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厭離穢土 欣求浄土

  • 2012/12/12(水) 14:01:17

大樹寺(だいじゅじ・だいじゅうじ) ■所在地/愛知県岡崎市鴨田町広元5-1 ■宗派/浄土宗西山(せいざん)派 ■本尊/一光千体阿弥陀如来、如意輪観世音菩薩 ■創建年/天文4年(1535年) ■開基/松平親忠 ■正式名/成道山 松安院 大樹寺

(参拝日/平成24年10月8日)

時代劇(最近少ない!)などで戦国武将の旗印を見た事があると思います。例えば真田幸村だと有名な「六連銭(六文銭)」、これは三途の川の渡し銭が六文との由来から、いつでも死地に赴く覚悟から真田家の旗印にしたといわれています。武田信玄といえば「風林火山」。上杉謙信の「毘」の旗は、謙信が戦の神である毘沙門天の生まれ変わりだと信じていたため、毘沙門天の「毘」の一字を取って旗印にしたものです。
織田信長の旗印は「永楽銭」、楽市楽座で経済を活性化させようとした信長らしい奇抜な旗です。信長は刀の鍔にも永楽通宝の図柄を彫らせています。銭の図柄の旗印などはあまり例がなく、まるで商人のようだと陰口をいう者もあったそうです。

家康公は、「三つ葵」の旗印と「五」の旗(これは使番の旗)、それと「金扇」の馬印ですが、これはかなり大きくてこの馬印が戦場に上がると何処にいてもかなり目立ったそうです。(敵に狙われやすい)
これらの旗印より大事にされていた旗が「厭離穢土 欣求浄土」です。
何て読むの?どう言う意味?ですが、「おんり(えんり)えど ごんぐじょうど」と読みます。
意味は、苦悩の多い穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こ)い願う。と言う意味で、平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した「往生要集」の中の言葉です。

ここ大樹寺は、家康公が何故この言葉を一生の座右の銘にし、自分の旗印にまでして戦国乱世を戦ったのかが良く分かるお寺です。家康公の出発点にもなった重要な場所でもあるんですね。

画像 108
本堂の中には「厭離穢土 欣求浄土」が掲げてあります。浄土宗の
お寺には多いです。

松平元康(後の家康公)は、桶狭間の戦いの時、当時は今川家の人質であり、今川軍の先陣として大高城(合戦の最前線)にいました。今川義元討死の後、織田信長軍の中に取り残された家康公は先祖の菩提寺であるこの寺へと逃げ隠れました。
家康公は前途を悲観し松平家先祖八代の墓前で自害をしようとしたところ、当時の13代住職の登誉上人が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、次のように言って切腹を思いとどまらせたといわれます。

「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す事ができる。それがあなたの役目だ。」

上人は、「ここで命は粗末にしてはいけない。」と諭され、この言葉を白い布に大書され旗を作られて、こう問われたそうです。「あなたは、若いころから戦場に向かっているが、その心はただ敵を殺すことにあるのか?」と…
そこから幾つかの問答を経て、上人は「万民のために天下の父母となって、万民の苦しみを無くすことをしていかなければならない。」と説かれたそうです。
家康公はこの言葉に深く感動され、以来「厭離穢土 欣求浄土」を旗印として掲げ続けられたとの事です。
後に天下を統一し、以来260年平和が続くことになる江戸幕府を開くきっかけを作った大事な場所が、ここ大樹寺なんですね。そう考えるとここは凄いお寺です!

画像 104
山門ですがかなり大きくて立派です。岡崎市有数の古刹。

画像 105
境内から山門を通して総門を見る。ここに秘密が…

画像 191
山門外から総門を見ると…門の中の彼方に何かが、分かりますか?

岡崎城 が見えるんです!門を通して小さくですが(笑)。現在は、山門と総門の間は道路を挟んで大樹寺小学校があります。
岡崎城は家康公が生まれたお城です。大樹寺は、本堂・山門・総門から岡崎城が眺望出来る様に建てられており、ビスタラインと呼ばれ、今でもこの直線状にマンション等の高層建築物を建てることができない条例があるそうです。
岡崎の人たちは今でも家康公を尊敬し、愛しているんですね。
写真では分かりにくいですが、晴れた日にはクッキリ!岡崎城が眺望できますよ。

画像 107
多宝塔 天文4年(1535年)建立の重要文化財です。

画像 111
本堂です。本堂へ上がると大樹寺と家康公の由来をテープで聞かせて
いただけます。

画像 194
松平八代墓の案内板です。

画像 198
一番左が家康公のお墓(松平八代には含まれない)、以下、広忠・清康…初代親氏

ここにも家康公のお墓が…???遺言では「位牌は三河の大樹寺へ」位牌だけじゃないの?で、謎は深まるばかり(笑)

画像 197
謎の家康公のお墓です。立派なお墓!

画像 199
松平広忠(家康公の父)のお墓です。

画像 200
松平清康(家康公の祖父)のお墓です。

家康公の祖父、松平清康は三河松平氏の第7代当主で大変傑出した人物だったそうです。彼の代で三河をほぼ統一、尾張の織田領まで攻め込んだ矢先に25歳の若さで家臣に斬られ(原因不明)、不慮の死を遂げてしまいます。
清康が長生きしていれば戦国史は多分変っていたかもしれませんね。
家康公の父、松平広忠も悲運な武将で、父清康が殺害された時はわずか10歳でしたが大叔父に岡崎城を追われ、伊勢、遠江、三河を流浪。のち今川義元の後援を受け、ようやく岡崎に帰れましたが、父の頃の勢いは既になく織田、今川にはさまれた弱小大名となってしまいました。
織田方に取られた領地を取り戻すためには今川の力を借りる他になく、幼い家康公を人質に出し(途中で織田方に取られてしまう)悪戦苦闘中に広忠も家臣に刺殺されて(こちらも原因不明)しまいます。広忠も25歳の若さだったといわれています。何か呪われているような家系ですね…

祖父、父ともに家臣に殺され、その際に使われた刀が「名刀村正」だったそうで、以後、村正の刀は徳川家に災いをもたらした不吉な刀「妖刀村正」と呼ばれ、徳川家は村正を忌避するようになった…
これは歴史好きな人なら有名なお話のようですが、実は家康公は村正の刀が好きで何振か愛蔵していたらしいですよ(笑)んんん…本当かな?

このお寺は、松平氏、徳川氏の菩提寺で特に将軍家の崇拝も厚かったため、江戸幕府歴代将軍の位牌が安置されています(位牌は三河の大樹寺に…ですから)。
位牌堂で拝観料を払えば拝見させていただけますが、ある謎が…??
とにかく大きい位牌で、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じ等身大という説があるんですが、歴代将軍の位牌の中で特に小さな位牌が二つ、五代綱吉125cmと七代家継135cm。家継は7歳で亡くなっているので小さいのは納得。ただ7歳で135cmは大き過ぎますが、綱吉の125cmはどうして??当時の日本人の平均身長は150〜160cm前後にしても綱吉の位牌の小ささは…
因みに家康公の位牌の高さは156cm、東京の将軍家菩提寺 芝増上寺の墓地改葬で6人の将軍の遺骨から割り出した推定身長と位牌との誤差は2cm前後だったとの事です。この事から五代将軍綱吉は低身長症だったのでは…の説を発表している方もいます。もちろん俗説に過ぎないとの説もありますが…
俗説にしても綱吉の位牌の小ささをどう説明したらいいのか?何故小さく作る必要があるのか?ただの嫌がらせなのか?こちらの謎も深まるばかり…

興味のある方はぜひ大樹寺を参拝して位牌堂でご覧ください。
あ、位牌の写真はありません(><)撮影禁止のうえに監視カメラが至る所に…

最後に大樹寺で戴いた御朱印です。
大樹寺G
右から、奉拝・日付 厭離穢土 欣求浄土 三河・大樹寺です。

中央上に「葵の御紋」 これ、これ、これですよ!!久能山で購入した御朱印帳にはじめての葵の御紋。

次回は、愛知県の鳳来寺東照宮をご紹介したいと思います。
 

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