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高野山の東照宮

  • 2013/04/05(金) 22:09:35

金剛峯寺 徳川家霊台(こんごうぶじ・とくがわけれいだい)高野山東照宮 ■所在地/和歌山県伊都郡高野町高野山682 ■徳川家康公霊屋・秀忠霊屋 ■創建/寛永20年(1643年)■開基/徳川家光

(参拝日/平成25年3月24日)

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久しぶりのブログ更新ですm(_ _)m

初めて参拝しました「徳川家霊台」。まさか高野山に「東照宮」があるとは思いもしませんでしたが、ここは東照宮マニアとしては外せない場所で、一度は参拝したいと思っていました。

「徳川家霊台」は高野山東照宮とも呼ばれ、祖父家康公、父秀忠の霊を祀るため、3代将軍徳川家光により寛永20年(1643年)に建立されました。元は高野山内の一寺院「大徳院」の建物で、大徳院自体は明治になり他の寺院と合祀されたためこの霊台だけが残り、現在は金剛峯寺が所管しています。

「大徳院」は、代々徳川家との関係が深い寺院で、天文5年(1536年)には家康公の祖父である松平清康の納骨が行われています。文禄3年(1594年)の家康公の高野山参詣を機にそれまでの「蓮華院」を、弘法大師の「大」と徳川の「徳」を合わせて「大徳院」と改められたといわれています。以後、近世までは徳川家の菩提寺であり、高野山における徳川家の宿坊でした

家康公霊屋(おたまや)、秀忠霊屋 は、いずれも江戸時代初期の代表的霊廟建築として「東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台」と称されるほど、絢爛を極めたもので国の重要文化財に指定されています。

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高野山、徳川家霊台付近の案内図。五の室地区、南院・波切不動堂の裏に位置しています。

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徳川家霊台の前に建つ南院と波切不動堂です。

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江戸時代の「大徳院」並びに「徳川家霊台」の図。
この図にある本堂のあたりが、現在の南院と波切不動堂になります。

上方、石段を登った所に一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでおり、向かって右が東照宮家康公霊屋(おたまや)、左が台徳院秀忠霊屋となっています。
東端には将軍および御三家のための尊牌堂(そんぱいどう)がありましたが、明治21年(1888年)に焼失しました。

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大徳院は明治になり、総本山金剛峯寺の東隣に移転し「蓮花院(れんげいん)」に名前を戻しました。

高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にあり、平安時代の弘仁10年(819年)頃より「弘法大師空海」が修行の場として開いた高野山真言宗の総本山で、比叡山と並び日本仏教における聖地といわれています。
「一山境内地(いっさんけいだいち)」と称し、標高800m、周囲を深山に囲まれ東西5.5km、南北2.3kmの山上盆地の至る所がお寺の境内地であり、「壇上伽藍(だんじょうがらん)」と呼ばれる根本道場を中心とし、山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)をはじめ117か寺に及び、山内に保育園から大学までの教育施設、役場、病院、消防署、警察署を備えた一大宗教都市を形成しています。

今回は、西国三十三ヶ所霊場巡り満願の御礼参りも兼ねての参拝です。麓の九度山町から国道370号線(高野山道路)で山上へ。17km程の山岳道路ですが、延々と続く山道はさすがに飽きてきます(^_^;)愛知県からは約4時間30分、やっぱり高野山は遠いです(T_T)
この日お世話になる、蓮花院のお隣りの宿坊「一乗院」に車を預けて、念願の「徳川家霊台」にまず参拝。

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石段を登り、山門をくぐった先が「徳川家霊台」です。

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江戸時代の図にある様に石垣が続きます。

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右に家康公の霊屋(おたまや)、左に秀忠霊屋が並んで建っています。

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家康公の霊屋は「東照宮」として祀っているため鳥居が建っています。

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こちらは秀忠の霊屋です。

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家康公の霊屋(おたまや)。

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秀忠の霊屋(おたまや)。

いずれも桁行三間、梁間三間の一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)で、軒唐破風付きの一間の向拝が付き、瓦は銅板瓦葺き。外部は素木(しらき)で唐様(禅宗様式)の仏殿造りとなっています。

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西側から見た家康公の霊屋。

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一見地味ですが飾り金具を重ね張りにし、建物全体に彫刻を施した豪華な作りとなっています。

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東側から見た手前、家康公の霊屋と奥が秀忠の霊屋。

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北から見た家康公の霊屋と透塀(瑞垣)。

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家康公霊屋、正面向拝の唐破風(からはふ)軒の蟇股(かえるまた)には虎と麒麟、上部には天女が舞う彫刻が施されています。

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秀忠霊屋の蟇股(かえるまた)は兎と虎、上部には同じく天女が舞う彫刻が施されています。

これは、家康公が寅年生まれで、秀忠が兎年生まれにちなんだもので、虎(家康公)を麒麟が囲んでいるのは、王が仁政を施す時に瑞兆として現れる霊獣を配置することで、家康公の施政を讃え、兎(秀忠)を虎(家康公)が囲んでいるのは、秀忠を父の家康公が護っていることを示すものといわれています。

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家康公霊屋の内部、須弥壇と厨子(非公開のためパンフレットより)

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同じく家康公霊屋の内部(非公開のためパンフレットより)
金箔の壁には家康公が好きだった鷹が描かれています。

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秀忠霊屋の内部、須弥壇と厨子(同じくパンフレットより)
こちらの壁には帝王を表す唐獅子が描かれています。

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現地の案内板の説明。

外観は素木造りの地味な印象ですが、内部は対照的に2棟いずれも全面を漆、彩色、金箔の障壁画で飾り、天井は金箔貼りの格天井。須弥壇と厨子は蒔絵のあらゆる手法を駆使し、七宝をはめこんだ金具を入れ、その空間は当時の装飾技法の粋が凝縮したものとなっています。
普段、内部は非公開ですが、2012年11月に創建以来370年ぶりに特別公開されたようです。残念ながら次回の公開予定は無いようです(T . T)
多分私の生きている間の公開はないでしょうね(^_^;)

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最後に徳川家霊台でいただいた立派な御朱印です。

次回は、高野山でいただいた他の御朱印を紹介します。

百万石のルーツは?①

  • 2013/03/12(火) 16:38:25

尾崎神社(おざきじんじゃ)・金沢東照宮 ■所在地/石川県金沢市丸の内5-5 ■主祭神/天照大神・東照大権現(徳川家康公)・前田利常(加賀藩3代藩主) ■創建/寛永20年(1643年)■開基/前田光高

(参拝日/平成25年2月28日)

尾崎神社01
尾崎神社の中門(平唐門)と社号標です。

初めて参拝しました、金沢城公園の北西にある尾崎神社(金沢東照宮)です。「東照宮巡り」をするまで金沢に東照宮があった事は全く知りませんでした。
「全国東照宮連合会」という組織があり、現在49社が加盟されていますが、尾崎神社は加盟されていません。ネット検索で「全国の東照宮」でヒットしたのが御朱印もいただける、ここ尾崎神社でした。

尾崎神社は「金沢東照宮」とも呼ばれ、加賀藩4代藩主・前田光高が幕府から東照大権現の勧請を許され、寛永20年(1643年)金沢城北の丸に東照三所大権現社(とうしょうさんしょだいごんげんしゃ)として創建、別当として神護寺が置かれました。江戸時代には「権現社(ごんげんしゃ)」「御宮(おみや)」と称されていました。
江戸時代、この様に全国各地に東照宮が造営されたのは、我が藩は徳川幕府に対して決して背く事はありません。その証拠に家康公を祀る東照宮を建てさせてください。という、幕府に対してのご機嫌取りみたいなものです。

明治6年(1873年)神仏分離令に従い仏像・仏具を除き、明治7年(1874年)に尾崎神社と改称、明治9年(1876年)に金沢城内が陸軍省用地となったため現在地(金沢城公園の北)へ遷座しました。
建立当初は「金沢城の江戸」、「北陸の日光」と呼ばれた十数棟にも及ぶ豪華な社殿が建ち並んでいましたが、現在地へ移転の際に現存の建物だけが移築されました。金沢城は度々火災にあっており、築城当時の建造物はほとんど残っておらず、金沢城の現存遺構としては最古の建造物です。昭和25年(1950年)には本殿・拝殿及び幣殿、附厨子・中門・透塀等が重要文化財に指定されています。

金沢・加賀藩といえば、100万石の格式を持ち、藩祖は愛知県名古屋市出身の前田利家です。利家は豊臣秀吉の亡き後、秀吉の遺児秀頼の傅役として、次の天下人を目指す家康公に睨みを効かせる事の出来た、ただひとりの人物でしたが、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)60歳で世を去りました。
家康公と唯一互角に渡り合える程の人望と、格を持っていた利家の早すぎる死は、豊臣氏滅亡が決定的となる一因ともいわれています。つまり、家康公にとっては「目の上のたん瘤」であった利家の死により、天下を取れたと言っても過言ではないといえます。

家康公の天下となってからの前田家は、江戸時代初期には外様大名ながら加賀・能登・越中3国で119万石を領する大大名となり、3代藩主利常は徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎えています。以後の当主も御三家・御家門との姻戚関係を繰り返したことから、加賀藩主は徳川将軍家から特に「松平」の苗字と「葵紋」を許され、御家門に準じる家格を与えられました。金沢東照宮を創建した4代藩主光高は、家康公の曾孫(外孫)ということもあり徳川幕府への忠誠心が特に強かったといわれています。

尾崎神社07
中門の大棟にある葵の御紋です。

尾崎神社13
中門の破風には葵の御紋の飾り金具が打たれています。

尾崎神社06
中門、奥に見えるのが本殿。

尾崎神社02
かなり色落ちした「尾崎神社」の扁額。

中門は、一間一戸の朱塗りの平唐門(ひらからもん)で、本殿側に控柱(ひかえばしら)が立っており、屋根は平唐破風造銅瓦葺(ひらからはふづくりどうかわらぶき)で、棟は大棟の両端付近に降棟が付いています。

尾崎神社04
中門の柱、基壇部分にある葵紋の金具。

尾崎神社08
重要文化財の透塀ですが、東照宮としては単調なデザインです。

尾崎神社03
透塀に貼ってある尾崎神社の由緒書き。
上の方で長々と書きましたがこの由緒書きのとおりです-_-b

神域を囲む透塀は、東西52尺(約160m)南北52尺(160m)の正方形で、西面は中央に中門を開けています。
どこの神社にでもありそうな(失礼!)塀ですが、金沢城の貴重な遺構という事で重要文化財に指定されていると思いますが、中門と同じく朱塗りの剥落が激しいです。

尾崎神社11
こちらが本殿ですが、んんっ!何、この朱塗りの囲いは?

囲いの貼り紙を見ると「雪から社殿を守るため板囲いをしております」だそうです( ̄◇ ̄;)
なんかなぁ〜!こんなの見に来たんじゃないんですけど…

『本殿は、身舎(もや)が桁行3間、梁間2間でその前方に桁行3間の向拝(こうはい)が付いた三間社流造(さんけんしゃながれづくり)で、西を正面に建っている。
屋根は銅瓦葺きで、棟は大棟(おおむね)の両端付近に降棟(くだりむね)が付き、大棟の上には、置き千木(ちぎ)と堅魚木(かつおぎ)が2組乗っている。他の東照宮と同様、各部に漆塗りや極彩色が施され、飾金具で装飾されている。』
だそうですが、屋根だけ見せられてもテンション下がるわ( ̄^ ̄)ゞ

尾崎神社12
仕方ない!屋根でも撮っておくか…

尾崎神社15
アップにしたら…また塗りが剥げてました-_-b

尾崎神社10
一応、拝殿は参拝出来る様でしたので入らせていただきました。
おおお!扉だけは東照宮っぽい(^_^;)

尾崎神社09
軒下の組物は?普通でした…

尾崎神社14
扉は?朱塗りの棧唐戸で「葵の御紋」と「唐草に
輪宝」、見事な透かし格子もあります。

んんん…期待して参拝させていただきましたが、東照宮らしいのは扉だけとは(・_・;
では、これで尾崎神社は終わります(⌒-⌒; )

(えっ?御朱印は?)
あ、社務所が閉まってていただけませんでした(T_T)
(ピ〜ンポ〜ンしなかったの?)
奥様らしき人の声で、「宮司は留守をしてます」だって…
(今回は記事もあまり乗ってなかったようだし、またリベンジだな?)
もういいかも…板囲いが取れても期待薄だしね。一応、東照宮巡りはしたという事で(⌒-⌒; )
(なんだよ(ーー;))
金沢、遠いしね…

次は、御朱印なしの尾崎神社から歩いて前田利家を祀る「尾山神社(おやまじんじゃ)」を参拝します。
 

神も仏もありました⑥

  • 2013/03/11(月) 08:36:54

輪王寺大猷院②(りんのうじたいゆういん)

(参拝日/平成25年2月7日)

前回の続きです。

大猷院021
夜叉門をくぐった先にある門が、家光廟拝殿前の「唐門」です。

「唐門」は、承応2年(1653年)に建てられたもので一間一戸、高さ1間4尺(3.03m)間口6尺(1.82m)と大猷院内では最小の門ですが、門全体を金を基調に極彩色で彩っています。
屋根は唐破風で前面は丸柱、背後は角柱で破風内部には雌雄の鶴、欄間には白龍、木鼻には唐獅子が彫られています。 

大猷院051
唐破風、雌雄の鶴と欄間の白龍の彫刻です。

大猷院067
拝殿唐門と透塀。

大猷院079
透塀は鳩の装飾で埋め尽くされているため、百間百態の群鳩「鳩づくしの回廊」とも呼ばれています。

大猷院032
透塀の緑青に彩色された精巧な透かし彫りの格子。

大猷院034
透塀の前には大名家から寄進の灯篭が…

大猷院035
葵の御紋だらけの灯篭(*^_^*)

大猷院080
唐門内から見た「拝殿」ですが、拝殿内は撮影禁止でした。

大猷院024
唐門背後の控え柱(角柱)の唐獅子の彫刻です。

大猷院085
拝殿の内部、撮影禁止のためここから3枚は参考写真です。

内部は金箔置きで広さは64畳敷。唐獅子が描かれている大羽目前の蓮華の花瓶1対は、徳川御三家の水戸家、柳桜の花瓶1対は紀州家、鶴亀の燭台1対は尾張家からの献上品です。
拝殿の格天井(ごうてんじょう)には狩野一門の筆による140の龍が紺地に金で描かれています。正面、左右大羽目の唐獅子・狛犬は、狩野探幽(かのうたんゆう)と弟の狩野安信(かのうやすのぶ)が描いたものです。

大猷院087
こちらが江戸城、二条城、名古屋城などの障壁画も描いている狩野探幽筆の大羽目の唐獅子図です。

大猷院086
拝殿の中央から続く畳敷きの中殿が「相の間」です。こちらの内部も総金箔置きになっています。
正面奥の扉の先が本殿です。

「相の間」は、将軍が着座して法要を行なった場所で、格天井には鳳凰、本殿との間の左右には昇龍、降龍が描かれています。
東照宮は神仏習合様式の「権現造り」で、拝殿と本殿を結ぶ中殿「石の間」が数段低くなっているのに対し、大猷院廟は「仏殿造り」を中心とした純仏教様式のため、拝殿と相の間の床は同じ高さになっています。

大猷院023
西へ回り、外から「拝殿」「相の間」「本殿」を拝見します。
拝殿は黒を基調とした、やや地味な外観になっています。

大猷院026
「相の間」と「本殿」です。

ainoma
「相の間」は、金彩を基調に欄間には極彩色の彫刻、黒漆が全体を引き締め、朱塗りの欄干がアクセントになっています。

大猷院027
「本殿」です。相の間と同じく金彩を基調としていますが、軒裏を朱塗りとしています。

「拝殿・相の間・本殿」も承応2年(1653年)に建てられたもので、「本殿」は建坪112平方メートル余りの重層の仏殿造りで、内部の正面の厨子には木像の「家光公座像」と「御位牌」が、その前には家光の本地仏「釈迦如来」を祀っていますが、いずれも非公開です。
金箔を多様した外観から、別名「金閣殿」の呼び名があるほど豪華で、江戸期芸術の極致とされ、代表的な霊廟建築として国宝に指定されています。

大猷院028
唐戸上部の唐獅子の彫刻です。

大猷院081
床下の木組みも金彩に黒漆が塗られています。

大猷院083
金彩の唐戸の龍と唐獅子の彫刻。棧を黒漆塗りとし、葵の御紋入りの飾り金具を打っています。

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右から本殿、相の間、拝殿と見ています。

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本殿寺域を囲む透塀にあるもう一つの門、この門の右手、石段を登ると家光の墓所です。

大猷院030
家光の墓所、奥院への入口になる「皇嘉門(こうかもん)」です。

承応2年(1653年)建立の「皇嘉門(こうかもん)」は大猷院の最も奥に位置し、家光廟入口の門になっています。中国、明朝の楼門建築様式を取り入れ、竜宮城の門の様な構えをしているため、一名「竜宮門」とも呼ばれています。天井には門の名前に相応しく天女が描かれている様ですが、非公開のため見る事は出来ません。

これから先は家光の御霊を祀る聖域で、残念ながら一般公開はされていませんが、東照宮の奥院と同じ様に石段を上ると黒塗りの奥院拝殿があり、その後に鋳抜門、門の奥に唐銅製の宝塔が建ち、宝塔の中には釈迦如来像と霊牌が安置されているそうです。

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一階塗籠楼門で、1層目は白漆喰塗り、2層目は極彩色豊かな彫刻になっています。

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扉には葵の御紋と輪宝が施されています。

大猷院064
これで大猷院の紹介は終わります。皇嘉門の石段を下り、右手に透塀を見ながら夜叉門に戻っていきます。

大猷院御朱印
最後にこちらが大猷院でいただいた御朱印です。

この御朱印を書いていただいた「お坊さん」、かなりの曲者?御朱印帳をパラパラっと見て一言、「ここはお寺ですが、神社と一緒に書いていいんですか?(不満そう)」
私「これ、徳川家ゆかりの寺社専用の御朱印帳ですが…」と、表紙に葵の御紋入りの御朱印帳(久能山東照宮で購入したもの)を指差したところ…
お坊さん「それは分かりますけど、葵の御紋でも神社とお寺がありますよ。(尚も不満気)」
私「(そんな事は分かっとるわい!)いいですから一緒にお願いします」
お坊さん「よければ書きますが…」で、
上の御朱印、よく見ていただくと分かりますが、お寺にしてはかなりのやっつけ仕事( ̄◇ ̄;) 不満感が墨書きにも出てると思いませんか?

御朱印集めの方のブログを拝見すると、神社とお寺の御朱印帳を分けている方、一緒にしている方と様々です。
御朱印帳を分けている方のブログには、神社やお寺で何か嫌味を言われた事があり、別にしていると書いてありました。
私も一応、神社用、お寺用と分けていますが、「徳川家ゆかりの寺社・全国東照宮巡り」だけは1冊にまとめています。
が…今まで大猷院の坊さんの様に嫌味を言われた事は一度もな〜い!!

(オッ!出ました天邪鬼、怒ってるな?)
気分悪いでしょ?素直に書けばいいんじゃない?パラパラっと見て、今回の参拝順だと輪王寺(お寺)、東照宮(神社)、二荒山神社(神社)…次が大猷院(お寺)自分の所はお寺だから、神社の後には書きたくないんかい(♯`∧´)
(そういえば東照宮と輪王寺との間で管轄で揉めてるって書いてたな?)
そうそう!でも、東照宮では輪王寺の後でも何も言われんかったぞ!
(ここも輪王寺だろ?)
だから間に「二荒山神社」をクッション?で入れてるのに…
東照宮の次に頼んでたらたぶん御朱印拒否かも(^_^;)
(オイオイ!二荒山神社をクッションって…)
要するに、神社は心が広い、お寺は心が狭いという事でOK?
(あんた、ざっくりまとめ過ぎ!)
せっかく、いいお寺で見所もいっぱいなのに残念!これも神仏分離令の弊害ですな( ̄◇ ̄;)

ちなみに、知人も「神社とお寺が一緒の御朱印帳」で御朱印をお願いしたところ、私と同じ事を言われたそうで、そんな事を言われたのは初めてと驚いておられました。
皆さんも大猷院で御朱印をいただく時は、お寺専用の御朱印帳を出される事を強くお勧めします(^_^)b

以上、江戸時代までは確かに『神も仏もありました』、今は『神と仏は別々です』の、日光山「二社一寺」長々と見ていただきありがとうございました(^人^)

次回は、金沢東照宮(えっ!そんなのあるの?)「尾崎神社」を紹介する予定です。

神も仏もありました⑤

  • 2013/03/10(日) 22:24:08

輪王寺大猷院①(りんのうじたいゆういん)■所在地/栃木県日光市山内2300 ■徳川家光廟所 ■創建/承応2年(1653年)

(参拝日/平成25年2月7日)

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ここ「家光廟大猷院(たいゆういん)」は家康公の孫、3代将軍・徳川家光の霊を祀ったお堂(墓所)で、江戸時代までは「日光山内」として渾然一体となっていましたが、明治4年(1871年)の神仏分離令により現在は輪王寺の所管となっています。

慶安4年(1651年)4月20日、48歳で江戸城で没した家光は、祖父である家康公を深く崇敬し、「死して後も朝夕、東照大権現(家康公)の側でお仕え奉る」と遺言したことから、その遺志を受けた長男の4代将軍家綱の命により東照宮の傍らに埋葬されました。
家光の死の翌年にあたる承応元年(1652年)2月16日に起工。わずか1年2か月後の、承応2年(1652年)4月4日に「家光廟大猷院」は完成しました。「大猷院」とは、家光の死後、後光明(ごこうみょう)天皇から賜った法号で、「大きな仕事を成し遂げた人」という意味を持っています。

江戸時代初期の代表的霊廟建築であり、建物は本殿、相の間、拝殿が国宝となっているほか、唐門、夜叉門などが重要文化財になっています。
家光は東照宮を模倣することをはばかり、「家康公を祀る廟所を凌いではならない」との遺命により、東照宮とは違った建築となっており、東照宮が白と金を基調に黒の縁取りをしているのに対して、大猷院は金と黒を基本とし、縁取りは赤、金箔も東照宮より赤みがかったものが使用されています。目立たない部分に技巧が凝らされ、地形を利用した配置も大猷院の特徴になっています。
また大猷院の建物は東照宮に向いて建てられていますが、これは家康公に対する家光の強い思慕の念を表しているといわれています。

大猷院map
大猷院境内の案内図です。

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大猷院の最初の門がこの「仁王門」です。

大猷院066
仁王門の先に見えるのは「御水舎」。

仁王門は承応2年(1653年)の建立で、三間一戸、八脚門の切妻造りで銅瓦葺き。建物全体は朱色を基調として上部は黒色、金具を金、彫刻を極彩色で彩り、両脇には2体の金剛力士像を安置しています。

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大猷院043
仁王門右の阿形(あぎょう)の密迹(みっしゃ)
金剛力士像。

大猷院044
左の吽形(うんぎょう)の那羅延(ならえん)
金剛力士像

大猷院013
仁王門木鼻の唐獅子の彫刻。黒、金、朱の絶妙な配色です。

大猷院014
「御水舎(おみずや・水盤舎)」お清め場です。

この「御水舎」は、切妻造り銅瓦葺きの軒唐破風(のきからはふ)付きで、承応2年(1653年)に建てられました。
4隅に各3本、合計12本の御影石の柱で屋根を支える独特な構造で、柱の白色と上屋の極彩色の対比が際立っています。
天井には東照宮の「鳴龍」の作者、狩野永真安信(かのうえいしんやすのぶ)が描いた竜の墨絵があり、水盤に映し出されることから「龍鏡」、「水飲み龍」とも呼ばれていましたが、現在は墨が薄くなってしまい映らなくなっています。

大猷院073
切妻側の彫刻です。

大猷院071
こちらは正面、軒唐破風の彫刻。いずれも波など水に因んだ彫刻になっています。

大猷院072
天井の龍の墨絵ですが、そう言われれば龍?σ(^_^;)

この御水舎を左に直角に曲がり、階段を上った所にあるのが大猷院で最大の門「二天門」ですが、案内図にもあるとおり平成26年まで修復工事中でした。
足場を組んでテントが張ってあるため、見学不可!後水尾(ごみずのお)天皇宸筆の「大猷院」の扁額だけがテントを切り取って見えていましたが撮影せず(T_T)
こういうのが一番ガッカリですね。東照宮といえば「陽明門」、大猷院といえば「二天門」で、特に大猷院の二天門は日光山内で最大の門といわれているだけに尚更ショックでした。陽明門も4月から修復工事が始まるようですので参拝される方はお早めに(^_^;)v

大猷院075
テントの間から、ただ扁額だけ見せられてもなぁ…

そんな訳で残念ながら二天門の写真はありませんが、門のいわれにもなっている楼門左右に安置されている持国天・広目天の二天と、背面の風神・雷神像を工事用足場の隙間から撮影しましたσ(^_^;)

大猷院niten007
左側の迫力ある四天王の一尊の「持国天」、
手には三鈷戟(さんこげき)を持っています。

大猷院niten011
「持国天」は仏教では東方を護る守護神とされて
います。

大猷院048
持国天に踏み付けられている「天邪鬼(あまの
じゃく)」

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右に安置されている「広目天」、こちらは剣を
振り上げています。

大猷院niten010
「広目天」も四天王の一尊で、西方を護る守護神
とされています。

amanojyaku
こちらは広目天に踏み付けられている「天邪鬼」。

「天邪鬼」痛そうですね( ̄◇ ̄;) 踏みつけている持国天と広目天は、いずれも四天王の一尊で、持国天(東方)、広目天(西方)、増長天(南方)、多聞天(北方)と、東西南北の方位を護るインドの神々が、仏教に取り入れられたもので、「帝釈天(たいしゃくてん)」の部下として「須弥山(しゅみせん・仏教宇宙論における世界中心的な巨山)」の4つの門を護るといわれています。
中国風の甲冑を身につけ、武器を持って忿怒の表情をして「邪鬼」を踏みつけているのが特徴です。
邪鬼を踏みつけるのは、四天王が仏教に対する邪悪なものを打ち負かすことを表現したもので、この邪鬼を一般的に「天邪鬼(あまのじゃく)」と呼んでいます。

(あんたも天邪鬼って呼ばれてないか?)
まあ、時々言われるけどσ(^_^;)
(だろうな、考え方が偏ってるからなぁ)
・・・

大猷院047
二天門、背面の左に安置されているのが「風神」
です。風を起こす「風袋」を担ぎ、雲台に乗って
います。

大猷院049
手の指は4本で東西南北を表し、足の指は2本で天と地を表しています。

大猷院046
右に安置されている「雷神」、同じく雲台に乗り、
両手にバチを持ち、雷太鼓を背負っています。

大猷院050
こちらは手の指は3本で「過去・現在・未来」を表しています。
足の指は風神と同じで2本です。

修復工事中の二天門をくぐり、右手の石段を上ります。左手の長い石段の先が、家光廟への最初の入口となる夜叉門(やしゃもん)です。長い石段は下界と天上界を結ぶ階段にたとえられています。

大猷院005
石段の先に見えるのが「夜叉門(やしゃもん)」です。

大猷院015
夜叉門手前、右にある絢爛豪華な「鐘楼」。

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左にあるのが「鼓楼」です。

大猷院074
「鼓楼」「鐘楼」ともに同じような造りです。
東照宮の物と似ていますが、こちらの方が黒を
基調としているためか洗練された感じがします。

大猷院006
朱色に金が映える豪華な「夜叉門」。

taiyuin-yashamon3.jpg

夜叉門は承応2年(1653年)に建てられた建物で八脚門、切妻、銅瓦葺き、正面には唐破風がついています。全体的には朱色が主体で組物と金物が金、彫刻が極彩色で彩られ、牡丹、唐草牡丹の彫刻が多用されている事から「牡丹門」とも呼ばれています。
内部には夜叉門の名前のいわれとなっている、東西南北を表す色違いの「毘陀羅(びだら)」像、「阿跋摩羅(あばつまら)」像、「烏摩勒伽(うまろきゃ)」像、「健陀羅(けんだら)」像の4夜叉が安置され、霊廟を鎮護しています。

大猷院076
夜叉門、左の赤い夜叉像が「毘陀羅(びだら)」、右の緑の夜叉像が「阿跋摩羅(あばつまら)」です。

大猷院039
左の夜叉像「毘陀羅(びだら)」です。

大猷院042
こちらは右の夜叉像「阿跋摩羅(あばつまら)」、
いずれも後ろの彫刻は唐草牡丹です。

大猷院065
夜叉門内側4本の柱の木鼻には「獏(ばく)」の彫刻が…

大猷院018
こちらは口を閉じた吽(うん)形の獏です。

「獏(ばく)」は、中国から日本へ伝わった伝説の霊獣で、体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎に似ているとされ、人の夢(悪夢)を喰って生きていると言われています。
悪夢を見た後に『この夢を獏にあげます』と唱えると、その悪夢を二度と見ないといわれ、病気や悪気、邪気を避ける縁起の良い物とされています。

大猷院019
夜叉門軒下の組物と木鼻の唐獅子の彫刻。

大猷院052
外側の柱、軒下の木鼻には唐獅子の彫刻が施されています。

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夜叉門と左右にある回廊です。

大猷院077
夜叉門と回廊の間にある袖塀(そでべい)には龍の彫刻。

大猷院078
袖塀(そでべい)羽目の龍の彫刻は珍しい紅殻塗りです。

大猷院020
夜叉門背面です。屋根の庇が大きいためドッシリした感じがします。
左右の夜叉像は「烏摩勒伽(うまろきゃ)」と「健陀羅(けんだら)」です。

大猷院041
左の青く塗った肌の夜叉像は「烏摩勒伽(うまろ
きゃ)」です。

大猷院040
右の白い夜叉像が「健陀羅(けんだら)」です。

今回はここまでです。次回は家光廟への入口の唐門、拝殿、本殿に向かいます。

神も仏もありました④

  • 2013/03/04(月) 03:44:27

日光二荒山神社(にっこう ふたらさんじんじゃ) ■所在地/栃木県日光市山内2307 ■主祭神/二荒山大神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の総称)■神体/日光三山(神体山)■社格等/式内社(名神大)論社・下野国一宮 ■創建 /神護景雲元年(767年)

(参拝日/平成25年2月7日)

ここ日光二荒山神社は、二荒山(ふたらさん・男体山)を御神体とする、日光信仰の中心となる神社です。
日光三山は男体山(なんたいさん・古名を二荒山)・女峯山(にょほうさん)・太郎山(たろうさん)からなり、それぞれに神をあてて祀っています。
社殿はここが「本社」、中禅寺湖畔の「中宮祠」、男体山山頂の「奥宮」の3社からなり、明治の神仏分離令までは「三社権現」と呼ばれていました。

大昔、私たち日本人の先祖は、天高くそびえ、雲・雨・雪・雷などさまざまな自然現象を起こし、命の源である大切な水を恵んでくれる高い山々に、恐れと尊敬の心を抱き、そこには神がいると信じました。それが山岳信仰で、山岳信仰と仏教が結びついたものが「修験道(しゅげんどう)」です。

日光山は古来より修験道の霊場として崇敬され、奈良時代の末に「勝道上人」が北部山岳地に修行場を求め、天平神護2年(766年)に大谷川北岸に紫雲立寺(現在の四本龍寺の前身)を建立。
神護景雲元年(767年)に、二荒山(男体山)の神を現在の本宮神社境内に勧請したのが二荒山神社の始まりとされています。

上人は延暦元年(782年)二荒山登頂に成功し、そこに奥宮を建てて二荒修験の基礎を築きました。以後、「神仏習合」の霊場として栄えることになりました。江戸時代、日光東照宮が造営されると、二荒山神社も江戸幕府の厚い崇敬を受け、神領約70郷という広大な社地を有していました。

現在も日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)を境内地とし、華厳滝、いろは坂、神橋なども神域に含み、その広さは3,400haにも及び伊勢神宮に次ぐ面積を誇っています。

futarasan01
東照宮から石灯籠の並ぶ上新道を通った先にある
「社号標」と朱塗りの「楼門」です。

二荒山神社02

二荒山神社03
二荒山神社「拝殿」です。

「拝殿」は正保年間(1644~48年)に建てられたと推定される建物で単層入母屋、銅瓦葺、桁行16m、梁間12mで、日光に建てられた社殿建築の中では彫刻や文様が少なく、採用している彩色の数も限定的なことが特徴です。

二荒山神社05
「本殿」と「透塀」、左は樹齢700年といわれる「御神木」です。

二荒山神社06
「本殿」と手前にある「唐銅灯籠」。

「本殿」は元和5年(1619年)2代将軍秀忠が造営したもので、単層入母屋(正面千鳥破風付)で銅瓦葺き(元は檜皮葺き)、軒唐破風の向拝付で安土桃山様式の「八棟(やつむね)造り」を採用した、神社本殿建築の遺構として貴重な存在です。

本殿透塀に沿って、寄進された多くの石灯籠とともに、唐銅(からかね)製の春日造りの灯籠があります。この灯籠は夜ふけに火を灯すと、ゆらゆらと怪しげな姿に変わるというので、警固の武士に切りつけられた無数の刀きずがあり、「化灯籠(ばけどうろう)」とも呼ばれています。
お化けの正体は何?実は、灯籠に使っていた菜種油を舐めにきたモモンガか、ムササビではないか?ということですが、真相は不明な様です(^_^;)
ところで、化け猫じゃあるまいし、モモンガやムササビって油なんか舐めるの?、そっちの方が怖かったりしてε=ε=ε=┌(; ̄◇ ̄)┘

二荒山神社04
こちらが「日光二荒山神社」でいただいた御朱印
です。
日光という地名は、「二荒」を音読みした「ニコウ」に、「日」と「光」の字を当てはめたものとされています。

今回は東照宮と比べると、記事も写真もメチャ少なかったので少し追記をσ(^_^;)

次は、「二社一寺」最後の参拝地、3代将軍 徳川家光の廟所「輪王寺大猷院(たいゆういん)」を紹介しますが、ここも「輪王寺」です。「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称で、堂塔は広範囲に散在しており「大猷院」もかなり離れた場所にあります。
神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、輪王寺、東照宮、二荒山神社は「二社一寺」と称されていますが、江戸時代まではこの3つを総称して「日光山」と呼んでいました。
日光東照宮に参拝することを「日光社参(にっこうしゃさん)」と言うのもそのためです。

では、次回はまた写真も記事も多くなると思いますが、よろしくお付き合いくださいm(_ _)m


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