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王命によって催さるる事③

  • 2013/10/10(木) 15:18:39

應夢山 定光寺 (おうむざん じょうこうじ)尾張藩主徳川義直廟所 ■所在地/愛知県瀬戸市定光寺町373 ■山号/應夢山(おうむざん)■宗派/臨済宗妙心寺派 ■本尊/延命地蔵菩薩 ■創建年/建武3年(1336年)■開山/覚源(かくげん)禅師

(参拝日/平成25年9月17日)

またまた前回の続きです。

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名古屋城にある「藩訓秘伝の碑」の石碑。

この石碑は、名古屋城二の丸御殿跡にひっそりと立っています。
「王命によって催さるる事」とは、義直の著書「軍書合鑑」の末尾にある『王命によって催される事、すなわち、保元・平治・承久・元弘の乱のような兵乱が起きて、官兵が動員される事態になれば、いつでもこの官軍に属すべし。一門よしみを考慮して、かりにも朝廷へ弓を引くべからず』の言葉です。
ここにいう「王」とはむろん天皇のことです。つまり、「ひとたび事を起こす際は朝廷の意向によること、我が子孫は決して天皇の命令に背いてはならない。」との義直が定めた尾張藩の家訓・藩訓で、この藩訓は「秘中の秘」で、その子細は家督相続ごとに藩主が新しい藩主へ「口から耳へと伝えてゆけ」と命じています。

義直は日頃から「いま天下の武将たちはだれもが公方(将軍)を主君と仰いでいる。しかし、大名はもちろん三家の者も、公方ではなく朝廷の家来である。幕府は単に政権をゆだねられているにすぎず、それが証拠にわれわれもまた官位を朝廷からいただいているではないか」と広言しており、御三家でありながら「朝臣」という尾張藩の藩訓は義直のこうした勤皇思想から始まりました。

義直は、御三家とは「将軍家・尾張家・紀州家」で、この三家は同格であると考えており、家康公の実子でもあり、理想もプライドも高く、幕府何するものぞの気概にあふれていました。
4歳違いの甥の3代将軍家光が「余は生まれながらにして将軍の子」と言えば、義直もまた「わが父は権現様(家康公)なり」と負けてはおらず、物事において筋目を重んじた義直は「生まれながらの将軍」を自負する家光には目の上の瘤で、二人は度々衝突しました。
寛永10年(1633年)、家光が病に倒れた際、義直は大軍を率いて江戸に向かい、「さては尾張殿、謀反か?」と家光や幕閣を慌てさせました。儒教を篤く信じていた義直には野心はなく、御三家の筆頭として、当時継嗣のいなかった家光に万が一の事態が生じた場合、尾張藩が幕府を護るという義に従っての軍事行動でしたが、以後幕閣は義直を「尾張殿に謀反の意あり」と、要注意人物と見ていたようです。そのためにか、尾張藩からは将軍を出せないまま終わっています。

また話しが長くなってしまいました(^_^;)
えーっと、前回は「龍の門」まででしたので…

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龍の門をくぐった正面が「焼香殿」、右が「宝蔵」です。

焼香殿、宝蔵ともに承応元年(1652年)の造営で、「焼香殿(祭文殿(さいもんでん))」は墓所の拝殿に相当する建物です。一重、寄棟造、銅瓦葺、内部は1室で石積基壇の上に建ち、前面二か所に石造の階段を設け、正面中央間は二つ折れの桟唐戸(さんからど)、脇間および側面には花頭窓(かとうまど)を開けるなど、禅宗様式基調としています。
正面、背面の戸には雲竜の浮彫彫刻、床は黒釉の志野の陶板(日本最初のタイル)を敷き詰め、天井は折上格天井(おりあげごうてんじょう)、屋根は棟に中国風に魚形の棟飾りをのせ、四隅には蕨手(わらびて)が二段に突き出しています。
焼香殿の東に西面して建つ「宝蔵(祭器庫)」は、規模は焼香殿よりやや小さく、外観の意匠は焼香殿とほぼ同じで、儒教の祠堂に準じて内部は3室になっています。

…が、二つとも覆い屋に囲まれて、またまたどんな建物か外からは全然分かりません(T . T) 特に焼香殿は覆い屋+ガラス戸と二重で守られています。

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屋根しか見えない「宝蔵」です。右は殉死者の墓。

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ガラス戸から焼香殿の中を覗いてみました。
正面に位牌、床の陶板がわずかに確認できます。

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位牌には「贈正二位尾陽侯源敬公」と書いてあります。

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資料によると焼香殿の内部はこんなふうになっている様です。
花頭窓の外の壁は覆い屋ですね。

syoukouden002
床の陶板が見事です。

ここで、覆い屋の無かった頃の焼香殿の姿を!

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いいですね〜素晴らしい(^_^)v なんとか昔の姿に戻してくれないかな?
元の写真が小さいのでボケボケですが、素晴らしさは伝わると思います。

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焼香殿の傍から背後に回り込むと義直の墳墓です。

焼香殿の背後、一段高い場所を石柵で囲み、中央に唐門(からもん)を開き、石標を立てた円形の墳墓が築かれています。

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正面、12段の石段の上に開かれた「唐門」。

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銅板張の扉の家紋は尾張家三つ葵です。

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この唐門は、平唐門(ひらからもん)で、承応元年(1652年)の造営。腕木で軒を支える腕木門の形式で本柱は御影石製、扉や主要部材は銅板張で屋根は銅瓦葺。銅板製の鬼板を置いています。

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義直の墳墓、円形の土饅頭の上に高さ4m程の石標が建てられています。

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「二品前亞相尾陽侯源敬公墓」の墓碑銘は、廟の
設計者、陳元贇(ちんげんぴん)の筆です。

慶安2年(1649年)かねて中風が進んで苦しんでいた義直は10月、自らの死を予見して、家康公のブレーンで幼年期の師である儒学者・林羅山(はやし らざん)と計り「二品前亞相尾陽侯源敬」と号し、「神主(しんしゅ)」を製作しました。この『神主(しんしゅ)』とは、中国の後漢時代から儒教の葬礼に用いられる死者の官位・姓名を書く霊牌(日本では位牌)の事です。
これは、尾張藩主中、儒教を深く信じていた義直のみで、2代以降15人の藩主はみな院号を贈られていますが、義直だけは遺命により仏教でいう院号、法号もありません。この墓石も仏教の五輪塔・宝塔とは違い簡素な石標になっています。

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宝蔵の東にある「殉死者の墳墓」です。

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殉死者は9名で、前列に家臣の墓石が5基、後列に陪臣(家臣の家来)の墓石が4基建っています。

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殉死者の墓石も主君の義直に倣った石標です。

ご存知だと思いますが、殉死とは、主君が討ち死にしたり、戦に負けて腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することです。戦国時代には、主君が病死等の場合に追い腹を切る習慣はありませんでしたが、江戸時代に入ると病死の場合でも近習等、ごく身近な家臣が追い腹をするようになりました。
幕府は寛文3年(1665年)に「殉死禁止令」を出し、尾張藩も同5年に出していますが、義直の時代にはまだ殉死の気風が残っていました。
しかし、この殉死者の墓、前列の5名は義直の近臣で、主君の後を追ったということで理解ができますが、後列の4名は、5名の近臣の家来達です。主君に殉じた主人の後を、その家来がまた追って切腹…凄い時代です。

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一番北にある殉死者の一人、寺尾直政の墓石です。

寺尾直政は、幼少から義直の小姓として仕え、信任特に厚く家老職にまで進み、8000石を領しました。義直の他界を殊のほか悲しみ、遺書を残して殉死。47歳でした。
定光寺の資料にはこうあります。 
「寺尾土佐守直政 従五位下 5月8日、自分長屋にて殉死 介錯柳生兵助巌包 享年48 戒名全順居士」

この寺尾直政の介錯をしたのが、兵法指南役として義直に30年も仕えた「柳生利厳(兵庫助・やぎゅう としとし)」の3男で『尾張の麒麟児』と謳われた天才剣士「柳生連也斎厳包(やぎゅう れんやさい としかね)」でした。介錯のあと、首の皮が切り残ったのを見た者が「尾張の麒麟児も大した事は無い…」と呟いた所、故実を知る者が「罪ある者の首は切り落とすのが法で、無罪の者は皮を残すのが故実に叶う仕方である。」と、介錯人を褒めたと柳生家の記録にはあるそうです。
まさに「首の皮一枚でつながる」ですが、今は“かなり危なかったが何とか助かった”という意味で何気に使っている言葉ですが、実際はもう死んでいる状態です(^_^;) 何か変?

「王命によって催さるる事」は、その後どうなったのか?万が一、幕府と朝廷が戦う事態となれば、尾張藩は迷わず朝廷側につけ!藩祖義直の考えは藩訓として、代々の藩主に口から耳へと伝えられました。秘中の秘、一子相伝でしたが、義直の血統は「尾張藩中興の祖」と言われた9代の「徳川宗睦(とくがわ むねちか)」で途絶えてしまいます。その後は4代に渡って将軍家から養子を押し付けられ、家中には将軍家への不満が貯まり続けますが、やっと、尾張支藩の美濃高須藩から「徳川慶勝(とくがわ よしかつ)」が14代藩主に就きます。
この慶勝の代に戊辰戦争が起き、ついに「王命によって催さるる事」が行われ、徳川親藩・御三家筆頭の尾張家は官軍につく事になりました。

実は、この慶勝の実弟に会津藩に養子に入った松平容保(まつだいら かたもり)がいますが、容保は会津藩祖・保科正之が定めた有名な家訓『会津家訓十五箇条』の第1条「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず “徳川宗家に忠節をつくすこと、他藩の考えや行動を判断材料にしてはいけない、徳川宗家に二心抱く者は我が子孫ではなく家臣も従う必要はない”」を忠実に守り、将軍家を守るため最後まで薩長軍と戦い、会津藩は賊軍とされ悲劇的な結末を迎えます。

兄の慶勝は藩祖義直(家康公9男)の藩訓『王命によって催さるる事』を守り、弟の容保も勤皇家でありながら藩祖正之(家康公の孫)の家訓『大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく』を守ったため、敵味方に別れて戦うという皮肉な結果になってしまいました。
藩祖の定めた家訓が何百年も生きていた…その重さは現代では計り知れないものがあります。

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最後に、預けておいた御朱印帳にいただいた
尾州藩祖廟所と入った御朱印です。

なんか最後は重〜い話になってしまいましたので、気分を変えて(本当に変わるか?次もかなり重いけど…)
実は、ここ定光寺はお寺よりもある物で有名な場所です(^_^;)

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まずはこれ、JR中央線の「定光寺」駅です。

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ここは崖っぷち駅として鉄道マニアにも有名です。

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ホームですが、ほんとに崖にへばり付いていますね。

渓谷にある崖っぷち駅。かなりな秘境駅の雰囲気ですが、ここは名古屋まで通勤30分圏内の愛知県春日井市内です。昔はこの渓谷美から「東海の嵐山」とも呼ばれたそうです(本当かいな?)。

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ほらね!戦前は絵葉書にもなってるし(^_^)v

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現在の写真とほぼ同じアングルの戦前の定光寺駅全景です。

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右が駅のホームですね。左の山の方が定光寺になります。

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ホームから玉野川(庄内川)を見ています。

ここまではあまり重くありませんが、次からはちょっと重いかも?
もう一つ定光寺で有名なのが…

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これです!な、なんだ!この崖っぷちの建物?

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この建物は、以前は東海地方では有名な料理旅館だった「千歳楼(ちとせろう)」です。

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現在は窓ガラスも割れ、荒れ放題で完全に廃墟と化しています。

この千歳楼は、昭和3年(1928年)創業で、バブル期には接待などにもよく使われた老舗料理旅館でしたが、10年程前に倒産。経営者も行方不明になり、その後不審火が起きたり、館内で白骨遺体が見つかるなど、現在では荒れ放題になっています。
心霊スポットとして、全国の廃墟を集めた雑誌には必ず載るという、地元にとっては有り難くない存在ですが、経営者が行方不明とはいえ、今も個人の所有物とかで行政が勝手に取り壊しは出来ないようです。

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戦前の木造だった頃の「千歳樓」。頭上を走るのが中央線です。

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中央線のホームから見た「千歳樓」の全景。橋を渡った右手が定光寺です。

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上の写真の中央に見えている「千歳樓」の風情ある玄関。

以上、昭和は遠くなりにけり…。最後もやっぱり重〜い定光寺でした。

次回は、四国に上陸。四国八十八ケ所、プチ歩き遍路で立ち寄った「讃岐東照宮 屋島神社」を紹介します。今回も長々と、ありがとうございましたm(_ _)m

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