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松平忠吉の院号は?

  • 2013/02/09(土) 08:08:25

大光院 (だいこういん) ■所在地/名古屋市中区大須2-7-25 ■正式名/興國山 大光院(こうこくさん だいこういん)■宗派/曹洞宗 ■本尊/木像釈迦牟尼仏坐像 ■創建年/慶長8年(1603年)■開基/松平忠吉 ■開山/明嶺理察和尚

(参拝日/平成24年11月6日)

ここ大光院は、慶長8年(1603年)松平忠吉(まつだいら ただよし・家康公4男)が崇敬していた明嶺理察(みょうれいりさつ)和尚を開山とし、清洲に清善寺(せいぜんじ)として創建したのが始まりです。
忠吉亡き後、その法名をとり大光院と改め、慶長15年(1610年)の「清洲越し(清洲の町ごと名古屋に引越し)」でこの地に移されました。
文化5年(1808年)には、「鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)像」を祀る「明王殿」が建立されました。
鳥瑟沙摩明王は、『不浄を転じて、清浄にする徳を有すもの』つまり、世の中一切のけがれや悪を清める力を持つ仏様で、下半身の病にご利益があるとされています。
特に女性の下半身の病を除くと信じられたことから「女の仏様」ともいわれ、この近くに「北野新地」という遊郭があった当時(大須観音の記事を見て下さい)から、そこで働く女性達の厚い信仰を受け、毎月28日の縁日は大変な賑わいでした。以来、「明王さん(みょうおんさん)」と呼ばれて今も親しまれています。

大光院04
「尾張名所図会」に描かれた江戸時代の「大光院」です。

栄交差点から大津通りを南に行くと「赤門」交差点があります。第一アメ横の北、東西の筋が「赤門通り」です。この筋を西へおよそ400mで大光院の山門が見えてきます。
江戸時代の大光院は広大で、境内の真ん中に大きな二天門(仁王門)があり、この門が赤く塗られていたため大光院門前への道は「赤門通り」と呼ばれるようになりました。 

昭和初期赤門通り
こちらは昭和初期の「赤門通り」、この通りの先が「大光院」です。
右側の建物が今も同じ場所にある名古屋最初の公設市場「中公設市場」です。

大光院05
現在の「赤門」交差点です。

大光院07
今の「赤門通り」、右のビルが「中公設市場」
昭和初期の写真と同じ場所から撮ってみました。

大光院01
こちらが現在の「赤門」、大光院の山門です。
 
この山門は、戦災(1945年3月)で失われるまでは楼上に十六羅漢木座像、楼下に仁王木像を配していた朱塗りの「二天門(仁王門)」で、「大須赤門」と呼ばれていました。現在の山門は昭和41年に建立されたコンクリート造りです。

(ところで、今回はいい写真はないの?赤門通りの写真だけ?)
んんん…実は大光院の古い写真って、探したんですけどないんですよね(^_^;)
今の建物もコンクリート造りだし、写真を撮ってもまったく面白くないでしょ?

大光院02
山門をくぐってもこんなんだし…

大光院08
これが鳥瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀る
「明王殿」ですが…

一応、徳川家ゆかりのお寺ということで、瓦に葵の御紋は入ってるんですが、それだけだし( ̄▽ ̄) 写真は以上です。

私が子供の頃の「明王さん」はこんなんじゃなかったような…
当時は境内も今みたいに整備されてなくて、ゴチャゴチャ(萬松寺の様な)してて、何体ものお地蔵さんが所狭しと置いてあったし、自然に生えてきた木が生い茂って何か猥雑な感じでした。今回、何十年ぶりに参拝したら、別のお寺に来たかのように綺麗に整備されてました。どうも数年前に「昭和32年の建物が老朽化したため」と、4階建ての鉄筋コンクリート造りで建て替えられた様です。
以前境内だった土地の半分ほどは24時間営業の駐車場に変わってるし、何にもありがたみのない無味乾燥の境内になっていました。以前はモウモウと焚かれていた明王殿前の大きな香炉も今は寂しそうです。私がお参りした時も参拝客は誰もいませんでした(>人<;)

何でもかんでも新しくすれば良いってもんじゃないですよね。いくら古い本堂でも地域に溶け込んだ風景ってあると思いませんか?これならまだ萬松寺の方がマシだな(ーー;)
(オイオイ!さっきは万松寺の悪口言ってたやん)
まあ、五十歩百歩、目◯そ鼻◯そということで( ̄▽ ̄)
(ところで、タイトルの松平忠吉の院号って?)
あ、ちょっと長くなってもいい?
(またぁ〜!もう写真もないからいいけど短めに)

ハーイ!
松平忠吉(まつだいら ただよし)は、天正8年(1580年)家康公の4男として浜松城で生まれました。2代将軍秀忠の同母弟(年子とも)です。翌天正9年、わずか1歳で松平一族の東条松平家を継ぎ、三河東条城1万石の領主になります。
天正10年に駿河沼津城主で4万石。文禄元年(1592年)に元服し武蔵忍(おし)城主となり10万石を与えられます。この年、徳川四天王の一人、井伊直政の長女を正室に迎え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは義父の井伊直政の後見の下、福島正則と先陣を争い、福島正則の陣を抜けて西軍へ攻めかかり、決戦の口火を切りました。
21歳の初陣で力戦し、島津豊久を討ち取るなどの戦功を挙げ、戦後の行賞で尾張清洲藩52万石を与えられます。これにより忠吉が尾張徳川家の始祖となるわけです。
しかし、慶長9年頃より病に悩み(関ヶ原の戦いで受けた傷が原因とも)慶長12年3月5日(1607年)28歳の若さで江戸において病没、増上寺に葬られました。同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれています。
忠吉には後継ぎがなく、清洲藩は弟の五郎太(徳川義直・家康公9男)が継ぐことになります。後に義直は「清洲越し」で名古屋に移り尾張藩62万石を与えられ、義直が尾張徳川家の藩祖になります。

(いやぁー!長かったな( ̄◇ ̄;) ところで、院号がどうとかこうとかは?)
これからです(^_^;)
この松平忠吉の戒名・法名なんですが、「広度院殿憲瑩玄伯大居士」と「性高院殿憲瑩玄白大居士」と二つあってどこにも「大光院」ってないんですよね(ーー;)
確かこちらの由緒には『忠吉亡き後、その法名をとり清善寺を大光院と改め』ってなってるんですが…大光院がどこからか出て来た名前なのか、調べてもサッパリ分かんないです。
同じ名古屋市内の千種区に「性高院(しょうこういん)」というお寺がありますが、ここには忠吉のお墓もあって寺名も法名の「性高院…」からとってるのは名前から明らかですが、大光院はどこから?どうも細かい事が気になって…
(そんなに気になるならお寺で聞いたら?)
うーん、別にそこまでしなくても…どっちでもいいし(^_^;)
(何だよ、どうでもいいのかよ\(^-^ ) )
しかし、謎だ…どなたかご存知の方はご一報を!

大光院御朱印
そんな大光院でいただいた御朱印です。書置きでした
ので御朱印帳に糊で貼りました( ̄◇ ̄;)
右から、奉拝 明王殿 興國山大光院 です。

次回はリベンジした「日吉東照宮」を紹介します。今回はアウトか?セーフか?

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