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観音さんとへび女

  • 2013/01/28(月) 09:40:29

大須観音(おおすかんのん) ■所在地/愛知県名古屋市中区大須2-21-47 ■正式名/北野山 真福寺 寶生院(しんぷくじ ほうしょういん)■宗派/真言宗智山派 ■本尊/聖観音 ■創建年/元弘3年(1333年)■開基/能信上人

(参拝日/平成24年11月6日)

大須観音07

ここ大須観音は正式名称を「北野山 真福寺 寶生院(きたのさん しんぷくじ ほうしょういん)」といいます。

元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が美濃国 大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として能信上人(のうしんしょうにん)が創建した真福寺が当寺の始まりです。
その後、慶長17年(1612年)には名古屋の城下町建設に伴い、家康公の命令で成瀬正茂(犬山城主)によって現在地に移転しました。真福寺のあった場所が木曽三川の中洲であったため水害も多く、日本最古の『古事記』の写本等の貴重書を多数所蔵する「真福寺文庫」を持つ当寺が、洪水で流されるのを恐れたためといわれています。

以後、徳川家の庇護を受け、享保16年(1730年)尾張7代藩主・徳川宗春の時代には、将軍吉宗の質素倹約令に対抗し江戸や大坂から芸人を集め、境内に芝居小屋や見世物小屋、寄席を建てさせました。
宗春も自ら芝居や寄席に出かけたといわれます。見物客目あての飲食店も多く出来、宗春は遊廓まで開かせたため大須の街は一気に発展しました。
しかし、宗春が失脚した元文4年(1739年)、遊廓はもとより芝居も禁止。芝居はそれでも黙認されましたが、遊廓は全面的に廃止されました。以後、大須に遊廓が登場するのは明治に入ってからです。
芝居は禁止されましたが、見世物は対象にならなかったため、軽口咄(落語)・釣り人形・講釈・鳥の鳴き声の物まね・独楽回し・曲馬・影絵など、多種多様の見世物が行われ大いに賑わいました。

そういえば、自分の子供の頃にも境内には小屋掛けの見世物が出ていました(*^^*) 小学校が近かったので学校帰りによく立ち寄りましたが、「へび女」や「牛女」、「ろくろ首」の看板が出てたのを覚えています。

旦那、そろそろいい写真見たいですか?
(勿体ぶるなぁ…早く見せればぁ!)

大須観音22
これだ!「へび女」、かなりシュールです。まるで金田一耕助の世界
ですね。
(うわっ!いくら今年は巳年でもこれは( ̄▽ ̄))

「ハイ坊ちゃんからお爺ちゃん、お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで、さぁさぁ寄ってらっしゃい!見てらっしゃい。世界の話題、医学の謎、愛知県は霊将山のはるか奥地で見つけましたこのお姉さん、クレオパトラか楊貴妃か、どなたが御覧になっても凄い美女。ところがこのお姉さんに蛇をあてがいますと、何が嬉しいのかニコリニコリと笑い出し、両手につかんだその蛇を口から鼻へ、鼻から口へと何の苦もなくスルリスルリと通してしまいます…ハイ!場内大変混雑してまいりました。ハイハイハイハイ!前の方から御順にお入り下さい。一度見ておけば、孫の代までの語り草…」(って、このお姉さん全然笑ってないし(*^^*))

(口上はいいけどさぁ、本物見たの?)
「へび女」一度見たかったんですが、もちろん入場料を払うお金なんか持っていないので、見るのはいつも「ガマの油売り」でした。
(なあーんだ…見てないのに記事にすんなよ!)
でも「ガマの油売り」は見たもんね!お金要らないし(^_^)v
刀を差したおじさんが地面に◯を書いて「サァーて、お立会い!、御用とお急ぎで無い方はゆっくりと聞いておいで、見ておいで、こらこら!ぼうず、この◯の中に入ってはいかん!手前ここに取り出したるは…」ってやつです。
最後に自分の腕を刀で斬って、ガマの油を塗って血止めをした油を売るんですが、何故か最後まで見た記憶がない。
(何だよ、これも見てないのかよ!中途半端なやつ…)
多分途中で「子供は邪魔だ、帰れ!帰れ!」って帰されたんじゃないかと?どうせ子供は、ガマの油なんか買わないしねf^_^;)
(へーっ!実は怖かったんじゃないの?かなりの怖がりだとか…)
「・・・」

文化12年(1815年)には五重塔も建立されましたが、明治25年(1892年)3月21日の大須の大火(芝居小屋 宝生座より失火)で本堂、五重塔と仁王門を焼失、第二次世界大戦の名古屋大空襲による2度目の焼失後、昭和45年(1970年)に本堂を再建し、現在に至っています。
戦災を免れた「真福寺文庫(大須文庫) 」には15,000冊の古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本、大須本と言われ、国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として南北朝時代(1371年〜1372年頃)に写された現存最古の写本です。

大須観音05
なんか小汚いですが、国宝の『古事記』写本です。

大須観音06
五重塔が描かれた江戸時代後期「尾張名所図会」の大須「真福寺」
です。創建時の本堂は東向きでした。(現在は南向き)

明治大須観音03
明治初年の大須観音ですが、手前は畑か?

明治大須観音02
同じく明治初年の本堂です。

大須観音03
明治14年頃撮影の着色写真。本堂、五重塔、塔の奥が書院です。
後方、森の向こうには名古屋城が見えています。

大須観音04
上の写真のアップ。立派な五重塔ですね。
左後方の名古屋城もよく分かります。

戦前大須観音01
戦前大須観音02
大須観音21
いずれも明治25年(1892年)大須の大火後、再建の本堂です。
この本堂は昭和20年の名古屋大空襲で焼失しました。

大須観音02
昭和45年(1970年)三度目再建の現在の「本堂」。

大須観音09
大須観音10
いずれも昭和初期の「大須観音門前通り(今の仁王門通り)」です。
戦前は映画館や劇場、寄席が建ち並び大いに賑わいました。

大須観音15
戦後の区画整理で若干変わりましたが、上の写真とほぼ同じ場所の現在の「大須仁王門通り」、通りでは戦前からある鰻の老舗店「やっこ」が現在も営業しています。

大須観音16
現在大須にある寄席はこの一軒だけです。「大須演芸場」、もう何十年も赤字、赤字(客はいつも数人)と言われながら現在も営業しているのは奇跡!

大須は昔から名古屋一の歓楽街で、尾張7代藩主・徳川宗春の時代には大須観音の北に「北野新地」と言われた遊廓がありましたが、宗春失脚と同時に廃止。
明治初年に「堂裏(現在の西大須)」に新しく「旭遊廓(あさひゆうかく)」が作られました。当時の観音さんは本堂が東向きに建てられていたため、現在の西大須辺りは「堂裏」と呼ばれていました。
大須一帯は戦後、伏見通り(国道19号)により東西に分断され、戦前とはすっかり町の様相は変わっています。伏見通りの開通とともに、堂裏にあった十軒余の遊廓、置屋も今は通りの下に消えてしまっています。

大須観音19
明治初年の「旭遊廓」の地図。中央のグレーの帯が今の伏見通り。
旧遊廓街は、戦後新しく出来た伏見通りにより、観音さんの裏辺りで
東西に分断されてしまいました。

大須観音17
大正時代の花園町(上の地図、観音さん北の東西の通り)の遊廓街
です。この通りは現在も花園通りとして残っています。

大須観音25
当時の「花魁道中(おいらんどうちゅう)」の様子。(中日新聞社蔵)

大須観音24
同じく「花魁(おいらん)」と「禿(かむろ)」
(中日新聞社蔵)
かなり美人ですね〜

上の写真の花魁に付き添っている2人の女の子「禿」ですが、「禿(はげ)」ではありませんf^_^;)
(えー!でも同じ字やん!)
同じ字ですが、禿(かむろ、かぶろ)は遊女見習いの幼女のことです。遊廓に住み込む幼女のことを「かむろ」と呼びました。7 〜 8歳頃に遊廓に売られてきた女の子や、遊女の産んだ娘です。最上級の太夫や、花魁と呼ばれた高級遊女の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学びました。禿の年齢を過ぎると「新造(しんぞ)」となって、遊女見習いの後期段階に入っていきます。
京都の島原遊廓では、芸妓(げいこ)に付き添う幼女も禿と呼ばれていました。本来はおかっぱの髪型からつけられた名前ですが時代と共に髪を結うようになってからも、遊廓に住み込む幼女のことを総称して「かむろ」と呼んでいました。
どちらにしても悲しい運命の女の子たちです(>_<)

明治45年(1912年)になり、名古屋市の都市拡大が進み、風紀上の問題と遊廓の発展(明治のピークは席貸茶屋173軒、娼妓1,618名)で手狭になってきたことから旭遊廓の移転問題が浮上し、大正12年に「愛知郡中村(現在の名古屋市中村区大門辺り)」へ「中村遊廓」として集団移転しました。

大須観音23
昭和39年頃、伏見通りを背に東向きに立つ大須観音仮本堂と仁王門。その後、昭和45年に現在の南向きで再建されました。伏見通り反対側が遊廓があった辺り。(名古屋都市センター蔵)

大須観音13

以上、大須の街の賑わいと悲しい歴史を見てきた「大須観音」でした。

大須観音御朱印
こちらがいただいた御朱印です。
右から、奉拝 स(sa)サ(聖観音の梵字)大悲殿 日付 大須観音 です。

次回は、同じ大須の織田信長と家康公ゆかりの「万松寺」を紹介します。

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