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世界文化遺産は守れるか?

  • 2013/03/30(土) 01:28:01

明善寺(みょうぜんじ)■所在地/岐阜県大野郡白川村荻町679番地 ■創建年/不明 ■山号/松原山 ■本尊/阿弥陀如来

(参拝日/平成25年1月25日)

siroyama
城山展望台から見た雪の白川郷です。

ここ白川郷は豊かな自然に囲まれた岐阜県最北部、荘川流域にあります。日本有数の豪雪地帯で、以前は日本の秘境ともいわれ、厳しい気候風土のこの地域で豪雪に耐えながら合掌造りの民家の暮らしが営まれています。
平成7年(1995年)にユネスコ世界文化遺産に富山県の五箇山(ごかやま・菅沼、平村相倉地区)とともに白川郷荻町地区の3集落が登録されました。

陸の孤島といわれた白川郷も、現在では東海北陸自動車道の開通により白川郷ICまで名古屋市から約2時間15分、富山県高岡市から約50分の近距離になりました。世界文化遺産に登録された事もあり、人口わずか2千人程度の小さな村に年間150万人以上の観光客が押し寄せる人気スポットになっています。

ところで、有名観光スポットだけど、行ってみたらガッカリした場所、俗に「日本三大ガッカリ名所」と言われるものがあります。
札幌の時計台(小さい)・高知のはりまや橋(欄干があるだけ)は、ほぼ共通の意見ですが、3つ目には沖縄の守礼門・長崎のオランダ坂など、幾つかの説があるようです。他にも、京都の町に合わない京都タワー(現在は京都駅舎か?)、名古屋テレビ塔、上から見ないと分からない仁徳天皇陵(大仙陵古墳)なども、ガッカリ名所として名前が挙がっています。

実は、ここ白川郷もガッカリ候補に挙がっているらしく、人が多い・車の大渋滞・同じ様な土産物屋ばかり・派手な看板、POPが田舎の風景に似合わない等々…
一番問題だったのは駐車場で、合掌造りの建物のすぐ隣に有料駐車場が造られていて、「写真を撮るのに邪魔になる」「村営駐車場に行こうとしたら、強引に駐車させられ観光前から嫌な思いをした」などがガッカリ候補の理由のようです。

それに応えてか、白川村のホームページには以下の様な記事が載せられています。

【重要】マイカー駐車場ご利用時のお願い

白川郷観光協会では日頃より個人有料駐車場をご利用されたお客様から、個人有料駐車場による、景観の悪化、強引な客引きトラブル、道路渋滞を招くなど、多くの苦情を承っております。
世界遺産地区内での個人による有料駐車場の経営は、保存条例及び「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」が定めるガイドラインでは認められていません。
これらの行為の中には、農地等を無許可で埋め立てているものもあり、昨今の新聞記事でも大きく問題として報じられました。加えて、「日本イコモス国内委員会第7小委員会」からも改善するようコメントが寄せられています。弊会といたしましても世界遺産の存続に関わる課題であると重く受けとめ、個人有料駐車場を断固反対し、関係機関との連携をとり一刻も早い個人有料駐車場の廃止に向けた活動を行う所存です。

マイカーでお越しの場合は、「せせらぎ公園駐車場」をご利用いただき、白川郷の景観保全にご協力いただけますよう宜しくお願い申し上げます。


また、去年の12月には地元の岐阜新聞にはこんな記事も載りました。

白川郷マイカー規制で合意 保全を優先、住民ら決定

世界遺産の合掌造り集落内への観光客のマイカー乗り入れ規制で、23日に開かれた荻町区の定期総会「大寄合(おおよりあい)」で大多数の住民が規制に同意し、正式に村に要望を出すことが決まった。産業としての観光より世界遺産の保全を住民が選択した形で、荻町区長は「これで世界遺産の価値は上がると期待している」と話した。
要望するのは、集落を貫く村道(旧国道156号)約1キロの2014年4月よりの通年での乗り入れ制限。規制は法的拘束力はなく住民が自主的に実施するもの。村側も、21日の村議会定例会で、住民の要望を受け入れる方針を示している。

合掌造り集落は1995年に世界遺産に登録されて以降、観光車両が急激に増加。住民が農地転用の申請を経ずに営業する民間駐車場も問題になり、ユネスコの諮問機関から改善を求める指摘もあった。
荻町区では伝統的建造物群保存地区内の民間駐車場の是正を求めるガイドラインを定めたほか、今年、集落内の公共駐車場を廃止するなど交通問題解消に長年かけて取り組んできた。規制が行われれば、集落内の民間駐車場の営業は必然的に撤退する方向に向かう。
白川郷荻町集落の自然環境を守る会の会長は「住民の生活の糧を奪うのは苦しいが、住民の決断として子や孫に胸を張って渡していける世界遺産にしていきたい」と話した。


来年から始まるマイカー乗り入れ規制は、村にとっては苦渋の決断だったようですが、ユネスコの諮問機関「日本イコモス国内委員会」が去年5月、農地を転用した民間駐車場が存続していることに危惧を表明する文書を村に送付した事が決定的だったようです。
その内容は、このまま景観悪化が続けば、最悪の場合は世界遺産登録が抹消される「危機遺産」になりかねないと言及されていた事で、これが村の住民に衝撃を与えました。景観保全か、住民の生活か…。結局村は景観保全を選んだ訳です。

現在では村の個人有料駐車場の廃止努力により、民間駐車場は減ってはいますが、経営を続ける人たちの考えはそれぞれで、ある経営者は「ぼた餅が落ちていれば拾う。車が通る限り、続けるのは当然」と話し、別の人は「突然やめろと言われても、生活がかかっており困る。世界遺産登録後、土産物店や飲食店も増えたのに、なぜ駐車場だけ問題になるのか」と反論しているそうです。

静かな村が世界遺産になった途端に起きる典型的なパターンで、マイカーや観光バスで観光客が押し寄せ、道路は大渋滞。駐車場が足りないので村民が庭先や、田圃を潰して有料駐車場を作り、強引な客引き。飲食店が増え、同じ様な物を売る土産物屋ばかりになり、派手な看板を出す。結果、静かな山里の風景を期待して訪れた観光客はオイオイ!ここはテーマパークか?…と。
まあ、世界遺産になった時点でこうなる事は当然といえば当然で、「日本の原風景」「日本むかし話」の風景を求めてここを訪れ、ガッカリする観光客が出るのは個人的には目に見えていました。

私が始めて白川郷を訪れた当時は、静かな山里で豊かな田圃もあり、合掌造りの民家も今より多く、土産物屋、民宿も数軒でした。
それが、世界遺産に登録されると、あっという間に合掌造りは民宿、土産物屋、飲食店の看板だらけ。もう二度とここには来ないと決めていました…。

(オイオイ!じゃあ何で来たんだ?)
当日は雪だって天気予報で言ってたからね (^_^;) 雪が積もってると看板も隠れるでしょ(*^^*)
それに、今回は明善寺さんの御朱印が目的だし…
(勝手なやつ!)
・・・

というわけで、荘川対岸の村営「せせらぎ公園駐車場」に車を停めて雪の中、「明善寺」へ向かいます。

sirakawago018.jpg
駐車場から見た、雪にスッポリと覆われた白川郷。

白川郷02
民宿もいい感じに雪に覆われていました。

白川郷03
明善寺の鐘楼門が見えてきました。

白川郷01
左の建物が明善寺の本堂、右が白川郷で最大の合掌造りの庫裏です。

本堂は文政6年(1823年)から文政10年にかけて飛騨高山の宮大工、水間宇助によって建てられたもので入母屋、茅葺で桁行7間、梁間6間、正面には茅葺の大屋根を切欠くように向拝が取り付いています。

庫裡は文政元年(1817年)頃に同じく飛騨高山の宮大工副棟梁、与四郎によって建てられました。 五層の合掌造りは釘と鎹(かすがい)を一切使わず、楔(くさび)の他は藁縄とネソ(粘気の灌木)で締めくくったもので、合掌造り全般に共通する特徴です。
茅葺きの切妻屋根は雪を落とすため、60度に近い急勾配になっており、白川郷の五階建て合掌造りとして最大のものといわれています。居住区は一階のみで、客間である「でい」が「口のでい」「奥のでい」と3室に分かれ、南側と表側の一部が庭に面して回廊になっているのが大きな特徴です。二階から上は作業場や収納区画となっており、現在階上は郷土の民具などの資料が展示された「明善寺郷土館」として公開されています。

白川郷12
この看板は雪に隠れなくてもいいんですが(^_^;)

白川郷04
境内から見た鐘楼門、茅葺きの鐘楼門は珍しいです。

白川郷05
鐘楼門から見た本堂です。

この鐘楼門は、桁行1間、梁間2間の2階建ての寄棟造り、屋根は茅葺きで門と鐘楼を兼用しており、1階に板庇(ひさし)をつけています。亨和2年(1801年)加藤定七により、延べ人数1425人を要して建てたと伝えられています。
梵鐘は第二次大戦中に供出されたため、現在のものは戦後に鋳金工芸作家の中村義一氏(高岡市)によって作られたものです。

白川郷08
本堂の阿弥陀如来像です。

sirakawago022.jpg
庫裏1階の囲炉裏ですが、年中火を入れ、煙で建物全体を燻しているそうです。

白川郷15
庫裏の2階です。板張りの床は、中央部を簀子(すのこ )、天井を格子にして、囲炉裏の煙が天井裏全体に行き渡るように工夫されています。

白川郷09
庫裏3階です。囲炉裏の煙で燻された藁縄がより
頑丈になり、合掌造りの建物を支えています。

白川郷07
庫裏の3階から見た風景ですが、意外と合掌屋根が
少ない事が分かります。

sirakawago001.jpg
こちらが明善寺の住職さんにいただいた御朱印です。

見開き2枚に水墨画と「無量寿 大悲の唯中に生かされ 生きている私 然し それを忘れている私である」と書いていただきました。真宗大谷派とありますが、浄土真宗では普通は御朱印をいただけないので貴重です。
ただし、この御朱印は住職さんが直接書いてくださるため、不在の時はいただけないようです。この日も最初は「住職は不在で…」と言われガッカリでしたが、庫裏の見学中に「今、住職が外出から帰って来ました」との事で運良くいただく事が出来ました。

sirakawago019.jpg
田圃に写る明善寺庫裏の「逆さ合掌」です。

上の様な写真を見ると、何だぁ!白川郷っていいんじゃない(*^^*) と思いますが、この合掌はお寺の庫裏で看板も無いし、雪の風景ですから結構絵になっています。

またまた天邪鬼な事を書いてしまいましたが、結構「白川郷、来て良かった!日本の原風景を満喫しました。」なんて感想を書いている方もいますので、まだ白川郷を訪れていない方は自分の目で確かめてください。
個人的には雪の季節がお勧めですが…。

次回は、「西国三十三箇所観音霊場巡り」満願のお礼参り(893ではありません)で訪れた「高野山」を紹介します。初めての宿坊体験や、ここにも東照宮があった!など盛り沢山です(^_^;)

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百万石のルーツは?④

  • 2013/03/17(日) 20:26:38

金沢城② (かなざわじょう) ■所在地/石川県金沢市丸の内 ■城郭構造/梯郭式平山城 ■別名/尾山城、金城 ■築城年/天正8年(1580年)■築城主/佐久間盛政・前田利家

(平成25年2月28日)

金沢城map01

金沢城、前回の続きです。

金沢城052
石川門、頑丈な鉄扉の二の門(櫓門)をくぐると三の丸に出ます。

前田利家が入城後に整備が始められた頃の金沢城は、本丸を中心に、東丸、二の丸あたりが城域であり、三の丸や二の丸御数奇屋、新丸などには重臣の屋敷が配置されていました。
その後、重臣の屋敷が場外に移されると三の丸には番所が置かれました。かつては河北(かほく)門、石川門、橋爪門の「金沢城三御門」が三の丸を囲んでいました。

現在は復元された河北門、菱櫓、五十間長屋に橋爪門と橋爪門続櫓、そして現存の石川門が三の丸をぐるりと取り囲み金沢城一の景観が楽しめます。

金沢城013
三の丸広場から見た復元された五十間長屋と櫓。

広大な三の丸広場に入ると、圧倒的なスケールの光景が目の前に広がります。
左から橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓で、平成13年(2001年)に復元されました。右端の門は平成22年(2010年)に復元された「河北門(かほくもん)」の二の門です。
中央の「五十間長屋(ごじっけんながや)」は橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ二層の多門櫓で、普段は倉庫となっていましたが、戦時には二の丸を守る砦となりました。

では、右の「菱櫓」から順番に紹介していきます。

金沢城015
こちらが「菱櫓」で内側が城の中心部、藩庁が置かれた「二の丸」になります。

「菱櫓(ひしやぐら)」は、その名のとおり菱型をしており3層3階で二の丸で一番高い櫓です。尾坂門(大手門)、河北門(かほくもん)、石川門を一望することができ、三の丸、新丸を監視する役目を持っていました。

金沢城014
右から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓と続いています。

金沢城018
五十間長屋と橋爪門続櫓です。唐破風を設けた出窓は、石落としになっています。

五十間長屋は各所に置唐破風の石落としを設け、海鼠壁(なまこかべ)の格子窓は鉄砲狭間になっています。
この一連の復元された建物は、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、土台石垣の解体、修築を含め、伝統的な木造軸組工法で平成10年3月から3年4ヶ月をかけて造られました。

金沢城027
内堀に映った姿も美しい五十間長屋と橋爪門続櫓。

金沢城017
橋爪門続櫓と橋爪門一の門、内堀に架かる橋爪橋です。門内では二の門の整備復元工事が進められているため、橋爪門は現在は閉じられています。

金沢城016
内堀から全体を見ていますが、青空に白い鉛瓦が映えています。

ninomaruhiroba.jpg
二の丸から見た五十間長屋と菱櫓、その長大さが分かります。
この二の丸には広大な二の丸御殿が建てられていました。

gojikkennagaya
復元された五十間長屋の内部です。

次は最近、平成22年に復元された「河北門(かほくもん)」を見たいと思います。この河北…
(ちょっと待った!)
えっ?何か…σ(^_^;)
(復元された、復元されたって、金沢城は復元ばっかりかよ!)
嫌だなぁ…金沢城は何回も火災にあって、ほとんどの建物は残ってないって前回紹介したじゃない(ーー;)
(そうだっけ…)
記録に残ってるだけでも、まず慶長7年(1602年)に落雷で5層の天守閣が焼失し、その後、元和6年(1620年)、寛永8年(1631年)、宝暦9年(1759年)、文化5年(1808年)の4大火事など、江戸時代の255年間に大小合わせて56回も火事に見舞われたらしいよ。
その度に天守閣以外の櫓や御殿を建て直してたけど、最後に明治14年(1881年)当時城内に置かれてた陸軍第9師団司令部からの失火で、石川門、三十間長屋と鶴丸倉庫を残して全焼しちゃったって(T_T)
これは北陸独特の冬の落雷、春先から初夏にかけてのフェーン現象、あとは火の不始末が原因って言われてるけど…
(それにしても火事が多すぎないか?)
だよね!「火事と喧嘩は江戸の花」 と言われるほど火事が多くて、人家が密集した江戸でも、江戸城の火災は266年間に大小36回だったらしいから…
(んんん…これは何かの祟りかもな?)
そうかも(>人<;) で、多分これは誰も言ってない説なんだけど…
前回も少し紹介したけど金沢城は、もともとは「百姓の持てる国」として加賀一国を支配していた加賀本願寺が、天文14年(1545年)に教団の政庁として造った「尾山御坊(おやまごぼう)・金沢御堂(かなざわみどう)」の跡地に織田信長の重臣、柴田勝家の甥、佐久間盛政が築城したのが始まりだよね。

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二の丸と三十間長屋のある本丸の空堀に架かる「極楽橋」。
その名前から金沢御堂の遺構といわれ、当時御堂に参詣する人が朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったといわれています。(現在の橋は修復されたもの)

信長は柴田勝家、佐々成政、前田利家らに命じて加賀一向一揆制圧のため加賀に侵攻。天正8年(1580年)4月に金沢御堂は攻め落とされて100年間続いた本願寺による加賀支配が終わったんだけど、信長は一向一揆を徹底的に弾圧してるから、ここでもかなりの事をしてるんじゃないかな?
(伊勢長島の一向一揆制圧の様な大虐殺か?)
そうそう、加賀を制圧した柴田勝家は、甥の佐久間盛政に石川・河北2郡13万石を与え、盛政は金沢御堂を戦国城郭に改修して尾山城として入城。つまり、本願寺門徒の恨みがこもった場所を、そのまま自分の城にしちゃったわけだよね?
(その後に入ったのが前田利家か?)
そうなんだけど、戦国武将って縁起をかつぐって言わない?方角が悪いとか、日柄がどうとか…
例えば、関ヶ原の戦いで軍功があった井伊直政は、家康公から近江国北東部を与えられ、最初は西軍指揮官・石田三成の居城で名城といわれた佐和山城に入城したけど、敗軍の将の三成の城は縁起が悪いと廃城にして、新しく彦根山に築城を開始したのが今の彦根城。彦根城は大した火災にもあわず、現在も国宝として残ってるよね。
前田利家も、ここが自分の領地になった時に城を移しときゃ良かったんだよ。絶対ここは縁起が悪い場所だと思わない?こんなに火事が多かったのもきっと本願寺門徒の祟りだと思う( ̄▽ ̄)
(ふーん、それがあんたの新説?)
この説、多分当たってると思うけど…「坊主○せば七生祟る」って言うしf^_^;)
加賀前田家は、利家から数えて明治維新まで14代続いて、その14代の内に火事があったのが56回。最後の火事が明治14年、これってみんな「7の倍数」。うわぁ〜!怖あぁ(>人<;)
(オイオイ!金田一じゃないんだから!)
豊臣秀吉の大坂城も元は、信長の最大の敵だった石山本願寺の跡地にそのまま建てた城だからね。結局落城しちゃったでしょ?
今の大阪城は、秀吉の造ったものを徳川幕府が徹底的に破壊して、地下に埋めて更地にした上に建てた城だし。やっぱり落城させた城をそのまま使うのは嫌だったから、縁起をかついで地下に埋めちゃったんだと思うよ。
(あまり金沢の人には聞かせられん説だと思うけど(^_^;))
・・・
じゃあ、そろそろ河北門へ行ってもいい?
(どうぞ…)

金沢城029
三の丸にある河北門(かほくもん)の二の門(櫓門)です。

金沢城030
櫓門形式で、石川門と同じく枡型門になっています。

金沢城032
二の門をくぐった枡型内部。こちら側が正門になります。

金沢城051
復元にあたっての立面図です。

「河北門(かほくもん)」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門」「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていました。金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。再建後、明治15年頃に取り壊されるまでは金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
復元工事は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけ約130年ぶりに甦りました。

金沢城050
河北門、枡型の構造です。

高麗門である「一の門」、櫓門の「二の門」、「枡型土塀」と続櫓の機能を持つ「ニラミ櫓台」の4つで構成された枡型門で防御性を高めています。

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枡型内部から見た「一の門」です。

一の門は、三の丸に入るための最初の門であり、幅4.7m 、高さ7.4mの総欅(けやき)造りの高麗門で、外の脇土塀を海鼠壁(なまこかべ)仕上げとし、土塀の内部には写真の様に「隠し狭間」が設けられています。戦の時には狭間外側の海鼠壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっています。

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櫓2階内部の壁や床などには、檜の一種である能登ヒバが石川門同様に用いられています。

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「一の門」と「ニラミ櫓台」、後ろに見えるのは三の丸の菱櫓と五十間長屋、橋爪門続櫓です。
石川門を除いてここまでが復元建物です。次からは数少ない江戸時代から現存の建物を紹介します。

金沢城021
こちらが「鶴丸倉庫」とも呼ばれる江戸時代の土蔵です。

金沢城土蔵は、金沢城本丸の北側に嘉永元年(1848年)に建てられた大型土蔵で、鶴丸倉庫とも呼ばれています。土蔵造2階建の切妻造、桟瓦葺で、もとは武具蔵として使用されていました。

(ちょっと待った!)
えーっ?またぁ( ̄O ̄;) 今度は何ぃ?
(お城だって言うから楽しみにしてたら土蔵?)
ただの土蔵じゃないから!現存する近世城郭の土蔵の中では最大のものっていわれてる貴重な土蔵なんだよ。
たぶん土蔵フェチにはたまらないと思うよ(^_^)v
(そんなフェチいないし(; ̄O ̄))

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土蔵フェチにはたまらない「鶴丸倉庫」でした♪

金沢城020
本丸から見た五十間長屋の全景です。

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振り返ると本丸にもう一つの江戸時代の遺構「三十間長屋」が見えます。

金沢城024
こちらが本丸附段にある2層2階の多聞櫓「三十間長屋」。実際には26間半だそうです。
宝暦の大火(1759年)で焼失した後、安政5年(1858年)に火薬庫として再建されました。金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。

(ちょっと待った!)
今度は何ぃ?
(さっきの土蔵もそうだけど1858年に再建って、あと10年で明治?)
そう!でも一応は江戸時代の遺構だからね(*^^*)
(なんかポツンと建ってて寂しい建物だな…)
それがまた長屋フェチには(^_^;)
(だから、そんなのないから!)
次の写真見てよ、石垣が凄いから!

金沢城053
石川門、河北門で見られる「切り込みハギ」で積まれていますが、真ん中をわざと粗く仕上げる「金場取り残し積み」という技法が用いられています。

(無駄に細かい仕事してるな…)
さすが職人技!と言って欲しいと思うけどね(^_^;)
(あんた天邪鬼のくせにお城には甘くないか?)
そう?お城フェチかも…

金沢城025
西から見た三十間長屋です。

金沢城026
西側のみ、左右に唐破風付きの出窓が設けられています。戦時には中から攻撃出来るよう鉄砲狭間になっています。

以上2つの建物が一応江戸時代の遺構ですが、とにかく現存の建物が少ないため、何を見るお城かよく分かりません。金沢のシンボル石川門で有名なお城ですが、天守閣があるわけでもなく、かと言って以前紹介した安土城の様な古城という雰囲気でもありませんし…
以前は金沢大学のキャンパスだった事からも分かるように、やたらに広い敷地を復元に次ぐ復元工事で(現在も橋爪門は復元工事中)埋めようとしている様にも感じます。
復元されたお城でもいいと言う方には、五十間長屋と各櫓群は超お勧めですが、古城フェチの方には物足りないと思います。「石垣の博物館」とも呼ばれているのでいろんな石垣を見て回るのもいいですが、これも石垣に興味がなければ全く面白くもありません。
まあ、結局よく分からないお城ですが、金沢市は何十億円も掛けて次々復元工事ができるお金持ちの市である事は確かなようです(^_^;)

最後に「百万石のルーツは?」私の故郷、愛知県名古屋市です。
加賀百万石の礎を築いた前田利家は、尾張国海東郡荒子村、今の愛知県名古屋市中川区に生まれました。現在の金沢市の繁栄の基を作った利家ですが、金沢の人みんなが利家を慕っているかと言えば、どうも別のようです。

これは金沢在住の知人に聞いた話ですが、利家が金沢城に入城したことに因んで毎年6月に行われる「百万石まつり」という有名なお祭りがあります。主催は金沢市役所と金沢商工会議所ですが、商工会議所が協賛金を募るために各戸を回って寄付を頼んだところ、「前田利家のまつりなんぞ関係ないわいね、あれはえんじょもんがやろ!」と断られた事があったそうです。

「えんじょもん(遠所者)=よそ者」ということで、つまり前田利家は尾張(名古屋)から金沢に来た「よそ者」だと。そんなよそ者のまつりに寄付なんか出来ないというのが理由のようです。
寄付を断った人達は利家が金沢に入城する以前、「金沢御堂」がこの場所にあった頃から代々住んでいる人達で、400年以上経っても前田利家は今だに「尾張者」「よそ者」扱いされているんですね(>_<)

(さすがにそれは可哀想だよなぁ…)
確かに!400年経ってもよそ者扱いはちょっとね…
これ以上言うと悪口になるから止めときますが(^_^;)

これで「百万石のルーツは?」は終わりです。次回は、世界遺産の岐阜県の「白川郷」を紹介します。

百万石のルーツは?③

  • 2013/03/15(金) 11:18:31

金沢城① (かなざわじょう) ■所在地/石川県金沢市丸の内 ■城郭構造/梯郭式平山城 ■別名/尾山城、金城 ■築城年/天正8年(1580年)■築城主/佐久間盛政・前田利家

(平成25年2月28日)

金沢城019
尾山神社でも紹介した「戸室石」を使用した金沢城の石垣です。

金沢城は「加賀百万石」といわれた前田家累代の居城です。城は加賀平野のほぼ中央を流れる犀川(さいがわ)と浅野川に挟まれた狭長な小立野(こだつの)台地の先端に位置しています。
金沢城の前身は、加賀一向一揆(かがいっこういっき)の拠点となっていた尾山御坊(おやまごぼう)で、天正8年(1580年)柴田勝家の甥、佐久間盛政が攻略し、御坊の跡地をそのまま城として用い、「尾山城(おやまじょう)」と称しました。
その後、柴田勝家、佐久間盛政が「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に滅ぼされると、尾山城には前田利家が入り文禄元年(1592年)から城の改修工事を始め、名前も「金沢城」と改めました。

修築後は、5重の天守閣や多数の櫓を建て並べ「加賀百万石」に相応しい居城でしたが、天守閣は慶長7年(1602年)落雷によって焼失。以後は再建されず、「御三階櫓(ごさんがいやぐら)」と呼ばれる櫓が置かれ、天守の代用をしていました。
以後、幕末まで前田家の居城でしたが、城内の建物は度々の火災によりほとんどが失われ、現在城内に残る建物はわずかに「石川門」と「三十間長屋」、「鶴丸倉庫」だけです。

金沢城001
平成22年(2010年)に復元され、水が張られた「いもり堀」。

尾山神社の東神門を出て道路を渡り、金沢城公園へ向かいました。左手に新しそうなお堀が見えてきました。このお堀が復元された「いもり堀」です。
金沢城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)の4つの堀がありましたが、現存するのは大手堀のみで、他の3つの堀は明治時代末から大正時代にかけて埋め立てられ、道路などになりました。このうち、いもり堀は復元作業が行われ、2010年4月に再び水が張られました。

金沢城map01

案内図、左の「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907年)旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されていました。
江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上ある水堀で、斜面は土羽(どは・盛土)で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」の石垣がありました。

金沢城003
復元された「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」。

「鯉喉櫓台」は、寛文4年(1664年)の修築時の姿を残す、整然とした粗加工石積みの石垣です。高さは約8間(14.4m)ありましたが、明治40年(1907年)に上部が崩され「いもり堀」とともに埋められてしまいました。
平成15年(2003年)に発掘調査が行なわれ、現存石垣の上部に新しく石垣を積み上げ、平成22年(2010年)に復元されました。写真の上2/3くらいが新しく積み直された石垣です。

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左に見える石垣は「辰巳櫓跡」です。

金沢城002
金沢城で最も美しいと言われた石垣が復元されました。

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「辰巳櫓跡」の石垣です。
この石垣、現在は段々になっていますが、築城当時はひと続きの髙石垣だったようです。

金沢城007
お堀通り(百間堀)から見た「石川門」

金沢城039
現在のお堀通りは「百間堀(ひゃっけんぼり)」という水堀でした。
上に架かる橋は「石川橋」で左が「兼六園」、右が「石川門」です。

金沢城038
お城を半周しました。現存するただ一つのお堀「大手堀」です。

金沢城045
大手掘の石垣です。

上段の石垣は寛政11年(1799年)の地震で崩れたものを翌年修築したもので、大手門を形成する石垣になります。堀際の石垣は築城時(慶長)のものと考えられています。

金沢城047
大手堀の土橋を渡った所にある大手門(尾坂門)跡です。
右に直角に曲がる「枡形」になっています。

こちらが本来の金沢城の正門となる「大手門(尾坂門)」です。
巨大な割り石を使用した「打込みハギ」の石垣が、往時の強固な大手門をしのばせます。ひと際大きな石は「鏡石」と呼ばれるもので、一般には城の正面に用いられ、城の威厳を示すものといわれています。

佐久間盛政の頃、大手門は西丁口(現在の黒門)にありましたが、前田利家が入城した後に大手門を尾坂口に改めました。大きな枡形で城内でも屈指の大きな櫓台を備えていますが、現在残っている絵図ではすべて「櫓台」として表記され、櫓がのっていた事実は確認されておらず、門扉として木戸が設けられていたようです。

金沢城049
大手門櫓台の内側ですが、石段がある以上何らかの防御壁があったとも考えられます。

(何か石垣ばっかりやなぁ( ̄▽ ̄)お城は?)
金沢城は『石垣の博物館』と言われてるからね(*^^*)
(見てる人飽きちゃわないか?)
そうかなぁ?これから有名な石川門へ回りますから(^_^;)
ところで、石川門って裏門だって知ってた?
(兼六園から橋を渡った正面の門だから正門じゃないの?)
そうなんだよね。兼六園の向かいだし、有名な門だから結構正門だと思ってる観光客が多いけど、実は「搦手門(からめてもん)」と言って金沢城では裏門にあたる門なんだって。
で、正門にあたるのが上の写真の石垣だけの「大手門(尾坂門)」(^_^)v
(ふーん、どっちにしても石垣だらけだな…)

金沢城037
石川橋まで戻り、橋からお堀通りを見ています。
現在は百万石通りに繋がる幹線道路で、ここが昔はお堀だったとはとても思えません。

金沢城040
が、明治20年頃の「百間堀」の写真を見ると…確かに満々と水を貯えたお堀です(^_^)v
左が「石川門」ですので、中央が昔は土橋(盛り土)だったいう「石川橋」です。

金沢城006
石川橋から見た「石川門」、石川門は修復工事中でした。

金沢城008
天明8年(1788年)再建の「石川門」と「二重櫓」です。

金沢城043
屋根瓦は「鉛瓦(なまりがわら)」のため、雪の様に白く見えています。

金沢城028
前田家の梅鉢(うめばち)の家紋で飾った鉛瓦です。

この鉛瓦は、焼いた瓦ではなく木材を瓦の形(1枚の大きさは、おおよそ44~45cm×19~20cm)に作り、その上に厚さ4.5~7.6mmの鉛板を銅釘で打ち付け、木の型に鉛板を押し当てて、木槌で叩いて作った物です。
江戸時代、城の全ての屋根に鉛をかぶせたのは江戸城を除けば加賀藩だけで、金沢城の諸建造物と、かつては加賀藩が支配していた越中高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ・2代藩主前田利長の菩提寺)の仏殿ぐらいでした。

なぜ鉛瓦が使用されたのかについては、北陸の冬の寒さ、雪や凍結から瓦の破損を防ぐ。また戦時には鉄砲の弾丸として利用できる。など諸説ありますが、戦時に鉄砲の弾丸にするのは『泥棒を捕らえてから縄をなう』式で余り役に立つとは思えず、白く輝いて美観に優れることと、当時は鉛が多量に余っていて安価だったからという説が有力なようです。

金沢城010
刻印が残る石川門の石垣。

この刻印は、石垣普請に携わった加賀藩の家臣や、石工集団の符牒のために印されたもので、金沢城の石垣全体の刻印は1400余りあるといわれています。

金沢城009
石川門の一の門(高麗門)、中に入ると右に直角に折れて二の門(櫓門)があります。

「石川門」は三の丸の搦手門(からめてもん・裏門)で、石川郡方向に向いているため名付けられたといわれ、金沢城にとって重要な門の一つです。
この門は、前田利家が金沢城に入った時にすでに建てられていたそうですが、宝暦9年(1759年)の大火により焼失し、天明8年(1788年)に再建されました。現在の石川門は再建当時のものです。
櫓門、2重櫓、多聞櫓、表門、南北の太鼓塀が組み合わされた「枡形(ますがた)」と呼ばれる複雑な二重の防御構造で構成され、櫓や櫓門には石落し、1間ごとに鉄砲狭間が設けられています。100万石の大大名の格式と威厳を示すため、唐破風や入母屋破風の出窓などを随所に設置し、実践的で秀麗な建物になっています。

金沢城042
この模型は一般的な「枡形門」の形式です。石川門も同じ構造になっています。

最初の門をくぐると四角く囲まれた空間になっています。その先には右に折れ曲がって更に門があり、囲まれた空間を設けることで、守りを厳重にした構造になっています。攻め込んだ敵はこの枡形で三方から集中攻撃を受けることになります。これを「枡形・枡形虎口(ますがたこぐち)」と呼んでいます。

金沢城012
高麗門内、枡形(ますがた)から見た二の門(櫓門)。くぐると三の丸に出ます。

金沢城011
門内の石垣と「海鼠壁(なまこかべ)」です。

石川門の見所のひとつ、左右違った積み方がされている戸室石(とむろいし)の美しい石垣です。左側は「打ち込みハギ積み(形や大きさを揃えた割り石を積み上げたもの)」、右側が「切り込みハギ積み(石を削り隙間なく積み上げたもの)」と呼ばれるものです。
特に「切り込みハギ積み」は、隙間にカミソリの刃も通らないと言われるほどの正確さで積まれています。

雨や雪が当る腰壁には、白と黒のコントラストが美しい「海鼠壁(なまこかべ)」が使われています。これは平瓦を壁面に貼り付け、目地を漆喰(しっくい)で固めたものです。
この塀には鉄砲狭間が等間隔に設けられ、表が四角い平瓦でカモフラージュされており、内側から突き破って鉄砲で攻撃できるような仕掛けになっています。

次回は、二の門(櫓門)をくぐった三の丸から紹介します。

百万石のルーツは?②

  • 2013/03/14(木) 00:58:41

尾山神社 (おやまじんじゃ)■所在地/石川県金沢市尾山町11-1 ■主祭神/前田利家 ■創建/明治6年(1873年)

(参拝日/平成25年2月28日)

尾崎神社から南に400mほど、金沢城公園の西、百万石通りに面して鳥居が建つのがここ、加賀藩藩祖・前田利家を祀る「尾山神社(おやまじんじゃ)」です。

尾山(おやま)というのは、金沢市の旧地名で戦国時代の金沢城跡と、その周辺の呼称です。浄土真宗の門徒による加賀一向一揆(かがいっこういっき)の拠点となった金沢御堂(かなざわみどう)、尾山御坊(おやまごぼう)を、織田信長の家臣の佐久間盛政が攻め落とし、金沢を一時期尾山と称しました。

その後、御坊跡地は金沢城となり、寺内(じない)町を受け継いで西町・南町・堤町・松原町・近江町・安江町・金屋町・材木町の城下町ができ、これを尾山八町といいました。現在、城跡西部を統合して尾山町と呼んでいます。

尾山神社08
神門の前田家の家紋「加賀梅鉢」です。

慶長4年(1599年)閏3月3日に大坂で死去した前田利家は、遺言どおりに金沢の野田山に葬られました。その後2代藩主利長によって、金沢城の鬼門の方角(東北)にあたる卯辰(うたつ)山麓に卯辰(うたつ)八幡宮(現在の宇多須神社・金沢市東山1丁目)が建立され、利家の霊は加賀藩を守護する存在として祀られました。

明治4年(1871年)の廃藩で、藩主前田家は華族となり東京に移りましたが、藩祖の偉功を守ることを希望した旧藩士達により寂れていた社殿を再興する運動が起こされました。
新たな社殿は、卯辰山麓ではなく、金沢の中心部金沢城の出丸金谷御殿跡地が選ばれ、明治6年(1873年)本殿、拝殿が建てられ、卯辰八幡宮から御神体を遷座し「尾山神社」と改称されました。

尾山神社01
石鳥居と尾山神社の社号標、石段の先が「神門」です。

尾山神社02
斬新なデザインが目を引く「神門」。

尾山神社03
神門は「和・漢・洋」の混用様式で建てられています。

明治8年(1875年)建立の神門は、三層のアーチ型楼門で、屋根には日本最古といわれる避雷針、最上階の三層目の窓にはステンドグラスがはめ込まれています。夜には御神灯が灯され、その灯りは海を行く船からも見え、灯台の役目もしていました。
神門のデザインは、現在では斬新と評されていますが、創建時は「醜悪」と言われて不評だったとか。不評の声は昭和10年(1935年)に価値が認められて旧国宝(現在は重要文化財)に指定されるまで続いたそうです。

尾山神社06
洋式アーチ型の一層目は戸室石(とむろいし)を使用しています。

この「戸室石(とむろいし)」は、金沢市東部の医王山(いおうぜん)や戸室山(とむろやま)で採れる高級石で、金沢城の石川門の石垣にも使用されている事でも有名です。

尾山神社07
一層目内部は「和様式」の造りです。

尾山神社04
境内から見た神門、二層目は「漢様式」中国風の造りになっています。

尾山神社05
三層目の窓にはステンドグラスがはめられ、屋根にあるのが日本最古の物といわれる避雷針。

尾山神社09
境内の狛犬と本殿。

尾山神社12
本殿ですが、この日の金沢は2月というのに暑かったですf^_^;)

尾山神社11
尾山神社の扁額。

尾山神社13
三間社流れ造の本殿。土台の石垣も戸室石ですね。

尾山神社14
境内の「前田利家公騎乗像」です。

尾山神社15
背中に風船の様な物を背負っていますが、これは「母衣(ほろ)」といいます。

「母衣(ほろ)」というのは、戦場で流れ矢を防ぐために鎧の背にかけた布のことで、時代の推移により風にふくらんだ形を示すために、竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになりました。
戦国時代の騎馬武者は、これを背に戦場を駆け巡り、連絡役をつとめていました。このような騎馬武者を母衣衆(ほろしゅう)と呼びました。織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした10人の黒母衣衆と、前田利家を筆頭とした10人の赤母衣衆とで合計20人でした。
戦闘になれば諸隊のガイド的役割もあり、敵にとって目に付きやすく、大変危険な役割でした。この騎馬像は織田信長の赤母衣衆として活躍し、「槍の又左」と呼ばれた青年時代の利家の姿です。

尾山神社19
境内のお庭「神苑」、楽器の庭とも呼ばれています。

尾山神社18
神苑の池に架かる板橋「八ッ橋」です。

この「神苑」は、金沢城の旧金谷御殿(かなやごてん)の庭園で、古代の舞楽の楽器を模した大名式の池泉回遊式庭園です。金沢は数日前から暖かった様で、雪もほとんど溶けていました。「兼六園」にもある、樹木を雪から守る「雪吊」も役に立っていませんでした(⌒-⌒; )

尾山神社16
尾山神社の裏門にあたる「東神門」、この門を出て道路を渡れば金沢城公園です。

この「東神門」は、もと金沢城二の丸御殿の「唐門」と伝えられ、宝暦9年(1759年)の大火にも焼け残った金沢城の現存する建造物として貴重なものとなっています。
明治3年(1870年)招魂社の神門として卯辰山に移築され、昭和38年(1963年)現在地に移されました。

1間1戸の向唐門で、屋根は桟瓦葺。主柱は円柱、控柱は角柱で両開きの桟唐戸を立て、頭貫(かしらぬき)の上は蟇股(かえるまた)に前田家の定紋「加賀梅鉢」と波の彫刻、桁上には大瓶束と「雲龍」の彫刻が施されています。

尾山神社17
東神門の彫刻にはミステリーが…

金沢城は、度々の火災で現存する建物はほとんどありませんが、この唐門は、桁上に彫られた二匹の龍が水を呼んだため火災を免れたといわれています。
と言っても、お城に龍の彫刻は付き物ですので、この門だけが特別だった訳ではないと思いますがσ(^_^;)

(他の龍は寝てたのかもな?)
多分ね、よくお城の屋根に鯱が乗ってるでしょ?
(シャチは水を呼ぶから火除けに乗せるんだろ?)
そうそう!特に名古屋城は金鯱だよね。でも、名古屋城の天守閣が空襲で丸焼けになった原因知ってる?
(ふつう爆撃されたら燃えるやろ!)
あの天守閣は漆喰の総塗り込めで、築城当時は絶対に燃えないって言われてたけど、空襲があった時は、金鯱に被せてあった金網に焼夷弾が引っ掛かったのが火災の直接の原因なんだって。
つまり、地上からの火災で燃えた訳じゃなくて、金鯱から燃えたらしい( ̄▽ ̄)
(鯱が水を呼ばずに火を呼んだと…)
金網被せちゃったのが悪かったんだね(>_<)
(なんで金網なんか被せてたんだ?)
こういう事みたい…

家康公の命により、慶長17年(1612年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は、一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれ、高さは約2.74メートルありました。
しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行い金純度を下げ続けました。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュしていました。
この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にもあったこともある)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていました。

(金がなくなっちゃたんで金鯱を流用しちゃったと?)
そうそう、空を見たら、あっ!あんなとこにいっぱい金があるやん、ラッキー(^_^)v みたいな話しね。
(その当時は、まさか空から焼夷弾が降ってくるなんて思わないしな)
シャチが水を呼ぶなんて迷信だけど、金鯱の祟りかも(ーー;)
とりあえず金メッキにして金網外せば良かったのに…
(名古屋人は結構見栄っ張りだからなぁ)
と、またまた余計なお話しでしたσ(^_^;)

最後に尾山神社で若い巫女さんにいただいた御朱印です。

oyama-gosyuin
キッチリ書いていただきました。ちなみに神社専用の
御朱印帳にお願いしました(^_^)v

このあと久しぶりに金沢城を見学しましたので、次回ご紹介したいと思います。

百万石のルーツは?①

  • 2013/03/12(火) 16:38:25

尾崎神社(おざきじんじゃ)・金沢東照宮 ■所在地/石川県金沢市丸の内5-5 ■主祭神/天照大神・東照大権現(徳川家康公)・前田利常(加賀藩3代藩主) ■創建/寛永20年(1643年)■開基/前田光高

(参拝日/平成25年2月28日)

尾崎神社01
尾崎神社の中門(平唐門)と社号標です。

初めて参拝しました、金沢城公園の北西にある尾崎神社(金沢東照宮)です。「東照宮巡り」をするまで金沢に東照宮があった事は全く知りませんでした。
「全国東照宮連合会」という組織があり、現在49社が加盟されていますが、尾崎神社は加盟されていません。ネット検索で「全国の東照宮」でヒットしたのが御朱印もいただける、ここ尾崎神社でした。

尾崎神社は「金沢東照宮」とも呼ばれ、加賀藩4代藩主・前田光高が幕府から東照大権現の勧請を許され、寛永20年(1643年)金沢城北の丸に東照三所大権現社(とうしょうさんしょだいごんげんしゃ)として創建、別当として神護寺が置かれました。江戸時代には「権現社(ごんげんしゃ)」「御宮(おみや)」と称されていました。
江戸時代、この様に全国各地に東照宮が造営されたのは、我が藩は徳川幕府に対して決して背く事はありません。その証拠に家康公を祀る東照宮を建てさせてください。という、幕府に対してのご機嫌取りみたいなものです。

明治6年(1873年)神仏分離令に従い仏像・仏具を除き、明治7年(1874年)に尾崎神社と改称、明治9年(1876年)に金沢城内が陸軍省用地となったため現在地(金沢城公園の北)へ遷座しました。
建立当初は「金沢城の江戸」、「北陸の日光」と呼ばれた十数棟にも及ぶ豪華な社殿が建ち並んでいましたが、現在地へ移転の際に現存の建物だけが移築されました。金沢城は度々火災にあっており、築城当時の建造物はほとんど残っておらず、金沢城の現存遺構としては最古の建造物です。昭和25年(1950年)には本殿・拝殿及び幣殿、附厨子・中門・透塀等が重要文化財に指定されています。

金沢・加賀藩といえば、100万石の格式を持ち、藩祖は愛知県名古屋市出身の前田利家です。利家は豊臣秀吉の亡き後、秀吉の遺児秀頼の傅役として、次の天下人を目指す家康公に睨みを効かせる事の出来た、ただひとりの人物でしたが、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)60歳で世を去りました。
家康公と唯一互角に渡り合える程の人望と、格を持っていた利家の早すぎる死は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともいわれています。つまり、家康公にとっては「目の上のたん瘤」であった利家の死により、天下を取れたと言っても過言ではないといえます。

家康公の天下となってからの前田家は、江戸時代初期には外様大名ながら加賀・能登・越中3国で119万石を領する大大名となり、3代藩主利常は徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎えています。以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返したことから、加賀藩主は徳川将軍家から特に「松平」の苗字と「葵紋」を許され、御家門に準じる家格を与えられました。金沢東照宮を創建した4代藩主光高は、家康公の曾孫(外孫)ということもあり徳川幕府への忠誠心が特に強かったといわれています。

尾崎神社07
中門の大棟にある葵の御紋です。

尾崎神社13
中門の破風には葵の御紋の飾り金具が打たれています。

尾崎神社06
中門、奥に見えるのが本殿。

尾崎神社02
かなり色落ちした「尾崎神社」の扁額。

中門は、一間一戸の朱塗りの平唐門(ひらからもん)で、本殿側に控柱(ひかえばしら)が立っており、屋根は平唐破風造銅瓦葺(ひらからはふづくりどうかわらぶき)で、棟は大棟の両端付近に降棟が付いています。

尾崎神社04
中門の柱、基壇部分にある葵紋の金具。

尾崎神社08
重要文化財の透塀ですが、東照宮としては単調なデザインです。

尾崎神社03
透塀に貼ってある尾崎神社の由緒書き。
上の方で長々と書きましたがこの由緒書きのとおりです-_-b

神域を囲む透塀は、東西52尺(約160m)南北52尺(160m)の正方形で、西面は中央に中門を開けています。
どこの神社にでもありそうな(失礼!)塀ですが、金沢城の貴重な遺構という事で重要文化財に指定されていると思いますが、中門と同じく朱塗りの剥落が激しいです。

尾崎神社11
こちらが本殿ですが、んんっ!何、この朱塗りの囲いは?

囲いの貼り紙を見ると「雪から社殿を守るため板囲いをしております」だそうです( ̄◇ ̄;)
なんかなぁ〜!こんなの見に来たんじゃないんですけど…

『本殿は、身舎(もや)が桁行3間、梁間2間でその前方に桁行3間の向拝(こうはい)が付いた三間社流造(さんけんしゃながれづくり)で、西を正面に建っている。
屋根は銅瓦葺きで、棟は大棟(おおむね)の両端付近に降棟(くだりむね)が付き、大棟の上には、置き千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)が2組乗っている。他の東照宮と同様、各部に漆塗りや極彩色が施され、飾金具で装飾されている。』
だそうですが、屋根だけ見せられてもテンション下がるわ( ̄^ ̄)ゞ

尾崎神社12
仕方ない!屋根でも撮っておくか…

尾崎神社15
アップにしたら…また塗りが剥げてました-_-b

尾崎神社10
一応、拝殿は参拝出来る様でしたので入らせていただきました。
おおお!扉だけは東照宮っぽい(^_^;)

尾崎神社09
軒下の組物は?普通でした…

尾崎神社14
扉は?朱塗りの棧唐戸で「葵の御紋」と「唐草に
輪宝」、見事な透かし格子もあります。

んんん…期待して参拝させていただきましたが、東照宮らしいのは扉だけとは(・_・;
では、これで尾崎神社は終わります(⌒-⌒; )

(えっ?御朱印は?)
あ、社務所が閉まってていただけませんでした(T_T)
(ピ〜ンポ〜ンしなかったの?)
奥様らしき人の声で、「宮司は留守をしてます」だって…
(今回は記事もあまり乗ってなかったようだし、またリベンジだな?)
もういいかも…板囲いが取れても期待薄だしね。一応、東照宮巡りはしたという事で(⌒-⌒; )
(なんだよ(ーー;))
金沢、遠いしね…

次は、御朱印なしの尾崎神社から歩いて前田利家を祀る「尾山神社(おやまじんじゃ)」を参拝します。
 

神も仏もありました⑥

  • 2013/03/11(月) 08:36:54

輪王寺大猷院②(りんのうじたいゆういん)

(参拝日/平成25年2月7日)

前回の続きです。

大猷院021
夜叉門をくぐった先にある門が、家光廟拝殿前の「唐門」です。

「唐門」は、承応2年(1653年)に建てられたもので一間一戸、高さ1間4尺(3.03m)間口6尺(1.82m)と大猷院内では最小の門ですが、門全体を金を基調に極彩色で彩っています。
屋根は唐破風で前面は丸柱、背後は角柱で破風内部には雌雄の鶴、欄間には白龍、木鼻には唐獅子が彫られています。 

大猷院051
唐破風、雌雄の鶴と欄間の白龍の彫刻です。

大猷院067
拝殿唐門と透塀。

大猷院079
透塀は鳩の装飾で埋め尽くされているため、百間百態の群鳩「鳩づくしの回廊」とも呼ばれています。

大猷院032
透塀の緑青に彩色された精巧な透かし彫りの格子。

大猷院034
透塀の前には大名家から寄進の灯篭が…

大猷院035
葵の御紋だらけの灯篭(*^_^*)

大猷院080
唐門内から見た「拝殿」ですが、拝殿内は撮影禁止でした。

大猷院024
唐門背後の控え柱(角柱)の唐獅子の彫刻です。

大猷院085
拝殿の内部、撮影禁止のためここから3枚は参考写真です。

内部は金箔置きで広さは64畳敷。唐獅子が描かれている大羽目前の蓮華の花瓶1対は、徳川御三家の水戸家、柳桜の花瓶1対は紀州家、鶴亀の燭台1対は尾張家からの献上品です。
拝殿の格天井(ごうてんじょう)には狩野一門の筆による140の龍が紺地に金で描かれています。正面、左右大羽目の唐獅子・狛犬は、狩野探幽(かのうたんゆう)と弟の狩野安信(かのうやすのぶ)が描いたものです。

大猷院087
こちらが江戸城、二条城、名古屋城などの障壁画も描いている狩野探幽筆の大羽目の唐獅子図です。

大猷院086
拝殿の中央から続く畳敷きの中殿が「相の間」です。こちらの内部も総金箔置きになっています。
正面奥の扉の先が本殿です。

「相の間」は、将軍が着座して法要を行なった場所で、格天井には鳳凰、本殿との間の左右には昇龍、降龍が描かれています。
東照宮は神仏習合様式の「権現造り」で、拝殿と本殿を結ぶ中殿「石の間」が数段低くなっているのに対し、大猷院廟は「仏殿造り」を中心とした純仏教様式のため、拝殿と相の間の床は同じ高さになっています。

大猷院023
西へ回り、外から「拝殿」「相の間」「本殿」を拝見します。
拝殿は黒を基調とした、やや地味な外観になっています。

大猷院026
「相の間」と「本殿」です。

ainoma
「相の間」は、金彩を基調に欄間には極彩色の彫刻、黒漆が全体を引き締め、朱塗りの欄干がアクセントになっています。

大猷院027
「本殿」です。相の間と同じく金彩を基調としていますが、軒裏を朱塗りとしています。

「拝殿・相の間・本殿」も承応2年(1653年)に建てられたもので、「本殿」は建坪112平方メートル余りの重層の仏殿造りで、内部の正面の厨子には木像の「家光公座像」と「御位牌」が、その前には家光の本地仏「釈迦如来」を祀っていますが、いずれも非公開です。
金箔を多様した外観から、別名「金閣殿」の呼び名があるほど豪華で、江戸期芸術の極致とされ、代表的な霊廟建築として国宝に指定されています。

大猷院028
唐戸上部の唐獅子の彫刻です。

大猷院081
床下の木組みも金彩に黒漆が塗られています。

大猷院083
金彩の唐戸の龍と唐獅子の彫刻。棧を黒漆塗りとし、葵の御紋入りの飾り金具を打っています。

大猷院037
右から本殿、相の間、拝殿と見ています。

大猷院031
本殿寺域を囲む透塀にあるもう一つの門、この門の右手、石段を登ると家光の墓所です。

大猷院030
家光の墓所、奥院への入口になる「皇嘉門(こうかもん)」です。

承応2年(1653年)建立の「皇嘉門(こうかもん)」は大猷院の最も奥に位置し、家光廟入口の門になっています。中国、明朝の楼門建築様式を取り入れ、竜宮城の門の様な構えをしているため、一名「竜宮門」とも呼ばれています。天井には門の名前に相応しく天女が描かれている様ですが、非公開のため見る事は出来ません。

これから先は家光の御霊を祀る聖域で、残念ながら一般公開はされていませんが、東照宮の奥院と同じ様に石段を上ると黒塗りの奥院拝殿があり、その後に鋳抜門、門の奥に唐銅製の宝塔が建ち、宝塔の中には釈迦如来像と霊牌が安置されているそうです。

大猷院029
一階塗籠楼門で、1層目は白漆喰塗り、2層目は極彩色豊かな彫刻になっています。

大猷院084
扉には葵の御紋と輪宝が施されています。

大猷院064
これで大猷院の紹介は終わります。皇嘉門の石段を下り、右手に透塀を見ながら夜叉門に戻っていきます。

大猷院御朱印
最後にこちらが大猷院でいただいた御朱印です。

この御朱印を書いていただいた「お坊さん」、かなりの曲者?御朱印帳をパラパラっと見て一言、「ここはお寺ですが、神社と一緒に書いていいんですか?(不満そう)」
私「これ、徳川家ゆかりの寺社専用の御朱印帳ですが…」と、表紙に葵の御紋入りの御朱印帳(久能山東照宮で購入したもの)を指差したところ…
お坊さん「それは分かりますけど、葵の御紋でも神社とお寺がありますよ。(尚も不満気)」
私「(そんな事は分かっとるわい!)いいですから一緒にお願いします」
お坊さん「よければ書きますが…」で、
上の御朱印、よく見ていただくと分かりますが、お寺にしてはかなりのやっつけ仕事( ̄◇ ̄;) 不満感が墨書きにも出てると思いませんか?

御朱印集めの方のブログを拝見すると、神社とお寺の御朱印帳を分けている方、一緒にしている方と様々です。
御朱印帳を分けている方のブログには、神社やお寺で何か嫌味を言われた事があり、別にしていると書いてありました。
私も一応、神社用、お寺用と分けていますが、「徳川家ゆかりの寺社・全国東照宮巡り」だけは1冊にまとめています。
が…今まで大猷院の坊さんの様に嫌味を言われた事は一度もな〜い!!

(オッ!出ました天邪鬼、怒ってるな?)
気分悪いでしょ?素直に書けばいいんじゃない?パラパラっと見て、今回の参拝順だと輪王寺(お寺)、東照宮(神社)、二荒山神社(神社)…次が大猷院(お寺)自分の所はお寺だから、神社の後には書きたくないんかい(♯`∧´)
(そういえば東照宮と輪王寺との間で管轄で揉めてるって書いてたな?)
そうそう!でも、東照宮では輪王寺の後でも何も言われんかったぞ!
(ここも輪王寺だろ?)
だから間に「二荒山神社」をクッション?で入れてるのに…
東照宮の次に頼んでたらたぶん御朱印拒否かも(^_^;)
(オイオイ!二荒山神社をクッションって…)
要するに、神社は心が広い、お寺は心が狭いという事でOK?
(あんた、ざっくりまとめ過ぎ!)
せっかく、いいお寺で見所もいっぱいなのに残念!これも神仏分離令の弊害ですな( ̄◇ ̄;)

ちなみに、知人も「神社とお寺が一緒の御朱印帳」で御朱印をお願いしたところ、私と同じ事を言われたそうで、そんな事を言われたのは初めてと驚いておられました。
皆さんも大猷院で御朱印をいただく時は、お寺専用の御朱印帳を出される事を強くお勧めします(^_^)b

以上、江戸時代までは確かに『神も仏もありました』、今は『神と仏は別々です』の、日光山「二社一寺」長々と見ていただきありがとうございました(^人^)

次回は、金沢東照宮(えっ!そんなのあるの?)「尾崎神社」を紹介する予定です。

神も仏もありました⑤

  • 2013/03/10(日) 22:24:08

輪王寺大猷院①(りんのうじたいゆういん)■所在地/栃木県日光市山内2300 ■徳川家光廟所 ■創建/承応2年(1653年)

(参拝日/平成25年2月7日)

2013020701.jpg

ここ「家光廟大猷院(たいゆういん)」は家康公の孫、3代将軍・徳川家光の霊を祀ったお堂(墓所)で、江戸時代までは「日光山内」として渾然一体となっていましたが、明治4年(1871年)の神仏分離令により現在は輪王寺の所管となっています。

慶安4年(1651年)4月20日、48歳で江戸城で没した家光は、祖父である家康公を深く崇敬し、「死して後も朝夕、東照大権現(家康公)の側でお仕え奉る」と遺言したことから、その遺志を受けた長男の4代将軍家綱の命により東照宮の傍らに埋葬されました。
家光の死の翌年にあたる承応元年(1652年)2月16日に起工。わずか1年2か月後の、承応2年(1652年)4月4日に「家光廟大猷院」は完成しました。「大猷院」とは、家光の死後、後光明(ごこうみょう)天皇から賜った法号で、「大きな仕事を成し遂げた人」という意味を持っています。

江戸時代初期の代表的霊廟建築であり、建物は本殿、相の間、拝殿が国宝となっているほか、唐門、夜叉門などが重要文化財になっています。
家光は東照宮を模倣することをはばかり、「家康公を祀る廟所を凌いではならない」との遺命により、東照宮とは違った建築となっており、東照宮が白と金を基調に黒の縁取りをしているのに対して、大猷院は金と黒を基本とし、縁取りは赤、金箔も東照宮より赤みがかったものが使用されています。目立たない部分に技巧が凝らされ、地形を利用した配置も大猷院の特徴になっています。
また大猷院の建物は東照宮に向いて建てられていますが、これは家康公に対する家光の強い思慕の念を表しているといわれています。

大猷院map
大猷院境内の案内図です。

大猷院004
大猷院の最初の門がこの「仁王門」です。

大猷院066
仁王門の先に見えるのは「御水舎」。

仁王門は承応2年(1653年)の建立で、三間一戸、八脚門の切妻造りで銅瓦葺き。建物全体は朱色を基調として上部は黒色、金具を金、彫刻を極彩色で彩り、両脇には2体の金剛力士像を安置しています。

大猷院012
大猷院043
仁王門右の阿形(あぎょう)の密迹(みっしゃ)
金剛力士像。

大猷院044
左の吽形(うんぎょう)の那羅延(ならえん)
金剛力士像

大猷院013
仁王門木鼻の唐獅子の彫刻。黒、金、朱の絶妙な配色です。

大猷院014
「御水舎(おみずや・水盤舎)」お清め場です。

この「御水舎」は、切妻造り銅瓦葺きの軒唐破風(のきからはふ)付きで、承応2年(1653年)に建てられました。
4隅に各3本、合計12本の御影石の柱で屋根を支える独特な構造で、柱の白色と上屋の極彩色の対比が際立っています。
天井には東照宮の「鳴龍」の作者、狩野永真安信(かのうえいしんやすのぶ)が描いた竜の墨絵があり、水盤に映し出されることから「龍鏡」、「水飲み龍」とも呼ばれていましたが、現在は墨が薄くなってしまい映らなくなっています。

大猷院073
切妻側の彫刻です。

大猷院071
こちらは正面、軒唐破風の彫刻。いずれも波など水に因んだ彫刻になっています。

大猷院072
天井の龍の墨絵ですが、そう言われれば龍?σ(^_^;)

この御水舎を左に直角に曲がり、階段を上った所にあるのが大猷院で最大の門「二天門」ですが、案内図にもあるとおり平成26年まで修復工事中でした。
足場を組んでテントが張ってあるため、見学不可!後水尾(ごみずのお)天皇宸筆の「大猷院」の扁額だけがテントを切り取って見えていましたが撮影せず(T_T)
こういうのが一番ガッカリですね。東照宮といえば「陽明門」、大猷院といえば「二天門」で、特に大猷院の二天門は日光山内で最大の門といわれているだけに尚更ショックでした。陽明門も4月から修復工事が始まるようですので参拝される方はお早めに(^_^;)v

大猷院075
テントの間から、ただ扁額だけ見せられてもなぁ…

そんな訳で残念ながら二天門の写真はありませんが、門のいわれにもなっている楼門左右に安置されている持国天・広目天の二天と、背面の風神・雷神像を工事用足場の隙間から撮影しましたσ(^_^;)

大猷院niten007
左側の迫力ある四天王の一尊の「持国天」、
手には三鈷戟(さんこげき)を持っています。

大猷院niten011
「持国天」は仏教では東方を護る守護神とされて
います。

大猷院048
持国天に踏み付けられている「天邪鬼(あまの
じゃく)」

taiyuuinkoumokuten
右に安置されている「広目天」、こちらは剣を
振り上げています。

大猷院niten010
「広目天」も四天王の一尊で、西方を護る守護神
とされています。

amanojyaku
こちらは広目天に踏み付けられている「天邪鬼」。

「天邪鬼」痛そうですね( ̄◇ ̄;) 踏みつけている持国天と広目天は、いずれも四天王の一尊で、持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)、多聞天(北方)と、東西南北の方位を護るインドの神々が、仏教に取り入れられたもので、「帝釈天(たいしゃくてん)」の部下として「須弥山(しゅみせん・仏教宇宙論における世界中心的な巨山)」の4つの門を護るといわれています。
中国風の甲冑を身につけ、武器を持って忿怒の表情をして「邪鬼」を踏みつけているのが特徴です。
邪鬼を踏みつけるのは、四天王が仏教に対する邪悪なものを打ち負かすことを表現したもので、この邪鬼を一般的に「天邪鬼(あまのじゃく)」と呼んでいます。

(あんたも天邪鬼って呼ばれてないか?)
まあ、時々言われるけどσ(^_^;)
(だろうな、考え方が偏ってるからなぁ)
・・・

大猷院047
二天門、背面の左に安置されているのが「風神」
です。風を起こす「風袋」を担ぎ、雲台に乗って
います。

大猷院049
手の指は4本で東西南北を表し、足の指は2本で天と地を表しています。

大猷院046
右に安置されている「雷神」、同じく雲台に乗り、
両手にバチを持ち、雷太鼓を背負っています。

大猷院050
こちらは手の指は3本で「過去・現在・未来」を表しています。
足の指は風神と同じで2本です。

修復工事中の二天門をくぐり、右手の石段を上ります。左手の長い石段の先が、家光廟への最初の入口となる夜叉門(やしゃもん)です。長い石段は下界と天上界を結ぶ階段にたとえられています。

大猷院005
石段の先に見えるのが「夜叉門(やしゃもん)」です。

大猷院015
夜叉門手前、右にある絢爛豪華な「鐘楼」。

taiyuuinnkorou
左にあるのが「鼓楼」です。

大猷院074
「鼓楼」「鐘楼」ともに同じような造りです。
東照宮の物と似ていますが、こちらの方が黒を
基調としているためか洗練された感じがします。

大猷院006
朱色に金が映える豪華な「夜叉門」。

taiyuin-yashamon3.jpg

夜叉門は承応2年(1653年)に建てられた建物で八脚門、切妻、銅瓦葺き、正面には唐破風がついています。全体的には朱色が主体で組物と金物が金、彫刻が極彩色で彩られ、牡丹、唐草牡丹の彫刻が多用されている事から「牡丹門」とも呼ばれています。
内部には夜叉門の名前のいわれとなっている、東西南北を表す色違いの「毘陀羅(びだら)」像、「阿跋摩羅(あばつまら)」像、「烏摩勒伽(うまろきゃ)」像、「健陀羅(けんだら)」像の4夜叉が安置され、霊廟を鎮護しています。

大猷院076
夜叉門、左の赤い夜叉像が「毘陀羅(びだら)」、右の緑の夜叉像が「阿跋摩羅(あばつまら)」です。

大猷院039
左の夜叉像「毘陀羅(びだら)」です。

大猷院042
こちらは右の夜叉像「阿跋摩羅(あばつまら)」、
いずれも後ろの彫刻は唐草牡丹です。

大猷院065
夜叉門内側4本の柱の木鼻には「獏(ばく)」の彫刻が…

大猷院018
こちらは口を閉じた吽(うん)形の獏です。

「獏(ばく)」は、中国から日本へ伝わった伝説の霊獣で、体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎に似ているとされ、人の夢(悪夢)を喰って生きていると言われています。
悪夢を見た後に『この夢を獏にあげます』と唱えると、その悪夢を二度と見ないといわれ、病気や悪気、邪気を避ける縁起の良い物とされています。

大猷院019
夜叉門軒下の組物と木鼻の唐獅子の彫刻。

大猷院052
外側の柱、軒下の木鼻には唐獅子の彫刻が施されています。

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夜叉門と左右にある回廊です。

大猷院077
夜叉門と回廊の間にある袖塀(そでべい)には龍の彫刻。

大猷院078
袖塀(そでべい)羽目の龍の彫刻は珍しい紅殻塗りです。

大猷院020
夜叉門背面です。屋根の庇が大きいためドッシリした感じがします。
左右の夜叉像は「烏摩勒伽(うまろきゃ)」と「健陀羅(けんだら)」です。

大猷院041
左の青く塗った肌の夜叉像は「烏摩勒伽(うまろ
きゃ)」です。

大猷院040
右の白い夜叉像が「健陀羅(けんだら)」です。

今回はここまでです。次回は家光廟への入口の唐門、拝殿、本殿に向かいます。

神も仏もありました④

  • 2013/03/04(月) 03:44:27

日光二荒山神社(にっこう ふたらさんじんじゃ) ■所在地/栃木県日光市山内2307 ■主祭神/二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)■神体/日光三山(神体山)■社格等/式内社(名神大)論社・下野国一宮 ■創建 /神護景雲元年(767年)

(参拝日/平成25年2月7日)

ここ日光二荒山神社は、二荒山(ふたらさん・男体山)を御神体とする、日光信仰の中心となる神社です。
日光三山は男体山(なんたいさん・古名を二荒山)・女峯山(にょほうさん)・太郎山(たろうさん)からなり、それぞれに神をあてて祀っています。
社殿はここが「本社」、中禅寺湖畔の「中宮祠」、男体山山頂の「奥宮」の3社からなり、明治の神仏分離令までは「三社権現」と呼ばれていました。

大昔、私たち日本人の先祖は、天高くそびえ、雲・雨・雪・雷などさまざまな自然現象を起こし、命の源である大切な水を恵んでくれる高い山々に、恐れと尊敬の心を抱き、そこには神がいると信じました。それが山岳信仰で、山岳信仰と仏教が結びついたものが「修験道(しゅげんどう)」です。

日光山は古来より修験道の霊場として崇敬され、奈良時代の末に「勝道上人」が北部山岳地に修行場を求め、天平神護2年(766年)に大谷川北岸に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建立。
神護景雲元年(767年)に、二荒山(男体山)の神を現在の本宮神社境内に勧請したのが二荒山神社の始まりとされています。

上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築きました。以後、「神仏習合」の霊場として栄えることになりました。江戸時代、日光東照宮が造営されると、二荒山神社も江戸幕府の厚い崇敬を受け、神領約70郷という広大な社地を有していました。

現在も日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)を境内地とし、華厳滝、いろは坂、神橋なども神域に含み、その広さは3,400haにも及び伊勢神宮に次ぐ面積を誇っています。

futarasan01
東照宮から石灯籠の並ぶ上新道を通った先にある
「社号標」と朱塗りの「楼門」です。

二荒山神社02

二荒山神社03
二荒山神社「拝殿」です。

「拝殿」は正保年間(1644~48年)に建てられたと推定される建物で単層入母屋、銅瓦葺、桁行16m、梁間12mで、日光に建てられた社殿建築の中では彫刻や文様が少なく、採用している彩色の数も限定的なことが特徴です。

二荒山神社05
「本殿」と「透塀」、左は樹齢700年といわれる「御神木」です。

二荒山神社06
「本殿」と手前にある「唐銅灯籠」。

「本殿」は元和5年(1619年)2代将軍秀忠が造営したもので、単層入母屋(正面千鳥破風付)で銅瓦葺き(元は檜皮葺き)、軒唐破風の向拝付で安土桃山様式の「八棟(やつむね)造り」を採用した、神社本殿建築の遺構として貴重な存在です。

本殿透塀に沿って、寄進された多くの石灯籠とともに、唐銅(からかね)製の春日造りの灯籠があります。この灯籠は夜ふけに火を灯すと、ゆらゆらと怪しげな姿に変わるというので、警固の武士に切りつけられた無数の刀きずがあり、「化灯籠(ばけどうろう)」とも呼ばれています。
お化けの正体は何?実は、灯籠に使っていた菜種油を舐めにきたモモンガか、ムササビではないか?ということですが、真相は不明な様です(^_^;)
ところで、化け猫じゃあるまいし、モモンガやムササビって油なんか舐めるの?、そっちの方が怖かったりしてε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

二荒山神社04
こちらが「日光二荒山神社」でいただいた御朱印
です。
日光という地名は、「二荒」を音読みした「ニコウ」に、「日」と「光」の字を当てはめたものとされています。

今回は東照宮と比べると、記事も写真もメチャ少なかったので少し追記をσ(^_^;)

次は、「二社一寺」最後の参拝地、3代将軍 徳川家光の廟所「輪王寺大猷院(たいゆういん)」を紹介しますが、ここも「輪王寺」です。「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称で、堂塔は広範囲に散在しており「大猷院」もかなり離れた場所にあります。
神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、輪王寺、東照宮、二荒山神社は「二社一寺」と称されていますが、江戸時代まではこの3つを総称して「日光山」と呼んでいました。
日光東照宮に参拝することを「日光社参(にっこうしゃさん)」と言うのもそのためです。

では、次回はまた写真も記事も多くなると思いますが、よろしくお付き合いくださいm(_ _)m

神も仏もありました③

  • 2013/03/03(日) 13:55:28

日光東照宮②(にっこうとうしょうぐう)

(参拝日/平成25年2月7日)

久しぶりの更新です。日光東照宮、前回の続きです。

まずは陽明門の手前、左右にある「鼓楼」と「鐘楼」を紹介します。

日光東照宮0780
左にある太鼓を収めている「鼓楼」です。

日光東照宮071
「鼓楼」の華麗な組物、当然ながら細部まで手を抜いていません。
ここにはあるミステリーが?

日光東照宮069
鼓楼の後ろの建物が「鳴龍」で有名な「本地堂」
です。

この場所には外国からの奉納品の灯籠が集められています。

日光東照宮0790
「阿蘭陀灯籠(おらんだとうろう)」と呼ばれる
オランダから奉納の八角形の回り灯籠です。

98111003252.jpg
灯篭の覆屋、屋根の四隅にいるのは霊獣「獏」です。

日光東照宮082
奥に見える灯籠もオランダから奉納されました。

日光東照宮058
オランダから寛永13年(1636年)に奉納された、シャンデリア型の「釣灯籠」です。

「阿蘭陀灯籠(おらんだとうろう)」と呼ばれる回り灯籠は、寛永20年(1643年)にオランダの東インド会社から奉納されました。

東インド会社、歴史の授業で習いましたね。
鎖国前の日本には、スペイン、ポルトガルなどの貿易船が頻繁に来ていました。目的は当時世界の1/3を有した日本の「銀」です。
慶長5年(1600年)オランダの商船リーフデ号が九州豊後に漂着したのをきっかけに、オランダ貿易が加わり日本貿易の利権をめぐる競争は激化しました。
リーフデ号に乗っていたイギリス人の航海士ウイリアム・アダムス(三浦按針)が家康公の外交顧問になった事もあり、オランダ貿易は俄然有利になります。
その後オランダは、スペイン・ポルトガルと、カトリックの繋がりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入り、ポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められました。

日光東照宮057
そんなオランダから奉納された灯籠ですが…

なんかおかしいですよね?葵の御紋が逆さまになっています。単純に上下を間違えて作っただけだろうといわれ、「逆紋の周り灯籠」とも呼ばれていますが、3代将軍家光が祖父家康公への崇敬と、幕府の威信を掛けて造った東照宮に、たとえ外国から奉納された物とはいえ、徳川家のシンボル、葵の御紋が逆さまの灯籠をそのまま置いちゃったのは謎です。

日光東照宮0800
「南蛮鉄灯籠」と釣鐘を収めている「鐘楼」です。

日光東照宮068
鐘撞き棒にも葵の御紋が(^人^)

日光東照宮036
いよいよ「陽明門」を拝見します。

日光東照宮015
陽明門の東西に伸びる「回廊」で、こちらは「東回廊」です。
端に見える屋根が「眠り猫」の彫刻がある「東回廊潜門」の屋根です。

透塀01
同じく「西回廊」です。

この回廊は陽明門から東西に延び、総延長は220メートル。途中から折れ曲がり、東西の端は御本社後ろの石垣の手前で切れて、コの字形に御本社を囲んでいます。
欄間に雲、胴羽目に花鳥と動物、腰羽目に水鳥など、天・地・水にちなんだものが1枚板の透かし彫りで彫られています。

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こちらは胴羽目に「孔雀」、腰羽目には「菖蒲」が彫られています。

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「袖塀(そでべい・陽明門と回廊の間の低い塀)」の
唐獅子の彫刻。

日光東照宮063
この唐獅子も、もうすぐ始まる陽明門の修復後には、きっと真っ白に生まれ変わりますね(^_^)v

日光東照宮018
陽明門の後水尾天皇宸筆「東照大権現」の扁額です。

この陽明門には508もの彫刻があるといわれ、上の写真、扁額の下にも2列の龍の様な動物が彫られています。上は「龍」ですが、下は「息」と言い、イキなのかソクなのか読み方も分からない霊獣だそうです。

日光東照宮066
2列目が「息」、よく見ると口の開け方も様々です。
「息」は「龍」と違ってヒゲが無く牙があるそうです(^_^;)

(歯並びもみんな違わないか?)
そうそう!矯正した方がよくない?というのもいますなぁf^_^;) それに、〝息〟も凄そう(((o(*゚▽゚*)o)))
(・・・)

日光東照宮065
白塗りの彫刻、真ん中は「目貫の龍」。両側の顔は龍で足に蹄のある霊獣は「龍馬(りょうば)」といいます。下には「唐子遊び」と呼ばれる子供達の彫刻があります。

日光東照宮070
鯉に乗った琴高仙人(きんこうせんにん)の彫刻です。

琴高仙人(きんこうせんにん)は、中国周の時代の人で、琴の名手。長寿の仙術を行って800年も生きたと言われています。ある時、龍の子を捕らえて見せる、と弟子たちに約束して川の中に入り、約束の日に大きな鯉に乗って現れ、人々を感嘆させました。波間から姿を表した瞬間を彫刻しています。

日光東照宮076
定番の唐獅子の彫刻も…「陽明門」には唐獅子が、「本殿」には夢を食べるといわれる「獏(ばく)」が彫られています。

日光東照宮019
「陽明門」の「随神」です。

日光東照宮017
向かって左、髪とお髭が黒い青年の左大神(さだいしん)。

日光東照宮016
右、髪とお髭が白い老年の矢大神(やだいしん)です。

「随神(ずいしん・ずいじん)」は、神を守る者として神社の門などに安置されます。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)と言い、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)と呼ばれることもあります。 左右二神共、弓と矢を携え剣を帯びていますが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府(このえふ)の舎人(とねり)の姿を現わしています。

ところで、以前「日吉東照宮」の社殿には、明智光秀の「桔梗紋」が隠されている…という記事を紹介しました。
天海僧正=明智光秀の証拠では?というものですが、ここ日光東照宮にも「桔梗紋」が隠されているという話がTVでもミステリーっぽく紹介されます。それが上の随神の袴に描いてある紋です。

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これですが、んんん…?これはどう見ても「桔梗紋」ではありません
よね。

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左が「桔梗紋」、中が「織田木瓜」、右は「唐花紋」です。

karahanamon01
こちらは「鐘楼」の庇の組物に描いてある「桔梗紋」と言われている紋。

三つの紋のサンプルを見ていただくと分かりますが、随神の袴の紋は間違いなく「織田木瓜」に代表される「木瓜紋」で、「鐘楼」の組物に描かれているのは寺社の装飾に多用される「唐花紋」です。
じゃあ、真ん中だけ取ったら「桔梗紋」になるんじゃないの?と言っても、無理やり真ん中だけを見ても「唐花紋」です。

「桔梗紋」と「唐花紋」の違いは、桔梗紋は先が尖っているのに対して、唐花紋は先が丸くて三つに分かれています。よく似ているので間違えやすい紋ですが、袴の紋は全く違います。
ここ日光東照宮には、言われている様な「桔梗紋」のミステリーは無〜い(^_^;) という事ですね。

という事で、改めて「日吉東照宮」の隠し紋と言われている写真をよーく見てみたら、
ガーン( ̄◇ ̄;) なんと「唐花紋」でした(T . T)

日光東照宮081
こちらが「日吉東照宮」で「桔梗紋」と紹介した紋ですが…

やっぱり、どう見てもこれも明らかに「唐花紋」ですね(⌒-⌒; )

(オイオイ!大失態じゃないの?あそこでは確か「桔梗紋」って断定してたよなd( ̄  ̄) )
あ、あれは神職さんが「桔梗紋」って言ってたし…間違えやすい紋だし、つい(^_^;)
(どうすんだよぉ?)
じゃあ、「日吉東照宮」にもミステリーは無かった!という事でどうかなぁ?今度行ったら、神職さんによく言っとくから(^人^)
(どうせ行かないくせに…)

次は本当のミステリーかも?

日光東照宮064
「陽明門」の「魔除けの逆柱」です。

「陽明門」は12本の柱で支えられていますが、その中の1本だけが逆さに立てられています。
すべての柱には「グリ紋」という渦巻きを2つ繋げた文様が刻まれていますが、門を入った左側3番目の柱だけ文様が逆向きになっています。写真、真ん中の柱です。
これは『形あるものは、完成した瞬間から崩壊が始まる』と言われることから、1ヵ所だけ完璧でない部分をわざと残して置いたといわれています。

日光東照宮074
随神の背面には「狛犬」が安置してあります。
左は「吽(うん)形」で、表門の狛犬と比べるとこちらは角がありません。

日光東照宮075
右は「阿(あ)形」の狛犬(獅子)です。

陽明門をくぐると、いよいよ唐門と御本社ですが、御本社は平成25年3月31日まで「平成の大修理」の真っ最中です。

日光東照宮020
陽明門を入った正面の「唐門」、この先の御本社が現在工事中でした。
「唐門」は、江戸時代には将軍に拝謁できる身分の幕臣、大名だけがくぐることを許された門です。

日光東照宮031
「唐門」と「透塀」、陽明門と比べると小さいですが、実は陽明門より優れているとも言われています。

karamon02
胡粉(ごふん・貝殻を砕いた顔料)を塗った両側の
白い柱の昇龍、降龍は紫檀・黒檀で象嵌されたもの
です。

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同じく扉、寄木造りの技法で象嵌されています。
ここまでするか?という凝りようです。

日光東照宮089
「唐門」の案内板です。

sukashibei01
唐門左右の「透塀(すきべい)」。欄間には牡丹と錦鶏(きんけい)、腰羽目は波に蒲の穂と白鷺が彫られています。

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こちらの腰羽目は沢瀉(おもだか)と鴨の彫刻です。
すべての長押(なげし)には亀甲花菱紋が描かれています。

唐門から左右に延びて本社を囲む透塀は、全長160メートルで瑞垣(みずがき)とも呼ばれ、石垣の上に石造りの土台を据え、柱は角柱で黒漆塗り。長押には「亀甲花菱紋」を金箔地の上に描いています。
胴羽目は透し彫りの「花狭間格子」で、こちらも金箔地の花弁の表面を緑青、内側を朱塗りとしています。
「唐門」「透塀」は、修復工事が終わったばかりで、素晴らしい輝きを取り戻していました。

日光東照宮090
透塀の前面は漆が塗りたてのため、参拝客が直接手で触れられないようにガラスの衝立がしてありました。

尚、第一期の第二次修復工事は、平成25年4月1日から平成31年3月31日、6ヵ年度継続で、陽明門、下神庫などの3棟が予定されています。陽明門も足場が組まれ、テントで覆われて6年間は観れなくなってしまうようです。
6年間は長い!陽明門が観れない東照宮なんて…その間に死んじゃうかもしれないし(>人<;)
本当にいい時に参拝出来て、今回はラッキーでした(^_^)v

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青空ですが、この日は小雪が舞ったり、陽が差したりの変わりやすいお天気でした。

唐破風の下には、中国の故事に由来する、竹林の七賢人「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」などの精密な彫刻があります。人物彫刻があるのは陽明門と、ここ「唐門」だけだそうです。

日光東照宮096
唐門、軒唐破風の屋根の南北にある青銅製の「恙(つつが)」です。

四方軒唐破風(しほう のき からはふ)の屋根の正面と背面には、夜の守り神として百獣の王・獅子、虎よりも強いという「恙(つつが)」という霊獣を乗せています。
江戸幕府の鋳物師、椎名兵庫の作で、これ一頭に金200両が支払われたそうです。あまりに見事な出来栄えのため、どこかへ行ってしまわないようにと、足を金環で留めてあります(^_^;)

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同じく東西の屋根の「龍」、昼の守り神です。
こちらの龍は鰭(ヒレ・翼)を切って飛んで行かないようにしてあるため、
「鰭(ヒレ)切りの龍」と呼ばれています。

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陽明門から続いている回廊内部です。こちらは「東回廊」、左に見えている建物は「祈祷殿」。東回廊には超有名な彫刻が…

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定番過ぎてあまり紹介したくないですが、「三猿」と並んで定番中の定番、国宝の「眠り猫」(; ̄ェ ̄)

家康公の墓所、奥社の入口にあたる東回廊潜門(ひがしかいろうくぐりもん)の上の蟇股(かえるまた)に彫られている、飛騨の名工・左甚五郎の作といわれるものです。
牡丹の花咲く下に、日の光を浴びて猫がうたた寝しているところです。「猫がのんびりと眠っていられるほど平和な世の中」への願いが込められています。

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「眠り猫」の裏側にはスズメの彫刻が…

猫が眠っているのでスズメも安心していられる、徳川の世の天下泰平を表している象徴といわれています。

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眠り猫の下をくぐった「坂下門」。家康公の墓所、奥社への入口です。

「坂下門」は、元和4年(1608年)に建てられた一間一戸、銅瓦葺きの八脚平唐門で、この奥が家康公が眠る奥社に続いていため、普段は閉められ、将軍参詣の時にしか開く事がなかった事から「開かずの門」とも呼ばれていました。
全体的に白と金を基調とし、欄間には鶴の透かし彫り、腰羽目には牡丹と唐草が彫り込まれています。

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奥社への石段、踏み石はすべて一枚石で、石柵も一枚石をくり抜いたものだそうです。

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200段余りの石段を登った場所にある奥社拝殿前の「銅神庫(御宝蔵)」です。

承応3年(1654年)創建で、江戸時代には朝廷から家康公に贈られた位記(位階を授ける者に、その旨を書き記して与える文書)や甲冑、刀剣や南蛮銅具足など、東照宮の中でも特に貴重な神宝類を収めていました。
建物全体を青銅で包み、黒漆を塗ってあることから「銅神庫(どうじんこ)」とも呼ばれています。

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やっと「奥社拝殿」が見えてきました。東照宮の他の建物とは違って黒一色でまとめています。

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入母屋造りで正・背面に唐破風(からはふ)を付けています。建物全体を真鍮や銅板で覆い、一部を金箔押し、他は全て黒漆塗りになっています。

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唐破風の装飾、よく見ると何気に豪華です。

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拝殿内部は黒一色の地味な外観に対して、内部は金箔の柱、極彩色の鳳凰など豪華な仕様になっています。

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「奥社拝殿」全景ですが、縁の下の材木や脚立は目隠しして欲しいかも( ̄^ ̄)ゞ

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拝殿裏、家康公墓所の前に建つ青銅製の「鋳抜門(いぬきもん)」です。

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扉には牡丹唐草と輪宝、柱には葵紋の文様が施されています。

この門は創建時は木造で、寛永18年(1641年)5代将軍綱吉の時に石造り、慶安3年(1650年)に今の青銅製となりました。扉を除き、柱や梁などを一つの鋳型でつくったことから「鋳抜門」と呼ばれています。
以前紹介した「増上寺」にも同じ門がありましたが、空襲で焼け残った物を移築したため、完全な姿ではありません。こちらは慶安3年創建時の姿をそのまま残しています。幕府お抱えの鋳物師、椎名伊豫(しいな いよ)の作です。

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「奥社宝塔」の案内板です。

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中には入れませんが、石柵越しに参拝できます。

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「奥社宝塔」この中に家康公の柩が納められて
います。

8角形5段の石の基壇の上にさらに4段の青銅の基壇があり、その上に青銅の宝塔が乗っています。創建時は、木造の多宝塔でしたが、天和3年(1683年)の地震で破損したため、唐銅製(金、銀、銅の合金)に造り替えられました。鋳抜門と同じく椎名伊豫(しいな いよ)の作です。

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陽明門まで降りてきました。参拝順路の最後になる、「鳴龍」で有名な「本地堂(薬師堂)」です。

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本尊が薬師瑠璃光如来(薬師如来)であることから「薬師堂」、家康公が薬師如来の生まれ変わりといわれ、本来の仏(本地)を祀ったことから「本地堂」とも呼ばれています。

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内陣天井に描かれている「鳴龍」、撮影禁止のため参考写真です。

龍の頭の下で手を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえるため「鳴龍」と呼ばれています。
もとの絵は江戸城、二条城、名古屋城などの障壁画を手掛けた狩野探幽の弟、狩野永真安信(かのうえいしんやすのぶ)の筆でしたが、昭和36年の火災により堂とともに焼失したため、昭和43年、堅山南風(かたやまなんぷう)画伯により復元されました。

昔は参拝客が手を打っていた記憶がありましたが、現在は撮影禁止で手も鳴らせないようです。 解説者のお坊さんが拍子木をカンカンと叩くと天井の龍が〝ビョビョビョーン〟と鳴きます。
「ハイ、今の龍の鳴き声と同じ音がする鈴です」と、知らないうちにお坊さんの手に鈴が…
「出口の授与所で売っていますので、帰りに買って下さい」

(オイオイ!押し売りかよぉ( ̄◇ ̄;))
そうそう、これだから坊◯はなぁ( ̄^ ̄)ゞ
(ん?ちょっと待った!ここは確か神社…)
気付きました?ここは家康公を祀る東照宮、間違いなく神社です。しかし、「本地堂」は東照宮の境内にあるのに「お寺」なんです。
日光にはまだ『神も仏もありました』神仏習合が残っています。と言いたいところですが…
現在では東照宮ではなく「輪王寺」が管轄しています。

明治4年(1871年)の神仏分離令により、日光は神社の東照宮・二荒山神社と、寺院の輪王寺の「二社一寺」の形式に分立してしまいました。
現在でも、ここ「本地堂」と「経蔵」の2棟が、東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中のため、文化財保護法の規定により「財団法人日光社寺文化財保存会」が「管理団体」として指定され管理しています。

つまり明治以降この2棟は、東照宮の境内にあるから当然、東照宮の物だ!いやいや、2つともお寺でしょ?だったら輪王寺の物でしょ!と、明治政府が定めた神仏分離令の弊害により現在も争っている訳ですね。
『日光の社寺』として世界遺産に登録されながら、観光客の見えないところでの争いが100年以上も続いているのは、悲しく腹立たしい限りです。家康公も嘆いているのは間違いないでしょうね(>人<;)

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念願の日光東照宮でいただいた御朱印です。

これで、家康公の遺言にあった寺社4つの御朱印が揃いました。『遺体は久能山、葬儀は増上寺、位牌は大樹寺、一周忌を過ぎたら日光に』の、4寺社の御朱印です。
「三大東照宮」といわれるうち、誰もが納得の日光・久能山の2つは制覇。あと一つはどこになるか?今まで参拝した中で決めるのは微妙だし、まだ参拝していない東照宮もあるので、自分的にはまだ決められませんσ(^_^;)

次は、東照宮をあとに「上新道(うわしんみち)」を通って「日光二荒山神社」です。

日光東照宮035
雪の「上新道(うわしんみち)」です。


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