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「矢場とん」と柳生新陰流

  • 2013/01/23(水) 23:42:23

清浄寺 (しょうじょうじ・せいじょうじ)■所在地/名古屋市中区大須4-1-32 ■寺号/徳寿山 清浄寺(通称/矢場地蔵) ■宗派/浄土宗鎮西派 ■本尊/木像阿弥陀如来立像 ■創建/元禄13年(1700年)■開基/徳川光友

(参拝日/平成24年11月6日)

今回からは昨年参拝した、名古屋の徳川家ゆかりの寺社を少しご紹介したいと思います。

矢場とん01
いきなりですが「名古屋めし」と言えば、ここ「矢場とん」です。

矢場とん02
名物のみそかつ「わらじかつ」(*^_^*) 美味しそ〜ぉ!

まずは、という事で「矢場とん」を…あ、違う違う!「矢場地蔵」をご紹介するんですが、正式な寺名を「徳寿山 清浄寺(とくじゅざん しょうじょうじ)」と言います。実は私、子供の頃この近くに住んでいたんですが、ここが「清浄寺」だなんて全く知らなかったf^_^;)
今回、御朱印をいただくために参拝して、由緒書きを見てはじめて知りました。
(今頃遅いわ!地図にはちゃんと載ってるし…)
だってみんな子供の頃から、矢場町にあるお地蔵さんで「矢場地蔵」って言ってたからね。親もそう言ってたし( ̄▽ ̄)
それに「しょうじょうじ」なんて子供は舌が回らないと思うけど?
(お、言ったな!「しょ、しょ、しょうじょうじ~♪」の唄知らんのか?小学校で習ったやろ!)
えッ、それって「証城寺の狸囃子」でしょ?ここは「清浄寺」ですけど…
(・・・)
たしか名古屋では習わんかったような?「ぽんぽこ ぽんの ぽん♪」(\(^-^ )お前の頭の中や!)

またまた「綾鷹」してますが…(注)綾鷹=お茶を濁す

名古屋以外の方はご存知ないかと思いますが、栄の交差点から大津通(おおつどおり)を南へ、松坂屋、パルコを過ぎ若宮大通(わかみやおおどおり)との交差点が「矢場町(やばちょう)」です。
「矢場町」、古めかしい名前ですが、江戸時代の始め寛文8年(1668年)「通し矢」で有名な京都の三十三間堂の長廊下を模した矢場がこの地に建てられた事から、この地名が付いています。

交差点を渡ってすぐ、大津通を挟んだ西が「矢場とんビル」で、対面東の路地を入った所が「矢場地蔵」です。
実はここ、思わず通り過ぎちゃう感じの狭い路地。興味がなければ間違いなく素通りでしょう。

矢場地蔵02
ビルとビルに挟まれた路地の奥が「矢場地蔵」です。

矢場地蔵由緒書き
かんたんな由緒書き。昔はここに「小林城」というお城があったんですね。

廃城となった小林城の跡地に住んだのが、尾張徳川家2代藩主・徳川光友(家康公の孫)の兵法指南役で「尾張の麒麟児(きりんじ)」と謳われた、柳生連也斎(やぎゅう れんやさい)こと柳生厳包(やぎゅう としかね)です。 生涯独身を通した連也斎の亡き後、徳川光友により尾張徳川家の祈願所として屋敷跡に建てられたのが清浄寺です。江戸時代は3450坪という広大な敷地の中に建っていました。

矢場地蔵11
右の赤で示してあるのが江戸時代の「清浄寺」です。左に「政秀寺」と「若宮八幡社」が見えますが、この南が現在の若宮大通り(100m通り)で「清浄寺」はこの通りを跨いだ広大な敷地だった事が分かります。
すぐ西、南北の通りが今の大津通りで南には「万松寺」のさらに広大な敷地が広がっています。

矢場地蔵12
これが現在の「清浄寺」の見取図、江戸時代の規模とは違い、まさに路地裏のお地蔵さんという感じです。

十兵衛
柳生連也斎の父親、柳生利厳(兵庫助)の従兄弟がこの人、江戸柳生の天才剣士「柳生十兵衛三厳」です。
と言いながら、また自作フィギュアを出してしまいましたf^_^;)

柳生利厳(やぎゅう としとし)通称、兵庫助は尾張徳川家初代藩主・徳川義直(家康公9男)に30年にわたって兵法指南役として仕えました。
兵庫助、息子の連也斎とも尾張柳生を代表する新陰流の名剣士で、以後尾張柳生家は尾張藩の兵法指南役として明治維新まで仕え、現在も22世が柳生新陰流の後を継いでおられます。(連也斎は初代石舟斎から数えて5世)
江戸柳生の十兵衛、尾張柳生の連也斎、この天才剣士2人がもし闘ったらどっちが勝つのか?実際は一世代近く違うので試合の記録はありませんが、ドラマなどでは必ず千葉ちゃん、いや、十兵衛の勝ちです(^_^;)

矢場地蔵03
突き当たりが本堂になります。

昔はこの参道の脇、上の見取図でいうと庫裏の隣りの「民家」となっているところに「銭湯」があり、子供の頃はよく通った懐かしい場所です。こちらを紹介しておられる方は結構みえますが、銭湯の話は出て来ないので紹介させていただきました。歳はバレますが、うん十年前の話です。誰も知らないだろうな?銭湯の名前も忘れちゃったし、誰か知ってる方がいたら教えてくれませんか?

矢場地蔵07
こちらが本堂ですが、鉄筋なので建物自体は何も見る物はありません。
子供の頃は銭湯にくるのが目的だったので、こちらの本堂がどうだったのかの記憶も全くないです。(多分木造だった様な…)ただ薄暗い参道に今もある提灯がボンヤリ灯っていた事だけは覚えています。

矢場地蔵08
葵の御紋入りのお賽銭箱です。

矢場地蔵06
同じく葵の御紋入りの瓦です。

矢場地蔵05
東門にも葵の御紋、こちらは常時閉まっています。

矢場地蔵10
狭まーい境内の六地蔵、いつからあるのか?

境内には「平成のジャンボ地蔵」なるものがありますが、平成の…なので特に撮影しませんでした。
名古屋の寺院は歴史はあっても、建物は空襲で丸焼けになっていますので、写真で紹介すると非常に残念な結果になってしまいます。こちら「清浄寺 矢場地蔵」も例外ではなく、ご覧いただいた様に歴史のある建物は何も残っていません。もちろん銭湯があった場所も今は喫茶店や飲食店になっています。

矢場地蔵御朱印
しかし、御朱印の墨書きはキッチリとした楷書で書いて
いただきました。(住所入りなところが凄い!)
徳川家ゆかりのお寺ですが葵の御紋は入っていません。

誰でも読めそうなので説明はしませんが、今気づいたけど、ん?日付けがない(T . T)ま、いっか…
ところで、「越中立山地獄谷より出現」って何だ!?

矢場地蔵と人々から信仰をうける地蔵尊は、もともとは立山の山深い岩窟の中に鎮座していました。
立山に籠り修行をしていたある行者が、霊夢によりこの像を見つけ、笈に地蔵尊を納め、諸国をめぐり歩いてこの土地にたどり着きました。この地に祀られた地蔵尊を土地の人々がお参りしたところ、地蔵尊の霊験はあらたかで、病気などはたちまち平癒したといわれています。

これが、御朱印に赤字で書いていただいた「越中立山地獄谷より出現」の謂われです。

以上、お寺の記事より柳生新陰流の記事の方が多かった、「矢場とん」と柳生新陰流でした。
(ふーん、柳生新陰流は分かったけど、矢場とんは何か関係あるの?)
あ、それはですね、ここは「しょ、しょ、清浄寺♪」より「とんとこ とんの 矢場とん♪」の方が有名だから(^_^;)
(・・・)
(そんな唄ないし!次回は綾鷹したりしないだろうな?)
旦那、旦那!ちょっとこっちへ…
(何だよいきなり、お地蔵さんの路地へ連れ込んで何か用?)
ここだけの話しですがね、いい写真があるんですよ。見たい?
(見たい、見たい!)
次回をお楽しみに(^_^)v
(何だ、次回かよ( ̄▽ ̄))

次回はこの近くの大須「七寺(ななつでら)」を紹介します。

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