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暴れん坊将軍は名君か?

  • 2013/10/25(金) 16:41:33

紀州東照宮(きしゅうとうしょうぐう) ■所在地 /和歌山県和歌山市和歌浦西2-1-20 ■御祭神/徳川家康公 徳川頼宣公 ■創建/元和7年(1621年)

(参拝日/平成24年10月21日)

以前の記事に昔の絵葉書画像を追加しました。

前回、次は岡崎市を…と書きましたが、予定変更で一気に和歌山県まで来ました。

なぜ和歌山?ですが、家康公ゆかりの寺社巡りの他に以前から「西国三十三観音霊場」巡りも同時にしており、ここ和歌山市には「西国三十三観音霊場」の内、紀三井寺、粉河寺の二ヶ寺があります。
どうせ和歌山県まで来たんだから(遠い!)この二ヶ寺の他にどこか?と調べてたら、やっぱり東照宮がある!これは外せないわ!ということで、こちらにも参拝させていただきました。

徳川将軍家には、徳川御三家という特別な一門があります。家康公が宗家(将軍家)の後継ぎが絶えた場合に備え宗家存続のためにと、晩年に生まれた男子3人に託したものであると言われています。
徳川義直(9男)の尾張徳川家、徳川頼宣(10男)紀州徳川家、そして徳川頼房(11男)の水戸徳川家の3家ですが、特にこの中から「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」という事になっていたため、尾張家と紀州家の間には将軍職の継承を巡って常に競争意識があったようです。

「暴れん坊将軍」を見ていても紀州出身の8代将軍吉宗(松平健)と尾張の徳川宗春(中尾彬)は、ほんと仲が悪いですからね(笑)
我がふるさとの「徳川宗春」については、また改めて書きたいと思います。(また長くなっちゃうので(^_^;))

ここ紀州東照宮は元和7年(1621年)に徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)により東照大権現を祀る東照社として南海道の総鎮護のため創建されました。現在では徳川頼宣も合祀されています。
社殿の建築様式は伝統的な和様を用い、様々な彫り物で飾り内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し、鍍金の飾金具を施す代表的な江戸時代初期の建造物です。この豪華な社殿により紀州の日光と称され、拝殿・石の間・本殿、唐門、東西瑞垣、楼門、東西回廊が重要文化財に指定されています。

ガーン!( ̄◇ ̄;) ここも重要文化財だって。それに比べて我がふるさと尾張徳川家の…(やめとこ!)

kisyuu001.jpg

駐車場の大看板と立派な葵の御紋の石碑です。

kisyuu002.jpg
石の鳥居の先には鬱蒼とした参道が続きます。

kisyuu003.jpg
撮影年代は不詳ですが大正〜昭和初期の絵葉書。上と同じアングルからの撮影です。

kisyuu004.jpg
いい感じの参道ですが夜はきっと怖いですね…

紀州東照宮020
ヒェー!これ登るんやぁ?

kisyuu005.jpg
って、昔の人も登ってます(^_^;)
夜でもないのになんか亡霊みたいですが…。

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石段から振り返ると眼下に海が!和歌の浦が一望できます。

kisyuu008.jpg
石段を登りきると「楼門」です。急な石段ですので全体が撮りきれません。

kisyuu012.jpg
東照宮にしてはちょっと地味め?な彩色かな?

kisyuu011.jpg
軒下の組物の彩色も割とあっさり気味です。

kisyuu014.jpg
楼門から見た「唐門・拝殿」。バックの森のグリーンと社殿が絶妙な配色ですね!

紀州東照宮007
由緒書きの案内板です。こちらも簡潔にまとめてます(^^;)

kisyuu010.jpg
楼門をくぐると境内です。右の授与所で御朱印がいただけます。

kisyuu017.jpg
3人とも和服を着ているのが時代を感じさせます。

kisyuu015.jpg
正面から見た唐門、拝殿です。今は石段手前に柵があり登れませんが…

kisyuu013.jpg
昔は柵もなく石段を登って参拝できたようです。こちらの参拝客は、スーツか軍服?銅の燈籠も現在の位置とは違っています。

kisyuutourou
現在は唐門正面にあるこちらの燈籠です。

kisyuu016.jpg
「唐門」と「瑞垣(みずがき)」この奥が社殿です。若葉の頃は社殿が
もっと映えるでしょうね…

kisyuu018.jpg
昔は植込み手前の柵もなく開放的です。

kisyuu020.jpg
な、なんと!?拝殿の前まで参拝客が入れたようです。

kisyuu021.jpg
素晴らしい拝殿、さすが東照宮です。

kisyuu022.jpg
拝殿の左甚五郎作と伝わる天女の彫刻。楼門と違い細部まで彫刻されています。

絵葉書用に参拝客を入れているのかも分かりませんが、現代も是非一般公開して欲しいですね。いやぁ!見てみたい!(お願いすれば神職さんが案内していただけるそうですが、多分撮影禁止でしょう(T . T))

ところで「暴れん坊将軍は名君か?」ですが、暴れん坊将軍こと8代将軍「徳川吉宗」といえば質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策。市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの「享保の改革」を実行し、破綻しかけていた幕府財政の復興をしたことから、徳川幕府「中興の祖」と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされています。

その一方では年貢を今までの四公六民(実際には平均2割7分6厘)の負担から、五公五民(5割)の負担にする増税政策を行なった結果、農民の生活は窮乏し百姓一揆の頻発を招き、武士だけでなく庶民にまで倹約を強いたため、経済や文化は停滞したとも言われています。

これに反発したのが尾張の「徳川宗春」で、国元の名古屋では吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図るため、遊郭の設置、吉宗により禁止されていた芝居の復活などで名古屋の町は活気を得て、名古屋城下には全国から1000人を超える遊女たちが集まりました。常設の芝居小屋も57座にのぼり、江戸・上方の役者も流入、芝居興行は387回を数えたといいます。その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほどでした。

しかし、吉宗の改革と異なる華美な振る舞いが幕府の怒りに触れ、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられます。その処分は吉宗の怨念が異常に強かったためか宗春の死後も解かれることがなく、墓石には罪人を示す金網が被せられていました。(これってかなり酷い話ですよね!御三家筆頭の尾張の殿様が、死んでからもこんな目にあうとは。まったく、死者に鞭打つとはこのことやな…)

宗春の名誉が回復されたのは死後なんと75年目の事で、墓石の金網も取り外され、やっと歴代藩主に列せられました。
名古屋生まれの作家、井沢元彦氏は『逆説の日本史』の中で「吉宗は名君である点も多分にあるが、経済に関しては全くの暗君だった」と述べています。
吉宗は名君か?みなさんはどう思いますか…

ドラマの話で何なんですが、「暴れん坊将軍」の中で、新さんが最後に「余の顔を見忘れたか!?」「成敗!」って斬っちゃう悪い奴って、みんな自分が任命した老中、若年寄とかの吉宗の家臣ですよね?
吉宗!お前、人を見る目ないやろ?どこが名君やねん?…といつも思うのは私だけ(笑)

以上、「暴れん坊将軍は名君か?」でした。
でもここの東照宮も良かったです(*^_^*)派手好きの「宗春」さんの名古屋東照宮、何とかしてー!

紀州東照宮G
そんな「暴れん坊将軍」の故郷で「徳川宗春」の故郷から来た
私がいただいた御朱印です。(これは正しく敵同士やな…)
右から、紀州 東照宮 和歌浦 日付です。

こちらの御朱印が他の東照宮とちょっと違っているのは、三つ葵紋と紀州六つ葵紋が並んで押してあることですね。「六つ葵紋」は、デザインは少し違いますが、水戸徳川家でも使用されているようです。

紀州六つ葵
こちらが「紀州六つ葵」の紋です。

次回は、岡崎市へ…

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