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王命によって催さるる事②

  • 2013/10/10(木) 14:58:32

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

前回の続きです。

「源敬公廟(げんけいこうびょう)」参拝の前に「徳川義直(とくがわ よしなお)」について少し?(多分…)紹介します。

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こちらが徳川美術館蔵の徳川義直像です。ムッツリというか、気難しい顔をしています。

義直は、慶長5年(1600年)11月28日、家康公の9男として大坂城西の丸(京都伏見城(現在の清涼院)の説もあり)で産まれました。
母は相応院(於亀の方)で、幼名は元々は千々世丸(ちぢよまる)といいましたが、のちに五郎太丸(ごろうたまる)と改名しました。これは城の石垣を築く際に、巨石の間にくさびとして入れる五郎太石(ごろたいし)からとった名で、徳川家のくさびになるようにと、家康公が自ら名付けました。「石ころ」から命名した訳ですね(^_^;)

家康公は、自分の子供に変な名前を付けるのが好きなようで(元祖キラキラネーム?)、次男である結城秀康(2代将軍秀忠の兄)は、幼名を於義伊(おぎい)・於義丸(おぎまる)といいますが、これは秀康が生まれた時に「オギィー、オギィー」と泣いたため、家康公は「名前?“おぎい”にしておけ…」と言ったとか。他の説では、顔が「ギギ」というナマズ目の淡水魚に似ていたからだともいわれています。

この秀康という次男は、何故か家康公に嫌われ、満3歳になるまで対面も許されませんでした。母親の於万の方が家康公の正室・築山殿の奥女中であったため、築山殿の嫉妬を恐れ、母子ともに重臣に預けられてしまいます。
この冷遇された異母弟を不憫に思った兄・信康(家康公長男)の取り成しで、満3歳の時にやっと親子の対面が実現しました。冷遇の理由は、顔が醜かったとも、双子で生まれてきた(当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた)ためともいわれています。
その後も、天正12年(1584年)、11歳で豊臣秀吉の養子(実際は人質)となり、天正18年(1590年)17歳の時、今度は秀吉から関東の名家・結城氏へ養子に出されます。当時、徳川家では長男の信康が切腹。秀康は事実上の長男でありながらのこの境遇でしたが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの論功行賞により、家康公より下総結城10万1000石から越前北庄67万石へと、50万石以上の大幅加増で移封され、後に越前福井松平家の藩祖となり、やっと日の目を見ます。この大幅加増は、秀康を冷遇してきた詫びだったのかも知れません。
しかし、慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)33歳の若さで突然病没します。死因は梅毒とも暗殺されたともいわれています。んんん…梅毒(^_^;)戦国武将に多い病気で、かの加藤清正も梅毒で亡くなったそうです。

武将としての器量は一流、武勇も抜群で、周囲からも認められており、一時は次期将軍は秀康の声もありましたが、家康公の裁定により(秀康は養子に出されていたため)弟の秀忠が将軍職を継いでいます。秀忠も事あるごとに秀康を兄として立てていたため、兄弟の仲は表面上は良好だったようです。

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高野山奥の院にある結城秀康の石廟です。3月の高野山参拝に撮影。

左は秀康自身が建てた母・於万の方の霊屋。右が越前松平家2代藩主・忠直が建てた秀康の霊屋で、いずれも石造りとなっています。

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詳しくはこの案内板のとおりです(^_^;)松平秀康と松平姓になっています。

生前の秀康は、結城秀康のままだったようですが(一説には松平に改姓とも)、この石廟を建立した子供の忠直の代から松平姓を名乗っため「松平秀康」になっていると思われます。

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こちらは結城秀康になっています。面倒!まあどっちでもいいか…

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重要文化財になっているため「登壇禁止」になっており、近くには寄れません。

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こちらは前回紹介した「長保寺」にもある、徳川頼宣の墓所です。

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高野山にもありました!尾張徳川家墓所。しかし、誰それの墓とは書いてないので一括か?

ここで、やっと義直に戻ります(前振り長〜〜〜)。

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こちらは義直の直筆による家康公の肖像画です。(徳川美術館蔵)

神格化された家康公の肖像画とは違い、人間臭さのある肖像画です。というのも、9男・義直、10男・頼宣(紀州藩祖)、11男・頼房(水戸藩祖)の3人は、家康公の晩年の子供達という事もあり、特に可愛いがられ、家康公の手許で育てられました。子供に情が薄いと言われた家康公には珍しい事のようです。この肖像画も、家康公の身近で育った義直だから描けた、実像に近い家康公の姿かもしれません。

義直は慶長8年(1603年)、4歳で甲斐国において25万石を与えられ、甲府藩主に。慶長11年(1606年)7歳で元服するとさらに翌慶長12年(1607年)、兄・松平忠吉の病死により、尾張国清洲藩主として53万石で加増転封となります。慶長15年(1610年)には本拠を清洲から名古屋に移し、清洲城下の商人・職人の名古屋への移住「清洲越し」が行われ、同時に家康公の命により、外様大名の天下普請により名古屋城の築城も始まりました。
こうして義直は尾張藩主となりますが、幼少であったため、尾張の政務は初期には犬山城主であった平岩親吉や、竹腰正信、渡辺守綱、成瀬正成らの附家老が担当し、義直自らは駿府城の家康公の許で育てられました。
慶長19年(1614年)、15歳で大坂冬の陣で初陣、翌年の大坂夏の陣では後詰として活躍し、元和元年(1615年)、浅野幸長(あさの よしなが)の娘・春姫を正室に迎え、この頃、木曽福島と美濃国内を合わせて62万石の加増を受けています。
義直が母の於亀の方を伴い、名古屋城に移ったのは家康公の死後、元和2年(1616年)17歳の時でした。

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こちらも義直の直筆で、母「相応院(於亀の方)」の肖像(名古屋相応寺蔵)ですが、家康公好みのふっくら丸々(◯ブ専?)としています。

こうしてみると、兄の結城秀康と比べ破格の待遇です。家康公は、よほど義直たちが可愛かったんでしょうね(^_^;)
関ヶ原の戦いの終った後に生まれた子供達、という時代背景もあるでしょうが、子供に情が薄かった家康公も、晩年はかなり丸く(身体も丸い(^_^;))なったのではないかと思われます。
…が、この家康公の性格?子供達に対する差別などが、実は家康公の前半生と後半生は別人ではないか?の家康公替え玉説なるものが出る原因にもなっているそうです。果たして真相は…?

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別名「金鯱城(きんこじょう)」と呼ばれた、名古屋城の戦前の
焼失前の姿。手前が本丸御殿で、現在は復元工事中です。

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本丸御殿の玄関と天守閣。美しいです!

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徳川義直所用の「銀溜白糸威具足
(ぎんだめしろいとおどしぐそく)」
(徳川美術館蔵)

この具足は、義直が着用した品で、義直は正月の具足祝いの儀式のために毎年具足を新調して、多数の具足を所持していました。中でも特にこの銀溜具足を好み、旅行の際には必ず携帯していたと伝えられています。この具足も胴が太く、大柄であったと言われる義直に相応しい作りになっています。

一番上の義直の肖像画、気難しい顔で描かれていますが、事実頑固な性格で筋目を重んじる人物だったようです。昔、深作欣二監督の「柳生一族の陰謀」というオールスターキャストの東映時代劇がありましたが、その中では、三船敏郎が徳川義直を演じていました。
三船さんが、あの眉間に皺を寄せた難しい顔で『陰謀は許さん‼』の台詞がピッタリで、ベストキャストだと感心しましたが、義直も多分あんな感じの人物だったんでしょうね(^_^)v

名古屋城入城以後の義直は、家老達に任せていた藩政を自ら執り、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行ない米の増産に務め、検地による税制改革などで年貢収納を確立しました。併せて商工業の保護も行い、瀬戸の窯業の発展の基礎を作るなど、尾張藩の繁栄の基礎は義直の時代に構築されました。
また学問を好んで儒教を奨励し、我が国初の「孔子堂」の建立や、城内に尾張東照宮の建立も進め、家康公の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ、『蓬左(ほうさ)文庫』を創設し、「決して門外不出にすべからず」と、貸し出し自由。現在の図書館の走りとなる文庫とするなど、日本有数の名君といわれています。
また神道にも造詣が深く、「日本書紀」から「日本三代実録」までを編纂した歴史書『類聚日本紀(るいじゅうにほんき)』、全国の主要な神社を国郡別に列挙し、その祭神等について考証した『神祇宝典(じんぎほうてん)』を著しましたが、これは甥で尊皇家の水戸光圀(黄門)にも大きな影響を与えました。

家康公に倣い武術を好み、兵法指南役の柳生利厳(やぎゅう としとし)から新陰流兵法の相伝を受け、流儀を継承して新陰流第4世宗家となっています。いつ襲われても対処できるようにか、寝る際には寝返りを打つごとに脇差を常に手元に置き、さらに目を開けながら絶えず手足を動かして寝ていたといわれています。(んんん…かなり怖い!)それに手足をバタバタしてたら、せっかく手元に置いた脇差も何処かへ…。

慶安2年(1649年)に中風を再発して体調を崩した義直は、翌、慶安3年(1650年)江戸藩邸で51歳で没しました。諡号(しごう)は敬(けい)。遺骸は生前、義直自らが廟所として定めていたここ定光寺に葬られました。
ところで、「源敬公(げんけいこう)」って何だ?ですが、「源敬公」の「源」は、徳川家は源氏を称していたため源氏の源。「敬」は、義直に贈られた諡号(しごう・貴人の死後に贈られる名)。「公」は尊称です。つまり義直が亡くなった後の名前です。「源敬公、敬公が云々…」といえば、初代義直の事を指している訳です。
生前の義直は、正式な文書では「従二位行権大納言(じゅにいのぎょうごんだいなごん)源朝臣義直(みなもとのあそんよしなお)」と名乗っています。通称は「尾張大納言」と呼ばれていました。
何かややこしいので詳しくは説明しませんが、ざっくり言えば、従二位・・は位階(大臣の位)で、源朝臣・・は正式名です。時代劇などで水戸黄門が江戸城に登ると、「水戸中納言様おなり〜」と言われていますが、これも通称です。本当は城中では「中納言殿(ちゅうなごんどの)」、あるいは「水戸殿(みとどの)」と呼ばれました。義直は「尾張大納言殿・尾張殿」です。
御三家が出来た当初は、城中では「尾張様、紀州様、水戸様」と呼ばれていましたが、・・様と呼ぶのは「上様(将軍家)」だけである。という事になり、城中では「・・殿」と呼ばれていました。

毎度、長い文章ばかりで退屈ですみませんm(_ _)m

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廟門をくぐり右に曲がると石畳の坂が続きます。

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なお、途中でくの字に曲がったダラダラ坂を進むと…

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最初に見える門が「獅子の門」です。

んんん?何か味気ない門ですが…どこが獅子?実は、この「獅子の門」、次の「龍の門」共に覆い屋で覆われてしまっています。鞘堂(さやどう)とも言いますが、文化財を保護するためでしょうが実に味気ないです。
まず全体像が全く分かりません。覆い屋に入って見上げるか、隙間から覗くかしかない訳ですから…。

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こんな状態ですから…勿体無い!知らない人は、最初からこんなもん(門)か?と思ってしまいます。

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素木造りの簡素な門ですが…。

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まだどこが獅子?です(^_^;)

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中に入って上を見上げると金網が…。

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なるほど…これが?

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何となく獅子のような(^_^;)

この木鼻の獅子の彫刻は、名工「左甚五郎」の作と言われています。出ました!左甚五郎(^_^)v
この門は、切妻造の四脚門で、元禄12年(1699年)の造営と、他の殿舎からおよそ50年遅れて建てられました。禅宗様を基調とし、意匠は簡略化されて装飾も他の建物に比べて少なく、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)、棟は金泥で縁取りした黒色釉の織部焼である…。との事ですが、これが全く分かりません。屋根も見えないし、棟(むね)は屋根の頂部なのでこれも見えない。何とかならんのかな?この覆い屋は(^_^;)

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見上げると檜皮葺(ひわだぶき)の軒先がわずかに見えました。

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そして、蟇股には地味な三つ葵の彫刻。

獅子の門をくぐり、直角に左へ曲がった先に見えてきたのが、築地塀に囲まれた「龍の門」です。

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またしても覆い屋か…。やっぱり味気ない!

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屋根の意匠といい、素晴らしい門だと思うんですが…覆い屋があるために何か不自然。

「龍の門」は、廟所正面に開く入母屋造の四脚門で、承応元年(1652年)に造営されました。意匠は禅宗様を基調としており、屋根の装飾は中国風です。

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廟を囲む築地塀(ついじべい)、これも重要文化財です。

この廟全体を囲い込む築地塀(ついじべい)も承応元年(1652年)の造営で、腰を石組みとした土塀で、壁は熨斗(のし)瓦積、屋根は銅瓦葺となっています。さすがに石と瓦の塀には何も覆っていないです(^_^;)
屋根の棟飾りを見ると、何故か中国風の意匠になっています。この廟所は明からの帰化人、陳元贇(ちんげんぴん)が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂(祖先の霊を祭る所)に倣っているためです。

廟域は、周囲に銅瓦葺の土塀を巡らせ、正面中央に正門である「龍の門」を開き、石敷の参道正面に「焼香殿」を、焼香殿の東に「宝蔵」を配し、宝蔵の東には殉死者の墓所を設けています。焼香殿の背後は、一段高い場所の前面石柵の中央に「唐門」を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

設計者の陳元贇(ちんげんぴん)は、鎖国前の元和5年(1619年)明朝末期の動乱を嫌い、長崎居留の明人を頼って30歳代で日本に渡り各地を漂泊。寛永4年(1627年)義直に拝謁し、以来名古屋に留まり、書道・作陶・中国拳法(少林寺系か?)などをこなす多芸多才な人物で、義直に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるいます。呉須(ごす・酸化コバルト)という焼成すると青色に変化する顔料を使って素地に書画を描き、これに白青色の透明な釉薬を掛け還元焔焼成で焼き上げたもので、今も元贇焼(げんぴんやき)とよばれて珍重されています。
この元贇焼を模倣した物が、名古屋城内の御深井丸(おふけまる)の窯場で焼かれた、御深井焼(おふけやき)と呼ばれる物ですが、元贇の作品のような良質のものはほとんどなく、還元焔焼成で呉須の青色を発色させるのは至難の業であり、これを瀬戸で完成させたのは、19世紀になってからで、有田の磁器生産技術を瀬戸に持ち帰った、磁祖と呼ばれる加藤民吉です。
元贇は寛文11年(1671年)84歳で、名古屋城下九十軒町(現在の東区泉三丁目)の自邸で亡くなり、尾張徳川家の菩提寺「建中寺」に葬られました。墓は現在、名古屋市の共同墓地平和公園にあります。

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尾張名所図会にもある「陳元贇 寓居の図」です。名所図会に描かれるほどの有名人の家にしては、あばら家っぽいですが、こういうのを「侘び住まい」と言うのかも(^_^;)

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陳元贇作「安南写(あんなんうつし)染付茶碗」。安南とはベトナムの事で、高台まわりに自筆の銘「陳芝山(元贇の号)造之(これを造る)」とあります。

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同じく陳元贇作「陶製仏像」(名古屋市守山区・大森寺蔵)です。

いつもの事ですが、あちこち話題が飛びながら、やっと「龍の門」に入ります…。

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しかし、この門が「龍の門」と言われても全然分かりません(^_^;)
よく見ても龍らしき物は見あたりませんでした。

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んんん…?どこに龍が?

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獅子の門のように、木鼻にも無いし、組物にも見あたりません…。

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扉には、獅子と唐草牡丹の彫刻。アクリルケースで
保護されています。
ひょっとして、こちらが獅子の門?

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ではなくて、やっぱり「龍の門」らしいです。
この彫刻も左甚五郎の作と伝えられています。

では、どこに龍が…?
実は、天井に狩野元信の龍の絵があるため「龍の門」といわれているらしいのですが、これが全く分かりません(T . T)この門は入母屋造(それも覆い屋があるので外からは分からない)なので、天井があるはずなんですが…。
覆い屋のために暗いからか、それとも見落としたのか?今回はパス!ということで先に進みます(^_^;)

そういえば、前回に和歌山の「長保寺」を一緒に参拝した、仏友のSさんが、近々ここを参拝予定と言っていました。Sさん!元信の龍の絵、確かめて来てくれませんかぁ?お願いしまーすm(_ _)m

ところで、こんなに覆い屋だらけの「源敬公廟」。昔の姿を見たくありませんか? 一枚だけ撮影年代は不詳ですが、戦前の絵葉書がありました!

それが、これです(^_^)v

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凄い!「龍の門」が剥き出し!これを見ると、この門が入母屋造だということがよく分かります。
右奥は次回紹介しますが、これも現在は覆い屋の中にある「焼香殿」です。

なかなかタイトルの『王命によって催さるる事』の話しが出てきませんが、次回に紹介したいと思います。また長くなったらすみませんm(_ _)m

次回に続く…

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