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百万石のルーツは?④

  • 2013/03/17(日) 20:26:38

金沢城② (かなざわじょう) ■所在地/石川県金沢市丸の内 ■城郭構造/梯郭式平山城 ■別名/尾山城、金城 ■築城年/天正8年(1580年)■築城主/佐久間盛政・前田利家

(平成25年2月28日)

金沢城map01

金沢城、前回の続きです。

金沢城052
石川門、頑丈な鉄扉の二の門(櫓門)をくぐると三の丸に出ます。

前田利家が入城後に整備が始められた頃の金沢城は、本丸を中心に、東丸、二の丸あたりが城域であり、三の丸や二の丸御数奇屋、新丸などには重臣の屋敷が配置されていました。
その後、重臣の屋敷が場外に移されると三の丸には番所が置かれました。かつては河北(かほく)門、石川門、橋爪門の「金沢城三御門」が三の丸を囲んでいました。

現在は復元された河北門、菱櫓、五十間長屋に橋爪門と橋爪門続櫓、そして現存の石川門が三の丸をぐるりと取り囲み金沢城一の景観が楽しめます。

金沢城013
三の丸広場から見た復元された五十間長屋と櫓。

広大な三の丸広場に入ると、圧倒的なスケールの光景が目の前に広がります。
左から橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓で、平成13年(2001年)に復元されました。右端の門は平成22年(2010年)に復元された「河北門(かほくもん)」の二の門です。
中央の「五十間長屋(ごじっけんながや)」は橋爪門続櫓と菱櫓を結ぶ二層の多門櫓で、普段は倉庫となっていましたが、戦時には二の丸を守る砦となりました。

では、右の「菱櫓」から順番に紹介していきます。

金沢城015
こちらが「菱櫓」で内側が城の中心部、藩庁が置かれた「二の丸」になります。

「菱櫓(ひしやぐら)」は、その名のとおり菱型をしており3層3階で二の丸で一番高い櫓です。尾坂門(大手門)、河北門(かほくもん)、石川門を一望することができ、三の丸、新丸を監視する役目を持っていました。

金沢城014
右から菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓と続いています。

金沢城018
五十間長屋と橋爪門続櫓です。唐破風を設けた出窓は、石落としになっています。

五十間長屋は各所に置唐破風の石落としを設け、海鼠壁(なまこかべ)の格子窓は鉄砲狭間になっています。
この一連の復元された建物は、明治以降に建てられた木造城郭建築物としては全国再最大規模で、土台石垣の解体、修築を含め、伝統的な木造軸組工法で平成10年3月から3年4ヶ月をかけて造られました。

金沢城027
内堀に映った姿も美しい五十間長屋と橋爪門続櫓。

金沢城017
橋爪門続櫓と橋爪門一の門、内堀に架かる橋爪橋です。門内では二の門の整備復元工事が進められているため、橋爪門は現在は閉じられています。

金沢城016
内堀から全体を見ていますが、青空に白い鉛瓦が映えています。

ninomaruhiroba.jpg
二の丸から見た五十間長屋と菱櫓、その長大さが分かります。
この二の丸には広大な二の丸御殿が建てられていました。

gojikkennagaya
復元された五十間長屋の内部です。

次は最近、平成22年に復元された「河北門(かほくもん)」を見たいと思います。この河北…
(ちょっと待った!)
えっ?何か…σ(^_^;)
(復元された、復元されたって、金沢城は復元ばっかりかよ!)
嫌だなぁ…金沢城は何回も火災にあって、ほとんどの建物は残ってないって前回紹介したじゃない(ーー;)
(そうだっけ…)
記録に残ってるだけでも、まず慶長7年(1602年)に落雷で5層の天守閣が焼失し、その後、元和6年(1620年)、寛永8年(1631年)、宝暦9年(1759年)、文化5年(1808年)の4大火事など、江戸時代の255年間に大小合わせて56回も火事に見舞われたらしいよ。
その度に天守閣以外の櫓や御殿を建て直してたけど、最後に明治14年(1881年)当時城内に置かれてた陸軍第9師団司令部からの失火で、石川門、三十間長屋と鶴丸倉庫を残して全焼しちゃったって(T_T)
これは北陸独特の冬の落雷、春先から初夏にかけてのフェーン現象、あとは火の不始末が原因って言われてるけど…
(それにしても火事が多すぎないか?)
だよね!「火事と喧嘩は江戸の花」 と言われるほど火事が多くて、人家が密集した江戸でも、江戸城の火災は266年間に大小36回だったらしいから…
(んんん…これは何かの祟りかもな?)
そうかも(>人<;) で、多分これは誰も言ってない説なんだけど…
前回も少し紹介したけど金沢城は、もともとは「百姓の持てる国」として加賀一国を支配していた加賀本願寺が、天文14年(1545年)に教団の政庁として造った「尾山御坊(おやまごぼう)・金沢御堂(かなざわみどう)」の跡地に織田信長の重臣、柴田勝家の甥、佐久間盛政が築城したのが始まりだよね。

金沢城046
二の丸と三十間長屋のある本丸の空堀に架かる「極楽橋」。
その名前から金沢御堂の遺構といわれ、当時御堂に参詣する人が朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったといわれています。(現在の橋は修復されたもの)

信長は柴田勝家、佐々成政、前田利家らに命じて加賀一向一揆制圧のため加賀に侵攻。天正8年(1580年)4月に金沢御堂は攻め落とされて100年間続いた本願寺による加賀支配が終わったんだけど、信長は一向一揆を徹底的に弾圧してるから、ここでもかなりの事をしてるんじゃないかな?
(伊勢長島の一向一揆制圧の様な大虐殺か?)
そうそう、加賀を制圧した柴田勝家は、甥の佐久間盛政に石川・河北2郡13万石を与え、盛政は金沢御堂を戦国城郭に改修して尾山城として入城。つまり、本願寺門徒の恨みがこもった場所を、そのまま自分の城にしちゃったわけだよね?
(その後に入ったのが前田利家か?)
そうなんだけど、戦国武将って縁起をかつぐって言わない?方角が悪いとか、日柄がどうとか…
例えば、関ヶ原の戦いで軍功があった井伊直政は、家康公から近江国北東部を与えられ、最初は西軍指揮官・石田三成の居城で名城といわれた佐和山城に入城したけど、敗軍の将の三成の城は縁起が悪いと廃城にして、新しく彦根山に築城を開始したのが今の彦根城。彦根城は大した火災にもあわず、現在も国宝として残ってるよね。
前田利家も、ここが自分の領地になった時に城を移しときゃ良かったんだよ。絶対ここは縁起が悪い場所だと思わない?こんなに火事が多かったのもきっと本願寺門徒の祟りだと思う( ̄▽ ̄)
(ふーん、それがあんたの新説?)
この説、多分当たってると思うけど…「坊主○せば七生祟る」って言うしf^_^;)
加賀前田家は、利家から数えて明治維新まで14代続いて、その14代の内に火事があったのが56回。最後の火事が明治14年、これってみんな「7の倍数」。うわぁ〜!怖あぁ(>人<;)
(オイオイ!金田一じゃないんだから!)
豊臣秀吉の大坂城も元は、信長の最大の敵だった石山本願寺の跡地にそのまま建てた城だからね。結局落城しちゃったでしょ?
今の大阪城は、秀吉の造ったものを徳川幕府が徹底的に破壊して、地下に埋めて更地にした上に建てた城だし。やっぱり落城させた城をそのまま使うのは嫌だったから、縁起をかついで地下に埋めちゃったんだと思うよ。
(あまり金沢の人には聞かせられん説だと思うけど(^_^;))
・・・
じゃあ、そろそろ河北門へ行ってもいい?
(どうぞ…)

金沢城029
三の丸にある河北門(かほくもん)の二の門(櫓門)です。

金沢城030
櫓門形式で、石川門と同じく枡型門になっています。

金沢城032
二の門をくぐった枡型内部。こちら側が正門になります。

金沢城051
復元にあたっての立面図です。

「河北門(かほくもん)」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門」「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていました。金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、安永元年(1772)に再建されました。再建後、明治15年頃に取り壊されるまでは金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。
復元工事は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけ約130年ぶりに甦りました。

金沢城050
河北門、枡型の構造です。

高麗門である「一の門」、櫓門の「二の門」、「枡型土塀」と続櫓の機能を持つ「ニラミ櫓台」の4つで構成された枡型門で防御性を高めています。

金沢城033
枡型内部から見た「一の門」です。

一の門は、三の丸に入るための最初の門であり、幅4.7m 、高さ7.4mの総欅(けやき)造りの高麗門で、外の脇土塀を海鼠壁(なまこかべ)仕上げとし、土塀の内部には写真の様に「隠し狭間」が設けられています。戦の時には狭間外側の海鼠壁を破って鉄砲狭間として使えるようになっています。

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櫓2階内部の壁や床などには、檜の一種である能登ヒバが石川門同様に用いられています。

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「一の門」と「ニラミ櫓台」、後ろに見えるのは三の丸の菱櫓と五十間長屋、橋爪門続櫓です。
石川門を除いてここまでが復元建物です。次からは数少ない江戸時代から現存の建物を紹介します。

金沢城021
こちらが「鶴丸倉庫」とも呼ばれる江戸時代の土蔵です。

金沢城土蔵は、金沢城本丸の北側に嘉永元年(1848年)に建てられた大型土蔵で、鶴丸倉庫とも呼ばれています。土蔵造2階建の切妻造、桟瓦葺で、もとは武具蔵として使用されていました。

(ちょっと待った!)
えーっ?またぁ( ̄O ̄;) 今度は何ぃ?
(お城だって言うから楽しみにしてたら土蔵?)
ただの土蔵じゃないから!現存する近世城郭の土蔵の中では最大のものっていわれてる貴重な土蔵なんだよ。
たぶん土蔵フェチにはたまらないと思うよ(^_^)v
(そんなフェチいないし(; ̄O ̄))

金沢城022
土蔵フェチにはたまらない「鶴丸倉庫」でした♪

金沢城020
本丸から見た五十間長屋の全景です。

金沢城023
振り返ると本丸にもう一つの江戸時代の遺構「三十間長屋」が見えます。

金沢城024
こちらが本丸附段にある2層2階の多聞櫓「三十間長屋」。実際には26間半だそうです。
宝暦の大火(1759年)で焼失した後、安政5年(1858年)に火薬庫として再建されました。金沢城に現存する長屋建築としては唯一のものです。

(ちょっと待った!)
今度は何ぃ?
(さっきの土蔵もそうだけど1858年に再建って、あと10年で明治?)
そう!でも一応は江戸時代の遺構だからね(*^^*)
(なんかポツンと建ってて寂しい建物だな…)
それがまた長屋フェチには(^_^;)
(だから、そんなのないから!)
次の写真見てよ、石垣が凄いから!

金沢城053
石川門、河北門で見られる「切り込みハギ」で積まれていますが、真ん中をわざと粗く仕上げる「金場取り残し積み」という技法が用いられています。

(無駄に細かい仕事してるな…)
さすが職人技!と言って欲しいと思うけどね(^_^;)
(あんた天邪鬼のくせにお城には甘くないか?)
そう?お城フェチかも…

金沢城025
西から見た三十間長屋です。

金沢城026
西側のみ、左右に唐破風付きの出窓が設けられています。戦時には中から攻撃出来るよう鉄砲狭間になっています。

以上2つの建物が一応江戸時代の遺構ですが、とにかく現存の建物が少ないため、何を見るお城かよく分かりません。金沢のシンボル石川門で有名なお城ですが、天守閣があるわけでもなく、かと言って以前紹介した安土城の様な古城という雰囲気でもありませんし…
以前は金沢大学のキャンパスだった事からも分かるように、やたらに広い敷地を復元に次ぐ復元工事で(現在も橋爪門は復元工事中)埋めようとしている様にも感じます。
復元されたお城でもいいと言う方には、五十間長屋と各櫓群は超お勧めですが、古城フェチの方には物足りないと思います。「石垣の博物館」とも呼ばれているのでいろんな石垣を見て回るのもいいですが、これも石垣に興味がなければ全く面白くもありません。
まあ、結局よく分からないお城ですが、金沢市は何十億円も掛けて次々復元工事ができるお金持ちの市である事は確かなようです(^_^;)

最後に「百万石のルーツは?」私の故郷、愛知県名古屋市です。
加賀百万石の礎を築いた前田利家は、尾張国海東郡荒子村、今の愛知県名古屋市中川区に生まれました。現在の金沢市の繁栄の基を作った利家ですが、金沢の人みんなが利家を慕っているかと言えば、どうも別のようです。

これは金沢在住の知人に聞いた話ですが、利家が金沢城に入城したことに因んで毎年6月に行われる「百万石まつり」という有名なお祭りがあります。主催は金沢市役所と金沢商工会議所ですが、商工会議所が協賛金を募るために各戸を回って寄付を頼んだところ、「前田利家のまつりなんぞ関係ないわいね、あれはえんじょもんがやろ!」と断られた事があったそうです。

「えんじょもん(遠所者)=よそ者」ということで、つまり前田利家は尾張(名古屋)から金沢に来た「よそ者」だと。そんなよそ者のまつりに寄付なんか出来ないというのが理由のようです。
寄付を断った人達は利家が金沢に入城する以前、「金沢御堂」がこの場所にあった頃から代々住んでいる人達で、400年以上経っても前田利家は今だに「尾張者」「よそ者」扱いされているんですね(>_<)

(さすがにそれは可哀想だよなぁ…)
確かに!400年経ってもよそ者扱いはちょっとね…
これ以上言うと悪口になるから止めときますが(^_^;)

これで「百万石のルーツは?」は終わりです。次回は、世界遺産の岐阜県の「白川郷」を紹介します。

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