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今鳴るは 芝か上野か 浅草か

  • 2013/02/17(日) 10:49:22

増上寺②(ぞうじょうじ)

(参拝日/平成25年2月6日)

kawasehasui
大正14年作、川瀬巴水「芝増上寺」

増上寺の続きです。
前回も紹介しましたが、ここ増上寺は「北御霊屋」「南御霊屋」を含め下の図のように広大な寺域を誇っていました。「北御霊屋」は約36,000平米、「南御霊屋」は約17,000平米あったといわれています。
今回は、明治から昭和初期に撮影された写真を紹介しながら、当時の姿を見ていきたいと思います。

増上寺鳥瞰図02
こちらは前回も紹介した明治時代の増上寺境内全図です。図の左端に「大門(だいもん)」が見えます。

増上寺大門
明治時代の「大門」です。先には「三解脱門」が見えています。

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現在の「大門」です。

増上寺鳥瞰図04
境内図を拡大してみました。

sangedatumon02
上の図に描かれた当時に撮影された「三解脱門」です。

hondou01
同じく「本堂」です。

増上寺鳥瞰図07
次に「北御霊屋」を拡大してみました。右方向が北になります。

「北御霊屋」で現在の場所に残っている建物は、境内図下に見える「御成門(おなりもん)」と、有章院(7代将軍家継)霊廟の「二天門」のみです。この場所は現在東京プリンスホテルの所有地になっています。
「御成門」「二天門」と続けて紹介していきます。

meijionarimon
明治時代撮影と思われる「御成門」、奥が境内に
なります。

御成門02
こちらは境内から撮影された「御成門」、人力車が写っています。

増上寺043
現在の「御成門」です。御成門は将軍が参拝する時に使用された門で、もとは増上寺の裏門だったそうです。城門によくある「高麗門」形式になっています。

増上寺041
有章院(7代将軍 家継)霊廟の「二天門」です。

増上寺042
かなり痛みが激しいですが創建時の貴重な遺構です。

現在はプリンスホテル駐車場の片隅にあって、あまり見る人もいません。重要文化財ですが、このまま放って置いたら朽ちていきそうです(T ^ T)
現在は増上寺の所有ではないので、勝手に修復は出来ないと思いますが、オイ!西武グループ、金持ちなんだから修復くらいしてくれ(>人<;)

気を取り直して、次は御成門から境内に入ってみましょう。って、バーチャルですがσ(^_^;)

文昭院門前
7代将軍 家継廟(何とか院って分かりにくいのでこれでいきます)の前に来ました。

広角撮影になっているとはいえ、メチャクチャ広い境内ですね!(◎_◎;)
右の影になっている門が先ほどの「二天門」、左に見えている門が「勅額門」です。

有章院勅額門
こちらが「勅額門」ですが、凄い!まるで日光東照宮です。

「勅額門」とは天皇直筆の額を賜った門ということです。屋根は銅板葺で軒唐破風、側面は千鳥破風の四脚唐門で、柱には昇り龍、下り龍の彫刻が絡まっています。透塀の奥、右には鐘楼、左奥には拝殿の屋根が見えています。門の両側の透塀は境内図のように拝殿前庭を囲み、拝殿唐門の左右廊に接続しており全長は107間(約190m)ありました。

ところで、ここに祀られていた有章院こと、7代将軍の家継は、わずか3歳で将軍職を継ぎ8歳で亡くなりました。まさにお子様将軍でしたが、そのお子様の霊廟がこの規模!って…時の将軍家の財力と権力には驚くばかりです。
しかし、その後は幕府の財政難と、次代の暴れん坊将軍(8代将軍吉宗)の質素倹約令もあり、御霊屋の建立は禁止されました。そのため、以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀される事になり、宝塔は作られましたが霊廟建築としてはお子様将軍が最後となりました。

有章院勅額門02
明治期撮影の着色写真ですが、勅額門を入って鐘楼を見たところです。

この写真、上手く着色されています。もとの写真が鮮明に撮れていたのもよく分かります。別にわざわざ着色しなくても?と思いますが、当時の人はカラーで見たかったんでしょうね(^_^;)
しかし、柱の龍の彫刻が凄い!鐘楼もこれと同じ物が日光東照宮にもあるし、ここが日光東照宮と並び称された事がよく分かります。もし戦災で焼失しなかったら増上寺も世界遺産登録か?

文昭院霊廟中門001
拝殿側から「中門」を通して「勅額門」を見ています。

次からは、お子様将軍の父親で6代将軍家宣(いえのぶ)霊廟を紹介していきます。

bunsyouintyokugakumon
こちらは、6代将軍家宣(いえのぶ)霊廟の「勅額門」です。こちらも凄い!

6代将軍家宣(いえのぶ)の霊廟は、お子様将軍の霊廟の南に親子並んで建てられていました。 といっても当然こちらが先に建てられています。これだけの物を建てたあと、すぐにまた7代将軍の霊廟を建てた事になります。まるでマンションの建築ラッシュ並みです。

今でいえば、何とかハイツI・II みたいなものですね(*^^*)
(オイオイ!そのたとえはないやろ?)
でも分かりやすいでしょ(^_^;)
(まあね、でも御霊屋だからな…)

文昭院霊廟勅額門002
上の「勅額門」を内側から撮影しています。本柱と前柱の間には鳳凰の彫刻が施されています。

文昭院霊廟勅額門001
彫刻の豪華さがよく分かります。現在残っていないのが惜しい(>_<)

文昭院霊廟水盤舎001
勅額門をくぐった左手にある「水盤舎」です。

bunsyouintyumon
同じく勅額門をくぐった正面の拝殿「中門」。

zojyoji003.jpg
上の写真、中門左右廊の内側になります。「北御霊屋」の境内図、6代家宣廟「中門・廊」の部分です。

文昭院霊廟仕切門
本殿の西、奥院(墓所)への入口にある「仕切門」です。

zojyoji001.jpg
石段を登った先にある奥院宝塔前の「中門」ですが、扉が開いて家宣の宝塔が見えています。

この中門は戦災を免れたため、現在の徳川将軍家霊廟入口の「鋳抜門(いぬきもん)」に転用されています。

増上寺023
こちらが前回も紹介した、転用された「鋳抜門(いぬきもん)」です。上の写真と同じ門だということがよく分かります。

奥院は3区画に分かれ、左(南)の区画に6代家宣、中央に12代家慶、右に14代家茂と静寛院宮(和宮)の宝塔がありました。

続いて、2代将軍秀忠と正室の江(ごう)の霊廟のある「南御霊屋」を紹介します。こちらには家康公を祀る「東照宮」と「五重塔」も建てられていました。

増上寺鳥瞰図03
こちらも「南御霊屋」を拡大した境内図です。

台徳院
まず、台徳院(たいとくいん・2代将軍秀忠)霊廟の入口になる「惣門」です。

こちらの門は前回の最後にも紹介しましたが、戦災を免れ、現在は東京プリンスパークタワーの敷地内に現存しています。建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家されました。
門の先に見えているのが「勅額門」ですが、こちらは埼玉県所沢市の狭山不動寺(西武ドーム前)に移築されています。参拝していないので写真はありません(^_^;)

taiyuuin soumon02
現在の「惣門」、当然といえば当然ですが全く同じ門です。

増上寺034
葵の御紋も光っています(^_^)v

崇源院霊牌所
境内図にもある「崇源院(お江)の霊牌所」です。東向きに建っていたようです。

台徳院御成門
こちらは秀忠の墓所、奥院(宝塔)の参道にある「御成門」。この門も狭山不動寺に移築されています。

zojyoji004.jpg
平面八角形で裳階付きの覆屋の内陣と2代将軍秀忠の宝塔。

台徳院宝塔
同じく2代将軍秀忠の宝塔の着色写真です。

秀忠の遺骸はこの豪華な宝塔の地下、石棺の中に葬られました。この宝塔は、円柱形の塔身の上に宝形屋根を載せた形式の「木造宝塔」だったため、東京大空襲で残念ながら焼失してしまいました。

増上寺五重塔

zojyoji007.jpg
境内図では一番南に描かれている「五重塔」です。

この五重塔は、後の大老酒井忠清が秀忠の霊廟造営に合わせて、承応年間(1652年〜1654年)に増上寺の南、現在の芝公園丸山古墳付近に建立しました。その後、文化年間(1804年〜1817年)に落雷で焼失。写真の塔は文化6年(1809年)姫路藩主の酒井忠道が再建したものです。
東京大空襲では、台座に至るまで全てが灰と化し現在は礎石すら残っていません。

芝東照宮003

増上寺052
最後に境内図で「東照宮安国院殿」として描かれている東照宮です。

現在増上寺の南、芝公園内にある「芝東照宮」は、もともとは増上寺安国殿と呼ばれていました。安国殿の名称は家康公の法名である「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」によるもので、建物の大きさは、66州の国を永く守るためにとの家康公の遺言で66畳敷となり、敷地も増上寺本堂後方に定められました。
家康公の没後、遺言どおり家康公60歳の時の等身大の像(寿像)を祀り、元和 3年(1617年)に竣工されました。寿像は造営奉行であった土井利勝(後の大老、家康公の隠し子とも)が駿府より運んできたといわれています。

その後、寛永10年(1633年)には新たに安国殿を造替し、旧安国殿は開山堂となりましたが、寛永18年(1641年)には、3代将軍家光によって再度造替され、境内図の場所に移されています。この時造営の社殿は豪壮華麗を極めたものでした。
しかし、安国殿は明治時代初期の神仏分離令により増上寺から切り離され、東照宮と称する事になり、明治 6年(1873年)には郷社に列し、家光によって造営され、維持していたものを東照宮の社殿としました。
大正 4年(1915年)に本殿が国宝に指定され、伽藍の美を誇っていましたが、こちらも昭和20年(1945年) 5月25日の東京大空襲で、寿像と公孫樹(家光お手植えのイチョウ)を残して焼失。現在の社殿は昭和44年(1969年)に建立されたものです。

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前回も紹介した現在の「芝東照宮」です。

増上寺038
今回の増上寺の参拝で特に印象に残った鐘の音、増上寺の梵鐘。

以上、前編、後編と増上寺の紹介をさせていただきました。
『江戸七分 ほどは聞こえる 芝の鐘』『今鳴るは 芝(増上寺)か上野(寛永寺)か 浅草(浅草寺)か』、いい川柳です。今回紹介した古写真といい、五・七・五の17文字の中から江戸の景色が見えてくるようです。

次回は、いよいよ「日光東照宮」を紹介します。

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