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徳川御三家の東照宮制覇?

  • 2013/10/26(土) 16:45:46

讃岐東照宮 屋島神社(さぬきとうしょうぐう やしまじんじゃ)■所在地/香川県高松市屋島中町山畑140番 ■御祭神/東照大神(徳川家康公)・頼重大神(松平頼重) ■創建/慶安4年(1651年)■開基/松平頼重

(参拝日/平成25年9月30日)

やって来ました、四国です。今回は「四国八十八箇所霊場」を、香川県限定で“プチ歩き遍路”で廻ってみました。
9月28日、名古屋駅を23:30発の夜行高速バス「コトバスエクスプレス」に乗り、翌朝、宇多津駅に到着。78番札所から74番札所までを逆打ち、宇多津〜多度津〜善通寺までの歩き遍路でした。
初めての四国遍路、1日目は全て歩きということで、さすがに疲れて5ヶ寺しか廻れず、善通寺のビジネスホテルに着いたらグッタリ(T . T) ツアーではないので、1日何ヶ寺を大急ぎで廻るとかのノルマ?もなく、あっちで一服、こっちで一服の気楽なお遍路です。ただ今回歩いてみて分かったのは、長時間休むと歩きたくなくなることです(^_^;) ただ黙々と歩く…、初心者の歩き遍路はこれですかね。

2日目は、琴電に乗って「金刀比羅宮」をゆっくりと奥社まで参拝。琴平から高松までは同じく琴電の志度線で、84番札所の「屋島寺(やしまじ)」へ向かいました。(屋島寺の記事はまた改めて)
屋島寺の前に、ここ「讃岐東照宮」を参拝です。

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琴電屋島駅前から屋島山上を望みます。山肌に見える筋は?

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ケーブルカーの線路のようですが…正面に見えるのが駅?

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屋島ケーブル登山口駅ですが、んんん?ここも廃墟か(^_^;)

定光寺に続いての「廃墟シリーズ」ではありません(^_^;)
この駅は、正面に見える観光地「屋島」へ登るケーブルカー駅で、昭和4年(1929年)に開通しました。山上にある四国霊場八十四番札所の屋島寺や、景勝地の獅子の霊巌への徒歩以外の唯一の足となっていましたが、屋島ドライブウェイの開通、観光客の減少などもあり、2004年10月15日に惜しくも廃線になりました。

讃岐東照宮は、確かこの駅の近くにあるらしいんですが…。

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駅のシャッターにある寂しい案内板。歩き遍路さん用の案内のようです。

山上までは徒歩1時間となっています。まずは右へ、屋島神社から参拝です。
その前に、例によって戦前の絵葉書から(^_^)v

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屋島ケーブルカーのタイトルの絵葉書。山肌を縫う線路がハッキリ写っています。

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案内板にある現在の国道11号線、マクドナルド付近から屋島ドライブウエイ方面を写した絵葉書。真っ直ぐに伸びる道の先が屋島神社です。

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もう少し近くからの撮影のようです。延々と松林が続きます。

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現在の同じアングルからの撮影。今もわずかに松林が残っています。

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正面が屋島神社、一の鳥居です。

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二の鳥居、石段が続きます。

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その先にあるのが注連柱(しめばしら)、石段はまだ続きます。

「注連柱(しめばしら)」は、鳥居の原始的な姿で、笠木・島木・貫などがなく2本の柱に注連縄をかけただけのものです。

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この二枚は、現在と同アングルの戦前の絵葉書。

戦前は、立派に根を貼った松の巨木があったようですが、現在は植込みだけで寂しい感じです。

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注連柱をくぐった石段の先に「神門(唐門)」が見えてきました。

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最後の石段を登ると「神門(唐門)」です。

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讃岐東照宮 屋島神社の由緒書きです。

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境内案内図です。

ここ讃岐東照宮 屋島神社は、慶安4年(1651年)高松藩主・松平頼重(家康公の孫)が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に社殿を建立し、東照宮の神霊を勧請したのが始まりです。

松平頼重(まつだいら よりしげ)は、御三家、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(家康公11男)の長男として元和8年7月1日(1622年8月7日)に生まれましたが、父の頼房は、兄の義直(尾張徳川家藩祖)・頼宣(紀伊徳川家藩祖)に男子がいないのをはばかり、懐妊した側室の久昌院(きゅうしょういん)に堕胎を命じ、家臣の三木之次夫妻(頼房の乳母夫婦)に預けます。しかし、三木之次は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、頼房に隠したまま江戸で育てられました。
実は、頼重の弟である光圀(後の黄門・水戸藩第2代藩主)も懐妊の際、頼房に堕胎を命じられましたが、同じく三木之次夫妻により匿われ、水戸城下の三木邸で出産しています。
頼重はその後、京の公卿・滋野井季吉(しげのい すえよし)に預けられて養育され、10歳の時に水戸へ呼び戻されますが15歳まで父に会う事は許されませんでした。この間、水戸藩の後継ぎには同母弟の徳川光圀(黄門)が決定しています。17歳で常陸下館5万石を与えられますが、水戸家での待遇は光圀に次ぐ次男の扱いでした。この辺り、家康公の結城秀康に対する扱いによく似ています。

寛永19年(1642年)20歳で、交通の要所で天領となっていた四国の讃岐高松に12万石で入封され、やっと長男として相応しい待遇を受けますが、長男として生まれながらここまでかなりの苦労をしています。
後に光圀は、兄を差し置いて水戸藩主になった心苦しさからか、頼重の実子の綱方(早世)・綱條(つなえだ)を養子に迎え、綱條に水戸家の家督を譲っています。ううう…泣ける話しやなぁ(T . T)
一方の頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居しています。つまり、子供同士を交換した訳です(^_^;)

話し戻って…

東照宮は以来、御宮(おみや)と呼ばれ歴代藩主に崇敬されてきましたが、文化元年(1804年)当時の高松藩8代藩主の松平頼儀(よりのり)が、この風光明媚な屋島山麓に新たに社殿の造営を着手、家康公200年忌にあたる文化12年(1815年)に完成させました。その造営費は当時の金額で約14万余両(約70億円)といわれています。
明治4年(1871年)に冠嶽神社(かんむりだけじんじゃ)と改め、明治7年(1874年)に現在の屋島神社に改称。明治15年には藩祖松平頼重が合祀されました。ところが、昭和48年(1973年)2月12日の失火により、惜しくも現在残る神門(唐門)を残し、讃岐日光東照宮とも呼ばれた本殿、拝殿等を全焼。本殿、拝殿は翌年11月に再建されています。

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焼失前の貴重な拝殿・本殿の絵葉書です。

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同じく左に唐門、右に拝殿を写した絵葉書。

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唐門、正面です。門は閉ざされていて中は見えません(T_T)

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左右の金網が貼ってある柱は、左甚五郎6世による上り龍、下り龍の彫刻。

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正面には同じく左甚五郎6世による、獅子と鳳凰の彫刻。

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金網の貼り方がいささか中途半端な気がしますが…

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門の至るところ多彩な彫刻で埋め尽くされています。

この彫刻彫金は、左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能(ひだり りへい ただやす)が父の名跡を継ぎ、高松藩松平家の藩命を受け客分棟梁として完成させたといわれています。
火事で焼ける前の拝殿、本殿も素晴らしい彫刻で埋め尽くされていたんでしょうね…残念!

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神門は常時閉じられており、お正月しか開けられないようなので隙間から…

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隙間から覗いた現在の社殿は、戦前の絵葉書とは違い
簡素なものでした。
まあ、再建に昔の様に何十億も掛けられないでしょうし…

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境内から見た市街地、戦前の絵葉書のように一直線に参道が伸びているのが分かります。

左の建物が社務所ですが、窓のカーテンも閉まっており人の気配は無し…。え?じゃあ御朱印は?このまま諦める私じゃあない( ̄▽ ̄)
いつものパターンで、ピーンポーン!(ダッシュではありません(^_^;))すると、すぐに窓を開けていただけました。神職さんではありませんでしたが、お留守番?のお婆さんが「御朱印、書き置きしかありませんが…」良かった!もちろん、OKです!丁寧にお礼を言っていただきました。

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ちゃんと日付も書いていただけました。
「讃岐日光東照宮」屋島神社となっています。
葵の御紋がいっぱいの御朱印です(^_^)v

で、タイトルの「徳川御三家の東照宮制覇?」ですが、尾張家の名古屋東照宮、紀州家の紀州東照宮、本来は水戸家の水戸東照宮で完全制覇ですが、水戸にはなかなか行く機会もなく、今回は水戸家支藩のここ高松の讃岐東照宮で、一応プチ制覇にしておきます(^_^;)

前々回から徳川御三家シリーズ?を紹介しましたが、次回は、金毘羅さんで親しまれている「金刀比羅宮」を紹介する予定です。

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暴れん坊将軍は名君か?

  • 2013/10/25(金) 16:41:33

紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう) ■所在地 /和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-20 ■御祭神/徳川家康公 徳川頼宣公 ■創建/元和7年(1621年)

(参拝日/平成24年10月21日)

以前の記事に昔の絵葉書画像を追加しました。

前回、次は岡崎市を…と書きましたが、予定変更で一気に和歌山県まで来ました。

なぜ和歌山?ですが、家康公ゆかりの寺社巡りの他に以前から「西国三十三観音霊場」巡りも同時にしており、ここ和歌山市には「西国三十三観音霊場」の内、紀三井寺、粉河寺の二ヶ寺があります。
どうせ和歌山県まで来たんだから(遠い!)この二ヶ寺の他にどこか?と調べてたら、やっぱり東照宮がある!これは外せないわ!ということで、こちらにも参拝させていただきました。

徳川将軍家には、徳川御三家という特別な一門があります。家康公が宗家(将軍家)の後継ぎが絶えた場合に備え宗家存続のためにと、晩年に生まれた男子3人に託したものであると言われています。
徳川義直(9男)の尾張徳川家、徳川頼宣(10男)紀州徳川家、そして徳川頼房(11男)の水戸徳川家の3家ですが、特にこの中から「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」という事になっていたため、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って常に競争意識があったようです。

「暴れん坊将軍」を見ていても紀州出身の8代将軍吉宗(松平健)と尾張の徳川宗春(中尾彬)は、ほんと仲が悪いですからね(笑)
我がふるさとの「徳川宗春」については、また改めて書きたいと思います。(また長くなっちゃうので(^_^;))

ここ紀州東照宮は元和7年(1621年)に徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)により東照大権現を祀る東照社として南海道の総鎮護のため創建されました。現在では徳川頼宣も合祀されています。
社殿の建築様式は伝統的な和様を用い、様々な彫り物で飾り内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し、鍍金の飾金具を施す代表的な江戸時代初期の建造物です。この豪華な社殿により紀州の日光と称され、拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財に指定されています。

ガーン!( ̄◇ ̄;) ここも重要文化財だって。それに比べて我がふるさと尾張徳川家の…(やめとこ!)

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駐車場の大看板と立派な葵の御紋の石碑です。

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石の鳥居の先には鬱蒼とした参道が続きます。

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撮影年代は不詳ですが大正〜昭和初期の絵葉書。上と同じアングルからの撮影です。

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いい感じの参道ですが夜はきっと怖いですね…

紀州東照宮020
ヒェー!これ登るんやぁ?

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って、昔の人も登ってます(^_^;)
夜でもないのになんか亡霊みたいですが…。

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石段から振り返ると眼下に海が!和歌の浦が一望できます。

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石段を登りきると「楼門」です。急な石段ですので全体が撮りきれません。

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東照宮にしてはちょっと地味め?な彩色かな?

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軒下の組物の彩色も割とあっさり気味です。

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楼門から見た「唐門・拝殿」。バックの森のグリーンと社殿が絶妙な配色ですね!

紀州東照宮007
由緒書きの案内板です。こちらも簡潔にまとめてます(^^;)

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楼門をくぐると境内です。右の授与所で御朱印がいただけます。

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3人とも和服を着ているのが時代を感じさせます。

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正面から見た唐門、拝殿です。今は石段手前に柵があり登れませんが…

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昔は柵もなく石段を登って参拝できたようです。こちらの参拝客は、スーツか軍服?銅の燈籠も現在の位置とは違っています。

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現在は唐門正面にあるこちらの燈籠です。

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「唐門」と「瑞垣(みずがき)」この奥が社殿です。若葉の頃は社殿が
もっと映えるでしょうね…

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昔は植込み手前の柵もなく開放的です。

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な、なんと!?拝殿の前まで参拝客が入れたようです。

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素晴らしい拝殿、さすが東照宮です。

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拝殿の左甚五郎作と伝わる天女の彫刻。楼門と違い細部まで彫刻されています。

絵葉書用に参拝客を入れているのかも分かりませんが、現代も是非一般公開して欲しいですね。いやぁ!見てみたい!(お願いすれば神職さんが案内していただけるそうですが、多分撮影禁止でしょう(T . T))

ところで「暴れん坊将軍は名君か?」ですが、暴れん坊将軍こと8代将軍「徳川吉宗」といえば質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策。市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの「享保の改革」を実行し、破綻しかけていた幕府財政の復興をしたことから、徳川幕府「中興の祖」と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされています。

その一方では年貢を今までの四公六民(実際には平均2割7分6厘)の負担から、五公五民(5割)の負担にする増税政策を行なった結果、農民の生活は窮乏し百姓一揆の頻発を招き、武士だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞したとも言われています。

これに反発したのが尾張の「徳川宗春」で、国元の名古屋では吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図るため、遊郭の設置、吉宗により禁止されていた芝居の復活などで名古屋の町は活気を得て、名古屋城下には全国から1000人を超える遊女たちが集まりました。常設の芝居小屋も57座にのぼり、江戸・上方の役者も流入、芝居興行は387回を数えたといいます。その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほどでした。

しかし、吉宗の改革と異なる華美な振る舞いが幕府の怒りに触れ、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられます。その処分は吉宗の怨念が異常に強かったためか宗春の死後も解かれることがなく、墓石には罪人を示す金網が被せられていました。(これってかなり酷い話ですよね!御三家筆頭の尾張の殿様が、死んでからもこんな目にあうとは。まったく、死者に鞭打つとはこのことやな…)

宗春の名誉が回復されたのは死後なんと75年目の事で、墓石の金網も取り外され、やっと歴代藩主に列せられました。
名古屋生まれの作家、井沢元彦氏は『逆説の日本史』の中で「吉宗は名君である点も多分にあるが、経済に関しては全くの暗君だった」と述べています。
吉宗は名君か?みなさんはどう思いますか…

ドラマの話で何なんですが、「暴れん坊将軍」の中で、新さんが最後に「余の顔を見忘れたか!?」「成敗!」って斬っちゃう悪い奴って、みんな自分が任命した老中、若年寄とかの吉宗の家臣ですよね?
吉宗!お前、人を見る目ないやろ?どこが名君やねん?…といつも思うのは私だけ(笑)

以上、「暴れん坊将軍は名君か?」でした。
でもここの東照宮も良かったです(*^_^*)派手好きの「宗春」さんの名古屋東照宮、何とかしてー!

紀州東照宮G
そんな「暴れん坊将軍」の故郷で「徳川宗春」の故郷から来た
私がいただいた御朱印です。(これは正しく敵同士やな…)
右から、紀州 東照宮 和歌浦 日付です。

こちらの御朱印が他の東照宮とちょっと違っているのは、三つ葵紋と紀州六つ葵紋が並んで押してあることですね。「六つ葵紋」は、デザインは少し違いますが、水戸徳川家でも使用されているようです。

紀州六つ葵
こちらが「紀州六つ葵」の紋です。

次回は、岡崎市へ…

王命によって催さるる事③

  • 2013/10/10(木) 15:18:39

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

またまた前回の続きです。

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名古屋城にある「藩訓秘伝の碑」の石碑。

この石碑は、名古屋城二の丸御殿跡にひっそりと立っています。
「王命によって催さるる事」とは、義直の著書「軍書合鑑」の末尾にある『王命によって催される事、すなわち、保元・平治・承久・元弘の乱のような兵乱が起きて、官兵が動員される事態になれば、いつでもこの官軍に属すべし。一門よしみを考慮して、かりにも朝廷へ弓を引くべからず』の言葉です。
ここにいう「王」とはむろん天皇のことです。つまり、「ひとたび事を起こす際は朝廷の意向によること、我が子孫は決して天皇の命令に背いてはならない。」との義直が定めた尾張藩の家訓・藩訓で、この藩訓は「秘中の秘」で、その子細は家督相続ごとに藩主が新しい藩主へ「口から耳へと伝えてゆけ」と命じています。

義直は日頃から「いま天下の武将たちはだれもが公方(将軍)を主君と仰いでいる。しかし、大名はもちろん三家の者も、公方ではなく朝廷の家来である。幕府は単に政権をゆだねられているにすぎず、それが証拠にわれわれもまた官位を朝廷からいただいているではないか」と広言しており、御三家でありながら「朝臣」という尾張藩の藩訓は義直のこうした勤皇思想から始まりました。

義直は、御三家とは「将軍家・尾張家・紀州家」で、この三家は同格であると考えており、家康公の実子でもあり、理想もプライドも高く、幕府何するものぞの気概にあふれていました。
4歳違いの甥の3代将軍家光が「余は生まれながらにして将軍の子」と言えば、義直もまた「わが父は権現様(家康公)なり」と負けてはおらず、物事において筋目を重んじた義直は「生まれながらの将軍」を自負する家光には目の上の瘤で、二人は度々衝突しました。
寛永10年(1633年)、家光が病に倒れた際、義直は大軍を率いて江戸に向かい、「さては尾張殿、謀反か?」と家光や幕閣を慌てさせました。儒教を篤く信じていた義直には野心はなく、御三家の筆頭として、当時継嗣のいなかった家光に万が一の事態が生じた場合、尾張藩が幕府を護るという義に従っての軍事行動でしたが、以後幕閣は義直を「尾張殿に謀反の意あり」と、要注意人物と見ていたようです。そのためにか、尾張藩からは将軍を出せないまま終わっています。

また話しが長くなってしまいました(^_^;)
えーっと、前回は「龍の門」まででしたので…

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龍の門をくぐった正面が「焼香殿」、右が「宝蔵」です。

焼香殿、宝蔵ともに承応元年(1652年)の造営で、「焼香殿(祭文殿(さいもんでん))」は墓所の拝殿に相当する建物です。一重、寄棟造、銅瓦葺、内部は1室で石積基壇の上に建ち、前面二か所に石造の階段を設け、正面中央間は二つ折れの桟唐戸(さんからど)、脇間および側面には花頭窓(かとうまど)を開けるなど、禅宗様式基調としています。
正面、背面の戸には雲竜の浮彫彫刻、床は黒釉の志野の陶板(日本最初のタイル)を敷き詰め、天井は折上格天井(おりあげごうてんじょう)、屋根は棟に中国風に魚形の棟飾りをのせ、四隅には蕨手(わらびて)が二段に突き出しています。
焼香殿の東に西面して建つ「宝蔵(祭器庫)」は、規模は焼香殿よりやや小さく、外観の意匠は焼香殿とほぼ同じで、儒教の祠堂に準じて内部は3室になっています。

…が、二つとも覆い屋に囲まれて、またまたどんな建物か外からは全然分かりません(T . T) 特に焼香殿は覆い屋+ガラス戸と二重で守られています。

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屋根しか見えない「宝蔵」です。右は殉死者の墓。

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ガラス戸から焼香殿の中を覗いてみました。
正面に位牌、床の陶板がわずかに確認できます。

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位牌には「贈正二位尾陽侯源敬公」と書いてあります。

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資料によると焼香殿の内部はこんなふうになっている様です。
花頭窓の外の壁は覆い屋ですね。

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床の陶板が見事です。

ここで、覆い屋の無かった頃の焼香殿の姿を!

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いいですね〜素晴らしい(^_^)v なんとか昔の姿に戻してくれないかな?
元の写真が小さいのでボケボケですが、素晴らしさは伝わると思います。

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焼香殿の傍から背後に回り込むと義直の墳墓です。

焼香殿の背後、一段高い場所を石柵で囲み、中央に唐門(からもん)を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

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正面、12段の石段の上に開かれた「唐門」。

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銅板張の扉の家紋は尾張家三つ葵です。

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この唐門は、平唐門(ひらからもん)で、承応元年(1652年)の造営。腕木で軒を支える腕木門の形式で本柱は御影石製、扉や主要部材は銅板張で屋根は銅瓦葺。銅板製の鬼板を置いています。

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義直の墳墓、円形の土饅頭の上に高さ4m程の石標が建てられています。

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「二品前亞相尾陽侯源敬公墓」の墓碑銘は、廟の
設計者、陳元贇(ちんげんぴん)の筆です。

慶安2年(1649年)かねて中風が進んで苦しんでいた義直は10月、自らの死を予見して、家康公のブレーンで幼年期の師である儒学者・林羅山(はやし らざん)と計り「二品前亞相尾陽侯源敬」と号し、「神主(しんしゅ)」を製作しました。この『神主(しんしゅ)』とは、中国の後漢時代から儒教の葬礼に用いられる死者の官位・姓名を書く霊牌(日本では位牌)の事です。
これは、尾張藩主中、儒教を深く信じていた義直のみで、2代以降15人の藩主はみな院号を贈られていますが、義直だけは遺命により仏教でいう院号、法号もありません。この墓石も仏教の五輪塔・宝塔とは違い簡素な石標になっています。

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宝蔵の東にある「殉死者の墳墓」です。

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殉死者は9名で、前列に家臣の墓石が5基、後列に陪臣(家臣の家来)の墓石が4基建っています。

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殉死者の墓石も主君の義直に倣った石標です。

ご存知だと思いますが、殉死とは、主君が討ち死にしたり、戦に負けて腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することです。戦国時代には、主君が病死等の場合に追い腹を切る習慣はありませんでしたが、江戸時代に入ると病死の場合でも近習等、ごく身近な家臣が追い腹をするようになりました。
幕府は寛文3年(1665年)に「殉死禁止令」を出し、尾張藩も同5年に出していますが、義直の時代にはまだ殉死の気風が残っていました。
しかし、この殉死者の墓、前列の5名は義直の近臣で、主君の後を追ったということで理解ができますが、後列の4名は、5名の近臣の家来達です。主君に殉じた主人の後を、その家来がまた追って切腹…凄い時代です。

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一番北にある殉死者の一人、寺尾直政の墓石です。

寺尾直政は、幼少から義直の小姓として仕え、信任特に厚く家老職にまで進み、8000石を領しました。義直の他界を殊のほか悲しみ、遺書を残して殉死。47歳でした。
定光寺の資料にはこうあります。 
「寺尾土佐守直政 従五位下 5月8日、自分長屋にて殉死 介錯柳生兵助巌包 享年48 戒名全順居士」

この寺尾直政の介錯をしたのが、兵法指南役として義直に30年も仕えた「柳生利厳(兵庫助・やぎゅう としとし)」の3男で『尾張の麒麟児』と謳われた天才剣士「柳生連也斎厳包(やぎゅう れんやさい としかね)」でした。介錯のあと、首の皮が切り残ったのを見た者が「尾張の麒麟児も大した事は無い…」と呟いた所、故実を知る者が「罪ある者の首は切り落とすのが法で、無罪の者は皮を残すのが故実に叶う仕方である。」と、介錯人を褒めたと柳生家の記録にはあるそうです。
まさに「首の皮一枚でつながる」ですが、今は“かなり危なかったが何とか助かった”という意味で何気に使っている言葉ですが、実際はもう死んでいる状態です(^_^;) 何か変?

「王命によって催さるる事」は、その後どうなったのか?万が一、幕府と朝廷が戦う事態となれば、尾張藩は迷わず朝廷側につけ!藩祖義直の考えは藩訓として、代々の藩主に口から耳へと伝えられました。秘中の秘、一子相伝でしたが、義直の血統は「尾張藩中興の祖」と言われた9代の「徳川宗睦(とくがわ むねちか)」で途絶えてしまいます。その後は4代に渡って将軍家から養子を押し付けられ、家中には将軍家への不満が貯まり続けますが、やっと、尾張支藩の美濃高須藩から「徳川慶勝(とくがわ よしかつ)」が14代藩主に就きます。
この慶勝の代に戊辰戦争が起き、ついに「王命によって催さるる事」が行われ、徳川親藩・御三家筆頭の尾張家は官軍につく事になりました。

実は、この慶勝の実弟に会津藩に養子に入った松平容保(まつだいら かたもり)がいますが、容保は会津藩祖・保科正之が定めた有名な家訓『会津家訓十五箇条』の第1条「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず “徳川宗家に忠節をつくすこと、他藩の考えや行動を判断材料にしてはいけない、徳川宗家に二心抱く者は我が子孫ではなく家臣も従う必要はない”」を忠実に守り、将軍家を守るため最後まで薩長軍と戦い、会津藩は賊軍とされ悲劇的な結末を迎えます。

兄の慶勝は藩祖義直(家康公9男)の藩訓『王命によって催さるる事』を守り、弟の容保も勤皇家でありながら藩祖正之(家康公の孫)の家訓『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく』を守ったため、敵味方に別れて戦うという皮肉な結果になってしまいました。
藩祖の定めた家訓が何百年も生きていた…その重さは現代では計り知れないものがあります。

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最後に、預けておいた御朱印帳にいただいた
尾州藩祖廟所と入った御朱印です。

なんか最後は重〜い話になってしまいましたので、気分を変えて(本当に変わるか?次もかなり重いけど…)
実は、ここ定光寺はお寺よりもある物で有名な場所です(^_^;)

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まずはこれ、JR中央線の「定光寺」駅です。

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ここは崖っぷち駅として鉄道マニアにも有名です。

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ホームですが、ほんとに崖にへばり付いていますね。

渓谷にある崖っぷち駅。かなりな秘境駅の雰囲気ですが、ここは名古屋まで通勤30分圏内の愛知県春日井市内です。昔はこの渓谷美から「東海の嵐山」とも呼ばれたそうです(本当かいな?)。

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ほらね!戦前は絵葉書にもなってるし(^_^)v

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現在の写真とほぼ同じアングルの戦前の定光寺駅全景です。

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右が駅のホームですね。左の山の方が定光寺になります。

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ホームから玉野川(庄内川)を見ています。

ここまではあまり重くありませんが、次からはちょっと重いかも?
もう一つ定光寺で有名なのが…

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これです!な、なんだ!この崖っぷちの建物?

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この建物は、以前は東海地方では有名な料理旅館だった「千歳楼(ちとせろう)」です。

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現在は窓ガラスも割れ、荒れ放題で完全に廃墟と化しています。

この千歳楼は、昭和3年(1928年)創業で、バブル期には接待などにもよく使われた老舗料理旅館でしたが、10年程前に倒産。経営者も行方不明になり、その後不審火が起きたり、館内で白骨遺体が見つかるなど、現在では荒れ放題になっています。
心霊スポットとして、全国の廃墟を集めた雑誌には必ず載るという、地元にとっては有り難くない存在ですが、経営者が行方不明とはいえ、今も個人の所有物とかで行政が勝手に取り壊しは出来ないようです。

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戦前の木造だった頃の「千歳樓」。頭上を走るのが中央線です。

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中央線のホームから見た「千歳樓」の全景。橋を渡った右手が定光寺です。

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上の写真の中央に見えている「千歳樓」の風情ある玄関。

以上、昭和は遠くなりにけり…。最後もやっぱり重〜い定光寺でした。

次回は、四国に上陸。四国八十八ケ所、プチ歩き遍路で立ち寄った「讃岐東照宮 屋島神社」を紹介します。今回も長々と、ありがとうございましたm(_ _)m

王命によって催さるる事②

  • 2013/10/10(木) 14:58:32

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

前回の続きです。

「源敬公廟(げんけいこうびょう)」参拝の前に「徳川義直(とくがわ よしなお)」について少し?(多分…)紹介します。

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こちらが徳川美術館蔵の徳川義直像です。ムッツリというか、気難しい顔をしています。

義直は、慶長5年(1600年)11月28日、家康公の9男として大坂城西の丸(京都伏見城(現在の清涼院)の説もあり)で産まれました。
母は相応院(於亀の方)で、幼名は元々は千々世丸(ちぢよまる)といいましたが、のちに五郎太丸(ごろうたまる)と改名しました。これは城の石垣を築く際に、巨石の間にくさびとして入れる五郎太石(ごろたいし)からとった名で、徳川家のくさびになるようにと、家康公が自ら名付けました。「石ころ」から命名した訳ですね(^_^;)

家康公は、自分の子供に変な名前を付けるのが好きなようで(元祖キラキラネーム?)、次男である結城秀康(2代将軍秀忠の兄)は、幼名を於義伊(おぎい)・於義丸(おぎまる)といいますが、これは秀康が生まれた時に「オギィー、オギィー」と泣いたため、家康公は「名前?“おぎい”にしておけ…」と言ったとか。他の説では、顔が「ギギ」というナマズ目の淡水魚に似ていたからだともいわれています。

この秀康という次男は、何故か家康公に嫌われ、満3歳になるまで対面も許されませんでした。母親の於万の方が家康公の正室・築山殿の奥女中であったため、築山殿の嫉妬を恐れ、母子ともに重臣に預けられてしまいます。
この冷遇された異母弟を不憫に思った兄・信康(家康公長男)の取り成しで、満3歳の時にやっと親子の対面が実現しました。冷遇の理由は、顔が醜かったとも、双子で生まれてきた(当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた)ためともいわれています。
その後も、天正12年(1584年)、11歳で豊臣秀吉の養子(実際は人質)となり、天正18年(1590年)17歳の時、今度は秀吉から関東の名家・結城氏へ養子に出されます。当時、徳川家では長男の信康が切腹。秀康は事実上の長男でありながらのこの境遇でしたが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの論功行賞により、家康公より下総結城10万1000石から越前北庄67万石へと、50万石以上の大幅加増で移封され、後に越前福井松平家の藩祖となり、やっと日の目を見ます。この大幅加増は、秀康を冷遇してきた詫びだったのかも知れません。
しかし、慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)33歳の若さで突然病没します。死因は梅毒とも暗殺されたともいわれています。んんん…梅毒(^_^;)戦国武将に多い病気で、かの加藤清正も梅毒で亡くなったそうです。

武将としての器量は一流、武勇も抜群で、周囲からも認められており、一時は次期将軍は秀康の声もありましたが、家康公の裁定により(秀康は養子に出されていたため)弟の秀忠が将軍職を継いでいます。秀忠も事あるごとに秀康を兄として立てていたため、兄弟の仲は表面上は良好だったようです。

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高野山奥の院にある結城秀康の石廟です。3月の高野山参拝に撮影。

左は秀康自身が建てた母・於万の方の霊屋。右が越前松平家2代藩主・忠直が建てた秀康の霊屋で、いずれも石造りとなっています。

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詳しくはこの案内板のとおりです(^_^;)松平秀康と松平姓になっています。

生前の秀康は、結城秀康のままだったようですが(一説には松平に改姓とも)、この石廟を建立した子供の忠直の代から松平姓を名乗っため「松平秀康」になっていると思われます。

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こちらは結城秀康になっています。面倒!まあどっちでもいいか…

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重要文化財になっているため「登壇禁止」になっており、近くには寄れません。

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こちらは前回紹介した「長保寺」にもある、徳川頼宣の墓所です。

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高野山にもありました!尾張徳川家墓所。しかし、誰それの墓とは書いてないので一括か?

ここで、やっと義直に戻ります(前振り長〜〜〜)。

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こちらは義直の直筆による家康公の肖像画です。(徳川美術館蔵)

神格化された家康公の肖像画とは違い、人間臭さのある肖像画です。というのも、9男・義直、10男・頼宣(紀州藩祖)、11男・頼房(水戸藩祖)の3人は、家康公の晩年の子供達という事もあり、特に可愛いがられ、家康公の手許で育てられました。子供に情が薄いと言われた家康公には珍しい事のようです。この肖像画も、家康公の身近で育った義直だから描けた、実像に近い家康公の姿かもしれません。

義直は慶長8年(1603年)、4歳で甲斐国において25万石を与えられ、甲府藩主に。慶長11年(1606年)7歳で元服するとさらに翌慶長12年(1607年)、兄・松平忠吉の病死により、尾張国清洲藩主として53万石で加増転封となります。慶長15年(1610年)には本拠を清洲から名古屋に移し、清洲城下の商人・職人の名古屋への移住「清洲越し」が行われ、同時に家康公の命により、外様大名の天下普請により名古屋城の築城も始まりました。
こうして義直は尾張藩主となりますが、幼少であったため、尾張の政務は初期には犬山城主であった平岩親吉や、竹腰正信、渡辺守綱、成瀬正成らの附家老が担当し、義直自らは駿府城の家康公の許で育てられました。
慶長19年(1614年)、15歳で大坂冬の陣で初陣、翌年の大坂夏の陣では後詰として活躍し、元和元年(1615年)、浅野幸長(あさの よしなが)の娘・春姫を正室に迎え、この頃、木曽福島と美濃国内を合わせて62万石の加増を受けています。
義直が母の於亀の方を伴い、名古屋城に移ったのは家康公の死後、元和2年(1616年)17歳の時でした。

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こちらも義直の直筆で、母「相応院(於亀の方)」の肖像(名古屋相応寺蔵)ですが、家康公好みのふっくら丸々(◯ブ専?)としています。

こうしてみると、兄の結城秀康と比べ破格の待遇です。家康公は、よほど義直たちが可愛かったんでしょうね(^_^;)
関ヶ原の戦いの終った後に生まれた子供達、という時代背景もあるでしょうが、子供に情が薄かった家康公も、晩年はかなり丸く(身体も丸い(^_^;))なったのではないかと思われます。
…が、この家康公の性格?子供達に対する差別などが、実は家康公の前半生と後半生は別人ではないか?の家康公替え玉説なるものが出る原因にもなっているそうです。果たして真相は…?

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別名「金鯱城(きんこじょう)」と呼ばれた、名古屋城の戦前の
焼失前の姿。手前が本丸御殿で、現在は復元工事中です。

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本丸御殿の玄関と天守閣。美しいです!

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徳川義直所用の「銀溜白糸威具足
(ぎんだめしろいとおどしぐそく)」
(徳川美術館蔵)

この具足は、義直が着用した品で、義直は正月の具足祝いの儀式のために毎年具足を新調して、多数の具足を所持していました。中でも特にこの銀溜具足を好み、旅行の際には必ず携帯していたと伝えられています。この具足も胴が太く、大柄であったと言われる義直に相応しい作りになっています。

一番上の義直の肖像画、気難しい顔で描かれていますが、事実頑固な性格で筋目を重んじる人物だったようです。昔、深作欣二監督の「柳生一族の陰謀」というオールスターキャストの東映時代劇がありましたが、その中では、三船敏郎が徳川義直を演じていました。
三船さんが、あの眉間に皺を寄せた難しい顔で『陰謀は許さん‼』の台詞がピッタリで、ベストキャストだと感心しましたが、義直も多分あんな感じの人物だったんでしょうね(^_^)v

名古屋城入城以後の義直は、家老達に任せていた藩政を自ら執り、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行ない米の増産に務め、検地による税制改革などで年貢収納を確立しました。併せて商工業の保護も行い、瀬戸の窯業の発展の基礎を作るなど、尾張藩の繁栄の基礎は義直の時代に構築されました。
また学問を好んで儒教を奨励し、我が国初の「孔子堂」の建立や、城内に尾張東照宮の建立も進め、家康公の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ、『蓬左(ほうさ)文庫』を創設し、「決して門外不出にすべからず」と、貸し出し自由。現在の図書館の走りとなる文庫とするなど、日本有数の名君といわれています。
また神道にも造詣が深く、「日本書紀」から「日本三代実録」までを編纂した歴史書『類聚日本紀(るいじゅうにほんき)』、全国の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神等について考証した『神祇宝典(じんぎほうてん)』を著しましたが、これは甥で尊皇家の水戸光圀(黄門)にも大きな影響を与えました。

家康公に倣い武術を好み、兵法指南役の柳生利厳(やぎゅう としとし)から新陰流兵法の相伝を受け、流儀を継承して新陰流第4世宗家となっています。いつ襲われても対処できるようにか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたといわれています。(んんん…かなり怖い!)それに手足をバタバタしてたら、せっかく手元に置いた脇差も何処かへ…。

慶安2年(1649年)に中風を再発して体調を崩した義直は、翌、慶安3年(1650年)江戸藩邸で51歳で没しました。諡号(しごう)は敬(けい)。遺骸は生前、義直自らが廟所として定めていたここ定光寺に葬られました。
ところで、「源敬公(げんけいこう)」って何だ?ですが、「源敬公」の「源」は、徳川家は源氏を称していたため源氏の源。「敬」は、義直に贈られた諡号(しごう・貴人の死後に贈られる名)。「公」は尊称です。つまり義直が亡くなった後の名前です。「源敬公、敬公が云々…」といえば、初代義直の事を指している訳です。
生前の義直は、正式な文書では「従二位行権大納言(じゅにいのぎょうごんだいなごん)源朝臣義直(みなもとのあそんよしなお)」と名乗っています。通称は「尾張大納言」と呼ばれていました。
何かややこしいので詳しくは説明しませんが、ざっくり言えば、従二位・・は位階(大臣の位)で、源朝臣・・は正式名です。時代劇などで水戸黄門が江戸城に登ると、「水戸中納言様おなり〜」と言われていますが、これも通称です。本当は城中では「中納言殿(ちゅうなごんどの)」、あるいは「水戸殿(みとどの)」と呼ばれました。義直は「尾張大納言殿・尾張殿」です。
御三家が出来た当初は、城中では「尾張様、紀州様、水戸様」と呼ばれていましたが、・・様と呼ぶのは「上様(将軍家)」だけである。という事になり、城中では「・・殿」と呼ばれていました。

毎度、長い文章ばかりで退屈ですみませんm(_ _)m

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廟門をくぐり右に曲がると石畳の坂が続きます。

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なお、途中でくの字に曲がったダラダラ坂を進むと…

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最初に見える門が「獅子の門」です。

んんん?何か味気ない門ですが…どこが獅子?実は、この「獅子の門」、次の「龍の門」共に覆い屋で覆われてしまっています。鞘堂(さやどう)とも言いますが、文化財を保護するためでしょうが実に味気ないです。
まず全体像が全く分かりません。覆い屋に入って見上げるか、隙間から覗くかしかない訳ですから…。

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こんな状態ですから…勿体無い!知らない人は、最初からこんなもん(門)か?と思ってしまいます。

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素木造りの簡素な門ですが…。

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まだどこが獅子?です(^_^;)

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中に入って上を見上げると金網が…。

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なるほど…これが?

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何となく獅子のような(^_^;)

この木鼻の獅子の彫刻は、名工「左甚五郎」の作と言われています。出ました!左甚五郎(^_^)v
この門は、切妻造の四脚門で、元禄12年(1699年)の造営と、他の殿舎からおよそ50年遅れて建てられました。禅宗様を基調とし、意匠は簡略化されて装飾も他の建物に比べて少なく、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、棟は金泥で縁取りした黒色釉の織部焼である…。との事ですが、これが全く分かりません。屋根も見えないし、棟(むね)は屋根の頂部なのでこれも見えない。何とかならんのかな?この覆い屋は(^_^;)

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見上げると檜皮葺(ひわだぶき)の軒先がわずかに見えました。

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そして、蟇股には地味な三つ葵の彫刻。

獅子の門をくぐり、直角に左へ曲がった先に見えてきたのが、築地塀に囲まれた「龍の門」です。

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またしても覆い屋か…。やっぱり味気ない!

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屋根の意匠といい、素晴らしい門だと思うんですが…覆い屋があるために何か不自然。

「龍の門」は、廟所正面に開く入母屋造の四脚門で、承応元年(1652年)に造営されました。意匠は禅宗様を基調としており、屋根の装飾は中国風です。

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廟を囲む築地塀(ついじべい)、これも重要文化財です。

この廟全体を囲い込む築地塀(ついじべい)も承応元年(1652年)の造営で、腰を石組みとした土塀で、壁は熨斗(のし)瓦積、屋根は銅瓦葺となっています。さすがに石と瓦の塀には何も覆っていないです(^_^;)
屋根の棟飾りを見ると、何故か中国風の意匠になっています。この廟所は明からの帰化人、陳元贇(ちんげんぴん)が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂(祖先の霊を祭る所)に倣っているためです。

廟域は、周囲に銅瓦葺の土塀を巡らせ、正面中央に正門である「龍の門」を開き、石敷の参道正面に「焼香殿」を、焼香殿の東に「宝蔵」を配し、宝蔵の東には殉死者の墓所を設けています。焼香殿の背後は、一段高い場所の前面石柵の中央に「唐門」を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

設計者の陳元贇(ちんげんぴん)は、鎖国前の元和5年(1619年)明朝末期の動乱を嫌い、長崎居留の明人を頼って30歳代で日本に渡り各地を漂泊。寛永4年(1627年)義直に拝謁し、以来名古屋に留まり、書道・作陶・中国拳法(少林寺系か?)などをこなす多芸多才な人物で、義直に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるいます。呉須(ごす・酸化コバルト)という焼成すると青色に変化する顔料を使って素地に書画を描き、これに白青色の透明な釉薬を掛け還元焔焼成で焼き上げたもので、今も元贇焼(げんぴんやき)とよばれて珍重されています。
この元贇焼を模倣した物が、名古屋城内の御深井丸(おふけまる)の窯場で焼かれた、御深井焼(おふけやき)と呼ばれる物ですが、元贇の作品のような良質のものはほとんどなく、還元焔焼成で呉須の青色を発色させるのは至難の業であり、これを瀬戸で完成させたのは、19世紀になってからで、有田の磁器生産技術を瀬戸に持ち帰った、磁祖と呼ばれる加藤民吉です。
元贇は寛文11年(1671年)84歳で、名古屋城下九十軒町(現在の東区泉三丁目)の自邸で亡くなり、尾張徳川家の菩提寺「建中寺」に葬られました。墓は現在、名古屋市の共同墓地平和公園にあります。

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尾張名所図会にもある「陳元贇 寓居の図」です。名所図会に描かれるほどの有名人の家にしては、あばら家っぽいですが、こういうのを「侘び住まい」と言うのかも(^_^;)

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陳元贇作「安南写(あんなんうつし)染付茶碗」。安南とはベトナムの事で、高台まわりに自筆の銘「陳芝山(元贇の号)造之(これを造る)」とあります。

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同じく陳元贇作「陶製仏像」(名古屋市守山区・大森寺蔵)です。

いつもの事ですが、あちこち話題が飛びながら、やっと「龍の門」に入ります…。

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しかし、この門が「龍の門」と言われても全然分かりません(^_^;)
よく見ても龍らしき物は見あたりませんでした。

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んんん…?どこに龍が?

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獅子の門のように、木鼻にも無いし、組物にも見あたりません…。

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扉には、獅子と唐草牡丹の彫刻。アクリルケースで
保護されています。
ひょっとして、こちらが獅子の門?

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ではなくて、やっぱり「龍の門」らしいです。
この彫刻も左甚五郎の作と伝えられています。

では、どこに龍が…?
実は、天井に狩野元信の龍の絵があるため「龍の門」といわれているらしいのですが、これが全く分かりません(T . T)この門は入母屋造(それも覆い屋があるので外からは分からない)なので、天井があるはずなんですが…。
覆い屋のために暗いからか、それとも見落としたのか?今回はパス!ということで先に進みます(^_^;)

そういえば、前回に和歌山の「長保寺」を一緒に参拝した、仏友のSさんが、近々ここを参拝予定と言っていました。Sさん!元信の龍の絵、確かめて来てくれませんかぁ?お願いしまーすm(_ _)m

ところで、こんなに覆い屋だらけの「源敬公廟」。昔の姿を見たくありませんか? 一枚だけ撮影年代は不詳ですが、戦前の絵葉書がありました!

それが、これです(^_^)v

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凄い!「龍の門」が剥き出し!これを見ると、この門が入母屋造だということがよく分かります。
右奥は次回紹介しますが、これも現在は覆い屋の中にある「焼香殿」です。

なかなかタイトルの『王命によって催さるる事』の話しが出てきませんが、次回に紹介したいと思います。また長くなったらすみませんm(_ _)m

次回に続く…

王命によって催さるる事①

  • 2013/10/06(日) 11:14:09

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

愛知県の瀬戸市といえば、陶磁器、焼きものの通称「瀬戸物(せともの)」の産地として有名な街ですが、この瀬戸市の北東の丘陵山地、岐阜県多治見市との県境にあるのが、徳川御三家筆頭、尾張徳川家藩祖の徳川義直の廟所がある「應夢山 定光寺(おうむざん じょうこうじ)」です。
山肌のすぐ近くを流れる玉野川(庄内川)に沿った崖っぷちに立ち、秘境駅の雰囲気を持つことで有名な、JR中央本線定光寺駅からは徒歩15分〜20分で、名古屋の奥座敷とも言われ、春の桜、秋の紅葉で有名な古刹です。

定光寺は、南北朝時代の建武3年(1336年)の創建で、寺伝によれば、当時鎌倉の建長寺で修業していた覚源禅師が、ここ瀬戸の「水野の郷」を訪れ、座禅や托鉢、開墾をしながら自給自足の生活をしていました。
ある夜、座禅中に仏が岩の間から出てくる不思議な夢を見、弟子と山中を探したところ、夢のとおり、岩の間から仏像が出てきたためこの地に一寺を建立し、夢に応じる山として應夢山、光が定めたとして定光寺と名づけたといわれています。
後に尾張藩主となった徳川義直が生前、この境内や山林を時々訪れ、この地を深く気に入った義直の遺言により、慶安3年(1650年)に義直が没すると、その翌年から3年をかけて源敬公廟(徳川義直廟墓)が造営され、以後、尾張徳川家の菩提寺となりました。

私は、小学校か中学校の時に、遠足でここに来たと思いますが、今回参拝しても当時の記憶は全く残っていませんでした。確かに、小学生や中学生がお寺を見ても面白くないですし…。
しかし、こんなに素晴らしいお寺だったとは、思ってもいませんでした。特に、尾張徳川家にとっては聖地とでもいう場所で、徳川家ゆかりの寺社巡りには外せないお寺ですが、近くて遠い瀬戸市?もっと早く参拝すれば良かったです。

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「尾張名所図会」に描かれた定光寺です。

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参道の入口、こちらも前回の長保寺と同じく鬱蒼としています。

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上の画像と同じアングルで撮られた戦前の絵葉書。
右の大きな石碑は現在はありません。

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定光寺参道・徒歩10分、階段165段となっています(^_^;)

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この石橋は、尾張名所図会で「下馬橋(げばばし)」として描かれている「直入橋(ちょくにゅうばし)」です。

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「直入橋(ちょくにゅうばし)」の案内板です。

「直入橋(ちょくにゅうばし)」は、定光寺の参道入り口の池にかかる橋で、この橋の前で参拝者が馬を下りたことから「下馬橋(げばばし)」ともいわれていました。義直の長男・尾張藩2代藩主の徳川光友(みつとも)が、時の奉行 熊谷政実に命じて架設させた石橋で、承応2年(1653年)2月に着工し、同年5月に完成しました。
橋は全て花崗岩で出来ており、その構造は池の両岸の石積みに、長さ6m以上もある三本の橋桁を渡し、その橋桁に主な橋部を組み合わせています。江戸時代には、池に蓮を植えたり、参道に桜並木をつくるなど、橋とよく調和した風景であったため、定光寺における優れた景勝である「應夢山十境(おうむさんじゅっきょう)」の一つとされていました。

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戦前の絵葉書に見る「直入橋」です。

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同じく戦前の絵葉書。芸妓さんでしょうか?日本髪の女性が写っています。

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直入橋を渡り、鬱蒼とした参道の石段を登って行きます。

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こちらも戦前の絵葉書の参道ですが、周りの樹木も太くて
古刹の雰囲気がよくでています。

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徒歩10分?で、やっと山門が見えてきました。

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戦前の絵葉書の山門です。こちらに写っている樹木も太い!

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現在の山門です。

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臨済宗妙心寺派「應夢山 定光寺」の表札。

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戦前の絵葉書の山門と鐘楼ですが、昔の方がいい雰囲気です。

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山門をくぐると、いよいよ重要文化財の本堂(仏殿)です。

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「無為殿(むいでん)」の扁額は、尾張徳川家20代当主・徳川義知(1911年〜1992年)の筆です。

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国指定重要文化財の札が揚がっています。

定光寺は、火災や地震等の災害のため、創建以来の建物は残っていません。現在の本堂は天文元年(1532年)の焼失後、天文3年(1534年)に再建されたもので、定光寺に残る一番古い建物です。
本堂は桁行五間、梁間五間の正方形で、裳階(もこし)がついているため、二階建てに見えますが、実際は一階建で、昭和12年(1937年)の解体修理の際に、屋根の形を変更し、現在の禅宗様の入母屋造りに復元されました。屋根は厚さ3mmの薄い板を重ねて葺く柿葺き(こけらぶき)で、組物や桟唐戸、本尊が納められている厨子など、典型的な室町時代中期の禅宗様式がみられます。

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で、この戦前の絵葉書ですが、どうも現在と屋根の形が違うようです。昭和12年の解体修理以前の撮影ではないかと思います…。

直入橋、参道、山門などの戦前絵葉書を紹介しましたが、いずれも撮影年代は不詳となっていました。
この本堂の写真を見る限り、明らかに屋根の勾配が現在とは違っていますので、この写真に限っては昭和12年以前の撮影ですね(^-^)v

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こちらも解体修理以前か?屋根の反りが無いように見えますが…?

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この写真は昭和12年の解体修理以降のようです。

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「定光寺寳物」こんな物(失礼!)まで絵葉書になってるんですね…。

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本堂内部、本尊は延命地蔵願王菩薩。他に千体他地蔵などを祀っています。

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境内の「観音堂」、聖観世音菩薩、薬師如来、毘沙門天などを祀っています。

次は、いよいよ徳川義直の廟所「源敬公廟(げんけいこうびょう)」を参拝します。

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「源敬公廟」の案内板です。

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やっぱり簡潔にまとめていますね(^_^;)

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「源敬公廟」の拝観受付と御朱印受け所ですが、誰もいません…。

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廟門、拝観料100円を入れて下さいと書いてありましたが…

御朱印もいただきたかったので(これが本命)庫裡へ廻り、例によって「ピーポーン!」で、「御朱印いただけますでしょうか?」
しばらくお待ち下さい…(良かった!留守じゃなかったぁ!)書いておきますので、参拝の後で寄ってください。で、御朱印料ともで400円を収めて「源敬公廟」へ向かいました。

次回に続きますが、次回は、ここに葬られている徳川義直の事からご紹介します。

南海の龍

  • 2013/10/03(木) 19:01:28

長保寺 (ちょうほうじ)紀州藩主徳川家墓所 ■所在地/和歌山県海南市下津町上689 ■山号/慶徳山(けいとくざん)■宗派/天台宗 ■本尊/釈迦如来 ■創建年/長保2年(1000年)■開基/性空(しょうくう・書写(しょしゃ)上人)・一条天皇(勅願)■国宝/本堂・多宝塔・大門

(参拝日/平成25年8月27日)

今回、会社の同僚(仏友?)と初めて参拝しました。徳川家ゆかりの社寺では外せない、和歌山県の「長保寺(ちょうほうじ)」です。ここ長保寺は海南市の下津町にあり、海岸線に沿って走るJR紀勢本線から2kmほど東の山裾にあります。

寺伝では、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(えんにん・慈覚大師)の弟子の性空(しょうくう)上人によって創建され、年号を取り「長保寺」と号しました。現在の伽藍が整ったのは、ほぼ鎌倉時代から南北朝時代にかけてだといわれています。
寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩初代藩主・徳川頼宣(とくがわ よりのぶ・家康公10男)は、長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めました。境内には、三棟の国宝建築と紀州藩主歴代の墓所があり、藩主の墓所としては日本最大規模で、本堂・塔・大門と揃って国宝に指定されている寺は奈良の法隆寺と長保寺だけだそうです。

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大門前には、紀州葵に国宝!長保寺の立看板。

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流石に立派な案内板です。

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境内の案内図です。山腹には広大な歴代藩主の墓所が。

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国宝の「大門」、南北朝時代の嘉慶2年(1388年)の建造。

この大門は桁行三間、梁間二間の楼門で、両側に金剛力士像があり、入母屋造、本瓦葺で様式は和様を基調とし、禅宗様に大仏様の混じった折衷様式で、和歌山県北部の地域的特色をよく示しているといわれています。

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この金剛力士像は鎌倉時代の弘安9年(1286年)の
造営で、大門よりも古いそうです。

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大門をくぐると参道が見えてきます。しかし、人がいない…。

一緒に参拝した同僚が、ここは何気に国宝が放置状態と言っていましたが、なるほど奈良の法隆寺と比べると、然もありなんといった感じです。
私たちが参拝した時も、全く参拝客はいませんでした(^_^;)

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参道の石段を登ると左手に拝観受付が…。

しか〜し!拝観受付には誰もいませんでした(⌒-⌒; ) おいおい!セキュリティーは大丈夫か?しばらく待っていると、お手洗いだか物置きの様な所に人影が…。
すみません!と声をかけると、ハイハイ…と、お婆ちゃんが。
私たちが「参拝に来たんですが…」「御朱印もいただけますか?」
お婆ちゃん「すみませんねー、暇だったもんで片付けを…」との返事でした(^_^;)

「御朱印は書いておきますので、ゆっくり参拝して下さい」で、拝観料300円と御朱印代300円を払い、「此処って、国宝が三棟、確か法隆寺とここだけなんじゃない?」「国宝の放置プレイか?」などと言いながら、参道をさらに登ります。

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出ました!正面に国宝の本堂。参拝客…、誰もいません(^_^;)

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本堂は鎌倉後期の延慶4年(1311年)の建立です。左に見えているのが護摩堂。

桁行五間、梁間五間、一重入り母屋造、向拝一間、本瓦葺で、和様と唐様を折衷した様式になっています。

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本堂の扁額「世雄殿」となっています。

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左、本堂と右に国宝の多宝塔。間の坂を登ると藩主の墓所になります。

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国宝の多宝塔、鎌倉時代の正平2年(1357年)建立。

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三間多宝塔で本瓦葺、高さ13.4mの純和風様式です。

多宝塔の内部は、四天柱を配し、折上子組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、唐様の須弥壇を置き、大日如来が安置してあります。
以上が大門を含め国宝の三棟ですが、ほんとうに放置プレイ…失礼!何気に観られる、無防備状態の国宝です。

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こちらは、「紀伊国名所圖會(きいのくにめいしょずえ)」(後偏 二之巻 海部郡)に見る長保寺です。

いやあ!こういう、昔の何とか図絵とか古写真、大好きなんです。
あ、今も全然変わってない!。こんなに変わっちゃった!一目で分かるのがいいですよね。私のブログには、しょっちゅう出てきますのでお付き合いくださいm(._.)m
この図絵を見ると、本坊の他に子院(塔頭)が沢山描かれていますが、現在はないようです。江戸時代は紀州徳川家の菩提寺でもあり、いかに隆盛を誇っていた事がよく分かります。

次は、藩主墓所へ向かいましたが、その前に、ここを菩提寺に定めた徳川頼宣について少し(多分…)語ります。

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この人が「南海の龍」と言われた、家康公の10男、徳川頼宣です。

この肖像画は幕末期に描かれた想像画で、徳川御三家の紀州初代藩主にしては珍しく、当時に描かれた正確な肖像画は残っていないそうです。戦国武将の肖像画は、沢山描かれて残っているのに不思議な話です。

徳川頼宣は、家康公の10男として、慶長7年3月7日(1602年4月28日)に伏見城に生まれました。母はお万の方、幼名は長福丸。尊称は南龍公。
2歳にして常陸水戸20万石、5歳で元服し駿府50万石を与えられ、駿府城に入り家康公の許で育てられました。16歳で加藤清正の5女・八十姫と結婚。慶長19年(1614年)、13歳のとき大坂冬の陣で初陣を飾っています。
元和5年(1619年)、18歳で紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となり、和歌山城の改築、城下町の整備、和歌浦の紀州東照宮の造営などを実施。紀州藩の繁栄の基を築きました。
また、地士(郷士)制度を採用し、多数の浪人を召し抱えましたが、これが「由比正雪の乱(慶安の変・1651年)」に頼宣が関与していたとの噂の元にもなりました。

この「慶安の変」というのは、張孔堂(ちょうこうどう)という軍学塾を開いていた高名な軍学者、由井正雪(ゆい しょうせつ)が、関ヶ原の戦いや大坂の陣以来、多数の大名が減封・改易されたことにより、巷に溢れていた多くの浪人たちの不満を利用して、幕政への諫言、浪人救済を目的に江戸を焼討ちし、混乱に乗じて城から出て来た幕閣重臣たちを討ち取り、幕府転覆を計る謀反の計画でしたが、事前に発覚し、計画は失敗しました。
正雪は駿府で自決し、遺品の中から見つかったのが、紀州藩主の頼宣の書状でした。幕府は頼宣が謀反の黒幕ではないかと疑い持ち、江戸城に呼び出し、頼宣の印のある証拠文書(後に偽造と判明?)を前に正雪との関係を詰問しましたが、頼宣は『外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である』と釈明し、疑惑を晴らしたといわれています。

真偽の程は分かりませんが、「南海の龍」と呼ばれ、戦国武将の気風を持ち、甥の将軍家光、兄の尾張藩主・徳川義直の死去後は、徳川一族の長老となっていた頼宣の豪気で激しい性格が、幼い将軍家綱を擁した幕閣には煙たい存在となっていたと思われます。
寛文11年1月10日(1671年2月19日)頼宣は70歳で死去、ここ長保寺へ葬られました。法号は南龍院。

いよいよ藩主代々の墓所へ向かいます。

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墓所入口の廟門です。鬱蒼と樹木が茂っています。

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「初代 頼宣卿」の案内板です。

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廟門を入って最初の廟所が、初代藩主頼宣の墓です。

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大名の石塔では初めて見る砲弾型、卵型?無縫塔の石塔。

この卵型の石塔は、無縫塔(むほうとう)といい、主に僧侶の墓塔として使われるそうで、大名の石塔としては珍しいそうです。

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この石塔には墓碑銘は刻んでないようです。

初代、2代、3代、4代、6代の藩主の石塔には、墓碑銘が刻まれていません。これは戦が起こり、万が一墓が暴かれた時に誰の墓か分からなくするためで、代々の住職しか知らなかったそうです。

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続いて2代藩主、徳川光貞の廟所。こちらも樹木が鬱蒼としています。

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光貞の石塔。こちらは墓碑銘があるようですがよく分かりません。

徳川光貞(とくがわ みつさだ)は、頼宣の長男で紀州藩の2代藩主。家康公は祖父に当たり、水戸藩主・徳川光圀(黄門)とは従兄弟同士で、紀州藩5代藩主から8代将軍となった「暴れん坊将軍」吉宗の父親です。

この他、この廟所には斜面を4段に開いた石垣の上に、歴代藩主の墓石13基と正室の墓石3基が眠っています。
ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓は東京の将軍家の墓地にあります。現在この墓所一帯は、近世大名墓所の代表例として国の史跡に指定されています。
今回は、廟所が広大という事もあり、初代頼宣と2代光貞の墓所だけを参拝しました…。実は、あまりに樹木や草が鬱蒼としているは、参拝客は私達だけだは…で、もうここら辺でいいか?でやめちゃいました(^_^;)
しかし、この鬱蒼とした感じ…。高野山の奥の院を彷彿とさせますね。奥の院へ行かれた方は分かると思いますが、参道だけを歩いていればそんなには感じませんが、いろんな戦国武将の墓を探して脇に踏み込むと、石塔があちこちにゴロゴロ倒れているは、古い鳥居が倒れているは…で、一種異様な雰囲気です(>人<;) ここはそんなに酷くはないですが、一人で参拝はちょっと怖いかも…。

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廟所を降りてきた場所にある「御霊屋(位牌堂)」の玄関。

この位牌堂が霊殿で、寛文7年(1667年)に頼宣により建立されました。間取りは北側に霊室、東側に次の間を設け、南側は西寄り(霊室の裏)に代参部屋、東に続いて霊室と次の間を設けています。
西側の2部屋のうち、北寄りの部屋には厨子一基があり、歴代藩主の位牌を祀っています。

最後に拝観受付で、預けていた御朱印帳をいただきました。結局、最後まで他の参拝客に会うことはありませんでした。
何気にある「国宝」三棟、ゆっくり参拝することはできましたが、やっぱりセキュリティーは???でした(^_^;)

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長保寺でいただいた御朱印、真ん中に本堂「國寶
世雄殿」です。

次回は、同じく徳川御三家で私の地元、尾張徳川家の初代藩主・徳川義直(とくがわ よしなお)の廟所、愛知県瀬戸市にある「応夢山 定光寺(おうむざん じょうこうじ)」をご紹介します。
紀州徳川家と尾張徳川家は、将軍家継承を巡っての熾烈な争い、紀州藩出身の8代将軍吉宗と尾張藩7代藩主の徳川宗春の政策上の激しい対立など、仲の悪さ?で有名ですが、初代藩主同士は家康公の晩年の子供で、年も近いという事もあり、良好な関係であったといわれています。

では次回、また長々と語ると思いますが、興味がある方は読んでください。


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