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菊と桐と葵と…血?

  • 2013/01/06(日) 00:26:01

養源院(ようげんいん)■所在地/京都府京都市東山区三十三間堂廻り町656 ■山号/南叡山 ■宗派/浄土真宗遣迎院派 ■本尊/阿弥陀如来 ■創建/文禄3年(1594年) ■開基/淀殿、成伯(開山)

(参拝日/平成24年11月1日)

ここ養源院は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室「淀殿(茶々)」が、父「浅井長政(あざいながまさ)」の二十一回忌に菩提を弔うため秀吉に願って創建したお寺です。寺号の「養源院」は、長政の法名から付けられました。
25年後の元和5年(1619年)に落雷にあい、寺院は焼失しましたが、2代将軍徳川秀忠の正室となった「江(法名・崇源院)」によって伏見城の遺構を移して再興されました。
江によって再興された後、後水尾天皇の中宮として入内した秀忠夫妻の娘、和子(まさこ・東福門院)は、准胝堂を宮中安泰の祈願所に、また本堂には秀忠夫妻と兄の3代将軍家光の位牌を安置して将軍家の位牌所に定めました。現在も養源院には徳川歴代将軍の位牌が祀られています。
特に江と秀忠の位牌には「菊」「桐」「葵」の3つの紋が刻まれています。「菊」は和子が嫁いだ天皇家の紋、「桐」は養源院を建立した豊臣家の紋、「葵」はもちろん徳川家を象徴する紋です。
豊臣家と徳川家、徳川家と天皇家との関係の改善を願った和子の切なる気持ちが現れている3つの紋が並ぶ位牌は、日本で唯一ここだけだそうです。

養源院007
こちらが浅井三姉妹の三女「江」です。絶世の美女と言われた信長の妹「お市の方」の娘ですので江も美しかったと言われています…

「江」は浅井長政の三女で、母は織田信長の妹「お市の方」。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長女の「淀殿(茶々)」は豊臣秀吉の側室、次女「初(法名・常高院)」は京極高次の正室です。

この「江」の名前ですが、資料によって「江(ごう)」「小督(おごう)」「江与(えよ)」など様々で、どれが正しいのか分かりませんが、幼名は「督(ごう)」と呼ばれていたようです。「江(ごう)」の字は、生地の近江もしくは江戸に因んでの宛て字の可能性があると言われています。
ちなみに長姉の「淀殿」の本名は「浅井茶々(あざいちゃちゃ)」で、「淀殿・淀君」の名前は秀頼を産むために「淀城」に住んでいた地名からの通称です。

養源院006
こちら養源院は「蓮華王院(三十三間堂)」の東向かいにあります。写真右側が三十三間堂になります。

養源院014
「勅使門」ですが普段は閉ざされています。

養源院005
勅使門と並びの参拝客が入れる「山門」です。右端に怪しげな白い立札が…
「血天井」って何だ?

養源院004
これでした。「桃山御殿 血天井」「宗達筆 杉戸絵」の立札です。
えっ!「血天井」って?←だからぁ、あとの記事を読めば分かります!
またいつもみたいに記事が長いけど(^_^;)

養源院002
参道の先に「本堂」が見えてきます。ん?あれは「葵の御紋」の幔幕では?
「血天井」?気になるんですけど…←あのね、順番があるから( ̄▽ ̄)

養源院玄関
本堂玄関です。やっぱり「葵の御紋」の幔幕!
「血…」←これから見せます( ̄ー ̄) 泣いても知らんぞ!



養源院018
うわあああ!びっくりしたぁ!(>_<) あなた萬福寺さんの…!
もう出番は終わったんじゃ?それに、知らないうちに合体しちゃってるし(*^_^*)

「オーッホッホッホッホッ」
「これからお見せするのはただの『天井』じゃございません。この天井はココロ、人間のココロでございます。
この世は老いも若きも男も女も、ココロのさみしい人ばかり…そんな皆さんのココロのスキマをお埋めいたします。
いいえ、お金は一銭もいただきません。みな様が満足されたら、それが何よりの報酬でございます。」

では、どうぞ!
養源院017
これが「血天井」です!
うわぁぁ!なんか黒いシミがいっぱい!それに足跡みたいなのも付いてるんですけど(@_@。どうしてこんな物が天井に?

それはですね、話は少し長くなりますが…(またですか!短めにお願いします)

豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う家康公は、慶長5年(1600年)、度重なる上洛命令を無視した会津の上杉景勝を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、会津攻めを開始します。
家康公は畿内の守りとして、譜代の家臣である鳥居元忠ら1800名ほどの兵を伏見城に残し、徳川軍主力を率いて大坂から会津に向かいます。

6月16日、家康公は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし
「我は手勢不足のため伏見に残す人数はわずかばかりにて汝には苦労をかける」と述べると
元忠は「いいえ、そうは思いませぬ。天下の無事のためならばこの人数で十分に事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。
もし変事があって敵の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するまでの事。兵をを多くこの城に残すことは無駄と存じます」と返答しました。
家康公はその言葉に涙を流し、今川家の人質だった幼少の頃からの老臣と深夜まで酒を酌んで別れたと伝わります。

畿内に軍事的空白が生まれたことを好機と見た石田三成は、反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、まず手始めに伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城を明け渡すように要求しましたが、家康公に同城の死守を命じられていた元忠はこれを拒絶したため、西軍は4万の大軍で伏見城を包囲し攻撃を開始しました。これが「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「伏見城の戦い」です。

元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、13日間の攻防戦の末に討死し、380人余までに減っていた兵士も「中の御殿」に集まり切腹。ついに伏見城は落城しましたが、元忠の忠節は永く「三河武士の鑑」と称されました。
養源院再興の際にその元忠ら戦死者の菩提を弔うため、多くの兵士の血痕が残った「中の御殿」の血染めの床板を天井に上げ「血天井」としました。
以上が山門前の立札「桃山御殿 血天井」の由来です。

今回もかなり長かったですね(>_<)←そう?「血天井って何?」って何回も聞くから(`_´)

こんな気味の悪い天井板なんか…と思われるでしょうが、ドーン!の人(誰やねん?)が言うように「ココロ、人間のココロでございます」380人余の「三河武士」の忠節の心が染み付いた天井だと思って見てください…合掌。

しか〜し、ドーン!の人が言った「お金は一銭もいただきません。みな様が満足されたら、それが何よりの報酬でございます」とはなかなか参りません。
小さいお寺で拝観は本堂のみですが、拝観料・中学生以上は500円が必要です( ̄▽ ̄)
そのうえ本堂内は一切撮影禁止、「血天井」・「菊・桐・葵」のご位牌も当然撮影禁止。血天井の写真が一枚なのもそのためです。(ん…?)

これからご紹介する、同じく立札に書いてあった「宗達筆 杉戸絵」も撮影禁止なので「絵葉書」からの撮影です。
「俵屋宗達」といえば同じ京都・建仁寺の「風神雷神図屏風」が有名ですが、当時無名だった宗達が認められるきっかけとなった奇抜で斬新な絵を「血天井」の供養のために杉戸に描いています。

養源院011
着色杉戸絵「獅子図」です。

養源院012
着色杉戸絵「波に麒麟図」です。

養源院013
そして着色杉戸絵「白象図」です。

養源院御朱印
こちらがいただいた養源院の御朱印です。書置きでしたので
御朱印帳に糊で貼り付けました(><)

こちらも達筆で読めませんが、右から、奉拝 雨寳殿 養源院です。(葵の御紋の御朱印なし、日付なし)
「雨寳殿(うほうでん)」とは伏見城内にあった豊臣秀吉の学問所「牡丹の間」だそうです。現在は「菊・桐・葵」のご位牌が祀られています。

以上、小さいお寺で拝観料は大きい養源院でした。

喪黒002
「困った方ですなぁ…貴方そんな事をおっしゃると罰が当たりますよ。
いえね、もちろん私は一銭もいただきませんが、京都のお寺で拝観料が
要らない所はございません。ホーッホッホッホッホ…では、私はこれで」

えーッ!あなた、まだいたんですか?次回はもう出て来ないでね(^_^;)

新年早々、お見苦しい物をお見せして大変失礼しましたm(_ _)m
次回も京都が続きます…(ほんとにもう出て来ないだろうな?)

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