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観音さんとへび女

  • 2013/01/28(月) 09:40:29

大須観音(おおすかんのん) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須2-21-47 ■正式名/北野山 真福寺 寶生院(しんぷくじ ほうしょういん)■宗派/真言宗智山派 ■本尊/聖観音 ■創建年/元弘3年(1333年)■開基/能信上人

(参拝日/平成24年11月6日)

大須観音07

ここ大須観音は正式名称を「北野山 真福寺 寶生院(きたのさん しんぷくじ ほうしょういん)」といいます。

元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が美濃国 大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として能信上人(のうしんしょうにん)が創建した真福寺が当寺の始まりです。
その後、慶長17年(1612年)には名古屋の城下町建設に伴い、家康公の命令で成瀬正茂(犬山城主)によって現在地に移転しました。真福寺のあった場所が木曽三川の中洲であったため水害も多く、日本最古の『古事記』の写本等の貴重書を多数所蔵する「真福寺文庫」を持つ当寺が、洪水で流されるのを恐れたためといわれています。

以後、徳川家の庇護を受け、享保16年(1730年)尾張7代藩主・徳川宗春の時代には、将軍吉宗の質素倹約令に対抗し江戸や大坂から芸人を集め、境内に芝居小屋や見世物小屋、寄席を建てさせました。
宗春も自ら芝居や寄席に出かけたといわれます。見物客目あての飲食店も多く出来、宗春は遊廓まで開かせたため大須の街は一気に発展しました。
しかし、宗春が失脚した元文4年(1739年)、遊廓はもとより芝居も禁止。芝居はそれでも黙認されましたが、遊廓は全面的に廃止されました。以後、大須に遊廓が登場するのは明治に入ってからです。
芝居は禁止されましたが、見世物は対象にならなかったため、軽口咄(落語)・釣り人形・講釈・鳥の鳴き声の物まね・独楽回し・曲馬・影絵など、多種多様の見世物が行われ大いに賑わいました。

そういえば、自分の子供の頃にも境内には小屋掛けの見世物が出ていました(*^^*) 小学校が近かったので学校帰りによく立ち寄りましたが、「へび女」や「牛女」、「ろくろ首」の看板が出てたのを覚えています。

旦那、そろそろいい写真見たいですか?
(勿体ぶるなぁ…早く見せればぁ!)

大須観音22
これだ!「へび女」、かなりシュールです。まるで金田一耕助の世界
ですね。
(うわっ!いくら今年は巳年でもこれは( ̄▽ ̄))

「ハイ坊ちゃんからお爺ちゃん、お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで、さぁさぁ寄ってらっしゃい!見てらっしゃい。世界の話題、医学の謎、愛知県は霊将山のはるか奥地で見つけましたこのお姉さん、クレオパトラか楊貴妃か、どなたが御覧になっても凄い美女。ところがこのお姉さんに蛇をあてがいますと、何が嬉しいのかニコリニコリと笑い出し、両手につかんだその蛇を口から鼻へ、鼻から口へと何の苦もなくスルリスルリと通してしまいます…ハイ!場内大変混雑してまいりました。ハイハイハイハイ!前の方から御順にお入り下さい。一度見ておけば、孫の代までの語り草…」(って、このお姉さん全然笑ってないし(*^^*))

(口上はいいけどさぁ、本物見たの?)
「へび女」一度見たかったんですが、もちろん入場料を払うお金なんか持っていないので、見るのはいつも「ガマの油売り」でした。
(なあーんだ…見てないのに記事にすんなよ!)
でも「ガマの油売り」は見たもんね!お金要らないし(^_^)v
刀を差したおじさんが地面に◯を書いて「サァーて、お立会い!、御用とお急ぎで無い方はゆっくりと聞いておいで、見ておいで、こらこら!ぼうず、この◯の中に入ってはいかん!手前ここに取り出したるは…」ってやつです。
最後に自分の腕を刀で斬って、ガマの油を塗って血止めをした油を売るんですが、何故か最後まで見た記憶がない。
(何だよ、これも見てないのかよ!中途半端なやつ…)
多分途中で「子供は邪魔だ、帰れ!帰れ!」って帰されたんじゃないかと?どうせ子供は、ガマの油なんか買わないしねf^_^;)
(へーっ!実は怖かったんじゃないの?かなりの怖がりだとか…)
「・・・」

文化12年(1815年)には五重塔も建立されましたが、明治25年(1892年)3月21日の大須の大火(芝居小屋 宝生座より失火)で本堂、五重塔と仁王門を焼失、第二次世界大戦の名古屋大空襲による2度目の焼失後、昭和45年(1970年)に本堂を再建し、現在に至っています。
戦災を免れた「真福寺文庫(大須文庫) 」には15,000冊の古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本と言われ、国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として南北朝時代(1371年〜1372年頃)に写された現存最古の写本です。

大須観音05
なんか小汚いですが、国宝の『古事記』写本です。

大須観音06
五重塔が描かれた江戸時代後期「尾張名所図会」の大須「真福寺」
です。創建時の本堂は東向きでした。(現在は南向き)

明治大須観音03
明治初年の大須観音ですが、手前は畑か?

明治大須観音02
同じく明治初年の本堂です。

大須観音03
明治14年頃撮影の着色写真。本堂、五重塔、塔の奥が書院です。
後方、森の向こうには名古屋城が見えています。

大須観音04
上の写真のアップ。立派な五重塔ですね。
左後方の名古屋城もよく分かります。

戦前大須観音01
戦前大須観音02
大須観音21
いずれも明治25年(1892年)大須の大火後、再建の本堂です。
この本堂は昭和20年の名古屋大空襲で焼失しました。

大須観音02
昭和45年(1970年)三度目再建の現在の「本堂」。

大須観音09
大須観音10
いずれも昭和初期の「大須観音門前通り(今の仁王門通り)」です。
戦前は映画館や劇場、寄席が建ち並び大いに賑わいました。

大須観音15
戦後の区画整理で若干変わりましたが、上の写真とほぼ同じ場所の現在の「大須仁王門通り」、通りでは戦前からある鰻の老舗店「やっこ」が現在も営業しています。

大須観音16
現在大須にある寄席はこの一軒だけです。「大須演芸場」、もう何十年も赤字、赤字(客はいつも数人)と言われながら現在も営業しているのは奇跡!

大須は昔から名古屋一の歓楽街で、尾張7代藩主・徳川宗春の時代には大須観音の北に「北野新地」と言われた遊廓がありましたが、宗春失脚と同時に廃止。
明治初年に「堂裏(現在の西大須)」に新しく「旭遊廓(あさひゆうかく)」が作られました。当時の観音さんは本堂が東向きに建てられていたため、現在の西大須辺りは「堂裏」と呼ばれていました。
大須一帯は戦後、伏見通り(国道19号)により東西に分断され、戦前とはすっかり町の様相は変わっています。伏見通りの開通とともに、堂裏にあった十軒余の遊廓、置屋も今は通りの下に消えてしまっています。

大須観音19
明治初年の「旭遊廓」の地図。中央のグレーの帯が今の伏見通り。
旧遊廓街は、戦後新しく出来た伏見通りにより、観音さんの裏辺りで
東西に分断されてしまいました。

大須観音17
大正時代の花園町(上の地図、観音さん北の東西の通り)の遊廓街
です。この通りは現在も花園通りとして残っています。

大須観音25
当時の「花魁道中(おいらんどうちゅう)」の様子。(中日新聞社蔵)

大須観音24
同じく「花魁(おいらん)」と「禿(かむろ)」
(中日新聞社蔵)
かなり美人ですね〜

上の写真の花魁に付き添っている2人の女の子「禿」ですが、「禿(はげ)」ではありませんf^_^;)
(えー!でも同じ字やん!)
同じ字ですが、禿(かむろ、かぶろ)は遊女見習いの幼女のことです。遊廓に住み込む幼女のことを「かむろ」と呼びました。7 〜 8歳頃に遊廓に売られてきた女の子や、遊女の産んだ娘です。最上級の太夫や、花魁と呼ばれた高級遊女の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学びました。禿の年齢を過ぎると「新造(しんぞ)」となって、遊女見習いの後期段階に入っていきます。
京都の島原遊廓では、芸妓(げいこ)に付き添う幼女も禿と呼ばれていました。本来はおかっぱの髪型からつけられた名前ですが時代と共に髪を結うようになってからも、遊廓に住み込む幼女のことを総称して「かむろ」と呼んでいました。
どちらにしても悲しい運命の女の子たちです(>_<)

明治45年(1912年)になり、名古屋市の都市拡大が進み、風紀上の問題と遊廓の発展(明治のピークは席貸茶屋173軒、娼妓1,618名)で手狭になってきたことから旭遊廓の移転問題が浮上し、大正12年に「愛知郡中村(現在の名古屋市中村区大門辺り)」へ「中村遊廓」として集団移転しました。

大須観音23
昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後、昭和45年に現在の南向きで再建されました。伏見通り反対側が遊廓があった辺り。(名古屋都市センター蔵)

大須観音13

以上、大須の街の賑わいと悲しい歴史を見てきた「大須観音」でした。

大須観音御朱印
こちらがいただいた御朱印です。
右から、奉拝 स(sa)サ(聖観音の梵字)大悲殿 日付 大須観音 です。

次回は、同じ大須の織田信長と家康公ゆかりの「万松寺」を紹介します。

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傷だらけのローザ

  • 2013/01/26(土) 23:51:10

七寺(ななつでら) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須2丁目28-5 ■正式名/稲園山 正覚院 長福寺 ■宗派/真言宗智山派 ■本尊/聖観世音菩薩 ■創建年/(伝)天平7年(735年)

(参拝日/平成24年11月6日)

こちら七寺(ななつでら)は、正式名を「稲園山 長福寺(とうえんざん ちょうふくじ)」と言います。

寺伝によれば、天平7年(735年)尾張国中島郡萱津(現在の愛知県あま市)に行基が開山。当時は正覚院と称していました。創建時は七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を有した事から、これにちなんで七寺と呼ばれるようになりました。
その後、仁安2年(1167年)に阿弥陀如来像と観音菩薩・勢至菩薩像を本尊とし、現在の稲沢市七ツ寺町に移転。
天正19年(1591年)には豊臣秀吉により清洲に寺を移して三度目の再建をされています。

慶長16年(1611年)家康公の「清洲越し(名古屋築城にあたり清洲の町ごと名古屋に引越したこと)」の命により現在地に移されましたが、本堂を清洲から移築し、失われていた諸堂も整備されました。
元禄13年(1700年)には尾張藩2代藩主・徳川光友(家康公の孫)により三重塔が再建され、享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となり徳川幕府の繁栄を支え続けてきました。

尾張徳川家の庇護もあり、名古屋でも有数の大寺院として、当時の大須界隈では大須観音(真福寺)や名古屋御坊(西本願時)を凌ぐ寺勢を誇っていましたが、昭和20年(1945年)3月19日の名古屋大空襲で経蔵以外の国宝であった本堂、三重塔など七堂伽藍の全てを焼失。境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、現在では街中にある小さなお寺になっています。(悲しすぎるほど小さい…)

七寺01
「準別格本山七寺」の立派な石柱ですが…

一時は廃れていた大須界隈も現在では若者の集まる街として休日などは大変な混雑で、大須のシンボル「大須観音」の参拝客も多くなりましたが、観音さんのお隣りと言ってもいい距離なのにここ「七寺」はほとんど参拝客がいません。まず知らない人の方が多いでしょう。(実は私も今回初めて参拝しましたf^_^;))

七寺05
現在の本堂。左端にサポーターの様な物を巻いた仏様がありますが、後ほど詳しく紹介します。

七寺08
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の七寺。現在では考えられない規模です。

(ところでさぁ!またお寺の説明ばっかりなんだけど、いい写真ってまだぁ?さっきからずっと待ってるんだけど…)

これから見せますから、ドーン!これだぁ(^_^)b

七寺12
明治末期の絵葉書「七ツ寺」の境内、三重塔です。

(オオッ!これって「尾張名所図会」の三重塔?)
そうです。徳川光友が再建した江戸時代初期(1700年)当時のままの姿です。

七寺16
岩井通り(現在の大須通り)から見た昭和初期の
「本堂」と「三重塔」。いやぁー壮観ですね!

七寺18
上の写真と同じアングルから見た現在の七寺です。
今、同じ通りから見えるのは「七寺」のグリーンの
看板と、下の写真にもある「経蔵」だけです。

七寺19
経蔵の位置からすると右の白いビル辺りが三重塔の跡か?

七寺11
こちらは大正〜昭和初期の絵葉書「七寺三重塔」境内から見た景色です。三重塔の右下の小さな土蔵が「経蔵」です。

七寺14
上の写真に写っていた、名古屋大空襲でも焼け残った現在の「経蔵」。往時を偲ぶことが出来る七寺の遺構です。

実はもう一つ空襲で焼け残った遺構があります。次の写真を見て下さい。

七寺10
大正〜昭和初期と思われる七寺「本堂(国宝)」 の写真です。左に青銅の「大日如来坐像」が写っています。

今も同じ場所に座っておられる、この露座(ろざ・屋根のない所に座る仏)の「大日如来坐像」が、現在の写真に写っていたサポーターを巻いた仏様です。

七寺04
傷だらけの痛々しいお姿です(T . T) 空襲の時には、真っ赤な炎に包まれていたそうです…

七寺07
背面はもっと悲惨な状態になっています。もう少し
きれいに補修して欲しかった…
まるでサポーターぐるぐる巻の相撲取りみたいです。

名古屋大空襲から68年、忘れられつつある戦争の悲惨さと、名古屋市内に今も残る空襲の爪痕を後世に伝える遺構として、今のままの御姿で我慢していただくのも仕方が無い事なのかも…南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(>人<)

(ほー?たまにはいいこと言うじゃないか…)
そう?よかったf^_^;) たまにはこれくらい言わなきゃね。
(それにしては、タイトルが「傷だらけのローザ」って?)
えーッ?わかんないかな?
「オー! ローザ(ローザ)君を 誰が、ローザ(ローザ)そんなにしたの、 ローザ(ローザ)悪い夢は 忘れてしま〜ぉ〜お ♪」
「チャーンチャンチャン!チャーンチャンチャン!チャチャ〜ン♪ 」
「こ〜の腕に おすがりよー、今 僕は 狂おしく 祈りも〜誓いも〜♪」
(やめなさいって!それって、もしかして西城秀樹の…?)
そう、「傷だらけのローザ」♪
(\(ー ー;)たわけ!それは「傷だらけのローラ」!)
だからぁ、ローラ ローザ 露ーザ 露座 大日如来の露座\(^o^)/「ヒデキ〜!」
(・・・)
(せっかく褒めてやったのに…)

七寺13
こちらも岩井通り(大須通り)と「七寺」の昭和初期の着色写真。

左に焼失した本堂、焼け残ったローザ、じゃなくて露座の大日如来坐像、同じく焼け残った経蔵、焼失した今は無き三重塔がはっきり写っています。「尾張名所図会」と比べると江戸時代の境内は、この頃よりも数倍広かった事が分かります。奥に見える大屋根が大須観音の本堂(戦災焼失前)です。
名古屋有数の大寺院といわれた面影が、まだ戦災までは残っていた貴重な写真です。

七寺15
七寺パンフレットによる、戦災焼失前の本堂内、平安時代後期作の「阿弥陀三尊像」(国宝)と木造持国天・毘沙門天像(国宝)の写真です。

1945年3月19日の名古屋大空襲の際に、本尊・阿弥陀如来坐像の両脇侍だった「観音菩薩像・勢至菩薩像」の二体と勢至菩薩像の光背のみが、炎の中から救い出されて何とか焼失を免れましたが、後の仏像は大き過ぎて持ち出せず残念ながら焼失してしまいました。
ご本尊の阿弥陀如来は首だけでも切り落として救い出そうとされたそうですが、火のまわりが早くて無理だったそうです。現在は焼け残った「観音菩薩像・勢至菩薩像」の二体が国の重要文化財に指定され、ご本尊として小さな本堂に安置されています。

七寺20
現在の本堂内陣です。上の戦災前の写真2枚も飾ってあります。

七寺御朱印
そんな悲しい歴史のある「七寺」でいただいた
御朱印です。
右から、奉拝 日付 大勢至 聖観音 両菩薩
稲園山 七寺 です。

何かしんみりしちゃった七寺を後に「大須観音」へ向かいます。
旦那、まだまだいい写真がありますぜ…
(ところで、さっきから誰に喋ってるの?)
「祈りも〜 誓いも〜 この愛も捧げるーぅ ロ〜ォーォザー♪」

「矢場とん」と柳生新陰流

  • 2013/01/23(水) 23:42:23

清浄寺 (しょうじょうじ・せいじょうじ)■所在地/名古屋市中区大須4-1-32 ■寺号/徳寿山 清浄寺(通称/矢場地蔵) ■宗派/浄土宗鎮西派 ■本尊/木像阿弥陀如来立像 ■創建/元禄13年(1700年)■開基/徳川光友

(参拝日/平成24年11月6日)

今回からは昨年参拝した、名古屋の徳川家ゆかりの寺社を少しご紹介したいと思います。

矢場とん01
いきなりですが「名古屋めし」と言えば、ここ「矢場とん」です。

矢場とん02
名物のみそかつ「わらじかつ」(*^_^*) 美味しそ〜ぉ!

まずは、という事で「矢場とん」を…あ、違う違う!「矢場地蔵」をご紹介するんですが、正式な寺名を「徳寿山 清浄寺(とくじゅざん しょうじょうじ)」と言います。実は私、子供の頃この近くに住んでいたんですが、ここが「清浄寺」だなんて全く知らなかったf^_^;)
今回、御朱印をいただくために参拝して、由緒書きを見てはじめて知りました。
(今頃遅いわ!地図にはちゃんと載ってるし…)
だってみんな子供の頃から、矢場町にあるお地蔵さんで「矢場地蔵」って言ってたからね。親もそう言ってたし( ̄▽ ̄)
それに「しょうじょうじ」なんて子供は舌が回らないと思うけど?
(お、言ったな!「しょ、しょ、しょうじょうじ~♪」の唄知らんのか?小学校で習ったやろ!)
えッ、それって「証城寺の狸囃子」でしょ?ここは「清浄寺」ですけど…
(・・・)
たしか名古屋では習わんかったような?「ぽんぽこ ぽんの ぽん♪」(\(^-^ )お前の頭の中や!)

またまた「綾鷹」してますが…(注)綾鷹=お茶を濁す

名古屋以外の方はご存知ないかと思いますが、栄の交差点から大津通(おおつどおり)を南へ、松坂屋、パルコを過ぎ若宮大通(わかみやおおどおり)との交差点が「矢場町(やばちょう)」です。
「矢場町」、古めかしい名前ですが、江戸時代の始め寛文8年(1668年)「通し矢」で有名な京都の三十三間堂の長廊下を模した矢場がこの地に建てられた事から、この地名が付いています。

交差点を渡ってすぐ、大津通を挟んだ西が「矢場とんビル」で、対面東の路地を入った所が「矢場地蔵」です。
実はここ、思わず通り過ぎちゃう感じの狭い路地。興味がなければ間違いなく素通りでしょう。

矢場地蔵02
ビルとビルに挟まれた路地の奥が「矢場地蔵」です。

矢場地蔵由緒書き
かんたんな由緒書き。昔はここに「小林城」というお城があったんですね。

廃城となった小林城の跡地に住んだのが、尾張徳川家2代藩主・徳川光友(家康公の孫)の兵法指南役で「尾張の麒麟児(きりんじ)」と謳われた、柳生連也斎(やぎゅう れんやさい)こと柳生厳包(やぎゅう としかね)です。 生涯独身を通した連也斎の亡き後、徳川光友により尾張徳川家の祈願所として屋敷跡に建てられたのが清浄寺です。江戸時代は3450坪という広大な敷地の中に建っていました。

矢場地蔵11
右の赤で示してあるのが江戸時代の「清浄寺」です。左に「政秀寺」と「若宮八幡社」が見えますが、この南が現在の若宮大通り(100m通り)で「清浄寺」はこの通りを跨いだ広大な敷地だった事が分かります。
すぐ西、南北の通りが今の大津通りで南には「万松寺」のさらに広大な敷地が広がっています。

矢場地蔵12
これが現在の「清浄寺」の見取図、江戸時代の規模とは違い、まさに路地裏のお地蔵さんという感じです。

十兵衛
柳生連也斎の父親、柳生利厳(兵庫助)の従兄弟がこの人、江戸柳生の天才剣士「柳生十兵衛三厳」です。
と言いながら、また自作フィギュアを出してしまいましたf^_^;)

柳生利厳(やぎゅう としとし)通称、兵庫助は尾張徳川家初代藩主・徳川義直(家康公9男)に30年にわたって兵法指南役として仕えました。
兵庫助、息子の連也斎とも尾張柳生を代表する新陰流の名剣士で、以後尾張柳生家は尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕え、現在も22世が柳生新陰流の後を継いでおられます。(連也斎は初代石舟斎から数えて5世)
江戸柳生の十兵衛、尾張柳生の連也斎、この天才剣士2人がもし闘ったらどっちが勝つのか?実際は一世代近く違うので試合の記録はありませんが、ドラマなどでは必ず千葉ちゃん、いや、十兵衛の勝ちです(^_^;)

矢場地蔵03
突き当たりが本堂になります。

昔はこの参道の脇、上の見取図でいうと庫裏の隣りの「民家」となっているところに「銭湯」があり、子供の頃はよく通った懐かしい場所です。こちらを紹介しておられる方は結構みえますが、銭湯の話は出て来ないので紹介させていただきました。歳はバレますが、うん十年前の話です。誰も知らないだろうな?銭湯の名前も忘れちゃったし、誰か知ってる方がいたら教えてくれませんか?

矢場地蔵07
こちらが本堂ですが、鉄筋なので建物自体は何も見る物はありません。
子供の頃は銭湯にくるのが目的だったので、こちらの本堂がどうだったのかの記憶も全くないです。(多分木造だった様な…)ただ薄暗い参道に今もある提灯がボンヤリ灯っていた事だけは覚えています。

矢場地蔵08
葵の御紋入りのお賽銭箱です。

矢場地蔵06
同じく葵の御紋入りの瓦です。

矢場地蔵05
東門にも葵の御紋、こちらは常時閉まっています。

矢場地蔵10
狭まーい境内の六地蔵、いつからあるのか?

境内には「平成のジャンボ地蔵」なるものがありますが、平成の…なので特に撮影しませんでした。
名古屋の寺院は歴史はあっても、建物は空襲で丸焼けになっていますので、写真で紹介すると非常に残念な結果になってしまいます。こちら「清浄寺 矢場地蔵」も例外ではなく、ご覧いただいた様に歴史のある建物は何も残っていません。もちろん銭湯があった場所も今は喫茶店や飲食店になっています。

矢場地蔵御朱印
しかし、御朱印の墨書きはキッチリとした楷書で書いて
いただきました。(住所入りなところが凄い!)
徳川家ゆかりのお寺ですが葵の御紋は入っていません。

誰でも読めそうなので説明はしませんが、今気づいたけど、ん?日付けがない(T . T)ま、いっか…
ところで、「越中立山地獄谷より出現」って何だ!?

矢場地蔵と人々から信仰をうける地蔵尊は、もともとは立山の山深い岩窟の中に鎮座していました。
立山に籠り修行をしていたある行者が、霊夢によりこの像を見つけ、笈に地蔵尊を納め、諸国をめぐり歩いてこの土地にたどり着きました。この地に祀られた地蔵尊を土地の人々がお参りしたところ、地蔵尊の霊験はあらたかで、病気などはたちまち平癒したといわれています。

これが、御朱印に赤字で書いていただいた「越中立山地獄谷より出現」の謂われです。

以上、お寺の記事より柳生新陰流の記事の方が多かった、「矢場とん」と柳生新陰流でした。
(ふーん、柳生新陰流は分かったけど、矢場とんは何か関係あるの?)
あ、それはですね、ここは「しょ、しょ、清浄寺♪」より「とんとこ とんの 矢場とん♪」の方が有名だから(^_^;)
(・・・)
(そんな唄ないし!次回は綾鷹したりしないだろうな?)
旦那、旦那!ちょっとこっちへ…
(何だよいきなり、お地蔵さんの路地へ連れ込んで何か用?)
ここだけの話しですがね、いい写真があるんですよ。見たい?
(見たい、見たい!)
次回をお楽しみに(^_^)v
(何だ、次回かよ( ̄▽ ̄))

次回はこの近くの大須「七寺(ななつでら)」を紹介します。

入山料1000倍で見る「天下布武」②

  • 2013/01/19(土) 23:07:51

安土城址(あづちじょうあと) ■所在地/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 ■城郭構造/山城 ■天守構造/望楼型地上6階地下1階(天守現存せず)■築城主/織田信長 ■築城年/天正4年(1576年)

(訪問日/平成25年1月11日)

安土城34
安土城天主6階 原寸復元(信長の館)
信長の伝記『信長公記』に書かれた安土城の項「上七重め 三間四方 御座敷の内 皆金なり…」を復元しています。

安土城37
安土城天主5階 原寸復元(信長の館)
同じく「六重め 八角四間あり 外柱は朱なり 内柱は皆金なり…」の復元です。

前回の続きです。

安土城01
滋賀院門跡でも紹介した「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)」の石垣を見ながら登って行きます。

まだまだ石段が続きますが、カット!(面白くない写真なので)

安土城18
途中にある信長の小姓として有名な「伝・森蘭丸邸」跡ですが、こちらは山麓の秀吉邸跡と違って荒れ放題で手付かずです。蘭丸、可哀想過ぎ!
信長と一緒に死んでるのに秀吉邸との扱いの違いは何だ( ̄Д ̄)ノ

安土城12
城の主郭部へ通じる「黒金門(くろがねもん)」跡が見えてきます。

安土城19
黒金門を過ぎると「信長廟」がある二ノ丸と本丸、天主です。

まずは信長のお墓参り、二ノ丸の「信長廟」へ。こちらは信長の一周忌に秀吉が建てた墓ですが、本能寺からは信長の遺骨が見つからなかったため、太刀その他の遺品を埋葬したそうです。

安土城古写真03
おッと!いきなりまた古い写真、「信長廟」の古写真です。次の今の写真をと比べて見てください(^_^;)

安土城47
こちらが現在の「信長廟」、今は立ち入り禁止になっていますが昔は自由に参拝出来た様ですね。門の屋根も杮葺きから瓦葺きに変わっています。

安土城17
天主台から見た「信長廟」何か不思議なお墓です…

ただ台の上に石が乗っているだけですが、この石こそ信長が自分のご神体として、誕生日には礼拝するようにと家臣や領民に強要した「盆山(ボンサン)」ではないかといわれています。
信長は賽銭まで取ってこの石を拝ませていたらしいので、今の摠見寺がやっている事もあながち責められんか…
ガメつさは信長譲り!とでも思っていらっしゃるかも(*^_^*)

安土城14
などとブツクサ言っていると本丸跡に出ますが、当然何も無く御殿の礎石があるだけです。

ところが礎石の配置などから次の写真の様な建物だった事が判明しました。

安土城本丸御殿02
本丸表御殿・天主復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 

京都御所の「清涼殿(せいりょうでん)」と同じ間取りだった事が分かりました。
これにより本丸表御殿は、天皇を迎えるために建てられた行幸御殿だったと推定されています。

安土城復元01
本丸鳥瞰復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 

左から「本丸御殿」「天主」、右が現在信長廟のある二ノ丸の「江雲寺御殿」です。
山上の狭い場所にビッシリ、こんなに隙間なく建て込んでいて大丈夫か?と思いますが、焼け落ちたのは天主と本丸だけだったそうです。しかし、そうなると火元がどこか?安土城炎上は、ますます謎になってくるなぁ…
「江雲寺御殿」は、信長や家族が住んでいた常の御殿であったため、秀吉は安土廃城後に二ノ丸を選んでここに信長の墓を建てています。

安土城15
ここからが「天主」へ続く石段です。

安土城20
やっと頂上の「天主台」です。「石くら」と呼ばれる地下1階部分になります。
ここに6階建ての豪華な天主が建っていたんですね…

地下1階にしては石垣の高さが低いですが、築城当時は今の倍以上の高さでした。綺麗に礎石が並んでいますが、これは昭和3年(1928年)の発掘調査で掘り出されたものでそれ以前は土に埋れていました。今の石垣もその時に積み直されたものです。
ところで、先ほどから「天主」 と言っていますが、お城の象徴的な建物、一番高い建物を普通は「天守」「天守閣」と呼んでいます。「天主」は信長が建てた「岐阜城」の麓にあった四階建ての御殿に命名したのが最初といわれており、この安土城も「天主」と呼んでいました。

安土城24
「天主台」跡の案内板、平面が不等辺六角形だった事が分かります。

安土城21
発掘調査の結果、中央にだけ礎石がなかった事も判明しました。

高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴ですが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けていました。(他の礎石は全て現存しています)
この事から、天主には3階まで階層を貫く吹き抜けがあったという有名な説の証拠ではないか?と言われていますが、中央には何もなかった訳ではなく、柱穴は残っていたそうです。(ここに心柱が建っていた可能性もあります)
3階までの吹き抜けでは、構造的には問題があり過ぎ6階建ての建物を支えきれないなど、諸説入り乱れて今も天主の復元に関しては結論は出ていない様です。まさに安土城は「幻の城」です。
先年公開された安土城築城に関わる映画「火天の城」では、吹き抜けがあったのか?なかったのか?を興味深く描いています。

安土城22
天主台にある石垣です。天主炎上の際の火勢で赤く焼けただれています(T_T;)

自分的にはですが、いつもこの天主跡に来ると石垣に座りボーッと小一時間は過ごせてしまいます。ここは一番好きな場所ですね(^-^; 想像が膨らみませんか?ここに一体どんな天主が建っていたんだろう?信長はここから何を眺めていたのか…とか。

安土城48
同じ景色(当時は周りは湖ですが)を信長も眺めたんでしょうね(実際はもっと高い天主の上から)

たまには石垣の周りをゴソゴソ、金箔瓦まだ埋まってへんやろか…?とか(^O^)
この前ある方のブログを覗いていたら、多分滋賀県の方だと思いますが、自分の父親が子供の頃ここへよく遊びに来て、この辺を掘ると金箔瓦の破片がゴロゴロ出てきたとか…(うわぁ!凄いーっ!羨ましい〜)

金箔瓦
安土考古博物館に展示の搦手口(からめてぐち)から出土のほぼ完全な金箔瓦です。

こんなんの破片でも見つけたらお宝!お宝!くっくっ( ´艸`)
もう出てこないよなぁ?一時間近く探したけど(オイオイ!信長に思いを馳せてたんじゃないのかよ!まったくヽ(`Д´)ノ)
でも摠見寺も金箔瓦を持ってるらしいよ(いいの!自分の持山だから)
えーっ!そう?でも入山料と別に拝観料取って見せてるって(そうなの?いくら?)
なんでもお抹茶付きで500円だとか?(うーん(ーー;)トータルで1500円かぁ?坊主○…)もう止めときますが(。-_-。)ナンマンダブ…

安土城総見寺道
天主跡で信長に思いを馳せたあと(ホントかよ?)別ルートで旧摠見寺へ向かいます。それにしてもまた石段が…

旧摠見寺は、安土城築城に伴い信長によって城郭内に建立されました。本丸、天主の炎上の際にも類焼を免がれ、重要文化財に指定されている二王門と三重塔が創建当時のまま残っています。
つまり、この安土山の中で唯一、信長の時代を偲ぶことができる数少ない貴重な遺構です。

安土城古写真04
またまた古い写真を出しましたが、「三重塔」と「二王門」の古写真です。
この二枚の景色は現在とほとんど変っていません。

今回は何枚か古い写真を紹介していますが、なかなか見ることが出来ない物ですので、現在の景色と比べるのも面白いかな?とアップしてみました。(多分大正か昭和初期頃ではないかと思います)

安土城46
現在の旧摠見寺「三重塔」。まあ、塔なんで
変わろうにも変わり様もないですが…

安土城26
別アングルから見ました。

安土城28
旧摠見寺「本堂」跡です。

18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物がありましたが、安政元年(1854年)本堂など主要な建物のほとんどを焼失し、徳川家康邸跡と伝えられる現在の場所に仮本堂を建てています。

安土城33
「本堂」跡から琵琶湖を望みます。こちら側はまだ湖が残っています。

安土城31
こちらも創建当時のままの「二王門」です。

安土城32
古写真と同じアングルですが、こちらも変わり様がないか?さっきの忘れちゃったらまた戻って見てね(^-^;

仁王門から石段を降りると「百々橋口(どどばしぐち)」と言われる安土城への別の登城ルートがあります。つまり私が降りてきた道ですが、このルートが信長の家臣の登城道だったと推定されています。

安土城40
こちらが仁王門から降りてきた「百々橋口(どどばしぐち)」です。

以前はこちらからも安土山に登れましたが、現在は通行止めにしてあります。
仁王門から降りてきてもここには出て来れない訳ですね。山裾をぐるっと回って大手道の前に出てくる様にルートが変更してあります。関所を一つにして入山料を徴収する仕組みにしちゃったと(>_<)
うううーん!まるでどこかの観光寺院のようだな…

安土城41
「百々橋(どどばし)」です。昔はこの橋を渡って登ったこともあったな…

この日は、めいっぱい見てやろうと、ルート通り山裾を回って大手道の前に出て、もう一度石段を登っていると「こんにちは!入山料払いましたか?」と後ろから声が。
石段を駆け上がって来た(ものすごいスピード)のは関所にいた摠見寺のお坊さん。えっ?もう一回見てるんですけど何か?「へぇー?もう一回ね…」(ん?二回見たらいかんのかい!)
たった1時間前に入山料払って、貴方に御朱印をいただいたのに、私の事もう忘れちゃったの?(それにこの日は私以外に3人しかいなかった…)

安土総見寺御朱印
そんなこんなで、関所のお坊さんにいただいた、ありがたーい
摠見寺の御朱印です。
右から、奉拝 日付 大悲殿 安土城主織田信長公
菩提所 摠見寺 です。

書置きで、それも「印刷」でした。
そりゃあ、自分で墨書きもしてないから私の事なんか記憶に残らんわな?それともよっぽど私の髪、いや影が薄いのか?(髪が薄いのは帽子被ってて分からんはずだし…)
どっちにしてもナンマンダブ、ナンマンダブ…tiーnn!(>人<)

次回はどこにしよう?

入山料1000倍で見る「天下布武」①

  • 2013/01/19(土) 12:27:50

安土城址(あづちじょうあと) ■所在地/滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 ■城郭構造/山城 ■天守構造/望楼型地上6階地下1階(天守現存せず)■築城主/織田信長 ■築城年/天正4年(1576年)

(訪問日/平成25年1月11日)

安土城35
スペイン・セビリア万国博覧会に出展された「信長の館」に展示の
安土城天主5階・6階 原寸復元です。

久しぶりに安土城址を訪ねてみました。安土山にある、信長建立の「摠見寺(そうけんじ)」さんで御朱印がいただけるとの情報でさっそく出発。名神高速道路の八日市インターを降り、近江八幡を目指します。
安土城址のある安土町は、以前は滋賀県蒲生郡(がもうぐん)安土町でしたが、2010年に市町村合併で現在は近江八幡市になっています。

インターから約10km、安土町に入って先ずは安土山登山に備え腹ごしらえと、以前に一度お邪魔したことのある「とんかつ亭 伊呂波」さんへと直行!こちらのお店、ネット検索で見つけたんですが超お勧めですよ(^_^)v
JRの安土駅からも近く、とにかく地元のお客さんでお昼は常に満席状態です。駐車場も滋賀ナンバーの車ばかりでした。(観光客は割と知らない様ですね(^_^;))

伊呂波01
今回は開店してすぐにお邪魔したので空いていてラッキーでしたが、
帰りには駐車場が満杯でした。

伊呂波02
今回注文した「Aランチ」1160円です。お皿がお盆からはみ出してる!

メインの「近江牛のハンバーグ・魚フライ・海老フライ」に、小鉢が2品「手作りおから・冷や奴」、ご飯が大盛りと味噌汁に御漬物です。特に名古屋人には「海老フライ」はたまりませんね(^_^;)
衣もサクサクで、ハンバーグも美味い!ボリュームいっぱいで、お腹もいっぱい!これで安土山登山も大丈夫だなp(^_^)q
今度来た時は絶対「とんかつ定食」頼まなきゃ!お店が「とんかつ亭」ですから…

今回はじめて旅先での料理の紹介をしましたが、これには訳があります。(えっ?どんな?)
これから紹介する写真は、はっきり言ってつまんないです(´-ω-`)
華やかな建物が出てくる訳ではないし、きれいな景色もありません。いくら織田信長が築いた天下の名城「安土城」といえども、今は石垣ばかりです。
興味のない方には全く面白くない写真の連続ですので予めご了承下さい。
そんな方には料理の写真だけでも見ていただこうと、アップさせていただきましたm(_ _)m(あ、また綾鷹ですね?)

それでは、面白くない写真をどうぞ(*^_^*)

安土城古写真06
いきなり暗〜い写真からですが、上は安土山の古写真。下はほぼ同アングルの現在の安土山の遠望です。
今も民家が同じ場所にあるのがよく分かります。(古写真の民家は茅葺きです…)山上には摠見寺の三重塔も見えています。

安土山01
現在の安土山の空撮ですが、信長の時代には周りを琵琶湖に囲まれていました。

次に紹介する写真を見ていただくと、信長も見たであろう当時の景色が非常によく分かります。

安土城古写真07
上が西国三十三観音霊場の観音正寺から安土山を撮影した古写真ですが、湖(白く写っている所)に囲まれています。まるで琵琶湖に突き出した半島の様です。下は同じアングルから撮った現在の安土山。昭和になって干拓のため周りの湖が埋め立てられてしまいました。

この山裾から山上にかけて壮大な総石垣造りの城、「安土城」を築いたのが織田信長です。信長は居城としていた岐阜城から京都に近く、琵琶湖の水運も利用できるここ安土山に天正4年(1576年)1月より築城を開始、天正7年(1579年)5月には完成した天主に移り住んだと言われています。
天主の高さは約32メートル、地下1階地上6階建ての高層建築で、それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城でしたが、天正10年(1582年)、明智光秀による信長への謀反「本能寺の変」後、まもなくして原因不明の失火によって焼失。完成後わずか3年でこの世から消えてしまいました。築城当時の姿を伝える絵図も現在残っておらずまさに「幻の城」です。

安土城復元02
安土山鳥瞰復元CG(復元:三浦正幸/CG制作:株式会社エス) 
右上が天主。左の山上に摠見寺が見えますが、旧摠見寺の三重塔は今も同じ場所に建っています。

突然、現代へ(*^^*)

安土城30
「安土城址」の石碑、奥が駐車場です。

安土城44
「大手門」の石塁の一部です。

安土城の南口は石塁(いしるい)と呼ばれる石垣を用いた防塁で囲っています。この石塁が設けられた部分は発掘調査の結果、東西が約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられていたことが分かりました。
通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が一箇所だけです。信長は安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ3門にし、西枡形虎口(ますがたこぐち)以外の3門を行幸などの公式の場に使用する門にしたのではないかと考えられています。

安土城45
大手門跡を過ぎるといきなり関所の様な柵が…

実は、安土山に登るのには入山料が要ります。ここは1989年〜2009年まで、滋賀県による「調査整備20年計画」が行われており、これからご紹介する「大手道」など、発掘調査で見つかった施設の復元状況を見る事が出来るのですが、以前は入山も無料で誰でも登れるハイキングコースの様になっていました。
私が初めてこちらを訪れたのは学生時代でしたが、もちろん現在の様に整備はされておらず登山道も狭く、クネクネした石段を汗をかきながら登った記憶があります。古城の雰囲気もバツグンで、その後何度も訪れた大好きな場所でした。が…
県による整備計画が終わる頃、2006年の9月から、いきなり山内にある摠見寺さんが入山料を徴収し始めました。
最近の戦国ブームの影響、新しく発見され大々的に報道された「復元された大手道」を見たい、という歴史マニアの欲求につけ込んだ様な入山料の徴収には正直疑問を感じます。

現在の安土山の所有者は摠見寺さんで、長年この山を管理してきた苦労は分かりますが(と言っても以前は荒れ放題…)整備計画が終わり、登山者が増えるのを見込んでの有料化はどんなもんでしょうか?
それも、ここは国の史跡で、整備をした滋賀県が料金を徴収するならまだ納得ですが、一寺院である摠見寺さんがなぜ入山料として徴収するのか?(摠見寺さん、何割か県にバックしてるの?)「人のふんどしで相撲を取る」のは私の心が狭いのか、なんか納得出来ないですね( ̄Д ̄)ノ

タイトルの、入山料1000倍で見る「天下布武」のとおり、現在は入山料が500円、駐車場で500円の計1000円を摠見寺さんに徴収されます。以前は入山料だけで駐車場は確か無料だった様な…
ただの石垣だけの城跡を見るのに1000円も取られるのは、日本中探してもここだけでしょうね(^_^;) 私はここが好きなのでこれからも来るとは思いますが、せいぜい駐車場料金込みで500円が妥当でしょう(ー ー;)
しかし、まさに「坊主◯儲け」とはこの事やな(^人^)ナンマンダブ…

安土城古写真05
無料だった頃の「大手道」クネクネした道幅3mの石段でした。右端に「大手門趾」の石柱がありますが、発掘前はここに大手門があったと考えられていました。(実際は前の写真のようにかなり手前)

安土城02
石段の下から道幅6m、両側に側溝を持つ直線で180mに及ぶ「大手道」と言われる山上に続く登城道が発掘されました。この180mが一番疲れます!歩幅が合わなくてメチャメチャ歩きにくい(T . T)

元々、城郭というのは防御の観点からこのような直線的で長い道は造らないのが鉄則で、その点からも安土城は特異な城であったと言われています。(天皇を迎える行幸道との説もあり)
側溝に架かる石橋の左側に「伝・羽柴秀吉邸」、向かいが「伝・前田利家邸」とされている、家臣の屋敷跡があります。以前はその先に摠見寺(ここから呼捨て(^_^;))の石垣があり、道は左に折れ曲がっていました。
大手道の復元の際に、摠見寺の石垣は取り払われて現在の姿になっています。入山料を徴収し始めたのはこの時の恨みか?

安土城03
「伝・羽柴秀吉邸」跡の石垣です。

安土城04
発掘の結果、礎石などからこの様な建物であったと推定されています。

安土城05
羽柴秀吉邸の復元模型です。(安土考古博物館)

安土城08
「伝・徳川家康邸」跡に建つ摠見寺の仮本堂です。かなり寺域を減らされたのかも?
一応、家康公つながりが出来ました(*^_^*)

安土城10
石段に転用されている「石仏」。

この他にも石段にはいくつもの「石仏」が転用されており、信長は神仏を恐れなかった証拠であるとも言われていますが、秀吉の造った城にも同じ様な例があり、ひどい物に至っては古墳の石棺を転用している物もあるそうです。
この当時は使える石は何でも使え、みたいな感じで信長だけが特異とは言えない様です。

安土城11
これも石垣に転用されていた「仏足石(ぶっそくせき)」お釈迦様の足跡ですが、これはさすがにやり過ぎでしょー、信長さん。

安土城09
真っ直ぐな大手道はここから左に折れ曲がります。下に見えるのが摠見寺の仮本堂ですがやっぱり窮屈な感じが…かなり恨みは深いか?

ここから、二ノ丸、本丸、天主へと続きますが次回へ。

アウト?セーフ?

  • 2013/01/14(月) 22:35:36

日吉東照宮(ひよしとうしょうぐう)■所在地/滋賀県大津市坂本四丁目2-12 ■主祭神/徳川家康公 ■社格等/日吉大社末社 ■創建/元和9年(1623年)

(参拝日/平成25年1月12日)

日吉東照宮18

日吉東照宮は元和9年(1623年)天海僧正により家康公を祀るため、ここ比叡山の麓に造営されました。
その後、寛永11年(1634年)には本殿と拝殿を石の間で連結する「権現造り」の様式に改築。この東照宮で初めて造られた「権現造り」の建築様式を、3代将軍家光が再建着工した日光東照宮に用いたため、日光東照宮の原型・雛形と言われています。

滋賀院門跡を後にして西へ徒歩5、6分。本日のメインイベント「日吉東照宮」へ向かいます。
ダラダラ坂を登って行きますがこれが結構えらい!(えらい=しんどい)←これ名古屋弁(*^_^*)
坂の両側にはいくつもの里坊(お寺)がありますが、すれ違う若い修行僧の方がみんな挨拶をしてくれます。えらいですね〜(あ、こっちのえらいは偉い、立派という意味です)
名古屋弁って、疲れたも「えらい」、立派も「えらい」なんですよね。
例えば、関西弁だと「ああ、しんど!」ですが、名古屋弁は「ああーえらぁ〜!」こんな感じです。

日吉東照宮19
やがて東照宮の鳥居が見えてきます。また石段かぁ…

ハァー、ハァー、言いながら石段を登っていると「こんにちはー!」と、部活の学生らしき子が元気よく声を掛けてくれます。後で分かったんですが東照宮のお隣りが「比叡山高校」のグラウンドでした。
途中で何人もの生徒にすれ違いましたが、みんな丁寧に挨拶してくれました。
いやぁー!比叡山高校えらい!(あ、こっちは「偉い」です)何か名古屋弁はややこしいな( ̄▽ ̄)

実は、石段を登りながらドキドキしていました。東照宮の「社務所」が開いているか、閉まっているか…
事前のリサーチでは、「土・日祭日のみ拝観受付」と「日祭日のみ拝観受付」と二つの情報あり。迷いましたが三連休の初日、土曜日だしまず間違いなく開いてるだろう…と今日を参拝日に決めました。

アウトか?セーフか?石段を登りきると…
お隣りの比叡山高校のグラウンドから大きな声!(もう落ちが分かりますよね?)





「アウト!」 
うわぁぁぁ!社務所閉まってるやん(><) 読みが甘かった!
社務所には「日祭日のみ拝観受付」の張り紙が…神職さん誰もいないし。これじゃ御朱印もいただけません(T . T)

日吉東照宮01
当然、正面の「唐門」の扉はしっかり閉ざされていました。

日吉東照宮02
開いていれば唐門から拝殿の中まで200円で拝観できたのに…

こうなったら写真だけでも!と、「透塀」の間(◇の所です)にデジカメを突っ込んで撮りまくりましたf^_^;)

日吉東照宮10
「唐門」と「透塀」です。屋根の唐破風(からはふ・Ωの所)の飾り金具は素晴らしいんですが、透塀の庇がトタン貼り?なのはちょっと悲しい…

日吉東照宮15
「唐門」の鶴の彫刻ですが、彩色が剥落してます。

日吉東照宮04
日吉東照宮09
こちらが「拝殿」です。独特の彫刻が素晴らしいですが、黒漆の塗りがかなり退色してます。

日吉東照宮12
しかし、さすが東照宮という感じです。

日吉東照宮13
「木鼻」には定番の唐獅子の彫刻、柱には葵の御紋の飾り金具が。

日吉東照宮14
こちらも定番の虎の彫刻。右の虎は塗りが剥げて白虎になってます(^_^;)

日吉東照宮17
真横から見た「権現造り」の「拝殿」。右が「石の間」です。

日吉東照宮16
左が「拝殿」、真ん中が「石の間」、右が「本殿」です。

横から見ると真ん中の「石の間」が数段低くなっているのがよく分かりますが、これが「権現造り」の特徴です。
これは、宮司さんが御祭神である家康公に対して、背を向けて奉仕しても非礼にならないよう配慮されたもので、「石の間」にいる宮司さんの姿が「拝殿・参拝者の将軍」、「本殿・御祭神家康公」の両方から見えない様に工夫したものと言われています。
つまり宮司さんが凹んだ中にいれば、どっちにお尻を向けててもOK!ということですね(^_^;)
うーん!上手く考えたなぁ…

透塀の◇の中にカメラを突っ込んでるので煽りが効かなく、アングル的に屋根まで撮れません(>_<)
◇が小さくて中には手も突っ込めないし…(オイオイ!そんな事して、もし手が抜けなくなったらどうする\(^-^ ))
えっ、抜けなくなったら?◇を切っちゃうか?(待て待て!ここは重要文化財だぞ!)
大丈夫、壊してませんから。何なら誰か見て来てください(^_^;)(後で誰かやってたりして…)

日吉東照宮03
離れて撮ってもやっぱり塀が邪魔です。

日吉東照宮06

以上、「アウト?セーフ?ヨヨイが…」じゃなくて「日吉東照宮」でした。
そう言う訳で、今回は残念ながらこちらの御朱印はありません(><)
いつかリベンジです。

次回は、ちょっと変わって織田信長の幻の名城「安土城趾」をご紹介します。

フィクサーは108歳…ん?

  • 2013/01/13(日) 09:21:59

滋賀院門跡(しがいんもんぜき)■所在地/滋賀県大津市坂本4-6-1 ■宗派 /天台宗 ■寺格/延暦寺本坊(総里坊)■本尊/薬師如来 ■創建年/元和元年(1615年)■開基/天海(慈眼大師)

(参拝日/平成25年1月12日)

前回、次回も京都の寺社巡りと書きましたが、今年はじめての御朱印巡りで滋賀県を訪ねましたので先にご紹介します。
滋賀院門跡のある滋賀県大津市坂本は、比叡山延暦寺の里坊として栄えた町です。「里坊(さとぼう)」というのは、延暦寺の僧が晩年に移り住んだ隠居所です。ここ滋賀院門跡は、「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)の石垣と白壁をめぐらした堂々とした構えで他の里坊を圧倒しています。

滋賀院門跡04
こちらが「穴太衆積み」の石垣です。絶妙なバランスが美しいです…

坂本の街では、あちこちで風情のある美しい石垣を見ることができます。これは、かつて坂本の穴太(あのう)村に住んでいた石工集団が手掛けた独特の石組み工法で、なかでも滋賀院門跡の石垣が最も優れているといわれています。
穴太衆積みは、野面積み(のづらづみ)とも呼ばれ自然石を巧みに組み合わせ、いっさいの加工を施さず小石を隙間に詰め込んで完成させていくもので、高度な技術が必要とされました。
歴史は古く、8世紀に比叡山の堂塔の石組みを手掛けたのを皮切りに、要望があれば集団で各地へ遠征。全国の城の石垣を造りました。現在残っている全国の城の約8割は穴太衆が手掛けたものと言われ、滋賀県では織田信長が築いた「安土城」の石垣が有名です。

滋賀院門跡03
お城の様な立派な構えです。

滋賀院門跡01
こちらは普段閉じられている「勅使門・御成門」

「滋賀院門跡」の「門跡」というのは、代々皇族が住職を務められているお寺で、京都では大原の「三千院」、東山の「青蓮院(しょうれんいん)」などが有名です。こちらの白壁に「五本線」が入っているのが分かると思いますが、これは「門跡寺院」としての最高の格式を表しているのだそうです。京都御所の壁にも同じく五本線が入っています。
 
何故、今回こちらのお寺を参拝したかといいますと、実はこの方が関係しているからなんです。

天海坐像
ドーン!「天海大僧正(てんかいだいそうじょう)
慈眼大師(じげんだいし)です。 (木造天海僧正坐像 川越喜多院蔵)

滋賀院門跡は、比叡山延暦寺・南光坊の住持でもあった天海僧正が、後陽成天皇から京都の白河にあった法勝寺(ほっしょうじ)を下賜されてこの地に建立したお寺です。

「おくさまは18歳」(懐かしい〜♪)じゃなくて、「フィクサーは108歳」 の天海僧正は「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」とも称され、僧侶でありながら家康公の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、フィクサーとして2代将軍秀忠、3代将軍家光と三代の将軍に仕えた方で、家康公を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀るよう進言したのも天海僧正です。現在私が巡っている「東照宮」の生みの親ですね。

寛永20年(1643年)に108歳で亡くなったと言われていますが、一説には116歳、または120歳没と諸説があり、いずれにもしても当時としてはとんでもなく長寿であった事は確かな様です。
しかし、会津の生まれという以外、その前半生に関する史料がほとんど無く謎に包まれた人物です。そのため足利将軍の御落胤説であるとか、特に有名なのは「明智光秀=天海」の同一人物説ですが、光秀=天海だとすれば享年は116歳になるようです(んんん…f^_^;))

小説や漫画、時代劇では「怪僧」みたいにあまりいいイメージでは描かれませんが、比叡山延暦寺にとっては大恩人なんですね。元亀2年(1571年)に起こった織田信長による「比叡山の焼討ち」事件で、焼け落ちた諸堂の復興に尽力したのが天海僧正です。清濁併せ呑むミステリアスなお坊さんです。

滋賀院門跡06
境内から見た「勅使門」クリーム色の壁に白の五本線が入っています。

建立当時、滋賀院御殿と呼ばれた豪華な建物は明治11年(1878年)の火災により焼失。その後、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建されました。
現在でも約1万平米の敷地に内仏殿・寝殿・二階書院・庫裏・台所と、勅使門・通用門、6棟の土蔵に庭園があるそうですが拝観出来る場所は限られています。今回拝観出来た所を少しですがご紹介します。

滋賀院門跡05
内仏殿の玄関。こちらから上がらせていただきました。

滋賀院門跡09
比叡山延暦寺のシンボルとも言える開祖「最澄」以来
1200年燃え続けている「不滅の法灯」がこちらにも。

この法灯は延暦寺にあった先代の物だそうですが、「不滅の法灯」って本当に1200年燃え続けてるの?消えた事が無かったの?
実は一度だけ消えています。それが「比叡山の焼討ち」事件ですが、この時は分灯してあった山形県の「立石寺(りっしゃくじ)」から灯りをこちらに運んで移したようです。
以上をお寺の方から説明していただきましたが…灯りって、いったいどうやって山形県から運んで来たんでしょうf^_^;)
聖火リレーみたいに?松明かなんかにしないと風で消えちゃうしなぁ…
そうかぁ!炭火にして火種を持って来たのかも?ε=ε=ε=´ε` ) しながら。

滋賀院門跡12
こんな灯りですからね(*^^*)

そんなこんなで「菜種油」を継ぎ足し、継ぎ足ししてこちらでは不滅の法灯を1200年も守っておられます。
まあ、ウナギ屋のタレみたいなもんですな。(オイオイ!罰が当たるぞヽ(´o`;それにウナギ屋のタレって1200年も持つかぁ?)
あったら怖い!1200年前のウナギのタレ(((;゚Д゚))))(\(^-^ )絶対ないから!)
「油断大敵」という言葉がありますが(あ、話し変わってますから)、語源はこの法灯から来ているらしいです。油を断つと法灯の灯りが消えてしまう、用心しなさい。という意味ですね。

滋賀院門跡11
こちらは展示してある天海僧正所用の甲冑。

かなり派手めな甲冑ですが、大阪城天守閣にはもっと凄い甲冑が天海僧正所用として伝わっています。

天海甲冑
それがこれですが、何だコレ!?

こんな兜で、「天海が回転〜!」なんて頭を振られたら回りの人は大迷惑ですねf^_^;)
後ろの輪っかは多分、仏様の光背を表しているんでしょうが、これは危なくてとても側には近寄れんな!

滋賀院門跡13
こちらも展示の、右が徳川10代将軍家治、左が織田信長が寄進した大鏧子(だいけいす)。

この鏧子(けいす)ですが、読経のときゴーンと鳴らす鐘です。打金(うちがね)、銅鉢(どうばち)、あるいは俗にザルガネともいいます。
ところでこの寄進者、右の10代将軍・徳川家治は分かりますが、左の織田信長って?
信長は例の「比叡山の焼討ち」事件の張本人で、叡山ゆかりのこちらのお寺にに寄進する筈もなく、どうも信長の子孫・縁者が信長の名前で贖罪の意味で寄進したようです。

滋賀院門跡10
右の徳川10代将軍家治寄進のアップ。葵の御紋が刻まれています。

滋賀院門跡07
話し変わって、こちらが「内仏殿」正面が御本尊の薬師如来。門跡寺院だけあって菊の御紋がいっぱいです。

また奥殿には後陽成天皇、後水尾天皇と明治天皇。徳川歴代将軍家、江戸初期からの天台座主のご位牌が祀られています。

滋賀院門跡08
3代将軍家光が小堀遠州に作らせたと伝わる庭園ですが、
冬のお庭は緑が少なくて寂しいですね…

滋賀院門跡御朱印
そしてこちらが戴いた御朱印です。
右から、奉拝 比叡山 醫王殿(いおうでん)日付 滋賀院門跡
御朱印の葵の御紋が擦れているのがちょっと残念(>_<)

醫王殿・医王殿(いおうでん)とは、ご本尊の病気を治す仏様、薬師如来様の事です。
こちらは、案内していただいた方の対応も丁寧でとても気持ちの良いお寺でした。葵の御紋の御朱印もいただけたしね(*^^*)

最後にお隣りにある「慈眼堂(じげんどう)」を拝見しました。

慈眼堂01

慈眼堂02

「慈眼堂」は、朝廷より慈眼大師号を贈られた天海僧正の廟所、お墓です。

境内には、桓武天皇・後陽成天皇・後水尾天皇、家康公、紫式部・和泉式部・新田義貞の供養塔があります。が、これって凄い組み合わせですよね?新田義貞(にったよしさだ)は、家康公が新田氏の子孫と称していたので何となく理解できますが、じゃあ紫式部は…?何かメチャメチャな感じがするんですけどf^_^;)
一度調べて見なきゃ…って、多分調べないけど(*^^*)

以上、「フィクサーは108歳」でした。
天海僧正をフィクサーと呼んでいいのか?は疑問ですが、語呂がいいのでタイトルにしちゃいました(^人^)

次回は、リベンジ必至の「日吉東照宮」です。

修学旅行で感動出来るか?

  • 2013/01/10(木) 19:40:40

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう) ■所在地/京都市東山区三十三間堂廻町657 ■宗派/天台宗 ■本尊/千手観音 ■創建年/長寛2年(1165年)■開基/後白河天皇 ■正式名称/蓮華王院(れんげおういん)本堂

(参拝日/平成24年11月1日)

前回の養源院の向かいが、京都有数の観光名所として知られる三十三間堂です。正式名称を「蓮華王院(れんげおういん)」といいます。
和様、入母屋造りの見事な本堂は地上16m、奥行き22m、長さは南北に120mも続いており、木造建築では世界一の長さです。堂内には、中央にある高さ3.4メートルのご本尊・木造千手観音坐像(国宝)を中心に、左右に10段50列で各500体ずつ、そして裏に1体の合計1,001体の千手観音像が並んでいます。この観音像、正しくは「十一面千手千眼観世音菩薩」といいますが、1,001体もの金ピカの観音像、実際に目にすると実に壮観!一瞬言葉を失うくらいの圧倒的な迫力です。

moguro01.jpg
ん?鈍い光が、なんかイヤ〜な予感…


moguro02.jpg
「ホーッホッホッホッホッ」「またお会いしましたね」

うわぁ!いつの間に…まだいたんですか? もうてっきり帰ったかと。それに、ますます気味悪くなってるんですけど(≧∇≦)

「ホーッホッホッホッホッ!はい、またお声が掛ると思って先回りしておりました。ここには金ピカの仲間もいっぱいいますし…ひょっとして貴方、こちらでも撮影が出来なかったんですね?
こちらの本堂も撮影禁止ですから…そんな貴方のココロのスキマ、いや記事のスキマをお埋めしようとお待ちしておりました」

んんん…(鋭い!実は本堂の中の写真が一枚もない(T . T))

「ホーッホッホッホッホッ!図星でしたか?今回も外からの写真を貼ってお茶を濁すつもりですね。いけませんねー、どうです?わたしが貴方の夢を叶えて差し上げましょうか?いえいえ、お金は一銭もいただきません…」

えっ?本堂の中の撮影をさせてくれるの?って…ふっふっふっふっ
残念!!
もうあるもんねー♪

これだぁー! ドーン!
三十三間堂07
パンフレットからの撮影です。いやぁー凄いです…

「・・・」 喪黒001 「ぅぅ、二度と来るか!」

あれ、もう帰っちゃうの?心なしか後姿が寂しいんですけど(*^^*)
それに小さくなってるし…

さあ、ドーン!の人も帰ったところでお茶を濁す画像を貼っていきますf^_^;)

三十三間堂03
三十三間堂04
定番中の定番、南北120mの本堂です。

三十三間堂09
本堂内部はこうなっています。左側に1,001体の
千手観音像がおわします。

平安時代後期、約30年の院政を行った後白河上皇が、もともと当地に離宮としていた「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の一画に「平清盛」の資財協力により建立したのが蓮華王院本堂(三十三間堂)です。
ところが建長元年(1249年)、市中からの火災により焼失。鎌倉時代の文永3年(1266年)に再建されたのが現在の建物です。当時は朱塗りの外装で、堂内は花や雲文様の極彩色で飾られていました。

三十三間堂08
「木造風神・雷神像」の内「雷神像」で鎌倉再建時の作です。

堂内左右端に安置してあり、風神・雷神像の姿をユーモラスに表現した二つの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれています。(宗達、お向かいの養源院にもいました)

三十三間堂05
本堂正面、「国宝 三十三間堂」が誇らし気ですが…
内部が撮影禁止なのは残念!

三十三間堂06
こちらも定番の長〜い廊下。

やっぱりドーン!の人(だから誰やねん?)が言ったように、定番写真でお茶を濁しました(綾鷹かよ…)。
それにしても、ここは京都有数の観光名所で修学旅行の定番コースだけあって、私が参拝した日も学生がいっぱいでした。
自分の経験から言っても、修学旅行って、ただダァーっと見て回ってハイッ次!みたいな感じですよね?
ほんとにこれでいいのか?って、多分いいんでしょう。
小中学生でお寺や神社に興味を持ってる子ってまずいないし…(みうらじゅん氏みたいな人は例外f^_^;))お坊さんに説明聞いても多分退屈なだけでしょう(*^^*)

私も修学旅行以来、観光名所という事で意識的に避けていたのもありますが、改めて来てみるとここは本当に凄いです。特に1,000体千手観音には感動しました!やっぱり神社仏閣はある程度歳を取ってから回るものですね。ただあんまり歳食っちゃうと足腰が弱って(特に階段がキツい)回れなくなるけど(^_^;)

三十三間堂10
本堂の真ん中、ご本尊の前の納経所でいただいたご朱印です。
メチャメチャ達筆です。書いていただいている間、外人さんに
取り囲まれました(*^^*) 珍しかったんでしょうね?

右から、奉拝 日付 大悲殿(観音様の事です)蓮華王院です。

今回も写真が少ない分、ドーン!の人(だから誰?)に出ていただいき助かりました(^人^)

次回も京都かな?(なかなか家康公の出番がないな…)

菊と桐と葵と…血?

  • 2013/01/06(日) 00:26:01

養源院(ようげんいん)■所在地/京都府京都市東山区三十三間堂廻り町656 ■山号/南叡山 ■宗派/浄土真宗遣迎院派 ■本尊/阿弥陀如来 ■創建/文禄3年(1594年) ■開基/淀殿、成伯(開山)

(参拝日/平成24年11月1日)

ここ養源院は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室「淀殿(茶々)」が、父「浅井長政(あざいながまさ)」の二十一回忌に菩提を弔うため秀吉に願って創建したお寺です。寺号の「養源院」は、長政の法名から付けられました。
25年後の元和5年(1619年)に落雷にあい、寺院は焼失しましたが、2代将軍徳川秀忠の正室となった「江(法名・崇源院)」によって伏見城の遺構を移して再興されました。
江によって再興された後、後水尾天皇の中宮として入内した秀忠夫妻の娘、和子(まさこ・東福門院)は、准胝堂を宮中安泰の祈願所に、また本堂には秀忠夫妻と兄の3代将軍家光の位牌を安置して将軍家の位牌所に定めました。現在も養源院には徳川歴代将軍の位牌が祀られています。
特に江と秀忠の位牌には「菊」「桐」「葵」の3つの紋が刻まれています。「菊」は和子が嫁いだ天皇家の紋、「桐」は養源院を建立した豊臣家の紋、「葵」はもちろん徳川家を象徴する紋です。
豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った和子の切なる気持ちが現れている3つの紋が並ぶ位牌は、日本で唯一ここだけだそうです。

養源院007
こちらが浅井三姉妹の三女「江」です。絶世の美女と言われた信長の妹「お市の方」の娘ですので江も美しかったと言われています…

「江」は浅井長政の三女で、母は織田信長の妹「お市の方」。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長女の「淀殿(茶々)」は豊臣秀吉の側室、次女「初(法名・常高院)」は京極高次の正室です。

この「江」の名前ですが、資料によって「江(ごう)」「小督(おごう)」「江与(えよ)」など様々で、どれが正しいのか分かりませんが、幼名は「督(ごう)」と呼ばれていたようです。「江(ごう)」の字は、生地の近江もしくは江戸に因んでの宛て字の可能性があると言われています。
ちなみに長姉の「淀殿」の本名は「浅井茶々(あざいちゃちゃ)」で、「淀殿・淀君」の名前は秀頼を産むために「淀城」に住んでいた地名からの通称です。

養源院006
こちら養源院は「蓮華王院(三十三間堂)」の東向かいにあります。写真右側が三十三間堂になります。

養源院014
「勅使門」ですが普段は閉ざされています。

養源院005
勅使門と並びの参拝客が入れる「山門」です。右端に怪しげな白い立札が…
「血天井」って何だ?

養源院004
これでした。「桃山御殿 血天井」「宗達筆 杉戸絵」の立札です。
えっ!「血天井」って?←だからぁ、あとの記事を読めば分かります!
またいつもみたいに記事が長いけど(^_^;)

養源院002
参道の先に「本堂」が見えてきます。ん?あれは「葵の御紋」の幔幕では?
「血天井」?気になるんですけど…←あのね、順番があるから( ̄▽ ̄)

養源院玄関
本堂玄関です。やっぱり「葵の御紋」の幔幕!
「血…」←これから見せます( ̄ー ̄) 泣いても知らんぞ!



養源院018
うわあああ!びっくりしたぁ!(>_<) あなた萬福寺さんの…!
もう出番は終わったんじゃ?それに、知らないうちに合体しちゃってるし(*^_^*)

「オーッホッホッホッホッ」
「これからお見せするのはただの『天井』じゃございません。この天井はココロ、人間のココロでございます。
この世は老いも若きも男も女も、ココロのさみしい人ばかり…そんな皆さんのココロのスキマをお埋めいたします。
いいえ、お金は一銭もいただきません。みな様が満足されたら、それが何よりの報酬でございます。」

では、どうぞ!
養源院017
これが「血天井」です!
うわぁぁ!なんか黒いシミがいっぱい!それに足跡みたいなのも付いてるんですけど(@_@。どうしてこんな物が天井に?

それはですね、話は少し長くなりますが…(またですか!短めにお願いします)

豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う家康公は、慶長5年(1600年)、度重なる上洛命令を無視した会津の上杉景勝を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、会津攻めを開始します。
家康公は畿内の守りとして、譜代の家臣である鳥居元忠ら1800名ほどの兵を伏見城に残し、徳川軍主力を率いて大坂から会津に向かいます。

6月16日、家康公は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし
「我は手勢不足のため伏見に残す人数はわずかばかりにて汝には苦労をかける」と述べると
元忠は「いいえ、そうは思いませぬ。天下の無事のためならばこの人数で十分に事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。
もし変事があって敵の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するまでの事。兵をを多くこの城に残すことは無駄と存じます」と返答しました。
家康公はその言葉に涙を流し、今川家の人質だった幼少の頃からの老臣と深夜まで酒を酌んで別れたと伝わります。

畿内に軍事的空白が生まれたことを好機と見た石田三成は、反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、まず手始めに伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城を明け渡すように要求しましたが、家康公に同城の死守を命じられていた元忠はこれを拒絶したため、西軍は4万の大軍で伏見城を包囲し攻撃を開始しました。これが「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「伏見城の戦い」です。

元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、13日間の攻防戦の末に討死し、380人余までに減っていた兵士も「中の御殿」に集まり切腹。ついに伏見城は落城しましたが、元忠の忠節は永く「三河武士の鑑」と称されました。
養源院再興の際にその元忠ら戦死者の菩提を弔うため、多くの兵士の血痕が残った「中の御殿」の血染めの床板を天井に上げ「血天井」としました。
以上が山門前の立札「桃山御殿 血天井」の由来です。

今回もかなり長かったですね(>_<)←そう?「血天井って何?」って何回も聞くから(`_´)

こんな気味の悪い天井板なんか…と思われるでしょうが、ドーン!の人(誰やねん?)が言うように「ココロ、人間のココロでございます」380人余の「三河武士」の忠節の心が染み付いた天井だと思って見てください…合掌。

しか〜し、ドーン!の人が言った「お金は一銭もいただきません。みな様が満足されたら、それが何よりの報酬でございます」とはなかなか参りません。
小さいお寺で拝観は本堂のみですが、拝観料・中学生以上は500円が必要です( ̄▽ ̄)
そのうえ本堂内は一切撮影禁止、「血天井」・「菊・桐・葵」のご位牌も当然撮影禁止。血天井の写真が一枚なのもそのためです。(ん…?)

これからご紹介する、同じく立札に書いてあった「宗達筆 杉戸絵」も撮影禁止なので「絵葉書」からの撮影です。
「俵屋宗達」といえば同じ京都・建仁寺の「風神雷神図屏風」が有名ですが、当時無名だった宗達が認められるきっかけとなった奇抜で斬新な絵を「血天井」の供養のために杉戸に描いています。

養源院011
着色杉戸絵「獅子図」です。

養源院012
着色杉戸絵「波に麒麟図」です。

養源院013
そして着色杉戸絵「白象図」です。

養源院御朱印
こちらがいただいた養源院の御朱印です。書置きでしたので
御朱印帳に糊で貼り付けました(><)

こちらも達筆で読めませんが、右から、奉拝 雨寳殿 養源院です。(葵の御紋の御朱印なし、日付なし)
「雨寳殿(うほうでん)」とは伏見城内にあった豊臣秀吉の学問所「牡丹の間」だそうです。現在は「菊・桐・葵」のご位牌が祀られています。

以上、小さいお寺で拝観料は大きい養源院でした。

喪黒002
「困った方ですなぁ…貴方そんな事をおっしゃると罰が当たりますよ。
いえね、もちろん私は一銭もいただきませんが、京都のお寺で拝観料が
要らない所はございません。ホーッホッホッホッホ…では、私はこれで」

えーッ!あなた、まだいたんですか?次回はもう出て来ないでね(^_^;)

新年早々、お見苦しい物をお見せして大変失礼しましたm(_ _)m
次回も京都が続きます…(ほんとにもう出て来ないだろうな?)

インゲン豆と徳川家

  • 2013/01/03(木) 00:46:52

黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ) ■所在地/京都府宇治市五ヶ庄三番割34 ■山号/黄檗山 ■宗派/黄檗宗大本山 ■本尊/釈迦如来 ■創建/寛文元年(1661年)■開基/隠元隆琦

(参拝日/平成24年11月2日)

新年最初の更新です。今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

今回は、いきなりこんな写真からです(*^^*)
万福寺020
自画像ではありません。が、メタボ感は近いものがある…(*^_^*)

「ドーン」(懐かしい〜)の人でもありません。喪黒
しかしよく似てるな(^-^)「オーッホッホッホッホッ」

新年らしくおめでたい金ピカの七福神「布袋さま」です。(でもちょっと怖いというか不気味…)

久しぶりに京都・宇治に来ました。旅の目的は、京都にある徳川家ゆかりの寺社で御朱印をいただく事です。
いつもは車で出歩いているんですが、たまには新幹線もいいかな?と、三河安城駅から「こだま」に乗り込みました。(三河安城駅は「こだま」しか停まらないので(^_^;))
萬福寺へは京都駅からJR奈良線に乗り換えです。平等院で有名な「宇治」駅の一つ手前、「黄檗(おうばく)」駅で下車、駅からは歩いて7〜8分で到着です。
「黄檗=おうばく」京都人以外なかなか読めないですよね?ここのお寺を知っているか、家の宗派が黄檗宗の人くらいしか読めないんじゃないかな…

ここ萬福寺は、臨済宗・曹洞宗と並ぶ日本三禅宗のひとつ黄檗宗の大本山です。江戸時代の初め寛文元年(1661年)に中国の僧、隠元(いんげん)禅師によって開創されました。
禅師は日本からの度重なる招請に応じ、1654年、63歳の時に弟子20名を伴って来朝。宇治の地でお寺を開くにあたり、寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けました。
建物は中国の明朝様式をとり入れた伽藍配置で、創建当時の姿を今に伝えている数少ないお寺です。(創建が江戸時代と新しいですからね(^_^;))

仏教儀式や作法、お経も全て中国の明の時代そのままの形で受け継がれており、般若心経も「まかはんにゃはらみたしんぎょう…」と唱えるところを、「ポゼポロミトシンキン…」というように唐音(とういん)つまり中国読みで唱えているそうです。

ところで、このお寺を開いた隠元禅師、この方が中国から伝えたのが「インゲン豆」です。他に西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)なども隠元禅師が一緒に日本に伝えたものといわれています。という事は、私たちが日頃食べているこれらの物は、江戸時代初めまでは日本には無かったという事ですよね?(んんん、知らなかった…)
また、お寺で必ず目にする「木魚(もくぎょ)」を本格的に使用したのも隠元さんだそうです。

ちなみに、木魚の生産日本一の県はどこか分かりますか?
答えは、我が故郷「愛知県」です!d(^_^)v
あと、お寺が日本一多い県は?
京都?、NO!。奈良?、NO!。これも意外や意外「愛知県」d(^_^)v
①愛知県 4853ヵ寺 ②大阪府 3414ヵ寺 ③兵庫県 3321ヵ寺 ④京都府 3079ヵ寺・・・奈良県 1838ヵ寺
ダントツで愛知県が多いです。でも有名寺院が多いのは圧倒的に京都・奈良ですね…(これは負けてる!)

万福寺002
万福寺001
中国風の「総門」です。「葵の御紋」の幔幕が張ってあります。
ドーン!「オーッホッホッホッホッ」(くどい〜?)

何故こちらに「葵の御紋」があるのか…

承応3年(1654年)明から来朝した隠元禅師は、万治元年(1658年)江戸へおもむき、4代将軍徳川家綱に拝謁。家綱は隠元に深く帰依し、幕府からは山城国宇治に土地が与えられ、新しい寺が建てられることになりました。寺は寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍家や諸大名の援助を受けて延宝7年(1679年)頃に現在の伽藍が完成しています。
隠元は、中国に残してきた弟子たちに「3年後には帰国する」という約束で来朝していましたが、ここに至って日本に留まることを決意し、結局日本に骨を埋めることになりました。

という訳で、徳川幕府が隠元さんのために建立したお寺なので「葵の御紋」なんですね(#^.^#)

境内図
「境内図」です。メチャメチャ広いです!新規参入のお寺では京都市内にこの広さの土地は確保出来なかったでしょうね。

万福寺016
「山門」ですが、あまり中国風な感じはしませんね。
山門からは一直線に諸堂が並ぶ伽藍配置です。

万福寺022
このお寺の玄関でもある「天王殿」です。この中におられるのが…

ほていさん
こちら、ドーン!じゃなくて〜、金ピカの「布袋尊(ほていそん)」です。
中国では「布袋尊」は「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の化身と言われているそうです。

四天王
左右に布袋尊を守る「四天王」が安置されています。
こちらは四天王の内の「増長天」。ちょっと短足(^_^;)

万福寺023
布袋尊の背後を守る「韋駄天」です。
カッコいいですね!

いずれも来日していた明の仏師、范道生(はん どうせい)の作で中国風の様式で造られています。特に布袋尊は日本ではあまり見られない様式ですね。

万福寺012
「大雄宝殿」日本の一般的な寺院の本堂、仏殿にあたる建物です。

万福寺005
大雄宝殿の前の見事な「香炉」割ったら大変そう!

万福寺011
ご本尊の「釈迦三尊像」です。脇侍は釈迦の十大弟子の阿難(あなん)と大迦葉(だいかしょう)です。

万福寺013
「卍字(まんじ)くずし」の勾欄(手すり)がある「法堂」です。

万福寺004
こちらが「卍字くずし」の勾欄です。まさに中国様式ですね。

万福寺006
「卍字」そのまま(^_^;)

万福寺007
「卍字」「卍字くずし」の影が石畳に…

万福寺003
案内図のように諸堂の間を回廊で繋いでいますが、回廊全てに
「葵の御紋」入りの吊り灯籠があります。

万福寺009
やはり萬福寺で有名な物といえばこれですね。斎堂(食堂)前に吊り下げられている巨大な木製の魚。

これは開梆(魚梆)(かいぱん)と言って、叩いて食事や法要の時間を知らせるためのもので、木魚の原型と言われています。
魚の形をしているのは、魚は昼夜を問わず目を閉じないことから、寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味で、口に咥えた丸いものは煩悩を表し、魚の背を叩くことで煩悩を吐き出させる、という事だそうです。
あ、これは一般の参拝客は叩けないのでくれぐれも注意してくださいね!(お坊さんが午前11時45分に叩かれるそうです)

万福寺御朱印01
「葵の御紋」入り、ご本尊の御朱印です。
右から、奉拝 大雄宝殿 宇治黄檗山
いやぁ!お寺さんの墨書きは達筆すぎて分かりません(><)
まだこちらは分かりやすい方です。次が読めなかった!

万福寺御朱印02
同じく「葵の御紋」入り、「韋駄天」と「萬徳尊」の御朱印です。
右のページ、奉拝 日付 韋駄天 宇治萬福寺
左のページ、奉拝 日付 萬徳尊 黄檗山
こちらの二つ達筆すぎ!「韋駄天」なんか「駄」しか読めない(T . T)

特にこの二つの墨書き、ブログにアップするにあたって読み返したんですが、最初はさっぱり読めんかった…
でも三つとも葵の御紋入りの御朱印で大満足です!

まだこちらには例の「ドーン」の(失礼!)「布袋尊」の御朱印があるんですが、葵の御紋が押してないので今回はスルーしてしまいました(^_^;) 布袋さん、ごめんなさい(>人<;)
もう一つ萬福寺で有名な物といえば「普茶料理(ふちゃりょうり)」があります。ざっくり言うと中華風精進料理ですが、値段が高いのでスルー!(こちらは謝らないぞ。もっと安く食べさせてよ…)

以上、葵の御紋いっぱいで大満足の萬福寺さんを後にしました。
次回も京都を巡ります…


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