいわれ徳川家康公と、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康公の功臣として有名な本多忠勝を合わせて祀る神社です。

社伝によると、寛永年間のころ徳川家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀り、明和3年(1766年)、岡崎藩主本多忠粛により東照宮を岡崎城三の丸に遷座。本丸には本多忠勝を祭神(映世大明神)とする映世神社を創建。
明治9年(1876年)、東照宮を岡崎城本丸に遷座し映世神社と合祀して龍城神社に改称。明治13年(1880年)には岡崎東照宮に改称。大正元年(1912年)、再び龍城神社に改称。前身となった東照宮、映世神社はともに岡崎城の建物内に祀られていたため最初に社殿が造営されたのは明治9年(1876年)であったという。この社殿は昭和23年(1948年)に焼失し現在の社殿は昭和39年(1964年)の再建で、このさいに天神地祇、護国英霊を合祀し現在に至っています。

本多忠勝といえばタイトルにも書きましたが、「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」(「唐のかしら」は家康が集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜)といわれた徳川家きっての勇将です。幼い頃から家康公に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣。その後、生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及ぶも、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられています。

特に元亀3年(1572年)家康公が武田信玄に大敗北を喫した「三方ヶ原の合戦」の前哨戦「一言坂の戦い」で殿軍を努め、武田軍の馬場信春の部隊を相手に奮戦し、家康公率いる本隊を逃がす撤退戦を無事に完了。この時に忠勝は味方を退却させるために敵と味方両軍の間に割って入り、蜻蛉切り(トンボ切り・忠勝愛用の槍)を頭上高く振り回して踏み止まり、さらに武田軍が追撃しようとするたびに数度馬首を返し、見事な進退で殿軍を勤めています。(まるで見てきたようですが…)

この戦いの後に武田軍のある武将が忠勝の活躍を賞賛し、徳川家康には凄い家来がいる!「家康に過ぎたるものは二つあり 唐のかしらに本多平八」という忠勝を称える狂歌を書き有名になりました。
殿軍(しんがり)というのは退却戦ですので討死の可能性が高く、忠勝の祖父も家康公の父、松平広忠の重臣でしたが天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦いで敗北した松平広忠を逃がすため、身代わりとなり殿軍を務めて討死(父親も同じく討死)しています。
元亀元年(1570年)の織田・徳川軍VS浅井・朝倉軍の「姉川の戦い」では、家康公の本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える「単騎駆け」を敢行。『平八を死なすな!』と必死に忠勝を救おうとする徳川軍の行動が反撃となり、朝倉軍を打ち崩し、劣勢だった織田・徳川軍が勝利したといわれています。忠勝さん死ななくてよかった!

しかし、忠勝さん強い!かすり傷一つも負わなかった?普通は一軍の将は戦いで最前線に出る事はないから、怪我なんかしないのは当然でしょ?と思われがちですが、この忠勝さん戦場ではいつも軽装備。「姉川の戦い」に見るように「単騎懸け」で何度も敵陣に突っ込んで戦ったそうです。この逸話が本当ならとんでもなく強い武将という事になります。
同じ徳川四天王で「井伊の赤鬼」と恐れられた井伊直政も、やはり一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好んだ激烈な性格で、陣に留まって指揮を執ることはほとんどなかったそうですが、直政は重装備でも常にどこかに傷を負っていたといわれています。まあ、これが普通の感覚です(笑)

龍城005
こちらの画像が本多忠勝です。怖い顔ですね(T . T)
兜は「鹿角脇立兜」、肩からは自らが葬った敵を弔
うため、大数珠をさげています。

この有名な鹿の角の脇立ては、何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたものです。一見重く見えますが和紙の張りぼてですので軽いです。兜の鉢は鉄製なので前立て、脇立てまで鉄や金属だと重くてとても実戦には使えません。ほとんどが和紙か、軽い桐の木などで作られたようです。
前立て、脇立て=消耗品。現存する戦国時代の兜の前立てが欠損している例が多いのはそのせいなんですね。

龍城002
岡崎城公園にある本多平八郎忠勝の像です。
右手に持っている槍が「蜻蛉切り」 。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付き、「天下三名槍」の一つといわれています。(実はこの槍、徳川に祟りをなす例の村正であったとか…)

龍城001
出ました!真打ち!同じく岡崎城公園にある徳川家康公の像です。
家康公といえば、どうしてもこの小太りなイメージですね…
立派な像ですがやはりどこか狸親父風?

龍城003
龍城神社の隣が岡崎城です。今回は龍城神社がメインなので岡崎城は
何げにスルー(笑)

龍城004
こちらが龍城神社の拝殿ですがメインの割に画像はこれだけですf^_^;)

こちらの東照宮、昭和の再建ということで岡崎城とともに、コンクリート造りですので残念ながら建物自体に特に見るべきものはありません(あくまで私見ですが…)。

龍城G
龍城神社でいただいた御朱印です。
右から、岡崎東照宮 龍城神社(たつきじんじゃ)日付です。

建物に見るべきものがなくても、葵の御紋入りの御朱印をいただいただけで私的には、おKです(*^^*)

今回もまたまた長文、失礼いたしましたm(_ _)m
次回は、同じ岡崎市内の「伊賀八幡宮」をご紹介します。

松平・徳川氏発祥の地②

  • 2012/12/14(金) 16:25:14

高月院(こうげついん) ■所在地/豊田市松平町寒ヶ入44 ■宗派/浄土宗 ■本尊/阿弥陀如来 ■創建年/貞治6年(1367年)■開基/松平信重(在原信重)■正式名/本松山 高月院 寂静寺

(参拝日/平成24年10月5日)

松平東照宮から300mほど東へ歩いたところにあるのが高月院です。寺伝によれば、徳阿弥こと松平親氏がこの地に流れて来た頃、すでにこのあたりには寂静寺(じゃくじょうじ)と呼ばれるお寺が存在していたそうです。
「寂静寺」は在原(松平)信重(親氏の妻の父親)が建立したといわれ、親氏が1367年に本尊阿弥陀仏をはじめとした堂・塔のすべてを寄進してから「本松山 高月院 寂静寺」と改め、それ以来松平氏の菩提寺になったと伝えられています。

家康公は寺領百石を寄進し、以来、江戸幕府・歴代将軍により将軍家先祖の菩提所として手厚い保護を受けてきました。また高月院の住職は将軍の命で選任され、十万石待遇により東海道を籠で往復。人足8人、馬5頭の使役を許されていたといいますからまさに大名並みですね。
きっと道中は葵の御紋の付いたお籠に乗っていたんでしょうか…

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右に室町塀を見ながら高月院へ向かいます。左奥、白壁が見えるのが
高月院です。

画像 1861
彼岸花の向こうに高月院の白壁。

画像 1885
高月院の山門です。

現在の山門や本堂は、寛永18年(1641年)に徳川家光によって建立されたものです。家光、あちこちで頑張りますね~家康公ゆかりの寺社を訪ねると必ず家光の名前が出てきます。

画像 1887
家光建立の山門ですので「将軍門」と呼ばれているそうです。

画像 1880
高麗門形式の戸無し門です。高月院の額が掲げてあります。

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高月院の案内板です。

画像1886
画像 1888
将軍門をくぐると整備された参道がつづきます。

img_959822_16768548_6.jpg
本堂手前の山門の脇にある「仏足石」(お釈迦様の足跡を石に刻み
信仰の対象としたもの)です。

画像 1900
この山門をくぐればいよいよ本堂です。

画像 1882
本堂です。外からお参りさせていただいていると…

「どうぞ中へ入ってお参りください」の声。本堂内をお掃除されていた副住職さん(住職の息子さん)でした。この方、実はとてもお話好きな方だと後で分かるのですが…

画像 1840
本堂内陣です。手前には木魚がズラリと並んでいますね。

こちらのお寺の内陣には結界(ご本尊の前にある柵)が無いんです。普通はご本尊の所が段になって高くなっているか、結界があって近寄れない所が多いのに、実にオープンな感じがとても良かったです。
浄土宗のお寺なので、ご本尊の左におられるのは「法然上人」ですね。たぶん木彫彩色だと思いますがアップの画像はありません(撮影を躊躇したのが残念!!)。欄間には葵の御紋も彫ってあり完璧!

画像 1860
画像 1870
本堂の石段の上にある松平氏の墓所です。

画像 1901
中央が初代親氏、右が2代泰親、左が4代親忠夫人の墓塔です。

最後に御朱印をいただいたのですが、書き終わった副住職さんがいきなり「あなたは南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土へ本当に行けると思いますか?」「神や仏を信じますか?」と、どこかで聞いたような事を…
いきなり言われて返答に困りました(笑)。
私、「まあ信じてる方は信じてるんじゃないですか?」などと答えになってないような返事(笑)。
副住職さんからは今のお寺の現状やら、将来お寺は無くなるんじゃないかとか、こちらも母親の亡くなった時のお寺さんへのお布施が高い!どう思いますか?などと一時間近く話を…(実は先を急いでたので時計を見ながらですが)なかなか帰るきっかけが掴めなくて焦りました(笑)よっぽどお暇だったんでしょうね。
やっと開放されてホッと!みなさんも副住職さんに御朱印をいただく時には気を付けて下さいね(これ、オフレコで…)。あ、副住職さん、こんなブログきっと見ないよね?

高月院G
そんな副住職さんにいただいた御朱印です。
右から、松平 髙月院 南無阿弥陀仏 日付です。

次回は岡崎市に戻り、岡崎城公園にある「龍城神社(岡崎東照宮)」をご紹介する予定です。

松平・徳川氏発祥の地①

  • 2012/12/14(金) 13:04:21

八幡神社 松平東照宮 ■所在地/愛知県豊田市松平町赤原13
■御祭神/譽田別命(ほんだわけのみこと)、徳川家康公、松平親氏公 他六柱 ■創建/元和5年(1619年)八幡宮に東照大権現を勧請

(参拝日/平成24年10月5日)

東名高速道路の豊田JCTから東海環状自動車道(土岐、多治見を抜け東海北陸道の美濃関JCTを結ぶ道路)に入ると3つ目のICに「豊田松平IC」があります。インターを降りて国道301号を東へ約30分、静かな山里の中にあるのが「松平郷」です。
いかにも三河の山村といった風情で、山地の中の小集落ですが、ここも世界のトヨタ自動車の本拠地、豊田市です。
市町村合併の前は愛知県東加茂郡松平町でした。最近は愛知県でも聞いたことのないような市の名前が多く、○○市とか言われると「え、そこ何処ですか?以前は何郡?何町ですか?」と聞きたくなることが多々あります。
ここ松平郷も「豊田市」よりもイメージ的には「東加茂郡」の方がしっくり来る、そんな所です。

由緒によると松平東照宮は、正式名称を「八幡神社/松平東照宮」といい、徳川家康公の始祖である初代・松平太郎左衛門親氏がこの地に居をかまえ、氏神として若宮八幡を勧請したのがはじまりと伝えています。
その後、元和5年(1619年)に久能山東照宮から家康公の御分霊を勧請、奉祀され、大正5年(1916年)に松平郷内の無格社3社を合併、昭和40年(1965年)に初代・松平親氏が合祀され、神社名を「八幡神社」から「松平神社」へと変更。
その後、昭和58年(1983年)に現在の名称へと変更され、現在に至っているそうです。現在の社殿は、昭和初期に松平家の館跡へ境内を拡張し新築されたとのこと。

何故この土地が松平氏(徳川氏)発祥の地なのか?

14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田(せらだ)氏(得川氏)の出身と称する時宗(浄土宗の一派)の放浪僧の徳阿弥(とくあみ)が父の長阿弥(ちょうあみ・世良田有親)と共にこの地に流れ着きました。
徳阿弥は当時の松平郷領主である松平信頼の子、松平信重に和歌に通じた教養と武勇を買われ、その娘婿となり還俗し、松平三郎親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したといわれています。
この松平親氏から9代目にあたる子孫が徳川家康公となるわけです。

ざっくりいえば、長阿弥と徳阿弥という親子の旅の坊さんが松平郷に流れてきて、息子の徳阿弥が領主の家の娘婿に入り込んだ…と。その9代目が徳川家康です。こんな感じですかね(笑)
愛知県が生んだ郷土三英傑のご先祖は、織田信長=神主、豊臣秀吉=たぶん何代前も農民、徳川家康=旅の坊さん?なんですね。

ところで、有名な能の流派に「観世流(かんぜりゅう)」というのがあります。創始者は、室町時代の観阿弥(かんあみ/かんなみ)、世阿弥(ぜあみ)の親子ですが松平郷に流れて来たのも長阿弥と徳阿弥という親子。
この親子はお坊さんということでしたが、何か似ていませんか?観阿弥と世阿弥、長阿弥と徳阿弥、いずれも「◯阿弥」と名乗っていますね。

『仏教辞典』(岩波書店)によると、時宗教団の中には「阿弥衆(あみしゅう)」という集団があり、法名、法号を「◯阿弥」(阿弥号)と付けたそうです。正確には観阿弥なら「観阿弥陀仏」、世阿弥は「世阿弥陀仏」ですが、頭の三文字を取り「◯阿弥」と名乗りました。
ところが正式な時宗僧の場合は「◯阿」(阿号)と付け、阿弥号はけっして付けなかったそうです。
この「阿弥衆」というのは、「客寮衆(きゃくりょうしゅう)」ともいわれ僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。つまり、坊さんの格好をした俗人です。

「阿弥衆」は,南北朝時代に戦の敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまり、時宗僧の給仕や雑用を勤め、また鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり、お布施を受けて生計を立てる者や妻子を養うために農耕や商い、芸能に従事するものもあったようです。
「客寮衆」というのは、時宗教団の客分、居候集団の様なものと考えると分かりやすいと思います。
そういう集団の中から芸能の達者が現れます。茶の能阿弥、花道の台阿弥、作庭の善阿弥・相阿弥、能の観阿弥などです。さらには、世阿弥のような天才が登場して、時の将軍足利義満によって取り立てられ、同朋(どうぼう)衆として庇護をうけることになり能を大成させていくことになります。

戦の敗残者や世間のあぶれ者、坊さんの格好をしているが僧ではない。こういう人達の名乗ったのが「◯阿弥」なんですね。「阿弥衆」は歴史の上では世間のはずれ者とか、流れ者として蔑まれたりしていますが、世阿弥に見るように阿弥衆はきわめて重要な芸能の伝播者であり、文化の担い手であったといえます。
先にも書きましたが、家康公の先祖である徳阿弥も松平郷に流れて来て「和歌に通じた教養と武勇を買われ」入り婿になったといわれています。
世阿弥=将軍の庇護を受け能の大成者となる、徳阿弥=三河の山里の松平氏の婿殿。
スケールは違いますが、氏素性、出自がいまの世の中でもとかく話題となり、それなりの扱い方をされていますが、家康公の先祖は坊さんではなく、ただの流れ者だったらしいけど、そんなものはほとんどなんの意味もないということを言いたかったんですが長文になってしまいました(T . T) フォローになってますかね?

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こちらは松平氏遺跡公園駐車場の案内板です。

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松平氏遺跡案内図です。

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遺跡公園に建つ銅像。この方が時宗の坊さん、いや流れ者(ごめんなさい!)の松平親氏公、家康公のご先祖さまです。
しかし不思議なポーズですね…んんん、ミステリアス。

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めちゃくちゃ彫りの深いお顔立ち、最初キリスト様かと思いました…

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こちらは前にご紹介した岡崎大樹寺で撮影した親氏公のお墓になります。

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やっと松平東照宮の写真です。前説が長過ぎーぃ!

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最初にも書きましたが、拝殿自体は昭和初期の建物ですので
これといった見所もありません…たぶん?

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アップで見ても東照宮としては、けっこう地味ですね。この場所には似合ってるのかな…

松平東照宮G
こちらがいただいた御朱印です。バランスが取れた上手な字です!
右から、奉拝 松平郷 松平東照宮 天下和順 日月清明 日付です。

この御朱印の左上は「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(にちげつしょうみょう)」と読みますが、浄土三部経の一つである「無量寿経」という経文の一節で、松平親氏公の「願文」として残っているそうで、御朱印にして押されています。

【願文】 天下和順 日月清明 風雨以時 災癘不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 努修禮穣  
【読み】 天下和順し 日月清明なり 風雨時を以て 災癘(さいれい)起らず 国豊かに民(たみ)安んじ 兵戈(へいか)用ふることなし 徳を崇(あが)め仁を興(おこ)し 努めて禮穣(れいじょう)を修すべし  
【直訳】 戦乱の世が和やかになり、日月も清らかで明るく、恵みの気候により災害や疫病が起こらず、国が豊かになって民衆が安心して暮らすことができ、武器を用いることもなく、仁徳の向上に努め、礼節を身につけるよう修行すべきである。

この精神が、9代後の家康公に引き継がれて、大樹寺の「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」を旗印に天下泰平の世の出現を見る事になります。

次は同じ松平郷の「髙月院」をご紹介します。今度は長文にならないよう気をつけますm(_ _)m

ブッポウソウの山

  • 2012/12/12(水) 20:23:36

鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう) ■所在地/愛知県新城市門谷字鳳来寺4 ■御祭神/徳川家康公(東照大権現) 山王権現、熊野権現、白山権現を合祀 ■創建/慶安4年(1651年)

(参拝日/平成24年10月5日)

こちらは久能山東照宮と同じ日に参拝させていただきました。愛知県新城市(しんしろし)の鳳来寺山にあり、正式名称は「東照宮」。日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つだそうです。
だそうです…というのは、他にも三大東照宮と言われているところがあるので(笑)よく日本三大何とかってありますよね。日本三大大仏、日本三大名城、日本三大がっかり(何処とは言いませんが、◯幌◯計◯と…)など、東照宮も日光、久能山の二つは確定!なんですが後の一つはいずれも微妙で…

鳳来寺山は、鳳来寺という古刹と東照宮。他にタイトルに書いた「ブッポウソウ」と呼ばれる鳥で有名です。
夜間この鳥の鳴く声が森の中で「ブッ・ポウ・ソウ」と聞こえ、仏・法・僧の三宝を象徴するとされた鳥の鳴き声であると信じられてきたため、この名が付けられました。しかし実際に「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くのは、フクロウ目の「コノハズク」であることが判明。本当の「ブッポウソウ」は「ゲッゲッゲッ」(鬼太郎じゃあないよ)としか鳴かないそうです。
なんかややこしいですが、「ブッポウソウ」は、「ブッ・ポウ・ソウ」とは鳴かないと…
「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴く「コノハズク」(訳わからんです!)は愛知県の県鳥に指定されていて、なんと愛知県警のマスコットキャラクターにもなっています。「コノハけいぶ」っていう素敵なネーミングです(笑)

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東照宮へ向かう山道から見た風景です。

こんな山の中なのにここ鳳来山には、もうコノハズクは何年も生息が確認されていないそうです。環境の変化が影響している様で、「ブッ・ポウ・ソウ」の鳴き声はここではもう聞けないんですね…

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断崖絶壁に建つ鳳来寺のお堂です。

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東照宮へ向かう石段です。

何故こんな険しい山中に東照宮があるのか?ですが、祖父家康公を崇拝する三代将軍家光が家康公の生母、於大の方が子供が授からなかったため当山に参籠し祈願したところ、家康公を授けられたという故事を知った家光が大号令を発し、鳳来寺の諸堂の伽藍改築と東照宮の造営を進め、家光逝去後は四代将軍家綱が跡を引き継ぎ、慶安4年(1651年)に今の社殿を完成させたのだそうです。家光の祖父家康公への崇拝は半端じゃないですね…
その後も江戸時代を通じて幕府の庇護を受け、10回に及ぶ修理が幕府により行われたそうです。

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拝殿、小ぶりですが品があります。

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手前が拝殿、中門・左右透塀を挟んで奥が本殿です。いずれも国指定重要文化財。

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透塀の奥、右側の屋根に千木が乗るのが本殿。

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中門から本殿を拝見しましたが、いずれもしっかり閉ざされていました。

以上の建物の屋根は全て檜皮葺(ひわだぶき)(屋根葺手法の一つで、ヒノキの樹皮を用い何層にも重ねて施工する)で全体にこじんまりしていますが、とにかく品があり良いお社でした。これなら三大東照宮の残り一つに入れてもいいかな?取りあえず暫定3位ということに。

鳳来山G
社務所で戴いた御朱印です。葵の御紋が少し左に
振っていますが良しとしましょう。
右から、奉拝 鳳来寺東照宮 日付です。

次は、このあと参拝した松平氏発祥の地、愛知県豊田市の松平東照宮と
高月院をご紹介する予定です。

厭離穢土 欣求浄土

  • 2012/12/12(水) 14:01:17

大樹寺(だいじゅじ・だいじゅうじ) ■所在地/愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 ■宗派/浄土宗西山(せいざん)派 ■本尊/一光千体阿弥陀如来、如意輪観世音菩薩 ■創建年/天文4年(1535年) ■開基/松平親忠 ■正式名/成道山 松安院 大樹寺

(参拝日/平成24年10月8日)

時代劇(最近少ない!)などで戦国武将の旗印を見た事があると思います。例えば真田幸村だと有名な「六連銭(六文銭)」、これは三途の川の渡し銭が六文との由来から、いつでも死地に赴く覚悟から真田家の旗印にしたといわれています。武田信玄といえば「風林火山」。上杉謙信の「毘」の旗は、謙信が戦の神である毘沙門天の生まれ変わりだと信じていたため、毘沙門天の「毘」の一字を取って旗印にしたものです。
織田信長の旗印は「永楽銭」、楽市楽座で経済を活性化させようとした信長らしい奇抜な旗です。信長は刀の鍔にも永楽通宝の図柄を彫らせています。銭の図柄の旗印などはあまり例がなく、まるで商人のようだと陰口をいう者もあったそうです。

家康公は、「三つ葵」の旗印と「五」の旗(これは使番の旗)、それと「金扇」の馬印ですが、これはかなり大きくてこの馬印が戦場に上がると何処にいてもかなり目立ったそうです。(敵に狙われやすい)
これらの旗印より大事にされていた旗が「厭離穢土 欣求浄土」です。
何て読むの?どう言う意味?ですが、「おんり(えんり)えど ごんぐじょうど」と読みます。
意味は、苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こ)い願う。と言う意味で、平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」の中の言葉です。

ここ大樹寺は、家康公が何故この言葉を一生の座右の銘にし、自分の旗印にまでして戦国乱世を戦ったのかが良く分かるお寺です。家康公の出発点にもなった重要な場所でもあるんですね。

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本堂の中には「厭離穢土 欣求浄土」が掲げてあります。浄土宗の
お寺には多いです。

松平元康(後の家康公)は、桶狭間の戦いの時、当時は今川家の人質であり、今川軍の先陣として大高城(合戦の最前線)にいました。今川義元討死の後、織田信長軍の中に取り残された家康公は先祖の菩提寺であるこの寺へと逃げ隠れました。
家康公は前途を悲観し松平家先祖八代の墓前で自害をしようとしたところ、当時の13代住職の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、次のように言って切腹を思いとどまらせたといわれます。

「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す事ができる。それがあなたの役目だ。」

上人は、「ここで命は粗末にしてはいけない。」と諭され、この言葉を白い布に大書され旗を作られて、こう問われたそうです。「あなたは、若いころから戦場に向かっているが、その心はただ敵を殺すことにあるのか?」と…
そこから幾つかの問答を経て、上人は「万民のために天下の父母となって、万民の苦しみを無くすことをしていかなければならない。」と説かれたそうです。
家康公はこの言葉に深く感動され、以来「厭離穢土 欣求浄土」を旗印として掲げ続けられたとの事です。
後に天下を統一し、以来260年平和が続くことになる江戸幕府を開くきっかけを作った大事な場所が、ここ大樹寺なんですね。そう考えるとここは凄いお寺です!

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山門ですがかなり大きくて立派です。岡崎市有数の古刹。

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境内から山門を通して総門を見る。ここに秘密が…

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山門外から総門を見ると…門の中の彼方に何かが、分かりますか?

岡崎城 が見えるんです!門を通して小さくですが(笑)。現在は、山門と総門の間は道路を挟んで大樹寺小学校があります。
岡崎城は家康公が生まれたお城です。大樹寺は、本堂・山門・総門から岡崎城が眺望出来る様に建てられており、ビスタラインと呼ばれ、今でもこの直線状にマンション等の高層建築物を建てることができない条例があるそうです。
岡崎の人たちは今でも家康公を尊敬し、愛しているんですね。
写真では分かりにくいですが、晴れた日にはクッキリ!岡崎城が眺望できますよ。

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多宝塔 天文4年(1535年)建立の重要文化財です。

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本堂です。本堂へ上がると大樹寺と家康公の由来をテープで聞かせて
いただけます。

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松平八代墓の案内板です。

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一番左が家康公のお墓(松平八代には含まれない)、以下、広忠・清康…初代親氏

ここにも家康公のお墓が…???遺言では「位牌は三河の大樹寺へ」位牌だけじゃないの?で、謎は深まるばかり(笑)

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謎の家康公のお墓です。立派なお墓!

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松平広忠(家康公の父)のお墓です。

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松平清康(家康公の祖父)のお墓です。

家康公の祖父、松平清康は三河松平氏の第7代当主で大変傑出した人物だったそうです。彼の代で三河をほぼ統一、尾張の織田領まで攻め込んだ矢先に25歳の若さで家臣に斬られ(原因不明)、不慮の死を遂げてしまいます。
清康が長生きしていれば戦国史は多分変っていたかもしれませんね。
家康公の父、松平広忠も悲運な武将で、父清康が殺害された時はわずか10歳でしたが大叔父に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。のち今川義元の後援を受け、ようやく岡崎に帰れましたが、父の頃の勢いは既になく織田、今川にはさまれた弱小大名となってしまいました。
織田方に取られた領地を取り戻すためには今川の力を借りる他になく、幼い家康公を人質に出し(途中で織田方に取られてしまう)悪戦苦闘中に広忠も家臣に刺殺されて(こちらも原因不明)しまいます。広忠も25歳の若さだったといわれています。何か呪われているような家系ですね…

祖父、父ともに家臣に殺され、その際に使われた刀が「名刀村正」だったそうで、以後、村正の刀は徳川家に災いをもたらした不吉な刀「妖刀村正」と呼ばれ、徳川家は村正を忌避するようになった…
これは歴史好きな人なら有名なお話のようですが、実は家康公は村正の刀が好きで何振か愛蔵していたらしいですよ(笑)んんん…本当かな?

このお寺は、松平氏、徳川氏の菩提寺で特に将軍家の崇拝も厚かったため、江戸幕府歴代将軍の位牌が安置されています(位牌は三河の大樹寺に…ですから)。
位牌堂で拝観料を払えば拝見させていただけますが、ある謎が…??
とにかく大きい位牌で、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じ等身大という説があるんですが、歴代将軍の位牌の中で特に小さな位牌が二つ、五代綱吉125cmと七代家継135cm。家継は7歳で亡くなっているので小さいのは納得。ただ7歳で135cmは大き過ぎますが、綱吉の125cmはどうして??当時の日本人の平均身長は150〜160cm前後にしても綱吉の位牌の小ささは…
因みに家康公の位牌の高さは156cm、東京の将軍家菩提寺 芝増上寺の墓地改葬で6人の将軍の遺骨から割り出した推定身長と位牌との誤差は2cm前後だったとの事です。この事から五代将軍綱吉は低身長症だったのでは…の説を発表している方もいます。もちろん俗説に過ぎないとの説もありますが…
俗説にしても綱吉の位牌の小ささをどう説明したらいいのか?何故小さく作る必要があるのか?ただの嫌がらせなのか?こちらの謎も深まるばかり…

興味のある方はぜひ大樹寺を参拝して位牌堂でご覧ください。
あ、位牌の写真はありません(><)撮影禁止のうえに監視カメラが至る所に…

最後に大樹寺で戴いた御朱印です。
大樹寺G
右から、奉拝・日付 厭離穢土 欣求浄土 三河・大樹寺です。

中央上に「葵の御紋」 これ、これ、これですよ!!久能山で購入した御朱印帳にはじめての葵の御紋。

次回は、愛知県の鳳来寺東照宮をご紹介したいと思います。
 

久能山東照宮

  • 2012/12/10(月) 10:33:34

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう) ■所在地/静岡市駿河区根古屋390
■御祭神/贈正一位 徳川家康公 ■相殿/贈正一位 豊臣秀吉公・贈正一位 織田信長公 ■創建/元和3年(1617年)


(参拝日/平成24年10月5日)

今年二度目の参拝です。皆さんは既にご存知かと思いますが、久能山東照宮には道路が伸びていないため、自動車の直接乗り入れが出来ません。こちらへの参拝は「静岡鉄道 日本平ロープウェイ」を利用するか「久能山下からの徒歩ルート」になります。
以前参拝した時には何も知らず、カーナビに「久能山東照宮」と入れ、さあ出発!駿河湾沿いの清水バイパスを有名な石垣イチゴのお店を眺めながらの快適なドライブ…東照宮駐車場の看板が見えて来たのでIN。
さあ、それからが大変です!目指す東照宮は遥か山の上…山下からは石段が1159段も続きます(T . T)途中何度も休憩しながら、上から降りてくる人に「あとどれくらいですか?」と聞きまくり…「もう少しだから頑張って!」←実はこの台詞、人に同じことを聞かれた時に自分も使いますが(笑)
「……」「……」言葉もなく、はぁーはぁー喘ぎながら30分も掛かりやっと山頂に到着!(タバコ止めなきゃ)
そんな大変な思いで参拝しました。お寺や神社って何でこんな高い所に造るんですかね?

で、今回はカーナビには「日本平ロープウェイ」と迷わず入力。皆さんも参拝される時にはぜひこちらをお勧めしますf^_^;)山上駅から東照宮までは歩いてすぐですよ。日本平には無料大駐車場あり。

東照宮めぐりはまずここからと、楼門手前の社務所で御朱印帳を購入し、帰りに頂ける様、御朱印帳をお預けして先ずは参拝です。

東照宮御朱印帳のコピー
こちら、久能山東照宮専用の葵の御紋入り、唐獅子の刺繍入りの豪華な
御朱印帳です。

東照宮といえば日光の東照宮が有名ですが、江戸時代には全国に500余社(現在では20余社)の東照宮があったそうですが実は、ここ久能山が東照宮の元祖なんです。
御祭神の徳川家康公は、将軍職を三男の秀忠に譲ると晩年は静岡に駿府城を建てて隠居。大御所として江戸と駿府の二元政治を行なっていましたが、元和2年(1616年)4月17日に75歳で亡くなりました。
亡くなるにあたり、「自分の死後、位牌は三河(岡崎)の大樹寺に、遺骸は立ち姿のまま久能山に西を向いて埋葬すること、一周忌を過ぎたら日光に小さな祠を建て勧請せよ、吾れ関八州の鎮護とならん。」と遺言されたそうです。
遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍秀忠はここに家康公を祀る神社を造営することを命じ、大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の工期で建てられたのが久能山東照宮です。
因みに、日光に小さな祠と言うのが日光東照宮です。行かれた方は分かると思いますが、どこが小さな祠?ですよね。実は秀忠が建てた東照宮は今の様な規模ではなく、もっと質素な物だったらしいですが家康公を崇拝する三代将軍家光が今の規模に建て替えた物だそうです。

社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型となりました。
また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城(旧国宝・国指定特別史跡)・京都仁和寺(重要文化財)・京都二条城(国宝・世界文化遺産)など現在に残る重要な建造物を手掛けていますが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されています。

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楼門です。二階部分には後水尾天皇の宸筆(天皇自ら書かれた書)である
「東照大権現」の扁額(へんがく)が掲げられています。

唐門
拝殿正面の豪華な唐門ですが、ここからは入れません。

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透塀沿いに右手に廻ってこちらの門から拝殿に入ります。

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社殿(本殿・石ノ間・拝殿)。社殿の様式は本殿・拝殿を石の間で接続
した「権現造」です。

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唐門の扉ですが、な、な、なんと一枚板の透かし彫り
だそうです!絶句…

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朝陽に輝く金箔瓦と社殿。ありがたや…

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こちらは社殿左側。やっぱり朝陽に輝いています。黒漆に金箔、金押し
金具が映えます!唐獅子がいい感じですね。

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極彩色の軒の組物。もちろん葵の御紋は金ですね!

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唐獅子の彫刻の金箔が朝陽に当たってピカピカで眩しい!

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神廟(しんびょう)家康公のお墓です。

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立派な石塔ですね。葵の御紋もしっかり彫られています。

家康公の遺骸が埋葬された場所に立つ神廟です。当初、この地には小さな祠(ほこら)が建てられていましたが、三代将軍徳川家光によって高さ5.5m、まわり8mの石塔が建てられ、現在に至っているそうです。家康公の遺命に従い、西向きに建てられています。
なぜ西向きなのか?家康公が亡くなった時は、豊臣家が滅んだとは言え、まだ豊臣恩顧の西国大名も多く残り、政情も不安定でしたので自分は死んでも、西国に向けて睨みを利かせようと言う意図だったと思います。(故郷の岡崎に向いていると言う説もあるそうですが…)

家康公の遺骸は何処に…?

最初は確かに、ここ久能山に葬られたのは間違いない様ですが、遺言どおり一周忌の後に日光へ改葬されていますので遺骸は日光に?
実はちょうどこちらを参拝している時に、団体さん(10人位)に説明をしている神職さんがおられたので、お話を聞いていましたら、
「私たち神職は今も家康公は、ここ久能山に眠っておられると信じております。」
「誰もお墓の中を見たものはいないですし、空っぽのお墓をお守りしてるのも何ですしね(笑)」と話されていました。

確かに、日光も久能山もどちらも葬った人以外は、誰もお墓の中を見た人はいないので永遠?の謎かも…

久能山G
こちらが戴いた久能山東照宮の御朱印
右から、奉拝 久能山東照宮 日付です。

参拝を済ませ、帰りに社務所で預けておいた御朱印帳に戴いた御朱印です。うーん!達筆ですね〜でも、一つだけ残念な事が…
分かりますか?御朱印のどこにも葵の御紋が入ってなーーーーーい!!
元祖東照宮なのに何故??後日ご紹介する他の東照宮はみんな葵の御紋入りなのに(><)

家康公の遺骸は何処に?と同じくらいの謎だな!これは……

次回は、家康公の故郷、愛知県岡崎市の大樹寺を訪ねます。

織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに・・

  • 2012/12/06(木) 16:40:05

はじめまして。

私の生まれ育った愛知県には「郷土三英傑」といわれる戦国武将がいます。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康です。

信長、秀吉は尾張(名古屋市)の生まれ、家康は三河(岡崎市)の生まれです。
あと、愛知県出身の戦国武将といえば…
加藤清正、福島正則、前田利家、蜂須賀正勝、柴田勝家、山内一豊、浅野長政、池田輝政など…
時代は遡りますが、源頼朝も愛知県の生まれなんですよね。

最近はゲームの影響もあり「戦国武将ブーム」らしいですが、特に天下統一を成し遂げた信長、秀吉、家康の三人の内で人気がある順でいえば、①信長②秀吉③家康の順ではないでしょうか?(異論はあると思いますが…)
一般的なイメージでは、
信長…革新的・合理主義者で近世の扉を開いた・イケメン?で派手
秀吉…農民から身を起して天下統一・人たらしの名人・陽気で派手
家康…狸親爺=ずる賢い・ケチ・陰気で地味
こんな感じかな?

で、タイトルの「織田がつき 羽柴がこねし…」ですが、ヤフーの知恵袋にこんな質問がありました。
どういう意味ですか?歴史の宿題で、
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」の意味を詳しく答えなさいと出ました。
意味がわからなくて困っています。誰か教えてください!


アンサーが、
努力しても、最後は狸ジジイにかっさらわれてしまうというもののたとえですね。お餅作るのは結構大変なんだ、これが。一番楽なのは座って食べるだけの人。

これは江戸時代後期の落首(風刺歌)で大意は、
織田信長が餅を搗(つ)き、搗いたその餅を羽柴(豊臣)秀吉がのし、出来立ての餅を何もしなかった徳川家康が座ったままそれを食べた。ということで、信長が苦労して乱世の世を終息させようと天下統一事業を進め、それを受け継いだ秀吉がやっと天下統一を完成させたものを、家康が何の苦労もなくそれを引き継いだと…

先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと簡単に手に入れたと詠んでいるものですが、もちろん、ただ座って天下など取れる筈も無く、これは家康を酷評しているもので、三人を比べる時によく引用されるフレーズです。
家康といえば…いつもこんな悪いイメージなんですよね。家康影武者説なんて言うものもあったり(笑)

質問者の小学生?中学生?は多分このアンサーを参考に宿題を提出したと思いますが、宿題の意図がよく分かりません。ただ落首の意味を答えなさい、だけなのか?答えはこうなんだけど、楽をして天下を統一することなんか出来ないんだよ…なのか?

少なくとも学校の先生には、海外からも「パックス・トクガワーナ」と絶賛されている、世界で唯一260年間戦争のない国、江戸時代の基を作ったのは徳川家康だと言うことも教えて欲しいですね。
日本人はあまり知らないのではないでしょうか?「徳川の平和 Pax Tokugawana(パックス・トクガワーナ)」
西欧にはこれだけ長い間戦争がない時代はないとわれ、世界史の奇跡と言う人もいるとか。

長くなりましたが、そんな人気のない?(笑)でも凄い徳川家康公のゆかりの寺社、その他の神社・仏閣を訪ねて戴いた御朱印と感想、旅の記録などを紹介していきたいと思います。

先ずは、静岡県の久能山東照宮です。


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