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松平・徳川氏発祥の地①

  • 2012/12/14(金) 13:04:21

八幡神社 松平東照宮 ■所在地/愛知県豊田市松平町赤原13
■御祭神/譽田別命(ほんだわけのみこと)、徳川家康公、松平親氏公 他六柱 ■創建/元和5年(1619年)八幡宮に東照大権現を勧請

(参拝日/平成24年10月5日)

東名高速道路の豊田JCTから東海環状自動車道(土岐、多治見を抜け東海北陸道の美濃関JCTを結ぶ道路)に入ると3つ目のICに「豊田松平IC」があります。インターを降りて国道301号を東へ約30分、静かな山里の中にあるのが「松平郷」です。
いかにも三河の山村といった風情で、山地の中の小集落ですが、ここも世界のトヨタ自動車の本拠地、豊田市です。
市町村合併の前は愛知県東加茂郡松平町でした。最近は愛知県でも聞いたことのないような市の名前が多く、○○市とか言われると「え、そこ何処ですか?以前は何郡?何町ですか?」と聞きたくなることが多々あります。
ここ松平郷も「豊田市」よりもイメージ的には「東加茂郡」の方がしっくり来る、そんな所です。

由緒によると松平東照宮は、正式名称を「八幡神社/松平東照宮」といい、徳川家康公の始祖である初代・松平太郎左衛門親氏がこの地に居をかまえ、氏神として若宮八幡を勧請したのがはじまりと伝えています。
その後、元和5年(1619年)に久能山東照宮から家康公の御分霊を勧請、奉祀され、大正5年(1916年)に松平郷内の無格社3社を合併、昭和40年(1965年)に初代・松平親氏が合祀され、神社名を「八幡神社」から「松平神社」へと変更。
その後、昭和58年(1983年)に現在の名称へと変更され、現在に至っているそうです。現在の社殿は、昭和初期に松平家の館跡へ境内を拡張し新築されたとのこと。

何故この土地が松平氏(徳川氏)発祥の地なのか?

14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田(せらだ)氏(得川氏)の出身と称する時宗(浄土宗の一派)の放浪僧の徳阿弥(とくあみ)が父の長阿弥(ちょうあみ・世良田有親)と共にこの地に流れ着きました。
徳阿弥は当時の松平郷領主である松平信頼の子、松平信重に和歌に通じた教養と武勇を買われ、その娘婿となり還俗し、松平三郎親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏の名跡を相続したといわれています。
この松平親氏から9代目にあたる子孫が徳川家康公となるわけです。

ざっくりいえば、長阿弥と徳阿弥という親子の旅の坊さんが松平郷に流れてきて、息子の徳阿弥が領主の家の娘婿に入り込んだ…と。その9代目が徳川家康です。こんな感じですかね(笑)
愛知県が生んだ郷土三英傑のご先祖は、織田信長=神主、豊臣秀吉=たぶん何代前も農民、徳川家康=旅の坊さん?なんですね。

ところで、有名な能の流派に「観世流(かんぜりゅう)」というのがあります。創始者は、室町時代の観阿弥(かんあみ/かんなみ)、世阿弥(ぜあみ)の親子ですが松平郷に流れて来たのも長阿弥と徳阿弥という親子。
この親子はお坊さんということでしたが、何か似ていませんか?観阿弥と世阿弥、長阿弥と徳阿弥、いずれも「◯阿弥」と名乗っていますね。

『仏教辞典』(岩波書店)によると、時宗教団の中には「阿弥衆(あみしゅう)」という集団があり、法名、法号を「◯阿弥」(阿弥号)と付けたそうです。正確には観阿弥なら「観阿弥陀仏」、世阿弥は「世阿弥陀仏」ですが、頭の三文字を取り「◯阿弥」と名乗りました。
ところが正式な時宗僧の場合は「◯阿」(阿号)と付け、阿弥号はけっして付けなかったそうです。
この「阿弥衆」というのは、「客寮衆(きゃくりょうしゅう)」ともいわれ僧俗の中間的存在で,剃髪法衣の姿は僧に似て,妻子を養い諸芸に従事するところは俗である。つまり、坊さんの格好をした俗人です。

「阿弥衆」は,南北朝時代に戦の敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまり、時宗僧の給仕や雑用を勤め、また鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり、お布施を受けて生計を立てる者や妻子を養うために農耕や商い、芸能に従事するものもあったようです。
「客寮衆」というのは、時宗教団の客分、居候集団の様なものと考えると分かりやすいと思います。
そういう集団の中から芸能の達者が現れます。茶の能阿弥、花道の台阿弥、作庭の善阿弥・相阿弥、能の観阿弥などです。さらには、世阿弥のような天才が登場して、時の将軍足利義満によって取り立てられ、同朋(どうぼう)衆として庇護をうけることになり能を大成させていくことになります。

戦の敗残者や世間のあぶれ者、坊さんの格好をしているが僧ではない。こういう人達の名乗ったのが「◯阿弥」なんですね。「阿弥衆」は歴史の上では世間のはずれ者とか、流れ者として蔑まれたりしていますが、世阿弥に見るように阿弥衆はきわめて重要な芸能の伝播者であり、文化の担い手であったといえます。
先にも書きましたが、家康公の先祖である徳阿弥も松平郷に流れて来て「和歌に通じた教養と武勇を買われ」入り婿になったといわれています。
世阿弥=将軍の庇護を受け能の大成者となる、徳阿弥=三河の山里の松平氏の婿殿。
スケールは違いますが、氏素性、出自がいまの世の中でもとかく話題となり、それなりの扱い方をされていますが、家康公の先祖は坊さんではなく、ただの流れ者だったらしいけど、そんなものはほとんどなんの意味もないということを言いたかったんですが長文になってしまいました(T . T) フォローになってますかね?

画像 178
こちらは松平氏遺跡公園駐車場の案内板です。

画像 1084
松平氏遺跡案内図です。

画像 1080
遺跡公園に建つ銅像。この方が時宗の坊さん、いや流れ者(ごめんなさい!)の松平親氏公、家康公のご先祖さまです。
しかし不思議なポーズですね…んんん、ミステリアス。

画像 1082
めちゃくちゃ彫りの深いお顔立ち、最初キリスト様かと思いました…

画像 1083
こちらは前にご紹介した岡崎大樹寺で撮影した親氏公のお墓になります。

画像 0173
やっと松平東照宮の写真です。前説が長過ぎーぃ!

画像 0175
最初にも書きましたが、拝殿自体は昭和初期の建物ですので
これといった見所もありません…たぶん?

画像 1081
アップで見ても東照宮としては、けっこう地味ですね。この場所には似合ってるのかな…

松平東照宮G
こちらがいただいた御朱印です。バランスが取れた上手な字です!
右から、奉拝 松平郷 松平東照宮 天下和順 日月清明 日付です。

この御朱印の左上は「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(にちげつしょうみょう)」と読みますが、浄土三部経の一つである「無量寿経」という経文の一節で、松平親氏公の「願文」として残っているそうで、御朱印にして押されています。

【願文】 天下和順 日月清明 風雨以時 災癘不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 努修禮穣  
【読み】 天下和順し 日月清明なり 風雨時を以て 災癘(さいれい)起らず 国豊かに民(たみ)安んじ 兵戈(へいか)用ふることなし 徳を崇(あが)め仁を興(おこ)し 努めて禮穣(れいじょう)を修すべし  
【直訳】 戦乱の世が和やかになり、日月も清らかで明るく、恵みの気候により災害や疫病が起こらず、国が豊かになって民衆が安心して暮らすことができ、武器を用いることもなく、仁徳の向上に努め、礼節を身につけるよう修行すべきである。

この精神が、9代後の家康公に引き継がれて、大樹寺の「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」を旗印に天下泰平の世の出現を見る事になります。

次は同じ松平郷の「髙月院」をご紹介します。今度は長文にならないよう気をつけますm(_ _)m

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