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歴史のいたずら・京都の東照宮③

  • 2013/09/26(木) 18:25:40

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

前回の続きです…

さてさて、東照宮は何処?ですが、確かに「都名所図会(みやこめいしょずえ)」では本殿の東にあります。表門から参道、拝殿、本殿までは江戸時代から場所は変わっていないはずなんですが…。

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社殿の周囲をたくさんの末社が囲んでいますが、末社の中でも東にひときわ大きく描いてあるのが東照宮です。

で、現在の境内図を見てみると、ありました!東照宮。本殿奥、西側の端っこですf^_^;)

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ほとんど裏門の近くに東照宮がありました。

社殿の北側、東側にある末社はどうも江戸時代のままのようです。が、以前東照宮のあった場所は、なっ、なんと今は「豊国社」になっています(T . T) この豊国社は、明治28年(1895年)、伏見城築城300年を記念して祀られることになったそうです。
「豊国社」といえば、豊臣秀吉を祀るお社です。これは…!どうも明治時代になってから、家康公を祀る東照宮を裏門に近い端っこに追いやって(まあ、今の場所に別の意味があれば別です)、豊国社を跡地に持ってきた?徳川憎しの明治政府のやりそうな事としか思えません(私的な意見)。
前回にも書きましたが、秀吉はこのお宮を伏見城の築城の際、鬼門に当たる城内に移してしまったという事がありました。家康公は後に元の場所(現在地)に戻し、現在の社殿を造営。徳川頼宣は表門・拝殿を寄進。徳川家と、このお宮は深い繋がりがあるんじゃなかった?これではあんまりじゃ…。まあ、社殿は豊国社より立派なのが救いですがf^_^;)
実は、タイトルに書いた「歴史のいたずら…」が、幕末期にもこの御香宮で起きますが、また後述します。

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こちらが、御香宮東照宮です。小さいですが、これでも末社の中では一番大きい(^_^)v

なんか、覆い屋に囲われて全体像がよく分かりませんが、右が拝殿、左(奥)が本殿のようです。
沿革などは情報がなく不明ですが、石鳥居の年紀は安政5年(1858年)、東照宮御宝前石燈籠2基のうちの1基の年紀は嘉永4年(1851年)と幕末期の年号が刻まれていますが、上図、安永9年(1780年)発行の「都名所図会」にすでにその姿が描かれていることから、少なくとも江戸中期以前に東照宮は建てられていたと思われます。

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正面に廻ってみました。この石鳥居に安政5年建立と刻まれていますが、鳥居の「東照宮」の扁額は殆んど判読出来ません。

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神門は閉ざされていて入れませんでした。屋根には鯱が乗せられています。瓦は巴紋と、三つ葵紋です。

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門の隙間から覆い屋の中の本殿を撮影f^_^;) 小さくても流石に東照宮。極彩色の彫刻です。

覆い屋のおかげか、最近修復されたのか、彩色も鮮やかです。全体に可愛い感じ(*^^*) 木鼻の貘(ばく)?、龍もユーモラスで、特に御殿狛犬はまるでスフィンクスです。

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透塀の隙間から撮影しましたが、本当にコンパクト!外から大きく見えたのは殆んど覆い屋です。

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こうして見ると、そこそこ大きく見えるんですが…

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やっぱり小さかった(*^^*) 覆い屋は瓦葺ですが、中身?の本殿は多分、桧皮葺(ひわだぶき)ではないかと思われます。

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拝殿、正面の蟇股には鷹の透かし彫り。その下には三つ葵の金具が打ってあります。

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三つ葵の連発!(*^^*) 本当に可愛い龍です。

以上、小さくても「東照宮」!マニアにとっては、京都市内で御朱印のいただける貴重な「東照宮」のあるお宮さんです。
もう一つの東照宮のあるお寺、南禅寺塔頭(たっちゅう)の金地院(こんちいん)は、御朱印はいただけない様なので(南禅寺の御朱印のみ)、市内唯一という事になります。金地院の東照宮は、これも、ん十年前に参拝しましたが、素晴らしい東照宮だった記憶があります。

この金地院というお寺は、以前も紹介した南光坊天海僧正(120歳まで生きていた?方)と並んで家康公のブレーンで、黒衣の宰相と呼ばれた「以心崇伝(いしん すうでん)・金地院崇伝(こんちいん すうでん)」が住職を勤めていたお寺です。崇伝は、同じ家康公のブレーンでも天海僧正と比べると人気が無く、権勢の大きさと、常に強引な政治手法で宗教界にも関与したため、当時から「大欲山気根院僭上寺悪国師(だいよくざんきこんいんせんじょうじあくこくし)」とあだ名され、有名な沢庵和尚も「天魔外道(てんまげどう)」と呼んでいたといわれています。

いつも横道にそれていますが、ここでやっと、タイトルの「歴史のいたずら…」です。この御香宮神社のすぐ南に江戸時代には「伏見奉行所」がありました。

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航空写真で見ると、ほん!目と鼻の先ですね。

御香宮神社と伏見奉行所の間を通る道路が竹田街道です。神社の東に今は国道24号線が通っていますが、この辺り一帯は以前は神社の敷地で、高台になっていたそうです。
この竹田街道を挟んで激戦が起きたのが、日本最大の内戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の発端となった「鳥羽伏見の戦い」です。

慶応4年(1868年)1月3日、薩長軍と幕府軍による鳥羽伏見の戦いがはじまると、ここ伏見では御香宮神社に薩摩軍が、南側の伏見奉行所には新選組や会津藩兵などの幕府軍が陣取り、対峙していました。薩摩軍は、神社東の高台から奉行所に大砲を打ち込むなど激しい戦闘が行われ、奉行所は炎上。薩摩軍800名、幕府軍1500名といわれ、兵の数では圧倒的に幕府軍が優勢でしたが、幕府軍はあっさりと敗北。
幕府軍は、旧式の大砲が数門。対して薩摩軍は新式大砲を始め、銃火器隊を揃えて高台から奉行所を狙い撃ちしたため百発百中だったと言われています。

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当時の戦闘の模様を書いた地図です。

薩摩藩と書いてある場所が御香宮、その東の砲兵から奉行所に大砲を撃ち込んでいる模様がよくわかります。
で、問題は、なぜ幕府軍は奉行所の真ん前の御香宮に、薩摩軍の布陣を許してしまったのか?です。当時伏見奉行所には新選組、会津兵が常駐していました。その目の前へあとから薩摩軍が楽々と陣を敷いた訳で。これは誰が見ても戦う前から勝負は見えています。目の前なんだから何とかせえよ!
もう一つ、伏見奉行所の南には宇治川が流れていて、前には薩摩軍、後ろは宇治川で、引くに引けない「背水の陣」が勝手に出来てしまい、不利な状況で戦う事になってしまいました。

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当時の戦いを描いた錦絵。画面左の森が御香宮、右の炎を上げて燃えているのが伏見奉行所です。

道路一本隔てた南側にある伏見奉行所を俯瞰する事が出来る、圧倒的に有利なこの地をなぜ薩摩藩が押さえる事が出来たかには、一つのエピソードがあります。
当初、幕府側がここに本営を置く予定で、「徳川氏陣営」と書いた木札を門に掲げておきました。ところが、これを見た御香宮の宮司は薩長贔屓(京都の寺社、京都人は長州好きが多い)だったため、直ちにこれを御所に知らせました。薩摩藩では事の重要性に気づき、急ぎ御香宮に陣を構えさせ、幕府軍の布陣を防ぎました。これにより、薩摩軍は後の戦いを有利に導く事が出来ました。

あーあっ…!何だかなぁ…。完全に幕府軍は油断ですね。奉行所から見たら、御香宮は自分の庭の様な物だし、徳川家ゆかりの神社だから、木札さえ掲げておけばOK (*^^*)vとでも思っていたんでしょうかね?
家康公の社殿造営から250年余り経って、この時代には既に幕府の威光も、地に落ちていたことをもっと早く気付くべきでしたね。
まさか身内感覚?の御香宮から攻撃され、負けちゃうなんて思ってもみなかったでしょう。「歴史のいたずら…」「歴史の皮肉…」そのものですな(T_T)
いずれにしても、この鳥羽伏見の戦いの敗北から徳川幕府は完全に崩壊していきます。

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明治初期に描かれた、炎上する伏見奉行所から退却する会津兵と新選組。馬上で指揮を取るのは、新選組副長の土方歳三だといわれています。

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伏見奉行所の古写真、立派な石垣です。

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奉行所跡地に置かれた陸軍の工兵第十六大隊。左端に見える塀は奉行所当時の物です。

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現在の奉行所跡地は桃陵団地になっています。奉行前町、西奉行町、東奉行町の地名が往時を伝えています。

神社に立っているとここが高台?と思いますが、奉行所跡地のこの写真を見ると、かなりの坂になっています。右手の先に御香宮神社があり、南の宇治川まで下り坂が続いているようです。

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激戦の地も、今は伏見奉行所跡の石柱が残っているだけです。

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以上、またまたいっぱい語ってしまった御香宮神社で
いただいた御朱印です。
当然、東照宮、葵の御紋も入っていませんが私的には
大満足(*^^*)

しかし、今の宮司さんは家康公、徳川家をどう思っているんでしょう?私的には、ここは紛れもなく徳川家ゆかりの神社だと思っているんですが…。どうかなぁ?まあ、自己満ということで(^_^)v

そうそう、ここの駐車場、駐車料金900円も取られるんですよ( ̄▽ ̄) 近くで他に見る所もないのに!ただし、参拝客は一応無料ですが、参拝したら直ぐに車を出してくれと言われました…

次回は、今回の記事にも度々登場の家康公10男、紀州徳川家の藩祖・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)の菩提寺、和歌山県の長保寺(ちょうほうじ)を紹介します。これが何気に、えっ?国宝がこんなに?状態の凄いお寺でした。

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歴史のいたずら・京都の東照宮②

  • 2013/09/26(木) 11:19:51

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

前回の続きです…

参道を抜けるといよいよ拝殿が見えてきます。

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こちらは軒の唐破風の彫刻が見事ですね。

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近寄って見るとこんな感じです。極彩色に圧倒されます。

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蟇股の中央には三つ葵、左右に桐紋、菊紋の金具が打ってあります。

正面軒唐破風(のきからはふ)は、手の込んだ彫刻によって埋められています。向かって右は「鯉の瀧のぼり」、龍神伝説の光景を表し、左は琴高仙人(きんこうせんにん)が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を写しています。この拝殿は伏見城御車寄(くるまよせ)の拝領と誤り伝えられる程の豪壮華麗な建物です。
平成9年6月に半解体修理が竣工し、極彩色が復元されています。

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三つ葵の金具をアップ!m(_ _)m

この拝殿は、寛永2年(1625年)、表門と同じく紀州徳川家初代の徳川頼宣(家康公11男)の寄進によるもので、桁行7間、梁行3間、入母屋造、本瓦葺の割拝殿(わりはいでん)形式になっています。
神社建築では、拝殿は本殿よりも大きく建てられ、床を張るのが一般的ですが、「割拝殿」というのは、拝殿と本殿が離れており、中央が土間で通行可能な通路が設けられた形式です。

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割拝殿の通路、正面奥が本殿になります。

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本殿の遥拝所、当然参拝はここからです。奥に見える本殿も何やら凄い彫刻が…

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撮影出来るのはここまでです。左右に随神様がお祀りしてあります。

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本殿向かって右の阿形の随神様です。随神とは神様をお守りするため
武士の姿をしています。

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こちらは本殿向かって左の吽形の随神様です。

いずれも傷みが目立ったため、昨年18年ぶりに修理、漆の塗り直しがされた様で極彩色が甦っていました。

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慶長10年家康公造営とあります。

正面から「本殿」は見えませんので脇へ回ってみました。

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透塀から見える本殿ですが、かなり大きい(*゚▽゚*)

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アップ!こちらも極彩色の彫刻が!

この「本殿」は、慶長10年(1605年)、家康公の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立されました。大型の五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫、木鼻や蟇股、向拝の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全てを極彩色で飾っています。
背面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵が描いてあるそうです。全体の造り、細部の装飾ともに豪壮華麗でよく時代の特色をあらわし桃山時代の大型社殿として価値が高く、昭和60年5月18日重要文化財として指定されています。
造営以降、江戸時代の社殿修復に関しては、そのつど伏見奉行に出願し、それらの費用は、尾張、紀伊、水戸の徳川御三家の寄進金と氏子一般の浄財で行われ、大修理時には、神主自ら江戸に下って寺社奉行に出願して徳川幕府直接の寄進を仰いだといわれています。

平成2年より着手された修理により約390年ぶりに極彩色が復元されています。

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当然こちらも三つ葵紋ですね(^-^)

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「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に描かれた「拝殿」と「本殿」です。
ちゃんと「割拝殿」として描かれており、通路も正確です。

次は、ここでのメインイベント「東照宮」を参拝します。上の図でいうと、本殿右手(東側)に「東照宮」と描いてある場所です。
現在、京都市内で東照宮のある場所は、こちら御香宮と南禅寺の塔頭(たっちゅう)で金地院(こんちいん)の2箇所しかありません。以前は東本願寺にもありましたが、幕末の元治元年(1684年)「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の際の大火で消失してしまったとか…。

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こちらが近年東本願寺で見つかった「東照宮御霊殿」の鳥瞰図です。

建立されたのは「東照宮御霊殿」で、家康公を祀る日光東照宮の分社にあたり、文久2年(1862年)、公武合体で孝明天皇の妹・和宮と結婚した14代将軍・徳川家茂(いえもち)の入洛に合わせて、真宗大谷派の本山・東本願寺(京都市下京区)境内に落成しましたが、2年後の禁門の変「蛤御門(はまぐりごもん)の変」の大火で焼失。
これまで棟札の記録のほかに手がかりがなく、一般には知られていない幻の東照宮でしたが、近年、東本願寺の幕末史料約6千点が見つかり、真宗大谷派と大谷大が鳥瞰図(ちょうかんず)などを確認したところ東照宮と確認されたそうです。
調査によると、阿弥陀堂の南西に隣接する南北30m、東西60mほどの敷地に築地塀を巡らせ、大規模な唐門や回廊のある拝殿が建立され、参道を進み、唐門をくぐって拝殿に参拝する形式だったとの事。

もともと東本願寺は、慶長7年(1602年)に家康公から境内地の寄進を受けて建立されており、幕府との関係が深かった寺院で、分社建立の翌文久3年(1863年)には徳川家茂が、徳川将軍として約230年ぶりに入洛。孝明天皇と会見し、東本願寺にも立ち寄っています。(因みに西本願寺は反徳川で有名)
確認された史料には家茂や15代将軍・徳川慶喜のほか、京都守護職だった会津藩主・松平容保(かたもり)の参拝の記録も残っているそうです。

しかし、鳥瞰図を見ただけでも凄い規模の東照宮ですね。今残っていれば二条城の二の丸御殿に匹敵する豪華さだと思いますが見れないのが残念!傾きかけた徳川幕府が将軍家茂の上洛を前に、将軍の宗教的権威を京都で誇示しようと威信をかけた事業だったのは間違いないでしょうね。

で、本命のこちらの東照宮ですが、名所図会では確か本殿の右(東側)にあるはずなんですが…。
んんん?無いぞ!!一体何処に?

続きは次回。(妙に引っ張るなぁ…)

歴史のいたずら・京都の東照宮①

  • 2013/09/23(月) 18:54:02

御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)境内末社東照宮 ■所在地/京都府京都市伏見区御香宮門前町 ■主祭神/神功皇后 ■創建年/不詳

(参拝日/平成25年3月26日)

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境内の「御香宮(ごこうのみや)」の社号標です。

ん十年振りに参拝しました。京都市伏見区にある「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」。伏見といえば「伏見稲荷」が有名ですが、ここ「御香宮(ごこうのみや)」も外せません。

創建の由緒は不詳ですが、初めは「御諸(みもろ)神社」と称していました。平安時代の貞観4年(862年)に社殿を修造した記録があり、伝承によると、この年の9月9日に境内より「香」の水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったなど不思議な現象が起き、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといわれています。
別の説では、貞享元年(1684年)に北村李吟が「菟芸泥赴(つぎねふ)」という山城の国(京都)の名所名勝記を書いていますが、この書によると、「筑前国糟谷郡の香椎宮から神功皇后を勧請し、神功皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり、筑紫(福岡県)の香椎宮(かしいぐう)をこの地に分霊し勧請したともあります。
」が「御香宮」になったという事ですね。

現在も神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀り伏見地区の産土神(うぶすながみ)となっており、また「安産の社」として信仰を集めていますが、これは、身重の神功皇后が、新羅(朝鮮)から筑紫(福岡)へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことに由来しています。
後に、豊臣秀吉が伏見城築城の際に当社を城内に移し、鬼門の守護神としましたが、慶長8年(1603年)に徳川家康公によって元の位置に戻され、本殿が造営されました。

もともと伏見は「伏水(ふしみ)」といわれるほど豊富な水が湧く土地で、現在も造り酒屋が多い場所ですが、この神社の境内にも由緒となった湧水が「御香水」と呼ばれ、名水100選に選定されて残っています。(しかし、近年その名水100選にも問題あり…詳しくは後述)

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伏見城大手門といわれる国指定重要文化財の「表門(神門)」です。

この門は、元和8年(1622年)徳川頼房(水戸徳川家の祖・家康公11男)が旧伏見城大手門を拝領して寄進したもので、三間一戸、切妻造、本瓦葺の薬医門(やくいもん)です。
雄大な木割、雄渾な蟇股(かえるまた)、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門にふさわしい貫禄を示しています。

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正面を飾る蟇股は中国二十四孝(中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げたもの)の彫刻です。

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「伏見城大手門」の木札、ん十年前と同じ。墨書きが掠れています…

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表門の内側です。雄大な木割がよくわかります。

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「都名所図会(みやこめいしょずえ)」に描かれた御香宮です。右下、通りに面した所が表門。

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表門をくぐり、石鳥居の先に参道が続きます。名所図会と同じです。

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以前は石鳥居をくぐった右手に「御香水」の井戸があったようです。「こう水」と描かれています。

この井戸は現在は参道の先、本殿右に石碑と一緒に移っていますが、徳川義直(尾張藩祖・家康公9男)、頼宣(紀州藩祖・家康公10男)、頼房(水戸藩祖・家康公11男)のいわゆる徳川御三家の各公は、大坂城・伏見城生まれのため、この水を産湯として使ったといわれています。
徳川頼房寄進の表門、家康公造営の本殿といい、ここ御香宮は徳川家に縁の神社なんですね。
  
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本殿向かって右にある「御香水」の井戸と石碑ですが、この井戸、現在は使われていないようです。

えーっ!じゃあ「御香水」は何処にあるん?ですが、この井戸には嘉永3年(1850年)の年号が刻まれています。都名所図会が描かれてから約65年が経過し、この場所に井戸を掘削しなおしたようです。
しかし、明治期に井戸が枯れてしまい、深さ150mにまで掘削して復活し、その後、昭和60年に「名水100選」の一つに認定されました。
現在の水汲み場は、本殿向かって左手にありますが前述の様に問題ありで…

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『この水は濾過されていませんので飲まないで下さい』の案内あり。

何でも平成23年(2011年)7月31日の水質検査の結果、水質が悪化し、基準値より下回ったことが分かり、現在ここからは飲めなくなっているようです。以前は、この水汲み場には竹の筧が2本あり、豊富に水も出ておりペットボトル、ポリタンクで水を汲んで帰る人が絶えなかったようですが…
しかし、7月31日に一気に水質が悪化した訳でもないだろうし、それ以前に汲んでいった人達は一体??飲んで大丈夫だったのかf^_^;)

私が参拝した時は、新しく小さな水汲み場が出来ていました(^_^;)

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こちらは濾過済みの様で、時間制限(朝7時〜夜7時)でお賽銭を入れて飲むようになっていました。

しかし、このチョロチョロ加減。それも濾過した「御香水」って…かなり微妙ですね。
こちらは伏見の街中にある神社で、東側には国道24号線も走っており、さすがに水質悪化も避けられないんでしょうが、これでは以前のように「御香水」を汲みに来る人もいなくなるのでは…

次回に続きます。今回は本当に久しぶりの更新でした(それも3月参拝の記事だし(>_<))


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