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神も仏もありました②

  • 2013/02/24(日) 00:56:37

日光東照宮① (にっこうとうしょうぐう)■所在地/栃木県日光市山内2301 ■主祭神/徳川家康公(相殿)豊臣秀吉・源頼朝 ■社格等/別格幣社 ■創建/元和3年(1617年)

(参拝日/平成25年2月7日)

日光東照宮001
輪王寺のすぐ北にあるのが「日光東照宮」です。
立派な社号標ですね。金の葵の御紋が燦然と輝いて
います!

ついに来ました日光東照宮、うん十年ぶりの参拝です。それも雪の東照宮は初めてです。巫女さん、職員さんが一生懸命に雪かきをされていました。

長い戦国時代を終わらせ、江戸に幕府を開いて天下泰平の世をもたらした家康公は、元和2年4月17日(1616年6月1日)、駿府(現在の静岡)で死去、享年75歳でした。
死の直前、「御体は久能へ納、御葬礼を増上寺にて申付、御位牌を三州之大樹寺に立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候」と遺言されました。

「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」の事です。
遺言どおり、朝廷から贈られた神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として家康公をここ日光に神として祀ったのが「東照宮」です。日光は江戸のほぼ真北にあり、北辰(北極星)を背に家康公は徳川幕府の安泰と、日本の恒久平和を守ろうとしました。

もともとは、家康公の遺言どおり質素に祀っていた東照宮でしたが、現在に見るような荘厳な社殿に造り替えたのは3代将軍家光でした。家光は祖父である家康公を敬愛していたため、東照宮の造替に当時の建築技術や幕府の財力を注ぎ込みました。寛永11年(1634年)から造替され、寛永13年(1636年)に完成したといわれています。
総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は築城の名人と言われた藤堂高虎です。

総奉行・秋元泰朝が幕府に提出した収支報告書『日光山東照大権現様御造営御目録』(通称『御造営帳』)によると、総工費は金56万8000両、銀100貫匁(かんもんめ)米1000石で、今の400億円に相当するそうです。
35棟を建て替え、新築した大工事に使った材木は14万本。工期はわずか1年5か月で、延ベ454万人が造替に携わりました。この造替工事を「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」と呼んでいます。
家康公が望んだ「小さな堂」は、やがて家康公を敬愛する3代将軍家光によって、いま見るような絢爛豪華な「平和のシンボル」に生まれ変わりました。

聞けば聴くほど、見れば観るほど凄いです。江戸時代の宮大工や、職人、工人の名人技は世界に誇れる物でまさに「世界遺産」に相応しい建造物ですね。
昔はここ東照宮が随分けなされた事がありました。ほぼ同時期に造られた京都の「桂離宮」との対比です。
ドイツの建築家ブルーノ・タウト(1880〜1938)は、この2大建築を評してこう書いています。

『(前略)玄関の間、これにつづく古書院控えの間、広縁、 そこから張出された月見台の竹縁、 御庭。泣きたくなるほど美しい印象だ・・・(桂離宮を評して)』

『華麗だが退屈、 眼はもう考えることができないからだ。鳴龍のある堂、手をたたくと天井に描かれた龍がクルルルと鳴く、 珍奇な骨董品の感じ (中略)配置はシンメトリー、 これを破っているところもあるが、 しかしそれはなんの意味ももっていない。建築の堕落だ・・・(日光東照宮を評して)』

美観、美意識の違いは人それぞれですので何とも言えませんが、ブルーノ・タウトが酷評した東照宮に対してはこんな面白い評価もされています。

『わたしたち日本人って、ホントはこってり過剰なものが好きなんじゃないの?(中略)圧倒的な物量で、極彩色で、キンキラキンで、デコラティブで、一種グロテスクだがジャパニーズ・バロックとでも呼ぶべきモノ・・・死者のためのテーマパーク過剰の殿堂、日光東照宮 (芸術新潮・ワビサビなんてぶっ飛ばせ!バロック王国ニッポン)

日本人の感性は面白くて、京都・奈良の古寺のわびさびも好きだし、東照宮のようなキンキラキン、デコデコ(デコ電もそうですが(*^^*) )も好き。神も仏も一緒で、葬式は仏式で正月は神社へ初詣。クリスマスにジングベル♪とかf^_^;)「神仏分離令」なんか、もともと何でもありの日本人の感性には合わないと思いませんか?
古寺のわび・さび(これも昔はキンキラキンのピカピカです)とは、対極にある武家文化の美、この煌びやかさがここ東照宮の魅力です。

nikkou map
日光東照宮案内図

日光東照宮002
石鳥居をくぐってすぐ左にあるのがこの「五重塔」
です。

若狭小浜藩主・酒井忠勝が献納したもので、直径60cmの心柱が4層目から吊り下げられた耐震構造(底部は礎石から浮いている)になっています。
バックが雪のため墨絵のようで、極彩色の塔が映えます。これぞ、わびさびとキンキラキンの融合ですね。
(いい時に撮影したな、また長〜い記事によく合わせたじゃないの?)
そう?たまたま雪だったから。「色の白いは七難隠す」ってね(^_^)v
(なんのこっちゃ!)

日光東照宮004
この色彩感覚はどこからくるんでしょうか?

日光東照宮003
前回紹介の増上寺の五重塔も、きっとこんな感じ
だったんでしょうね。

日光東照宮049
東照宮最初の門、金剛力士像が守る「表門(仁王門)」です。

日光東照宮050
向かって右にあるのが、口を開いた「阿形(あぎょう)像」です。

日光東照宮051
左が、口を結んだ「吽形(うんぎょう)像」です。

仁王像・金剛力士(こんごうりきし)像は、阿形・吽形の一対で寺院の入口の門の左右に安置し、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ「護法善神(仏教の守護神)」の一つです。が…

これって少し不思議だと思いませんか?ここは東照宮で家康公を神として祀る神社ですよね。本来お寺にあるべき仁王像があるのはおかしいわけですが、現在ここを通っても何の違和感も感じません。「おおー!立派な仁王さん」くらいの感想がほとんどだと思います。
ちなみに、この仁王像の裏側には神社の魔除けといわれる阿形・吽形一対の「狛犬(こまいぬ)」が祀ってあります。表が仏様の守護神「仁王像」、裏に神様の魔除けの「狛犬」で、まさに「神仏習合」そのものです。日本人の宗教感はやっぱり神も仏も一緒ということでしょうかね。

ところがこの仁王像、明治4年(1871年)に実施された例の「神仏分離令」によって、家光廟の大猷院(たいゆういん・こちらはお寺)の仁王門に移されてしまいました。東照宮の仁王門(その後、表門に改称)に仁王像がないのはおかしいということで明治30年11月に戻ってくるまでの間、現在、表門の裏側にある左右の狛犬が代わりに飾られていました。

日光東照宮053
表門、境内側の右にある「阿形(あぎょう)の狛犬」

日光東照宮054
同じく左の「吽形(うんぎょう)の狛犬」

日光東照宮006
表門をくぐった所にある「三神庫(さんじんこ)」です。正面が「中神庫(なかじんこ)」。

日光東照宮005
右にあるのが「下神庫(しもじんこ)」です。

日光東照宮007
左が「上神庫(かみじんこ)」で、いずれも外部は「校倉(あぜくら)造り」を模しています。

日光東照宮008
こちらの上神庫は妻面を飾る「象」の彫刻で有名です。

日光東照宮010
狩野探幽が下絵を描いた「想像の象」の彫刻。

日光東照宮043
上神庫の向かいにある神馬が仕える「神厩舎(しんきゅうしゃ)」

日光東照宮042
東照宮では唯一の「素木造り」で、「三猿」で有名です。

日光東照宮011
定番の「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿。

日光東照宮041
「三猿」だけではなく、実際には8枚の絵で人の一生を描いているそうです。

日光東照宮040
厩舎に猿の彫刻があるのは、猿が馬の健康と安全を守るという言い伝えによるものです。

nikkoutousyougu
「上神庫」の奥に見えるのは「鐘楼」です。

日光東照宮012
「御水舎(おみずや)」と右の建物が「経蔵」。

日光東照宮013
屋根の下には飛龍や波など、水に関係した彫刻があります。

日光東照宮014
「御水舎」の屋根は12本の花崗岩の柱で支えています。

日光東照宮072
経蔵、輪蔵とも呼ばれ、内部には八角形の回転式の書架があり、一切経1456部、6325巻が納められていました。

陽明門001
この石段を登ると左が「鼓楼」右が「鐘楼」、その先がいよいよ「陽明門」です。

陽明門002
目の前に「陽明門」が見えてきました。

陽明門003
日がな一日見ていても飽きない「日暮門」と言われる「陽明門」。
キンキラキンですが、柱が白いためか妙に雪景色に溶け込んでいて、
いい感じです(*^^*)

やっと「陽明門」までたどり着きましたが、続きは次回で(*^^)v

(えーっ!ここで終わり?無駄話が多すぎヽ(`Д´)ノ )
まあ、まあヾ(^。^*)次回は話は短めにしますから…
(あんまりあてに出来んからなぁ!前回の輪王寺もこっそり記事書き足してるやろ?)
・・・

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神も仏もありました①

  • 2013/02/21(木) 03:31:52

神橋01

神橋(しんきょう)■所在地/日光市山内・上鉢石町 (大谷川)■管理者/日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ) ■長さ28m×幅7.4m×高さ10.6m

神橋02
「神橋」、撮影の腕は悪くても雪のおかげで上手く見えます(^人^)

日光国立公園の入口となる大谷川の清流に、古くから神聖な橋として架けられたのが「神橋」です。
アーチ形の木造反り橋で、その構造から錦帯橋(山口県)・猿橋(山梨県)と並んで日本三奇橋の一つに数えられています。

品川のホテルを早朝にチェックアウトして、いよいよ日光に向かいます。浅草6:20発の東武鉄道、東武スカイツリーラインの快速に乗り、東武日光には8:26の到着です。やっぱり日光は遠いですσ(^_^;)

東武日光駅から日光山内の入口、神橋までは約2km、ブラブラ歩くことにしました。前日に降った雪の影響か歩道には雪が積もっています。雪の日光東照宮、この季節しか見れないので期待大です(^_^)v

神橋05
こちらは神橋手前にあったお土産屋さん、レトロな感じで思わず撮ってしまいました。国登録有形文化財になっていました。

神橋06
石造りの橋脚に架かる朱塗りの木造反り橋です。

この橋の起源は神護3年(767年)に日光開山の祖、勝道(しょうどう)上人が弟子とともにここまで来ましたが、大谷川が急流のために対岸に渡れません。すると、「深沙大将(じんじゃだいしょう・仏教の守護神の一人)」が現われ、青と赤の2匹の大蛇を放したところ絡み合って橋となり、蛇のうろこに山菅(やますげ)が生え、渡りやすくなったということから「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」とも呼ばれています。

初期の構造は「乳(ち)の木」と呼ばれる橋桁を両岸の穴に埋め、補強材で支える「はね橋」形式でしたが、江戸時代になり東照宮が造営されると、寛永13年(1636年)に東照宮を始めとする日光山の表玄関にふさわしいように大造替が行われ、素木造りだったものを朱塗りの形式に改め、石造の橋脚に切石を用いて補強されました。
現在の橋は、明治35年(1902年)の洪水で流されたものを、明治37年(1904年)に旧様式に従い再建したものです。ちなみにこの橋を渡るのには300円が必要です。

「神橋」を左手に見ながら、同じ大谷川に架かる国道120号線の「日光橋」を渡れば、いよいよユネスコの世界遺産である日光山内(にっこうさんない)、二社一寺(にしゃいちじ)です。
まずは道順どおりに日光山輪王寺を参拝します。

案内図
日光山参拝案内図

日光山輪王寺(にっこうさんりんのうじ)■所在地/栃木県日光市山内2300 ■山号/日光山 ■宗派 /天台宗 ■本尊/阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音 ■創建年/天平神護2年(766年)■開基/勝道上人

(参拝日/平成25年2月7日)

輪王寺01
こちらが「黒門」と呼ばれる輪王寺の入口です。

勝道上人が開いた日光山は、平安時代、弘仁元年(810年)朝廷から「満願寺」の称号を受け、天台宗の寺院となり、一時は寺領18万石、僧坊500を超えましたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、北条氏側に加担した罪で寺領を没収され一時衰退しました。
江戸時代に入り、天海僧正が住職となってから復興が進み、元和3年(1617年)には山内に天海僧正により家康公を祀る東照宮も創建され、明暦元年(1655年)には寺号も「輪王寺」と改められました。

実は「輪王寺」といっても、どこまでが輪王寺なのか?ですが、日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、現在これらを総称して「二社一寺」と呼ばれています。東照宮は家康公を「東照大権現」という「神」として祀る神社で、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたものです。
近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、「神仏習合」の信仰が行われていました。つまり、『神も仏も一緒』ということです。

古来よりわが国では、万物に皆神が宿るという土着の信仰がありました。仏教が伝来すると、これに仏教の信仰を折衷して、一つの信仰体系としたのが簡単にいうと「神仏習合」です。
しかし、明治初年に政府が「神仏分離令」を布告し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院を区別させました。これにより全国各地で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」がおこり、各地の寺院や仏像、仏具、美術品の徹底的な破壊が行なわれます。

奈良の大寺院、興福寺も明治5年に廃寺になり、現在は国宝に指定されている五重塔も、明治政府は破壊しようとしましたが、その費用がなかったため売却することとなり、当時25円(諸説あり)で売りに出されました。
買い主は塔の金具が目的だったため、火をつけて焼け落ちるのを待ち金具を拾おうと計画していましたが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために計画は中止されました。
また、今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内でしたが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたため、興福寺には今も門もなければ塀もありません。

奈良県天理市にあった「内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)」は、鳥羽天皇の勅願により建立され、東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ大寺でその規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれましたが、廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収されました。
壮麗を極めた堂塔は破壊され、近隣住民の建築材や薪となり、仏像・仏具・経典・文書はほとんどは焼かれたといわれています。現在では当時の敷地の大半は農地となり、石碑が残っているだけです。

内山永久寺
江戸時代に出版された「大和名所図会」に描かれた「内山永久寺」
浄土式回遊庭園を中心に、本堂、八角多宝塔、三重塔など50以上の堂塔が並んでいました。

正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という興福寺を詠んだ句がありますが、この経緯を知らなければこの句を理解することは出来ません。
この頃撮影された興福寺の写真を見ると、倉庫の様な所にバラバラにされた仏像が写っているものがあります。
その一方、他の寺院では信徒が破壊を恐れ土の中へ埋めた仏像や、海外へ流出したために難を逃れた仏像や美術品も多数ありました。

廃仏毀釈01
これですね。興福寺のバラバラにされた仏像です。

廃仏毀釈02
写真の真ん中には有名な「阿修羅像」が写っています。

廃仏毀釈03
現在は国宝の天平時代の傑作「阿修羅像」も廃仏毀釈で破壊され、腕がもげています。今われわれが見ている「阿修羅像」は、その後に修復されたものです。

個人的に言わせてもらえば、これはとんでもない悪法で、明治新政府が「神道」を国の柱にして、明治天皇を神として崇めさせようと画策した法律ですが、古来の天皇は聖武天皇の例にあるように、仏教に深く帰依し数多くの寺院を建立した天皇もいました。結果、それを破壊するのは、天皇に対して不敬じゃないの?明治政府は何考えてるの!これなら、バーミヤンの石窟を爆破したタリバン政権と一緒じゃないか!!

(ずいぶん怒ってるな?)
当たり前でしょ!去年も名古屋のボストン美術館でアメリカから一時里帰りした、襖絵や仏像が公開されたよね?
(あった、あった!)
あれ、何て言って公開したか知ってる?
(確か、いま日本にあれば国宝級とか…)
そうそう!私に言わせたらアホか?国宝級を海外に流出させたのは誰だよ!今ごろ嘆いてももう遅いわ( ̄Д ̄)ノ 今さら返してくれって頼んでも、二度と日本には返してくれんわ!海外に流出した事を嘆くより、流出させた原因をもっと知るべきでしょ(♯`∧´)

よく「京都や奈良は空襲に合わなかったから、古いお寺や仏像がいっぱい残っていて素敵♪」なんてお気楽な事を言いますが、140年前に明治政府が起こした狂気で、戦争でもないのに多数の国宝級の寺院や仏像が破壊され、貴重な美術品が海外に流出した事も忘れないでほしいと思います。

という事で、日光山内の社寺が「二社一寺」に分離したのは、この明治初年の悪法「神仏分離令」からです。現在も輪王寺に属する建物は1箇所にまとまっておらず、日光山内の各所に点在しています。

輪王寺02
輪王寺でお目当ての「三佛堂(大本堂)」んん?なんか変(ー ー;)

この「三佛堂(大本堂)」も江戸時代までは「東照宮」と「二荒山神社」の間にありました。
現在は、2020年までの修復工事中でこんな事になっていました。最近至る所で修復しています。去年訪れた「姫路城」、京都の「知恩院」「清水寺」…
観光客にとってこれが一番ガッカリです(/ _ ; ) いくら実物大とはいえ、こんな絵に描いた餅の様なもの見せられてもなぁ…

こちらで先ず「二社一寺共通拝観券」を購入。本堂内に入ると修復中の現場が見られるということで、別に400円を納めて7階まで階段を登ります。エレベーター付けてよぉ!姫路城はエレベーター付いてたけど(>人<;)
姫路城の修復現場は、間近で天守閣の屋根を見学できて感激したのでこちらも期待大でした。ヒーヒー言いながらやっと7階に到着…ところがぁ!

輪王寺03
これだよ、これ!なぁ〜んもなくて、スッカラカン!

まったく足場だけ。建物は何もありません!土台が見えるだけで、柱もすべて撤去状態でした。それならそれで今はこんな状態です、くらい写真を貼っといて下さい(ー ー;) わざわざ登らなかったのに…
まあ、7階までは運動、400円は志納金と思ってあきらめました。

輪王寺05
三佛堂の裏手にある重要文化財の「護法天堂」です。

輪王寺04
こちらは、毘沙門天・大黒天・弁財天が祀られている「護摩堂」です。
1998年に建てられた新しい建物です。

輪王寺御朱印02
護摩堂でいただいた御朱印です。

あまりに達筆すぎてまったく読めませんでしたので、「あの…何と読むんですか?」思わず聞いてしまいました。
右から、奉拝 日光山 中央が「五大尊」左が、平成廿五年二月七 日 でした。

rinnoujisyuin
こちらは、黒門横の授与所でいただいた御朱印です。

やっぱり達筆ですが読めました。右から、奉拝 日光山輪王寺 日付 です。

次回は、日光東照宮です。

今鳴るは 芝か上野か 浅草か

  • 2013/02/17(日) 10:49:22

増上寺②(ぞうじょうじ)

(参拝日/平成25年2月6日)

kawasehasui
大正14年作、川瀬巴水「芝増上寺」

増上寺の続きです。
前回も紹介しましたが、ここ増上寺は「北御霊屋」「南御霊屋」を含め下の図のように広大な寺域を誇っていました。「北御霊屋」は約36,000平米、「南御霊屋」は約17,000平米あったといわれています。
今回は、明治から昭和初期に撮影された写真を紹介しながら、当時の姿を見ていきたいと思います。

増上寺鳥瞰図02
こちらは前回も紹介した明治時代の増上寺境内全図です。図の左端に「大門(だいもん)」が見えます。

増上寺大門
明治時代の「大門」です。先には「三解脱門」が見えています。

daimon
現在の「大門」です。

増上寺鳥瞰図04
境内図を拡大してみました。

sangedatumon02
上の図に描かれた当時に撮影された「三解脱門」です。

hondou01
同じく「本堂」です。

増上寺鳥瞰図07
次に「北御霊屋」を拡大してみました。右方向が北になります。

「北御霊屋」で現在の場所に残っている建物は、境内図下に見える「御成門(おなりもん)」と、有章院(7代将軍家継)霊廟の「二天門」のみです。この場所は現在東京プリンスホテルの所有地になっています。
「御成門」「二天門」と続けて紹介していきます。

meijionarimon
明治時代撮影と思われる「御成門」、奥が境内に
なります。

御成門02
こちらは境内から撮影された「御成門」、人力車が写っています。

増上寺043
現在の「御成門」です。御成門は将軍が参拝する時に使用された門で、もとは増上寺の裏門だったそうです。城門によくある「高麗門」形式になっています。

増上寺041
有章院(7代将軍 家継)霊廟の「二天門」です。

増上寺042
かなり痛みが激しいですが創建時の貴重な遺構です。

現在はプリンスホテル駐車場の片隅にあって、あまり見る人もいません。重要文化財ですが、このまま放って置いたら朽ちていきそうです(T ^ T)
現在は増上寺の所有ではないので、勝手に修復は出来ないと思いますが、オイ!西武グループ、金持ちなんだから修復くらいしてくれ(>人<;)

気を取り直して、次は御成門から境内に入ってみましょう。って、バーチャルですがσ(^_^;)

文昭院門前
7代将軍 家継廟(何とか院って分かりにくいのでこれでいきます)の前に来ました。

広角撮影になっているとはいえ、メチャクチャ広い境内ですね!(◎_◎;)
右の影になっている門が先ほどの「二天門」、左に見えている門が「勅額門」です。

有章院勅額門
こちらが「勅額門」ですが、凄い!まるで日光東照宮です。

「勅額門」とは天皇直筆の額を賜った門ということです。屋根は銅板葺で軒唐破風、側面は千鳥破風の四脚唐門で、柱には昇り龍、下り龍の彫刻が絡まっています。透塀の奥、右には鐘楼、左奥には拝殿の屋根が見えています。門の両側の透塀は境内図のように拝殿前庭を囲み、拝殿唐門の左右廊に接続しており全長は107間(約190m)ありました。

ところで、ここに祀られていた有章院こと、7代将軍の家継は、わずか3歳で将軍職を継ぎ8歳で亡くなりました。まさにお子様将軍でしたが、そのお子様の霊廟がこの規模!って…時の将軍家の財力と権力には驚くばかりです。
しかし、その後は幕府の財政難と、次代の暴れん坊将軍(8代将軍吉宗)の質素倹約令もあり、御霊屋の建立は禁止されました。そのため、以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀される事になり、宝塔は作られましたが霊廟建築としてはお子様将軍が最後となりました。

有章院勅額門02
明治期撮影の着色写真ですが、勅額門を入って鐘楼を見たところです。

この写真、上手く着色されています。もとの写真が鮮明に撮れていたのもよく分かります。別にわざわざ着色しなくても?と思いますが、当時の人はカラーで見たかったんでしょうね(^_^;)
しかし、柱の龍の彫刻が凄い!鐘楼もこれと同じ物が日光東照宮にもあるし、ここが日光東照宮と並び称された事がよく分かります。もし戦災で焼失しなかったら増上寺も世界遺産登録か?

文昭院霊廟中門001
拝殿側から「中門」を通して「勅額門」を見ています。

次からは、お子様将軍の父親で6代将軍家宣(いえのぶ)霊廟を紹介していきます。

bunsyouintyokugakumon
こちらは、6代将軍家宣(いえのぶ)霊廟の「勅額門」です。こちらも凄い!

6代将軍家宣(いえのぶ)の霊廟は、お子様将軍の霊廟の南に親子並んで建てられていました。 といっても当然こちらが先に建てられています。これだけの物を建てたあと、すぐにまた7代将軍の霊廟を建てた事になります。まるでマンションの建築ラッシュ並みです。

今でいえば、何とかハイツI・II みたいなものですね(*^^*)
(オイオイ!そのたとえはないやろ?)
でも分かりやすいでしょ(^_^;)
(まあね、でも御霊屋だからな…)

文昭院霊廟勅額門002
上の「勅額門」を内側から撮影しています。本柱と前柱の間には鳳凰の彫刻が施されています。

文昭院霊廟勅額門001
彫刻の豪華さがよく分かります。現在残っていないのが惜しい(>_<)

文昭院霊廟水盤舎001
勅額門をくぐった左手にある「水盤舎」です。

bunsyouintyumon
同じく勅額門をくぐった正面の拝殿「中門」。

zojyoji003.jpg
上の写真、中門左右廊の内側になります。「北御霊屋」の境内図、6代家宣廟「中門・廊」の部分です。

文昭院霊廟仕切門
本殿の西、奥院(墓所)への入口にある「仕切門」です。

zojyoji001.jpg
石段を登った先にある奥院宝塔前の「中門」ですが、扉が開いて家宣の宝塔が見えています。

この中門は戦災を免れたため、現在の徳川将軍家霊廟入口の「鋳抜門(いぬきもん)」に転用されています。

増上寺023
こちらが前回も紹介した、転用された「鋳抜門(いぬきもん)」です。上の写真と同じ門だということがよく分かります。

奥院は3区画に分かれ、左(南)の区画に6代家宣、中央に12代家慶、右に14代家茂と静寛院宮(和宮)の宝塔がありました。

続いて、2代将軍秀忠と正室の江(ごう)の霊廟のある「南御霊屋」を紹介します。こちらには家康公を祀る「東照宮」と「五重塔」も建てられていました。

増上寺鳥瞰図03
こちらも「南御霊屋」を拡大した境内図です。

台徳院
まず、台徳院(たいとくいん・2代将軍秀忠)霊廟の入口になる「惣門」です。

こちらの門は前回の最後にも紹介しましたが、戦災を免れ、現在は東京プリンスパークタワーの敷地内に現存しています。建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家されました。
門の先に見えているのが「勅額門」ですが、こちらは埼玉県所沢市の狭山不動寺(西武ドーム前)に移築されています。参拝していないので写真はありません(^_^;)

taiyuuin soumon02
現在の「惣門」、当然といえば当然ですが全く同じ門です。

増上寺034
葵の御紋も光っています(^_^)v

崇源院霊牌所
境内図にもある「崇源院(お江)の霊牌所」です。東向きに建っていたようです。

台徳院御成門
こちらは秀忠の墓所、奥院(宝塔)の参道にある「御成門」。この門も狭山不動寺に移築されています。

zojyoji004.jpg
平面八角形で裳階付きの覆屋の内陣と2代将軍秀忠の宝塔。

台徳院宝塔
同じく2代将軍秀忠の宝塔の着色写真です。

秀忠の遺骸はこの豪華な宝塔の地下、石棺の中に葬られました。この宝塔は、円柱形の塔身の上に宝形屋根を載せた形式の「木造宝塔」だったため、東京大空襲で残念ながら焼失してしまいました。

増上寺五重塔

zojyoji007.jpg
境内図では一番南に描かれている「五重塔」です。

この五重塔は、後の大老酒井忠清が秀忠の霊廟造営に合わせて、承応年間(1652年〜1654年)に増上寺の南、現在の芝公園丸山古墳付近に建立しました。その後、文化年間(1804年〜1817年)に落雷で焼失。写真の塔は文化6年(1809年)姫路藩主の酒井忠道が再建したものです。
東京大空襲では、台座に至るまで全てが灰と化し現在は礎石すら残っていません。

芝東照宮003

増上寺052
最後に境内図で「東照宮安国院殿」として描かれている東照宮です。

現在増上寺の南、芝公園内にある「芝東照宮」は、もともとは増上寺安国殿と呼ばれていました。安国殿の名称は家康公の法名である「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」によるもので、建物の大きさは、66州の国を永く守るためにとの家康公の遺言で66畳敷となり、敷地も増上寺本堂後方に定められました。
家康公の没後、遺言どおり家康公60歳の時の等身大の像(寿像)を祀り、元和 3年(1617年)に竣工されました。寿像は造営奉行であった土井利勝(後の大老、家康公の隠し子とも)が駿府より運んできたといわれています。

その後、寛永10年(1633年)には新たに安国殿を造替し、旧安国殿は開山堂となりましたが、寛永18年(1641年)には、3代将軍家光によって再度造替され、境内図の場所に移されています。この時造営の社殿は豪壮華麗を極めたものでした。
しかし、安国殿は明治時代初期の神仏分離令により増上寺から切り離され、東照宮と称する事になり、明治 6年(1873年)には郷社に列し、家光によって造営され、維持していたものを東照宮の社殿としました。
大正 4年(1915年)に本殿が国宝に指定され、伽藍の美を誇っていましたが、こちらも昭和20年(1945年) 5月25日の東京大空襲で、寿像と公孫樹(家光お手植えのイチョウ)を残して焼失。現在の社殿は昭和44年(1969年)に建立されたものです。

sibatousyougu
前回も紹介した現在の「芝東照宮」です。

増上寺038
今回の増上寺の参拝で特に印象に残った鐘の音、増上寺の梵鐘。

以上、前編、後編と増上寺の紹介をさせていただきました。
『江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘』『今鳴るは 芝(増上寺)か上野(寛永寺)か 浅草(浅草寺)か』、いい川柳です。今回紹介した古写真といい、五・七・五の17文字の中から江戸の景色が見えてくるようです。

次回は、いよいよ「日光東照宮」を紹介します。

江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘

  • 2013/02/13(水) 16:57:10

増上寺① (ぞうじょうじ)■所在地/東京都港区芝公園四丁目7番35号 ■山号/三縁山(さんえんざん)■宗派/浄土宗鎮西派 ■本尊/阿弥陀如来
■創建年/明徳4年(1393年)■開基/酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人■正式名/三縁山 広度院 増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)

(参拝日/平成25年2月6日)

川瀬巴水03
「昭和の広重」と呼ばれた、川瀬巴水(かわせ はすい)の『増上寺の雪』です。

初めて参拝しました「増上寺」。今回の東京旅行、一日半の日程しかなかったので何処へ行こうか散々迷いました(>_<)
上野の寛永寺を参拝するか、芝の増上寺を参拝するか?ホテルでどちらが近いか地図と睨めっこです(田舎者なので全然分かりません(T ^ T))んんん、品川からだと芝の方が近いか?上野は広そうだし時間的に無理か?
品川のホテルを出たのが3時30分、なぜ品川?は、まあいろいろあって
ノーコメントです(^_^;)
お寺が閉まっちゃうのは4時半か5時か?参拝して御朱印をいただいて、写真撮影をしてたら時間がな〜い!
駅でウロウロしてるよりはと、「増上寺までお願いします!」とホテルからタクシーに飛び乗りました。

(おっ、タクシー使ったの?贅沢( ̄◇ ̄;))
雨が降ってたし、何に乗ったらいいかサッパリ分からんしf^_^;)
(お互い田舎者だしな…)
お互いって、あんた誰?(ーー;)

この日は関東地方は大雪の予報でしたが外は雨。途中、「泉岳寺」の看板を見ながら「ここが赤穂浪士の墓がある泉岳寺ね?でも自分は吉良さんの地元に近いからスルーだな…」などと言っていると、雨に煙る東京タワーが見えて来ました。増上寺へ到着です。

増上寺004
残念ながら雪ではなくて雨の増上寺「三解脱門」です。

うわーっ!凄い三門…これ、写真で見た!見た!さすが東京f^_^;)
(ほんと、田舎者まるだしだな…)
「・・・」

ここ芝の増上寺は、上野の寛永寺と並び徳川将軍家の菩提寺で、徳川将軍15代のうち、2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂の6人、その他将軍の正室、側室、子女ら計35名が葬られています。

天正18年(1590年)家康公が江戸入府の際、武蔵国豊島郷貝塚村(現在の千代田区平河町から麹町にかけて)にあった増上寺の住職、源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したのが菩提寺となるきっかけと伝えられています。
貝塚から一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)家康公によって現在地の芝へ移されました。風水学では、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものといわれます。

増上寺鳥瞰図02
明治時代の増上寺境内全図です。

第二次世界大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が国宝に指定されており、その壮大さは上図の様に日光東照宮に引けを取らないものでしたが、昭和20年(1945年)2度の空襲を受け3月10日に北廟68棟が被災、
続く5月25日に南廟28棟が被災し、その建造物群のほとんどを焼失しました。
歴代将軍の広大な北廟跡地と南廟跡地は、現在いずれもプリンスホテルになっており、本堂裏(西)は東京タワーになっています。

増上寺境内図
焼け残った建物は「三解脱門」「黒門」「梵鐘」「水盤舎」「経蔵」
「台徳院霊廟惣門」「有章院二天門」「御成門」と、現在の徳川家霊廟の「鋳抜門」のみです。(台徳院霊廟 勅額門、丁字門、御成門は埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されています。)

sangedatumon
戦災を免れた壮大な三解脱門(さんげだつもん・三門)。元和8年(1622年)建立の二重門(重層で各層に屋根が付く門)です。

この門をくぐると、三毒『3つの煩悩、貪(とん、貪欲)・瞋(しん、怒りの心)・癡(ち、愚痴)』から解脱できるとされており、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像を安置しています。

増上寺019
三門をくぐった先が「大殿(本堂)」です。
境内、左の緑の屋根が戦災を免れた「水盤舎」。

増上寺009
境内から見た「三解脱門」、迫力あります。

増上寺013
「水盤舎(すいばんしゃ)」、手水舎(ちょうずや・てみずや)とも呼ばれ、参拝者が身を浄めるため手水を使う場所です。

suibansya

増上寺012
案内板のとおりですが、もとは家光3男「徳川綱重(とくがわ つなしげ)」の霊廟(現在の東京タワー辺り)にあったものです。

増上寺016
彩色の剥落が激しいですが、創建時の貴重な遺構です。

増上寺001
「大殿」は昭和49年(1974年)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。

増上寺002
「増上寺」の扁額です。

増上寺040
「大殿」内陣です。

増上寺039
ご本尊「阿弥陀如来」です。床がピカピカ!光ってます(*^^*)

「大殿」を参拝して、御朱印をいただけるお隣りの「安国殿」へ向かいます。

「安国殿」は、法燃上人800年御忌を記念して平成23年(2011年)に再建されました。「安国殿」の名称は、家康公の法号『安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士(あんこくいんでんとくれんじゃすうよどうわだいこじ)』の最初の「安国殿」からその名がとられ、家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊(くろほんぞん)阿弥陀如来」が祀られています。

増上寺006
新築の「安国殿」。後ろには東京タワーです。

増上寺007
幔幕には葵の御紋と菊の御紋が染め抜いてあります。

こちらには、ご本尊の「黒本尊(くろほんぞん)阿弥陀如来」、また両脇陣には、聖徳太子像、仏舎利、そして14代将軍家茂(いえもち)に降嫁し、家茂の死後は静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った「皇女和宮(かずのみや)」様の木像が祀られています。和宮様も薨去後、ここ増上寺に夫の家茂と並んで葬られました。

増上寺045
家康公の念持仏「黒本尊」、秘仏のためこちらは
お前立です。

増上寺044
「皇女和宮」様の木像です。

そろそろ時間もなくなってきたので、参拝を済ませてこちらの安国殿で御朱印をいただきました。

(ん?今回は御朱印の紹介、ずいぶん早いな?)
あ、実は紹介したい写真がいっぱいあって忘れちゃいそうなので…
(そんなに見せても飽きると思うけど(ーー;))
まあまあ旦那、そう言わずにσ(^_^;)
(旦那って、あんたねぇ…)

増上寺御朱印02
まずは、大殿のご本尊「阿弥陀如来」の御朱印です。

増上寺御朱印01
そしてメインの葵の御紋入りの御朱印です!
「黒本尊」の御朱印。

ここまで来た甲斐がありました(T_T) 葵の御紋入りの御朱印!これだけで大満足(^_^)v

増上寺022
次に、安国殿の裏にある現在の「徳川家霊廟」に
回ってみました。

戦災前の徳川家霊廟は、現在プリンスホテルの所有地になっている「北御霊屋」と「南御霊屋」に分かれた広大なものでした。
特に「南御霊屋」の大部分は、東照宮と五重塔、台徳院(たいとくいん・2代将軍秀忠)の霊廟、秀忠夫人の崇源院(お江)の霊牌所で占められていました。
「北御霊屋」には、文昭院(6代家宣)霊廟、有章院(7代家継)霊廟の他、将軍正室・側室・子女の宝塔が建ち並び、もし現在残っていれば、あるいは日光東照宮をはるかに凌ぐスケールだったと思います。
(こちらは昔の写真を交えながらPart2で紹介します。)

増上寺023
霊廟の公開日ではなかったため、扉は閉まっています。

この門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と呼ばれ、もとは文昭院(6代家宣)霊廟の奥院の宝塔前中門だったものです。
鋳抜門とは、その名のとおり扉以外を鋳型で抜いた門の事で、青銅製のため戦災にも焼け残りました。
左右に昇り竜、下り龍が鋳抜かれています。

増上寺024
扉には10個の葵の御紋が打たれています。真鍮製のようです。

増上寺026
塀越しに撮影してみました。手前の宝塔(石塔)は7代将軍家継の
宝塔か?(塀越しなので自信なし…)

現在この霊廟には、2代 秀忠夫妻、6代 家宣夫妻、7代 家継、9代 家重、12代 家慶、14代 家茂、静寛院和宮、将軍生母側室等の8基の宝塔があります。戦前までは宝塔・墓は独立していましたが、戦後墓地の改修等で合祀されて今の姿になっています。

増上寺027
こちらの青銅製の宝塔は和宮様のようです(こちらも自信なし…)。

御朱印も無事にいただいたし、と増上寺をあとに芝東照宮へ向かいました。

「ゴォォォーン…ゴォォォーン…」

いい音ですねぇ〜
これが『江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘』と川柳に詠まれた増上寺の鐘かぁ…しんみりするなぁ(−_−)
などと言ってる場合じゃなーい(; ̄O ̄)確か鐘撞きは5時のはず。しまった!東照宮はもう閉まってるがな!

増上寺037

増上寺049
この大梵鐘は、木更津まで響いたといわれ、
「江戸っ子鐘」と親しまれているそうです。

本当にいい音ですが、関東の人間ではないのでここから「木更津」がどれくらいの距離かさっぱり分かりません(^_^;)
木更津って確か千葉県ですよね?昔はビルも無かったし、鐘の音も風に乗って響いたのかな…

芝東照宮001
とりあえず行ってみました「芝東照宮」やっぱり閉まっていました。
御朱印はいただけず(>人<;)

ふたたび増上寺へ戻って「台徳院(たいとくいん)霊廟惣門」を撮影する事に…
(行ったり来たり忙しいやつヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3 )
撮影、忘れちゃったのでσ(^_^;)

増上寺033
「南御霊屋」2代将軍 徳川秀忠の霊廟への惣門です。こちらも戦災を免れた貴重な遺構ですが、現在は増上寺の手を離れてプリンスホテルの所有になっています。

増上寺036
日が暮れてのライトアップも綺麗です。

これでPart1は終わります。次回もまた増上寺Part2を…

三度目の正直

  • 2013/02/11(月) 22:50:00

日吉東照宮② (ひよしとうしょうぐう) ■所在地/滋賀県大津市坂本四丁目2-12 ■主祭神/徳川家康公 ■社格等/日吉大社末社 ■創建/元和9年(1623年)■開基/天海大僧正

(参拝日/平成25年2月3日)

またやって来ました「日吉東照宮」。必ず前回のリベンジ!と、今回は日曜日それも節分の日の参拝です。

名神高速道路は渋滞もなく、11時に前回と同じく比叡山鉄道の坂本ケーブル駅に駐車。いざ東照宮へ!
今回もまた比叡山高校の生徒さんとすれ違いましたが「こんにちは!」と、気持ちの良い挨拶をしてくれました。
坂道、石段と登りながら「今日は日曜日だし、間違いなく社務所も開いてるやろ」と言いながら石段を登りきると…
ガーン!!うわああ!!また閉まってるうう(;´Д`)
社務所の窓には「本日は節分会のため午後1時まで日吉大社に出掛けております」の貼紙…
でも休みじゃなくてよかったぁ!
さてどうしよう?まだ2時間もあるがな(T_T) ということで、せっかくなので比叡山に登ることにしました。今来た道を逆戻り、坂本ケーブル駅からケーブルカーに乗ります。

日吉東照宮018
こちらがケーブルのりば「坂本駅」です。この駅舎は1927年の開業以来の建物で、1997年に国の登録有形文化財に指定されています。

日吉東照宮019
比叡山坂本ケーブルの車両、ヨーロピアンスタイルです。

このケーブルカーは、昭和2年(1927年)に開業しました。
ここ滋賀県大津市のケーブル坂本駅から、ケーブル延暦寺駅まで比叡山鉄道が営業する路線で、比叡山延暦寺への東側のルートです。全長は2,025m、延暦寺駅まで約11分。
眼下には琵琶湖の大パノラマが楽しめます。

日吉東照宮022
ここはターンアウトと呼ばれるすれ違い区間です。

日吉東照宮021
こんなレトロなトンネルも2ヵ所あります。

日吉東照宮023
ケーブル延暦寺駅へ到着です。こちらのレトロな駅舎も国の登録有形文化財に指定されています。
ここから延暦寺までは徒歩15分〜20分くらいの距離です。

日吉東照宮024
延暦寺駅の展望台からは琵琶湖が一望できます。左に見えるのは琵琶湖
大橋です。

日吉東照宮016
延暦寺へ向かう途中にこんな石柱が…

「慈眼大師天海大僧正住坊趾(じげんだいしてんかいだいそうじょうじゅうぼうあと)」の石柱です。
天海僧正はここに「南光坊」というお寺を建てて、73歳から4年間住んでおられました。

日吉東照宮017
こんな案内板も一緒に立っています。

以前の記事「滋賀院門跡」で、天海僧正は比叡山の大恩人と紹介しましたが、この案内板にも同じ事が書いてありました。
結構適当に書いているところがあって心配でしたが、合ってて良かったぁ(*^_^*)
と、安心したところで日吉東照宮へ戻りますヽ(´▽`)/

(オイオイ!ここまで来て戻っちゃうの?延暦寺は?)
あ、また今度ね!
(ひょっとして行ってないとか( ̄▽ ̄))
ちゃんと行ってます!御朱印もいただいたし…また紹介しますから。
早く東照宮へ戻って御朱印いただかなきゃ!
(あんた、ほんとに東照宮好きだね…)

ケーブル坂本駅を出たのが13:20、社務所の貼紙どおりならちょうどいい時間です。また坂道、石段を登って東照宮に戻って来ました。今回は??

日吉東照宮001
ジャーン!唐門、開いてるぅー♪よかったぁ(*^_^*)

神職さん、予定通り帰って来てくれていました。御朱印帳を預け、志納金200円を納めて早速拝殿を参拝させていただきました。
「写真撮影も自由ですのでどうぞ」との事、日吉東照宮、太っ腹!
ということで、今回は内陣の写真を紹介します。

日吉東照宮002
拝殿の扉の向こうには金ピカの壁が…

日吉東照宮007
これだったんですね。金箔の大羽目板の画題はよく分かりませんが、
雅楽の舞のようです。長押や欄間の彩色もよく残っています。

日吉東照宮008
よく見ると金箔なのか絵の具なのか?所々盛り上がって
いてあまり上手な修復ではなさそうです( ̄◇ ̄;)

日吉東照宮006
反対側も同じような画題の絵が描かれています。左の下がった所が
「石の間」です。

日吉東照宮009
手前が「拝殿」、真ん中の低くなっている所が「石の間」、奥が
「本殿」の権現造りになっています。

以前の日吉東照宮のところでも書きましたが、「石の間」は数段低なっています。これは宮司さんが御祭神である家康公に対して、背を向けて奉仕しても非礼にならないようにと配慮されたものです。

日吉東照宮010
奥の御祭神が祀ってある「本殿」内陣です。

日吉東照宮011
こちらは当然の事ながら扉の鍵が掛かっていて、中を拝見することは
出来ません。

中央に「徳川家康公」向かって右側が「日吉大神」向かって左側に「豊臣秀吉」をお祀りしています。家康公と秀吉が並んでお祀りしてあるのが凄いです。
そういえば日光東照宮も家康公と、秀吉、源頼朝が一緒にお祀りしてあります。
神職の方に御神体は家康公の神像ですか?とお聞きしたところ、「鏡(神鏡)のようですが私も拝見した事はありません」との事でした(^_^;) まあ、御神体は宮司さんでも見れないんでしょうね。

外からの写真は以前紹介しましたので、今回は境内からの写真を数枚…
前回とあまり変わり映えはしないかも?

日吉東照宮012
左から「拝殿」「石の間」「本殿」です。

日吉東照宮013
「石の間」かなり低いことが分かります。

日吉東照宮015
軒下は紫外線が当たらないので彩色がよく残っています。

最後に曰く付きのこの一枚を( ̄ー ̄)

日吉東照宮005
どこに曰くが?ですが、分かりますか(^_^;) この写真の中にある物が隠されています…

≪ヒント≫
① ここ滋賀県大津市坂本の戦国時代の領主は?
② この東照宮を開山した人物が実は?

もう分かりましたよね?鳳凰の彫刻の上の方、隠れるように三つの家紋が描かれています。
よく見ると「桔梗紋」?です。本来は徳川家の「三つ葵紋」だけでいいのに何故「桔梗紋」?が描かれているのか?
「桔梗紋」といえば本能寺の変で信長を討った「明智光秀」の家紋です。ここを開山したのが「天海僧正」、俗説にいわれている「明智光秀=天海僧正」の証拠がこの隠し紋だそうです。
もし、光秀=天海ではないとしても、光秀の隠し子あるいは、なんだかの縁者が天海僧正ではないか?と神職さんは話されていました。

んんん…比叡山を焼き払った信長を討った明智光秀、方や比叡山を復興した天海大僧正。どちらも比叡山にとっては大恩人。これは謎だ(・・?

日吉東照宮御朱印
そんな三度目の正直(二.五度目の正直?)で、やっと
いただいた御朱印です。
ちょっと変わった葵の御紋(四つ葉葵か?)の御朱印。

次回は、東京の徳川将軍家菩提寺、芝増上寺を紹介します。

(おっ!東京へ行ったの?)
はいっ(^-^)/ 日光も行きました!
(凄い!ところで延暦寺はどうなったの?)
あ…それはまたいつか(*^_^*))
(ほんとに中途半端なやつだな( ̄▽ ̄))
・・・

松平忠吉の院号は?

  • 2013/02/09(土) 08:08:25

大光院 (だいこういん) ■所在地/名古屋市中区大須2-7-25 ■正式名/興國山 大光院(こうこくさん だいこういん)■宗派/曹洞宗 ■本尊/木像釈迦牟尼仏坐像 ■創建年/慶長8年(1603年)■開基/松平忠吉 ■開山/明嶺理察和尚

(参拝日/平成24年11月6日)

ここ大光院は、慶長8年(1603年)松平忠吉(まつだいら ただよし・家康公4男)が崇敬していた明嶺理察(みょうれいりさつ)和尚を開山とし、清洲に清善寺(せいぜんじ)として創建したのが始まりです。
忠吉亡き後、その法名をとり大光院と改め、慶長15年(1610年)の「清洲越し(清洲の町ごと名古屋に引越し)」でこの地に移されました。
文化5年(1808年)には、「鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)像」を祀る「明王殿」が建立されました。
鳥瑟沙摩明王は、『不浄を転じて、清浄にする徳を有すもの』つまり、世の中一切のけがれや悪を清める力を持つ仏様で、下半身の病にご利益があるとされています。
特に女性の下半身の病を除くと信じられたことから「女の仏様」ともいわれ、この近くに「北野新地」という遊郭があった当時(大須観音の記事を見て下さい)から、そこで働く女性達の厚い信仰を受け、毎月28日の縁日は大変な賑わいでした。以来、「明王さん(みょうおんさん)」と呼ばれて今も親しまれています。

大光院04
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の「大光院」です。

栄交差点から大津通りを南に行くと「赤門」交差点があります。第一アメ横の北、東西の筋が「赤門通り」です。この筋を西へおよそ400mで大光院の山門が見えてきます。
江戸時代の大光院は広大で、境内の真ん中に大きな二天門(仁王門)があり、この門が赤く塗られていたため大光院門前への道は「赤門通り」と呼ばれるようになりました。 

昭和初期赤門通り
こちらは昭和初期の「赤門通り」、この通りの先が「大光院」です。
右側の建物が今も同じ場所にある名古屋最初の公設市場「中公設市場」です。

大光院05
現在の「赤門」交差点です。

大光院07
今の「赤門通り」、右のビルが「中公設市場」
昭和初期の写真と同じ場所から撮ってみました。

大光院01
こちらが現在の「赤門」、大光院の山門です。
 
この山門は、戦災(1945年3月)で失われるまでは楼上に十六羅漢木座像、楼下に仁王木像を配していた朱塗りの「二天門(仁王門)」で、「大須赤門」と呼ばれていました。現在の山門は昭和41年に建立されたコンクリート造りです。

(ところで、今回はいい写真はないの?赤門通りの写真だけ?)
んんん…実は大光院の古い写真って、探したんですけどないんですよね(^_^;)
今の建物もコンクリート造りだし、写真を撮ってもまったく面白くないでしょ?

大光院02
山門をくぐってもこんなんだし…

大光院08
これが鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀る
「明王殿」ですが…

一応、徳川家ゆかりのお寺ということで、瓦に葵の御紋は入ってるんですが、それだけだし( ̄▽ ̄) 写真は以上です。

私が子供の頃の「明王さん」はこんなんじゃなかったような…
当時は境内も今みたいに整備されてなくて、ゴチャゴチャ(萬松寺の様な)してて、何体ものお地蔵さんが所狭しと置いてあったし、自然に生えてきた木が生い茂って何か猥雑な感じでした。今回、何十年ぶりに参拝したら、別のお寺に来たかのように綺麗に整備されてました。どうも数年前に「昭和32年の建物が老朽化したため」と、4階建ての鉄筋コンクリート造りで建て替えられた様です。
以前境内だった土地の半分ほどは24時間営業の駐車場に変わってるし、何にもありがたみのない無味乾燥の境内になっていました。以前はモウモウと焚かれていた明王殿前の大きな香炉も今は寂しそうです。私がお参りした時も参拝客は誰もいませんでした(>人<;)

何でもかんでも新しくすれば良いってもんじゃないですよね。いくら古い本堂でも地域に溶け込んだ風景ってあると思いませんか?これならまだ萬松寺の方がマシだな(ーー;)
(オイオイ!さっきは万松寺の悪口言ってたやん)
まあ、五十歩百歩、目◯そ鼻◯そということで( ̄▽ ̄)
(ところで、タイトルの松平忠吉の院号って?)
あ、ちょっと長くなってもいい?
(またぁ〜!もう写真もないからいいけど短めに)

ハーイ!
松平忠吉(まつだいら ただよし)は、天正8年(1580年)家康公の4男として浜松城で生まれました。2代将軍秀忠の同母弟(年子とも)です。翌天正9年、わずか1歳で松平一族の東条松平家を継ぎ、三河東条城1万石の領主になります。
天正10年に駿河沼津城主で4万石。文禄元年(1592年)に元服し武蔵忍(おし)城主となり10万石を与えられます。この年、徳川四天王の一人、井伊直政の長女を正室に迎え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義父の井伊直政の後見の下、福島正則と先陣を争い、福島正則の陣を抜けて西軍へ攻めかかり、決戦の口火を切りました。
21歳の初陣で力戦し、島津豊久を討ち取るなどの戦功を挙げ、戦後の行賞で尾張清洲藩52万石を与えられます。これにより忠吉が尾張徳川家の始祖となるわけです。
しかし、慶長9年頃より病に悩み(関ヶ原の戦いで受けた傷が原因とも)慶長12年3月5日(1607年)28歳の若さで江戸において病没、増上寺に葬られました。同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれています。
忠吉には後継ぎがなく、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直・家康公9男)が継ぐことになります。後に義直は「清洲越し」で名古屋に移り尾張藩62万石を与えられ、義直が尾張徳川家の藩祖になります。

(いやぁー!長かったな( ̄◇ ̄;) ところで、院号がどうとかこうとかは?)
これからです(^_^;)
この松平忠吉の戒名・法名なんですが、「広度院殿憲瑩玄伯大居士」と「性高院殿憲瑩玄白大居士」と二つあってどこにも「大光院」ってないんですよね(ーー;)
確かこちらの由緒には『忠吉亡き後、その法名をとり清善寺を大光院と改め』ってなってるんですが…大光院がどこからか出て来た名前なのか、調べてもサッパリ分かんないです。
同じ名古屋市内の千種区に「性高院(しょうこういん)」というお寺がありますが、ここには忠吉のお墓もあって寺名も法名の「性高院…」からとってるのは名前から明らかですが、大光院はどこから?どうも細かい事が気になって…
(そんなに気になるならお寺で聞いたら?)
うーん、別にそこまでしなくても…どっちでもいいし(^_^;)
(何だよ、どうでもいいのかよ\(^-^ ) )
しかし、謎だ…どなたかご存知の方はご一報を!

大光院御朱印
そんな大光院でいただいた御朱印です。書置きでした
ので御朱印帳に糊で貼りました( ̄◇ ̄;)
右から、奉拝 明王殿 興國山大光院 です。

次回はリベンジした「日吉東照宮」を紹介します。今回はアウトか?セーフか?

遊女に化けたお稲荷さん

  • 2013/02/05(火) 23:18:42

萬松寺(ばんしょうじ) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須3丁目 ■正式名/亀岳林 萬松寺(きがくりん ばんしょうじ)■宗派/曹洞宗 ■本尊/十一面観音 ■創建年/天文9年(1540年)■開基/織田信秀

(参拝日/平成24年11月6日)

万松寺06

ここ萬松寺は、天文9年(1540年)織田信長の父、信秀により織田家の菩提寺として、織田家の城であった那古野城(なごやじょう・現在の名古屋城二之丸付近)の南に建立されました。当時は現在の中区錦と丸の内2丁目・3丁目にまたがる広大な寺領を持っていましたが、慶長15年(1610年)家康公が名古屋城築城の際に小林村(現在の大須3丁目)に移転させました。
移転後も尾張徳川家の朱印寺として篤く信仰され、尾張藩初代藩主・徳川義直の正室春姫(高原院)の霊廟が置かれるなどして大いに栄えました。この春姫の御霊屋(おたまや)が現在の名古屋東照宮の社殿です。(詳しくは「名古屋東照宮」の記事を見てくださいf^_^;))

万松寺01
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の「萬松寺」。広大な寺域を
誇っていた事が分かります。

明治維新後は徐々に衰退し、大正元年(1912年)に37世住職の大円覚典和尚が寺領22,000坪の大部分を開放し、開拓された町は現在の大須3丁目となり、萬松寺は再び賑わいを取り戻しました。
しかし、昭和20年(1945年)3月12日の名古屋大空襲で大須一帯は焼け野原となり、本堂は平成になって再建されました。現在も大須一帯の大地主であり、家電店などが入る複合ビルの万松寺ビル、万松寺パーキングなどを所有しています。

萬松寺といえば、織田信秀の葬儀が行われた場所として有名ですね。この時、信長は異様な風体で現れ、父親の位牌に抹香を投げつける事件を起こし「尾張の大うつけ」と呼ばれました。この時の萬松寺は現在の場所ではなく、大須に移転する前の萬松寺です。
また家康公は、6歳で人質として今川義元の元に送られる途中で織田信秀に引き渡され、この寺で9歳まで過ごしたといわれています。

万松寺11
万松寺パーキングから見た現在の「萬松寺」本堂。

上から見るとゴチャゴチャして、本堂もメチャメチャ狭苦しい感じですが、まあこの辺一帯の地主さんなので、これはこれでいいんでしょう(*^^*)
しかし、この建て込み様は凄いですね!まるで隙間がなくて火事になったら大変(>_<) 左下に見えるアーチ状の屋根が万松寺商店街のアーケードになります。

万松寺10
昭和初期の「万松寺筋」です。

前回の「大須観音」でも紹介しましたが、大正12年(1923年)に「旭遊廓」が中村へ移転し、芸妓小屋や小料理屋は姿を消しました。しかし、昭和に入ると次々に発展会が結成され、名古屋を代表する商業地として発展してきました。

万松寺09
現在の「万松寺商店街」です。このアメ横ビルも萬松寺の所有です。
この向かいが「萬松寺」になります。

私の子供の頃は、この万松寺商店街には映画館が5〜6軒並んでいました。東映、松竹、東宝、大映…あと忘れましたがf^_^;)
(なんだよ!(ーー;)覚えてないの?)
あ、日活もありました。あとはピ◯ク映画館もあったかも?
でも子供の見る映画館しか入らないし(*^^*) 東映ならチャンバラ映画、東宝はゴジラシリーズ、大映はガメラと大魔神シリーズとかね。
(大魔神?んんっ、懐かしい…)
いっとき大魔神リメークするって言ってなかったっけ?

万松寺04
現在の萬松寺境内です。

万松寺05
境内の「不動明王堂」です。

元亀元年(1570年)5月、織田信長が越前の朝倉を攻略した帰路、琵琶湖北方の千草越えで「杉谷善住坊」という鉄砲の名手に狙撃される事件が起きました。日頃信心深った不動明王の加護によるものか、二発の命中弾は信長が懐中にしていた干餅(兵糧)に当たり、かすり傷のみで難を逃れましたが、この時の餅は万松寺の和尚からもらい受けたものでした。
後に、家康公の命で名古屋城築城に際し、萬松寺に滞在した加藤清正がこの話を聞き、「身代わり不動」と命名しました。

万松寺07
「身代不動明王」の提灯です。

万松寺26
境内には、狭い場所に何やらゴチャゴチャした物がいっぱい並んで
います。こちらはエスニック風のお皿や雑貨類…
いったい誰が買うのか?

万松寺25
戦国武将のフィギュアに信長所用の模造刀、木彫りの仏像…
こちらも誰が買うのか?(私なら買うかも(^_^;))

万松寺24
こちらは売り物ではありませんf^_^;)
白雪稲荷堂 (はくせついなりどう)のお稲荷さまです。

万松寺03
境内の白雪稲荷堂 (はくせついなりどう)です。

こちらには、白雪咤枳尼真天(はくせつだきにしんてん)がお祀りしてあります。 萬松寺が創建されたこの地に千年も前から住んでいた白狐が白雪様の狐族となって祀られたのが起源といわれています。

伝説によれば、萬松寺が一時衰微したとき、このお稲荷さまが窮状を見かね、どこからかお金を工面し寺の窮状を救ったとのこと。
後日、江戸の吉原遊廓の主がはるばる萬松寺を訪ねて来て「新しく雇った遊女がしばらく働いたのち姿を消したが、我は萬松寺稲荷の化身であったとのお告げがあり驚きました。しかも、その頃から店の営業が好転したのもみなお稲荷様のおかげと、こうしてお礼に参りました。」と話しました。
この話しを聞いた住職は驚き「さては、あのお金は御小女郎(おこじょろう)様の稼いだものであったか」と得心したそうです。
このことから、商売繁盛、家内安全に霊験あらたかで水商売関係者のお参りも多く別名、御小女郎稲荷とも呼ばれています。

いやぁ、凄い話しですね〜。萬松寺稲荷の化身って、この遊女の相手をしたお客は後でビックリしたでしょうね(@_@)
ひょっとしたら顔には(=^ェ^=)があって、尻尾が生えていたかも?
(オイオイ!またそんなこと言ってると罰が当たるぞ!)
子供の頃はこの前を通るのが怖かったんですよ…ここのお狐さん、恐い顔してるでしょ?
(あんた、怖がりだから(*^^*))
そうそう、それに4匹もいるし…
(4匹って\(- -; )

万松寺17
お狐さん4匹の子供には怖い(私だけか?)
白雪咤枳尼真天の提灯です。

万松寺21
稲荷堂の横、怪しげなトンネルの様な所をくぐると織田信秀の墓が
あります。

万松寺22
トンネルの天井には織田家の家紋「織田木瓜(もっこう)」の提灯が…
しかし、ここは提灯だらけです(^_^;)

万松寺23
トンネルをくぐった先、箱庭の様な所にある信長の父、織田信秀の墓です。

まさに箱庭、坪庭といった感じで、後ろは萬松寺の本堂ビルで開放感がまるでありません。3枚目の写真を見てもらうと分かりますが、ビッシリ建て込んだ本堂ビルとお堂の隙間にあるお墓です。今は商店街の中にあるお寺なので仕方ないと思いますが、信長の父親のお墓としては何か悲しいですね。

万松寺12
本堂ビルです。玄関の唐破風の軒先と瓦に葵の御紋が
打ってあります。
3階の黒い出窓の中には「からくり人形」があります。

万松寺18
扉が開いて演じられる信長の「からくり人形」です。
これは信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつける場面。

万松寺19
回り舞台になっていて、くるりと回ると信長が好きだったという
幸若舞の「敦盛」を舞う場面になります。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり一度生を享け、
滅せぬもののあるべきか…」という有名な舞です。

万松寺20
本堂内です。賽銭箱にも葵の御紋が打ってあります。

最近、東海地方ローカルのあるTV番組でこちらのご住職が出ておられました。
レポーターが、「こちらのお寺にはどうして織田家の家紋と、徳川家の家紋があるんですか?」と質問したところ、ご住職は「ああ、こちらは元々は織田家の菩提所なんですが、江戸時代になって無理やり葵の御紋を付けさせられました(^_^;)」と苦笑いで応えておられました。が…

オイオイ!住職、無理やり葵の御紋ってなんだよ(ーー;)織田家は信長の代で衰退しちゃって、尾張徳川家から朱印寺として寺領を22,000坪も貰ったんじゃないの?今もここら辺一帯の大地主らしいけど、一体誰れのおかげ?
(そうだそうだ、もっと言ってやれ!)
ありがとう!そんなに葵の御紋が嫌なら取っちゃえば?もう江戸時代じゃないんだしさ、徳川家に遠慮しなくていいんだから。これだから◯さんは…もう止めときますが、私みたいなへそ曲がりにはツッコミ所満載のTV番組でした。
(まあ、いろんな住職がいるわな…)

万松寺御朱印
そんな萬松寺さんでいただいた身代不動明王の
御朱印です。
こちらは読めるので説明なしです(^_^;)

次回は、またまた近くの大光院を紹介します。


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